「世界とは?」という疑問に答えようとして、これまでにたくさんの人が挑戦してきました。中でも哲学者はこうした疑問に立ち向かうことが得意な人で、何か思いつく概念をでっち上げて、例えば「われ思う故にわれあり」と疑いえないと、世界を考える土台に据えたり、考える道具である「言語」を土台に据えたり、考える方法に土台を置いたり、その他いろいろ、その哲学者の思い付きによって、何を土台にするかが決められてきました...
今、日本は世界から「最も理想的な社会の在り方を提示している国」として、非常に期待されており、実際に日本をモデルとして、その国の教育に適用しているところもあったりします。とりあえず、今最も世界から注目されている「日本」なのです。 いろいろユーチューブなどで見るところでは、かなり驚異的に捉えられ、少し行き過ぎた現象のようにも思えるところもあります。ここでもう少し冷静に「日本」を見つめてみたいのです...
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「世界とは?」という疑問に答えようとして、これまでにたくさんの人が挑戦してきました。中でも哲学者はこうした疑問に立ち向かうことが得意な人で、何か思いつく概念をでっち上げて、例えば「われ思う故にわれあり」と疑いえないと、世界を考える土台に据えたり、考える道具である「言語」を土台に据えたり、考える方法に土台を置いたり、その他いろいろ、その哲学者の思い付きによって、何を土台にするかが決められてきました...
何も分からないから、どうすればいいのかも分からない。分かっていることは何かが有るらしいということくらいである。見えないところでも何をされているかも分からない。何をされても、自分のしなければならないことは、やらなければならない。 もう一つ分からないのは、相手は何のためにそれを求めているのか、それからそれをしたら私はどうなるのか、これも分からない。それによっては行動することに積極的になれるかもしれな...
「死」というのは人間の誰にとっても重要な事柄でしょう。この「死」と対に論じられるのが「生」についてで、「生」と「死」とはセットで論じられることも多いです。 「死」については、どうして死ななければならないのか、という問いがあり、その理由を求めます。それだけ「死」についての関心が強いということですが、誰にとっても死ぬことは怖いもので、死にたくはないものです。だから「なぜ死ぬのか」と答えをもとめるので...
よく「なぜ不幸なことばかりが続くのか」とか「なぜ死ぬのか」とか、そうした疑問を投げかける人があります。 「幸福」というのは相対的なもので、誰かと、どこかと、比較したときに感じるものです。誰でも「欲」は持っています。その欲をどれだけ満たしたかで幸せか不幸かが決まります。世界は「欲」を満たしてくれるものがあふれています。そして「欲」が満たされれば幸福になれますが、その逆に「欲」を満たしてくれていたも...
よーく考えてみてください。この世界を見ているのは自分なのです。他の誰でもないこの私なのです。この世界と自分は見るものと見られているものの関係として、この世界に今存在しているのです。 この自分が今ここにあることが、この世界のすべてなのです。それがこの世界のはじまりであり、この世界の不思議なのです。 「人間サイズの世界観」の第三章に登場する図Ⅲは、よくよく見ていただくと、「人間」という個体はありませ...
「欲」というのも心の働きの一つです。「良い学校に行きたい」「給料のいい会社に就職したい」「良い家に住みたい」「優しい彼氏と結婚したい」「フランスに旅行したい」これらすべての「心」の背後には「欲」があります。 人間の思い(意識)には「欲」が隠れていますが、物理学の法則には欲はありません。しかし、その物理学に向かって真理を突き止めようとしている意識には「欲」があります。 人間の意識にはすべて「欲」がつ...
「構造」 このシリーズ「心のありか」は、人間の「心」のあり方についてが主題の記事になっています。この項はその⑧にあたり副題を「構造」としていますが、「心」と「構造」がどう関係するのかです。 例えば言葉であれば、名詞や動詞などは対象を特定し、その関係を助詞や助動詞などがつないて言葉の「構造体」が出来上がります。数学であれば、数字と数字の間に演算子が入って式が完成しますが、その構造は人間が考えたもので...
「妄想」については、ネットで確認したところ以下のような説明がされていますが、どちらかと言えば精神病としての「妄想」の説明になっています。しかし、ここで私が述べようとしているのは、一般的に軽い意味で「妄想」という言葉を使って、言い表されている対象、つまり「ふざけた内容や空想による現実離れした話」のことで、もっと広く、事実に基づかない例え話や小説のような創作作品のようなもの、閑に任せて空想にふける時...
ここで言う「夢」とは、眠っているときに見る夢ではなく、未来を描く夢なのです。つまり、未来の時間に成し遂げたいことなのです。過去の時間は「記憶」の中にありますが、未来の時間は「夢」の中にあります。「希望」という言葉もほぼ同じ意味合いで用いられます。 未来に成し遂げたいものが「希望」や「夢」なのですが、その根底にはそうしたいという「欲」があります。この「欲」というのは、これまでに挙げてきた➀~⑤までの...
当然のことですが自分の心の中に「記憶」という機能があります。そしてその自分の記憶を確かめながら他人と会話していることにも気づいてください。これまでしてきた会話の内容も「記憶」に残っていなければ続きの会話はできません。他人のことも自分自身のことも記憶しながら会話し、その記憶を確認しなから会話を続けているのです。 「自分」の事は心の内容も確認ができますが、他人の事は言葉を通じて確かめないとわかりませ...
これまでに多くの哲学者が様々な基準で哲学を創ってきました。その基準というのは、一言で言えばその哲学者の好みなのですが、何か一つ魅力的な言葉や文をよりどころにして、論理を展開するわけです。それを読む側としては、そこで展開される思想が気に入るかどうかであり、それもまたその受け手の好みの問題なのです。そしてその好みも、その時代、その社会、そのコミュニティ、その個性の好みの問題でもあるのです。 ドイツの...
心のありか ④ コミュニティ 人間は一人で生まれてきます。それでも一人では生きてゆくことはできません。親がいて、世話をしてくれて初めて生きて行けるのです。成長する過程でも、保育園のお世話になり、学校の先生から教わり、大学の授業でも教わり、社会の決まりは社会から多くを教わります。 就職してからも、会社の規則に従い、日本の国で生活するなら、日本の法律を守る必要があります。それぞれのコミュニティに通する...
親鸞の「悪人」 にはまだまだ続きがあります。最初に行ったときから一ヶ月くらい後に、再度暴力団の事務所に、未払いの金の支払い請求をするために訪問しているのです。今回も組長ともう一人の組員と面談しましたが、そのもう一人の組員がコーヒーを入れてくれて、「なにか困ったことがあれば相談にこい」と盛んに言うのです。「またコーヒーでも飲みに来いや」ともいうのです。それに対して組長は「この人(私のこと)は仕事で来て...
数学というのも心で考えて行動に至る人間の能力の一つです。先の②で「客観視」について述べていますが、この数学というのも論理的に考える方法の一つで、ここに特別に扱ったのは、「事実」とは言いにくいが事実と同じ扱いが必要な部分が含まれているからです。 この数学というのは科学の中でも特殊な存在です。科学と言えば感覚器官で捉えられる対象を研究する学問と思いがちですが、数学は必ずしも対象が有るとは言えないとこ...
世界が目の前にあります。それをみているのは私です。私(自分)が感じて世界があるのです。 世界には私と同じ人間がたくさんいます。生活するという行動の原動力には「欲」があり、食欲という欲があって食料を得て食べ、生命が維持されます。楽しいものを選んで生きたいですが、いつでも上手くゆくとわ限りません。苦しまなくてはならない時もしばしばです。 そんなとき、こうして生きることへの疑問が生まれてきます。生れたと...
「自分が感覚器官で確認したものが事実」であると言ってきましたが、現実にそんなことを言って会話していたらバカにされます。「事実」だけではなく、心でいろいろのことを考えます。論理的な推理もするし、感情的に発言して行動もします。妄想もすれば、空想もします。 一番厳密に思考し推理し行動しているのは科学でしょうか。現場では「事実」確認ができない「客観的対象」まで登場して、議論がされることがあっても、それほど...
なぜ 分からないか ③何も直接話しかけずに、事を済まそうという遠回しな嫌がらせなのです。しかも相手は私の知らない人間です。そして若い男が多い。もっとも私が見ての年齢ですので、三四十才くらいまでは若者ですが。とりあえず、私が知らない顔で、もちろん話などはしたことがない人物です。何か恨みを買うようなことをしたかと考えることもありますが、私はなにもした記憶がありません。いろいろ推測はできますが、それが当...
「科学」と「宗教」、これまで多くは対立概念として扱われてきましたが、最近になって宗教特に仏教は「科学の足らないところを補填する概念」として、扱われるようになってきました。 実は私は、上記のように「科学を補填するもの」として仏教を捉えることには問題があると思っています。科学の足りないところを宗教で補うということは、科学をより完璧なものにするために宗教を借りるというように受け取れますが、ハッキリ言え...
すでに発行済みの記事ですが、追加訂正していますので、再発行しました。 親鸞の「歎異抄」に「善人でさえ救われるのに、ましてや悪人が救われないわけがない」という言葉があります。これを言葉通りに解釈すると、善人より悪人の方がよいような表現になっていますが、それは「善人も悪人も同じである」というように説明されます。 下の文は、住宅ローンの返済が遅れている住宅の確認と、その債務者の状況確認に行ったときの状...
なぜ、分からないのか、理由は簡単です。 相手から何も言われないからです。 直接私に対して何か言われたことは、一度もありません。 それで分かる訳がないのです。 それに対して相手は、私の事はすべて知っているのです。 こういう状況で、例えばここで怒った方がいいのかと思ったとしても、 行動する気にはなりません。 行動してもいいように利用されて、「ああいう人間だ」とレッテルを張られるか、 「とうとうアイ...
記事タイトルの「そのままを受け入れる」は、量子力学の記事で書いた文です。量子力学が分かれば分かるほど理解が難しくなってきますね。 分からないのに無理やり分かろうとして変な結論を導き出すより、そのまま受け入れておく方が良いと思ったときに出てきた言葉でした。 量子力学だけに限らないですね。あらゆるものが与えられてあるように受け入れたら、世の中は上手くゆくように思います。 しかし、それでは「自分」とい...
量子力学では、対象を観察した時に対象が確認できるのです。図Ⅲは人間サイズの世界の構造体ですので、図Ⅲで量子サイズの世界を理解するのは問題がありそうです。しかし、量子サイズの「観察者」は図Ⅲの「自分」に相当します。他人の心は観察が出来ませんので、量子サイズにたいしても似たような関係の図と言えます。 図Ⅲでは「自分」は特別な存在で自分だけの世界なのですが、量子サイズの世界も「観察者」だけが特別な...
量子力学では、対象を観察した時に対象が確認できるが、観察しなければ雲のようで特定の対象として捉えることはできないのです。先の図Ⅲで説明すれば「観察者」はイコール「自分」で他人には観察が出来ないような関係なのです。図Ⅲは人間サイズの世界のはなしですので、量子サイズの世界を理解するには問題がありますが、似たような関係と言えます。 図Ⅲでは「自分」は特別な存在で自分だけの世界なのですが、量子サイズの...
「人間はみんなひとり➀」で「独我論」について私なりの思いを書いてきましたが、この記事のタイトル「人間はみんなひとり」には「独我論」が必要だったのです。「独我論」というのは「本来人間は一人である」とする主義と思っているのですが、かと言って、社会生活を避けている様子もうかがえないのです。社会生活をしていても「すべて夢」として無視しているのです。多分そう考えているだけでしょうけど、何が不服なのでしょうね...
生まれたばかりの赤ん坊には、「自分はひとり」などという意識はないと思います。生まれた時は親がいて、兄弟や親戚の人たちがあやしに来てくれて、保育園から幼稚園に入園して同年の友達が出来て、先生とも関係が生まれます。小学校から中学校くらいまでも、同じような人間関係ができてゆきます。高校生くらいになると思春期を迎えて、ものの見方考え方が大人になってきます。「自分」という意識が明確になってきます。日常生活に...
人間は基本的には生きるために行動していますが、「目的」も突き詰めると生きるためのものです。「目的」を達成するためには「力」を行使する「時間」が必要です。「目的」があって初めて「時間」の感覚が生まれるとも言えます。 この「時間」というのは、自分の「目的」が果たせる「可能性」の幅です。「時間」はこの世界に最初から有ったものではなく、自分が「目的」を果たそうとしたとき、自分の前に「可能性」としてでき...
Katie Melua - I Will Be There - Full Concert Version ...
「宇宙サイズ」そして特に「量子サイズ」の世界も含めて、物理学全体の存在論の在り方について、その可能性を探ります。 相対的に存在するということは、そのものの意味は比較する相手との関係で決まるということです。さらにその相手もさらに別の誰かと相対的に意味が成り立っています。すなわち、構成するシステム全体で意味を構成しているということです。 「宇宙サイズ」の世界は、相対性理論が文字通り相対的に対...
量子力学の疑問点というより、まだ何も分かっていないのです。これまでに理解したつもりでいるその量子力学について、簡単に書いてみます。「人間サイズの世界観」の序論でも述べていますが、これは今生きて経験している日常とは異なる量子サイズのミクロの世界のことであり、日常生活ではこの量子サイズの対象に接することはなく、感覚器官の精度の問題で確認することはできないものと理解しています。量子コンピュータなどの道具...
先の「なぜ、何のために」で、そうした疑問に答えるのは宗教だといいました。一方で、人間は生きるために「欲」を持って生まれてくるとも言いました。それでも宗教は欲を疑問の原因としてその欲を取り去るように求めます。多くの人は、欲に引っ張られて進路を選んで、そのまま一生を終えます。これは年とともに欲に引っ張られている人は減ってきますが、量質ともにわずかです。こう考えてくると、宗教というのは本来の人間の姿を否...
「なぜ、何のために」の後にはいろいろの言葉が続きます。なぜ、何のために生きるのか。なぜ、何のために苦しまなくてはならないのか。なぜ、何のために与えられたのか。など子どもの頃は「何のために」という言葉は、何か嫌な事、例えばお医者さんに行くなどの時に発する言葉です。嫌な事でもしなければならないときなどに使います。大人になってからは、その目的が分からないときなどに疑問に思うときに使います。何のために生き...
戦争なんてだれも望まない、それなのになぜ戦争は起きるのか。一部の戦争好きな人間が戦争をしているだけなのだ。こんな会話をよく聞きますね。本当ですかね。「戦争は嫌だ」と言っている人同士でもお金の話になると喧嘩になることもあります。隣の町同士でもお金の負担となると、争いになることもあります。隣の国同士でも領土の話になると戦争にもなります。こうして具体的問題になると争いになることが多いものです。そんなこと...
先の「宗教」という記事で「完了」と書きましたが、あまりにも簡単な内容で、理解ができないところもあったと思いますので、もう少しくわしく追加することにしました。毎日元気に動いている人もあれば、憂鬱な気分で過ごしている人もあります。宗教というのは後者のような人に必要なものですが、この二つの状態は深い関係があります。元気な人は、自分の希望の赴くままに行動しているわけですが、その行動の基礎には「欲」がありま...