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祝贺及格电气工事士二种技能试卷
名日卑弥呼 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 名は卑弥呼と言う。年齢はすでに長大。夫はいなく、男弟あり、佐(たす)けて国を治める助けをしてる。 (年已長大) 無夫婿 有男弟 佐治國夫婿はなく、男弟はあるこの箇所の【男弟】の解釈は世間一般には”弟”と認
魏志倭人伝原文に記述されてる奴国は女王の境界の尽きる内側か、それとも女王の境界の尽きる外側か?自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有
魏志倭人伝に記載されている戸数情報を国別に見てみると、 對海國(有千余戸)一大國(有三千許家)末盧國(有4千余戸)伊都國(有1千余戸)奴國(有2万余戸)不彌國(有1,000余家)投馬國(可5万余戸)邪馬壹國(可7万余戸)魏志倭人伝に記述されている国名と世帯数の箇所だ
21ヶ国は可得略載か?絶不可得詳か?下記の21ヶ国は女王国自り以北は其の戸数道里くらいは略載出来る国か?それともそれ以外の国は交際がないので全く詳細は分からない国か?自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國
自女王国以北・・・・・・・・・次有奴國 此女王境界所盡奴国は北にある邪馬台国の属国の境界の端だと書いてありますしかし、魏志倭人伝には 対馬、→壱岐、→末盧國、と紹介して奴国aは、末盧國の東南100余里に位置してるとも書いてあります。狗邪韓國 始度一海 至對
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國
魏志倭人伝原文に下記の記述があります。東南陸行五百里 到伊都国 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐上記を訳せば下記の様になります。末盧国から東南へ500里陸行すると伊都国へ到る。官は爾支、副官は泄謨觚 柄渠觚とい
属女王 不属女王について魏志倭人伝に書いて有る倭の国々を下記に示せば、倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗
魏志倭人伝に下記の記述が有りますこの箇所の解釈が各位それぞれ有り、御自分の都合で解釈されている方もいらっしゃるので、一つ考えてみたいと思います。自女王國以北 其戸數道里可得略載この箇所を説明いたします。自女王國以北 自は→ ~から(始まって)という意味で
其餘旁國遠絶不可得詳この箇所をWEB上で検索すると諸氏の方が解釈してます諸氏各位それぞれ研究されて解釈されていますが比べてみますとそれぞれ少しニュアンスが違って取れます。下記に其の箇所だけの解釈をコピペしました・・・が日本語として難しい表現に成っていてち
光正解釈説で解釈すると又渡一海 千餘里 至末盧國 東南陸行 五百里 到伊都國 東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里 南至投馬國 水行二十日。南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 この箇所を[光正解釈説]で説明して順次式、及び放射線式と、比較し
放射式解釈について前回説明しました連続式(順次式)の他に、もう一つ定説になっている解釈で放射式解釈があります。今回はこの放射式解釈の検証を致します。まず、一般に言われてる放射式解釈とは伊都国までは移動してるが伊都国からの説明は放射式に場所説明のみになって
連続(順次)式解釈について一般に広く訳されている連続式または順次式と呼ばれてる説は魏志倭人伝に記述されている国を記述順に移動して邪馬台国に着くという解釈です。私も自分で魏志倭人伝(原文)を読む前はこの連続式(順次式)が正しい和訳だと思い込み一生懸命地図を
現在はインターネットが普及して必要な情報はたやすく手に入り易くなりインターネットのなかった時代 (昔) より容易に邪馬台国の研究がしやすくなってると思いますがなぜ今でも連続式(順次式)解釈が根強く主流になっているのでしょうか?私が考えるに、連続式は魏志倭人
それでは邪馬台国は九州のどのあたりにあると魏志倭人伝には書かれているのかの検証をしていきたいと思います。邪馬台国は九州のどこにあったのかと魏志倭人伝に書かれているのかを今まで説明してきた、光正解釈説をベースに考えて行きたいと思います。それでは魏志倭人伝(
私はNHKラジオの中国語講座を聞きはじめたのをきっかけに、今年令和2年(2020)で中国語学習歴18年目になります。私が参加している某中国語サークルで教えてくれてる老師が去年4月から一年間中国に行って ( 帰えって ) しまい、サークルの存続がどうなるか心配でしたが、そ
一般に”生口”の解釈は諸説あるようですがどうして諸説あるのかというと、”生口”という単語が今の中国語にないので解釈者の勝手な解釈で文面の流れに差し支えない諸説を出しているからでどれが正しいかは今の時代では答えが出ません。というのが現状の様なので、それなら
伊都国は日田。末盧国は博多。九州の街道を調べていると博多から日田に行く日田街道なるものがあるということを発見しました。日田街道は博多から甘木→朝倉→日田に着きます。この日田街道は、また日田往還とも呼ばれてます。いわゆるこの日田往還は日田から博多、久留米、
私はこれまで、このブログ上で公明正大(中国では光明正大)に魏志倭人伝(原文)を解釈して来まして、自分的には私の解釈(光正解釈説)で魏志倭人伝に記述ある国々は、濃い霧から薄っすら光が漏れてきて、あの国はこのあたり、この国はあのあたりと、朧気ながらも見えて来
魏志倭人伝に記載されている倭国の對海國、一大國、末盧國、の国から先ずは推測していきます。とくに末盧國に関しては諸説あります。倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國 又南渡一海千餘里名日瀚海
魏志倭人伝に書かれている倭国とは?私(sinfu)がこれまで魏志倭人伝(原文)を読んで、自分なりに解釈した魏志倭人伝を読む限り、私がイメージとして思い浮かぶのは、中国の使者が書いた魏志倭人伝(原文)に記載している倭(国)の国々の所在地は、九州地方に全て位置して
奴國に対してのもう一つの考え方以前にも書いたように、魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたものではない。じゃあ、なんで国々を次々に名を挙げて説明してるのは何のため?魏志倭人伝をよく読んでみると倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使
奴国(A) と奴国(B)について倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里始度一海 千餘里 至對海國 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 又渡一海 千餘里 至末盧國 東南陸行 五百里 到伊都國 東南至奴國(A)
(卑弥呼)年已長大広く一般に解釈されている説はもうすでに年老いてるすでに年寄りだすでに年取ってるのように解釈されていて私も、 テレビ·雑誌·書籍等で多くはそのように説明されていたので いままで卑弥呼の年齢はすでに高齢だと思っていました。しかし 中国人にこの箇所
到と至について東南陸行 五百里 到伊都國 東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里 南至投馬國 水行二十日。南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月この箇所で気になるのが東南陸行 五百里 到伊都國とここだけ到の字が使われていて、その他の箇所はすべて至の文
「光正解釈説」より導き出された情報に、さらに、魏志倭人伝に記載されている戸数情報を記入すると、① 末盧國(4,000戸余り)から東南へ五百里歩いて行く と 伊都國(1,000戸余り)に到る。② 末盧國から東南へ百里で 奴國 (20,000戸余り)へ至る。③ 末盧
[光正解釈説要点]いままで書いてきた「私の解釈」の要点だけをまとめて、箇条書きにすると① 末盧國から東南へ五百里歩いて行くと 伊都國に到る。② 末盧國から東南へ百里で奴國方面に至る。③ 末盧國から東へ百里で不彌國方面に至る。④ 末盧國から南へ水行二十日で投
[光正解釈説]いままでの“私の解釈”を今回まとめて記載致します。魏志倭人伝(原文)を中国語学習暦16年の私が解釈して1番知りたいのはそれ(魏志倭人伝)に書かれてる邪馬台国が日本のどこに一体あったのか?・・・・・です。そのために魏志倭人伝(原文)の漢文より邪馬台
[光正解釈説]自郡至女王國 萬二千餘里 (郡より女王国に至る。万二千余里)この箇所を説明します。この箇所には、郡から女王国(邪馬台国)まで万2000里余りであると書かれてます。万2000里余りと万の前に数字がありませんが、中国では万里の長城のようにとても長い距