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2018/04/11

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  • 私の少年時代ー21(勉強を意識し始めた中学生の頃)

    中学の3年間は、私にとって大人に近づく大きな3年間であった。入学からしばらくは、小学校時代とさして変わらない日々を過ごしていた。ところが、中学という所は「勉強」を否が応にも意識させる。それまで家に帰ってまで机に向かうことはなかった。というより、私専用の机というものがなかったのだが、父が昔から使っていた欅製の重厚な机を与えられた。2枚の平板で作られていた天板には隙間ができていた。聞くところによると、かつて利根川の上・中流で豪雨があった際に流されて来た欅の大木で作られたという由緒ある机だったようだ。学校では、各学級毎に生徒の委員が決められる。委員長・副委員長・書記・会計などである。そして、委員長は生徒会の評議員会にも出席する。ところが、新一年生の1学期は、なんと学校側が各学級の委員を決めるのだ。私は書記に任命された...私の少年時代ー21(勉強を意識し始めた中学生の頃)

  • 私の少年時代ー20(食と弁当➁)

    いつの頃からだろうか、お昼の弁当の時間になると温められたミルクが飲めるようになった。これが、例の脱脂粉乳というやつだ。私は自宅に乳牛が一頭飼育されていたため、毎日牛乳を沸かして飲まされていたので特に驚きもしなかった。後々、この脱脂粉乳をめぐってなんやかやと言われることもあったが、私は、家で飲む牛乳より淡白で飲みやすかった記憶がある。変な話だが、私は「家で飲むのは牛乳、学校で飲むのはミルク」と分けて考えていたものだ。あまり不味いという感じはなかったが、沸かして時間が経ったぬるいミルクが注がれた時はさすがに美味しくはなかった。さて、冬の寒い時期には、登校すると各自の弁当箱が集められ、大きなケースに入れてから温める機械のようなものに入れていた。あの熱源は教室にあったダルマストーブのように石炭やコークスだったのか、ある...私の少年時代ー20(食と弁当➁)

  • 竹久夢二絵本展―6

    大正4年の「子供之友」に載っていました。サクラの木を囲んで楽しそうに遊ぶ子どもたちが描かれています・・・。-M.N-竹久夢二絵本展―6

  • 竹久夢二絵本展―5

    大正4年の「子供之友」に載っていました。野原で遊ぶ子どもたちが描かれていますが、男の子の兵隊姿が可愛いですね・・・。-M.N-竹久夢二絵本展―5

  • 竹久夢二絵本展―4

    「子供之友・2-2」に掲載されていました。ツバキに花が美しく、園芸好きの私の大好きな絵です。-M.N-竹久夢二絵本展―4

  • 鎌倉百景−36

    田楽辻子のキバナコスモス-M.N-鎌倉百景−36

  • 竹久夢二絵本展―3

    「子供之友」の大正4年2月号に載っていました。雪国の子どもたちの正月風景が描かれています・・・。-M.N-竹久夢二絵本展―3

  • 悪口のすすめ

    学校に限らず、世の中で「他人の悪口を言ってはいけない。」ということの是非については、今更述べる必要もないだろう。しかし、いつの世でもなくならないのが「他人の悪口」。ましてや、「言ってはいけない。」と、言えば言うほど、ひどくなる。今回のSNS上における騒動もひどかった。インタビューなどでは聞けない選手のホンネに対して、情け容赦ない罵声を浴びせて、その後は、SNS上からとっとといなくなる。あくまでも個人的な意見だが、「悪口のすすめ」みたいなものも学校で教えていく必要があるように思えてくる。「教育」は「人格の完成」を目指して行われているという建前があるのだが、世の中を見まわして、「完成した人格」など見たことがない。(もちろん、私自身も含めてである。私自身に限っては、何度人格破綻しかけたことか。)巷では「人格否定」「人...悪口のすすめ

  • 「学校」という場所が、どうなっていくのか見届けるのが、私の仕事

    1学期末に、PTA会員向けの広報誌が職場で配布されました。一応、私をはじ教職員のインタビュー記事が載っていたので、読んでみました。すると、私以外、ほぼ全ての職員が「教員を志望した理由」について、「ポジティブ」な内容しか書いていないのです。それを読んで、私は「ああ、そうか、今も昔も『学校』に対してポジティブな印象を持っている人でないと採用されないのだな。」そう思いました。ところで、かくいう私は「(志望理由は)忘れてしまった。思い出せない。」と書き、その通りに掲載されました。ここからは、私の「ホンネ」です。実は私は、「学校」にあまりよい印象は持っていなかったのです。志望した理由は、ある個人的な出来事から「自分自身の頭で考えて行動できる人を育てなければならない。権威や権力に従っているだけでは、最後に悲惨な人生の結末し...「学校」という場所が、どうなっていくのか見届けるのが、私の仕事

  • パラリンピック観戦を強制するのはいかがなものか?

    8/5、千葉県庁においてパラリンピックの河合純一日本選手団長が、「学校連携観戦」に関する要望書を熊谷千葉県知事に手渡し、「無観客になった場合でも、学校主導の児童・生徒による競技場での観戦は実施するよう」に求めたということです。熊谷知事、「コロナの収束が見通せない状況が続くが、当事者の声として要望を重く受け止めて今後の大会組織委員会との協議にあたっていきたい」と答えたそうだが、子どもたちや引率教員のことを考えれば、受け入れるべきではないでしょう。いや、仮に知事がそれを受け入れて各学校へ参加を指示することは越権行為です。そもそも、観戦することを「子どもの為になる」という押し付け的発想が、このクニの教育を象徴する根本的誤りです。-s.s-パラリンピック観戦を強制するのはいかがなものか?

  • 私の少年時代ー19(食と弁当①)

    小中学校の頃、私の住む町では未だ完全給食が実施されていなかった。半ドンの土曜日を除いて5日間は毎日弁当持参で通学した。弁当箱は上級学年になるにつれ大きくはなったが、アルマイト製であることに変わりはなかった。小学校へ入学したての頃、私は楕円形の薄く小さな弁当箱で蓋には野球少年の絵が描いてあったのを覚えている。作ってくれたのは母親である。今では「愛妻弁当」等という微笑ましいものもあるが、当時も親の愛情あふれる弁当だったに違いない。敗戦後数年経っていたとはいえ、まだまだ物は不足していた時代に毎日弁当を作る母親の苦労は想像に難くない。四角い弁当箱の真ん中に梅干し一つという「日の丸弁当」も、話の上の世界ではない時代であった。家庭内での食事もメニューがおおよそ決まっていた。農家だった我が家では畑で採れる季節の野菜の他、米と...私の少年時代ー19(食と弁当①)

  • 私の少年時代ー18(東京オリンピック聖火リレー)

    1964年、昭和39年、東京オリンピックが開催された。この年は忘れることのない強烈な印象が残っている。ちなみに、年号を自覚的に西暦で唱えるようになったのはこのオリンピック以降だ。中学の3年になると、しきりに世の中がざわついているのを感じた。テレビやラジオからは三波春夫が歌う「東京五輪音頭」が頻繁に流れていた。♪あの日ローマでながめた月が今日は都の空照らす・・・♪しかし、4年前のローマオリンピックで水泳の山中毅の活躍を伝えるラジオにかじりついて聴いていた熱中ぶりとは裏腹に、自国で開かれるオリンピックだというのにさほど熱くなれなかったのは何故なんだろう…。まさか、2020年の東京オリンピックを否定的にとらえる様な醒めた感覚でいたわけではあるまいに…。2学期になると、聖火リレーが地元の県道を通過するということが言われ...私の少年時代ー18(東京オリンピック聖火リレー)

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