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郷土教育全国協議会(郷土全協)さんのプロフィール

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ブログタイトル
郷土教育全国協議会(郷土全協)
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/2017kyodozenkyo
ブログ紹介文
“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。
更新頻度(1年)

114回 / 365日(平均2.2回/週)

ブログ村参加:2018/04/11

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郷土教育全国協議会(郷土全協)さん
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郷土教育全国協議会(郷土全協)さんの新着記事

1件〜30件

  • 竹久夢二絵本展ー2

    ーM.N-竹久夢二絵本展ー2

  • 私の少年時代ー15(通学路➁)

    小学校時代の通学路は、中学になるとそのまま更に延長された。ただ、一つだけ大きく変わったことがある。それは、自転車通学になったことだ。当時、自転車は高価な品物だった。私は父から中古の自転車をあてがわれた。それは、父が懇意にしている自転車屋から格安で購入したものらしく、細身のタイヤで見た目に華奢な自転車だった。モダンな自転車なのだが、私が欲しかったのは友達が乗っているようなゴツくてがっしりしたものだった。中学生になっても登校時は仲間と一緒だった。集落の入り口付近にある私の家は、門の前が集合場所になっていた。「ピーヨ・ピヨピヨ♪」と口笛の音。これが、「おはよう!来たよ!」という合図だ。朝、会ってもほとんど会話は交わさない。互いにクラスも違うし、あまり共通の話題もないからだ。昼間はずっと一緒に遊んでいた小学校時代とは異...私の少年時代ー15(通学路➁)

  • 竹久夢二絵本展

    大正ロマンの画家として知られる竹久夢二は、幼い子どものための雑誌にも多くの絵を描いてくれました・・・。-M.N-竹久夢二絵本展

  • 我が家のプラム③

    プラムの木に小鳥やリスが来て実をついばんでいます。-M.N-我が家のプラム③

  • 鎌倉百景ー34

    由比ガ浜のハマユウーM.N-鎌倉百景ー34

  • 私の少年時代ー14(通学路①)

    集団登校として組織されていたわけではないが、集落の子どもたちは自ずと友達どうしが連れ添って登校していた。年長者は誰に言われるともなく、近所の下級生の面倒を見ていたように思う。しかし、わんぱく盛りの私たちは、ある時、集団とは離れて独自のルートで登校を試みたことがある。通常の道を通らないだけではなく、車はおろか自転車すら通れないような道なき道を進んだ。下総台地の特徴とも言うべき赤土の畑地帯が続く先には複雑に入り込んだ小さな谷がある。その斜面には雑木林が繁り、蔦が垂れ下がっている。秋には、甘く美味しいアケビが獲れることもある。この斜面を登る道が何ともスリルがあって楽しい。場所によっては昼なお暗い細道である。そこをワイワイはしゃぎなら歩くのはまるでハイキングだ。この道を行くと時間がかかるのは分かっていたので早めに出発し...私の少年時代ー14(通学路①)

  • 私の少年時代ー13(遠足)

    学校で何を勉強したかはあまり記憶がないが、遠足の思い出はいつになっても忘れずに覚えている。1年生、小御門神社2年生、利根川河川敷3年生、成田山新勝寺4年生、銚子犬吠崎5年生、筑波山6年生、箱根強羅(1泊2日修学旅行)もしかしたら、ちょっと違ってるかもしれないが、まっ、だいたいそんな所である。この他に何年生だか忘れたが、千葉の黒砂海岸へ海水浴に行ったこともある。面白いように上学年に進級するにつれて遠足の場所も遠くへ伸びていった。これらの場所は、それなりに有名なあるいは由緒ある土地である。なかでも強く印象に残っているのは、修学旅行の箱根である。♪箱根の山は、天下の嶮(けん)函谷關(かんこくかん)もものならず萬丈の山、千仞(せんじん)の谷前に聳(そび)へ、後方(しりへ)にささふ雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす昼猶闇(ひる...私の少年時代ー13(遠足)

  • コロナワクチン予約事情−4(皆さんのために打つ?)

    ワクチンのニュースが日々伝えられ、落ち着かない毎日です。私は今から40年以上前の28歳の時、今のレベルで言えば「中等症の肺炎(当時は「重度の」と呼ばれていましたが)」になり、しかもウイルス性だったので「効く薬はない」と言われておりました。医者が何とかしようと焦ったのか、新薬の抗生剤の点滴を始めたところ急に悪寒がして震えだす感じになり、そばにいた母親が慌てて看護婦さんを呼びに行ったら大勢の看護婦さんに医者も駆けつけて、血圧を測ったりいろんな処置を始める騒ぎになりました。血圧が急降下したようです。その時は総合病院の分院の方に入院していましたが、救急車で本院に運ばれることになり、その後しばらく夢かうつつかわからない日々を過ごすという事態になりました。いわゆるショック症状(今でいう「アナフィラシキ―」)を起こしたようで...コロナワクチン予約事情−4(皆さんのために打つ?)

  • 我が家のプラム②

    庭のプラムもあと2本が残っているが、昨日1枚の礼状がポスティングされていた・・・。-M.N-我が家のプラム②

  • 我が家のプラム

    プラムを門の前に置いて「朝取りプラムです、ご自由にお持ちください」と書いておいた・・・。夕方にはほとんど無くなりました・・・。-M.N-我が家のプラム

  • 私の少年時代ー12(小川)

    集落の中央に1本の小川が流れていた。水田への貴重な水の供給源にもなっていたが、子どもたちにとっては格好の遊び場でもあった。川と言っても幅が3m前後しかなく、土手も田んぼよりわずかに高い程度のものだった。深さは満水時でも1mはない感じだった。ここでの遊びは色々だが、「川跳び」もその一つだった。稲を干すために使うオダの棒を使って、川を跳び越えるのだ。川幅が狭そうな所を棒高跳びの要領で勢いをつけて跳ぶのだが、運悪く川の中央で止まってしまうこともあった。そんな時は、川の中に入ってずぶ濡れになりながら何度でも繰り返す。成功した時の爽快感は何とも言えなかった。そのうちに飽きてくると、濡れついでに川へ入り小魚を探す。誰かが、家から木枠のフルイを持ってくる。濁ってしまった川岸で、片足と両手で持ったフルイを使って川底の泥共々すく...私の少年時代ー12(小川)

  • コロナワクチン予約事情−3(コロナワクチン、うつ?うたない?)

    「9日の夕食会、7月13日以降にしてほしいの。私13日に2回目のワクチンが終わるから、その後がいい」近所に住む中学以来の友人は、非結核性抗酸菌症で肺にダメージを受けやすい。昨年来の緊急事態宣言下でも、月に1回私の家で夕食会を開いていた。彼女は不安だったけれど、終りの見えないコロナ禍、フレイルの懸念もあるし…と来てくれていたのでしょう。でも、ここでワクチン登場、コロナ予防の術が出来たので、ワクチンを打ってからにしたい・・・なるほど。長野の友人から電話「10日からの田植だけれど・・・残念だけど、近所の目が厳しくて・・・先日も愛知から息子さんが帰省して問題になった。他県ナンバーの車が止まっているとうるさいのよ」「ワクチンしてもダメ?」「済んだの?」「してないけど」「そうね、ワクチンを打って、20日以降緊急事態宣言が解...コロナワクチン予約事情−3(コロナワクチン、うつ?うたない?)

  • 私の少年時代ー11(初恋)

    年を重ねるに従い語ることに躊躇しなくなるものの一つ、それが「初恋」ではないだろうか。私の「初恋」は小学校5年生の時だった。いや、正確に言うとはっきり特定の女子を意識したのが5年生の時だったということだ。Mちゃんは、おかっぱ頭で丸顔の目がパッチリした小柄な女の子だった。彼女とは入学以来の同級生だった。当たり前だ、卒業まで単学級だったのだから・・・。何故、あれを「初恋」と定義するかというと、つまり、その、子どもながらにも通常の感覚でいられなくなる状態だったからだ。まともに顔を見られなくなったり、二人だけでの会話なんてとてもできない。でも、そんなことを友達や親には絶対知られたくなかった。思い起こせば、3・4年生の頃はMちゃんとは普通に話したり遊んだりしていた。その頃から「可愛いな・・・」という思いはあったが、でも、普...私の少年時代ー11(初恋)

  • 「ネアンデルタ―ル人は核の夢を見るか―高レベル廃棄物の行方」

    あるMLに、どなたが、録画してくれたのでしょうか「ネアンデルタ―ル人は核の夢を見るか―高レベル廃棄物の行方」(北海道放送局制作)のドキュメントが載っていました。いろいろな人を取材、重要発言を引き出して、興味深く見ました。力作です。反対運動の中心人物の一人、食堂を経営する吉野さん、住民投票条例は4対4、議長の反対票で、成立しなかった、その後、受け入れに賛成した議員のリコールを計画しているのだけれど、なかなかすすまない。「そりゃあ、狭い町です。私だって議長と40年の付き合いです。賛成派議員たちとも、公私ともども付き合いがある。でもね、この問題はそれですますわけにはいかないんです…」「いままで、ふるさと寿都の町に対して、みんな何も考えなく、朝、日が昇り、夕方、日が沈む、当たり前だと思っていたけれど・・・町民は一人一人...「ネアンデルタ―ル人は核の夢を見るか―高レベル廃棄物の行方」

  • コロナワクチン予約事情−2

    区からコロナワクチン接種券が届いた。説明を読んでみると1週間単位の予約受付。前半は混むだろう、空いたころ申し込むことにした。途中区のHPを見たら「量が確保できたから2週間分受け付ける」と出ていた。後半でいいやとそのままにしていた。知人からやっと7月末の予約が取れたとメールがあった。変だなと区のHPを開いた。何と!「集団接種の予約枠は定員に達しました」と出ていた。よくよく見ると途中から接種全日程の予約可に変更になっていた。ショック‼それにしてもみんなそういうのはそつなく動くのだなとひとり置いてきぼりをくった気分。これから始まる個人接種、区や河野大臣が量はしっかりあるから慌てなくて大丈夫などと言っても、信用しない方が良いと思った。この新型コロナワクチンは遺伝子をいじるから恐いという情報もある。どうしようかと迷いつつ...コロナワクチン予約事情−2

  • コロナワクチン予約事情−1

    5月21日(金)が大田区の高齢者ワクチン申し込みの受け付け開始日でした。娘がその日の朝申し込んでくれて、第1回目が7月10日、2回目が7月31日。会場は歩いて行ける区民プラザ。初日は受け付けが混雑するだろうと遠慮してたら、接種日は8月になっていたのではないか。菅首相のいう7月末まではムリのようですその後キャンセルが出たので取り直し、第1回目6月12日、第2回目7月3日になった。年寄りは困っている人が多い。友人も個人接種受付の1日目にかかりつけの病院に電話した。先生を呼び出してもらおうとお願いしたが「わかりません、わかりません」と言われて1時間も待たされた。生年月日を急に西暦で聞かれても、いつも昭和で書いているのでわからなかったと言っていた。-K.I-コロナワクチン予約事情−1

  • 私の少年時代ー10(民主化されなかった学校)

    「♪年の始めの例(ためし)とて終わりなき世のめでたさを松竹(まつたけ)たてて門ごとに祝(いお)う今日こそ楽しけれ♪」今でも正月になると、つい口に出してしまいたい衝動にかられる。そう、明治より伝わる文部省唱歌「一月一日」の歌詞である。ちなみに、これは一番で、二番こそすごい歌詞である。「♪初日のひかりさしいでて四方(よも)に輝く今朝のそら君がみかげに比(たぐ)えつつ仰ぎ見るこそ尊(とお)とけれ♪」何故この様なものを知っているかといえば、小学生の頃、元旦には登校して講堂へ全校児童が集まり、新年の祝典を行っていたのである。オルガンの伴奏に合わせて、この歌を声高らかに歌った記憶は未だに消えることはない。もちろん、歌詞の意味など分からぬまま歌っていたのである。何だか戦前戦中の話のようだが、私が体験したのは紛れもなく「昭和3...私の少年時代ー10(民主化されなかった学校)

  • 廃兵通信―3282

    会員の中村光夫さんが、会員によるメーリングリストに毎日発信している通信を以下に引用させていただきます。(管理人)廃兵通信―3282雨で外出できず・・・。やることが無かったので、雨の中、庭のコマツナの種取作業をして過ごした・・・。大正時代の「コドモノクニ」に竹久夢二が「七里ガ浜」を描いた詩と絵が出ていたので、コピーして七里ガ浜の高校と小学校と幼稚園に寄贈しておいた・・・。廃兵通信―3282

  • 私の少年時代ー9(そとあそび)

    雨さえ降らなければ外で遊ぶのは当たり前な時代だったが、この遊びが色々あって細かい名称を上げればきりがない。その中でもスポーツを真似した遊びは面白かった。定番の野球以外にも色々工夫してやってみた。まずは「ゴルフ」だ。クラブやゴルフボールはなかったが、野球のバットとボールが代替えした。ホールは庭の随所に掘った穴。簡単に入りそうな所から傾斜がかった所まで全部で10ホールくらいは作った。グリーンはもちろんのことバンカーや池もなかったが、わざと障害物を置いて難しくしたりした。ティーショットはいつも同じ場所から打つのだが、一打で入れば10点で打数が増えるごとに点数をマイナスする。10回で入らない場合は、マイナス点を加えるという子どもながらに良く考えていたと思う。距離の短いホールでは時々ホールインワンが出たりして、飛び上がっ...私の少年時代ー9(そとあそび)

  • 私の少年時代ー8(台風)

    秋になると必ずやって来るのは台風だ。「台風○○号」という言い方が、まるで王選手のホームランの様に感じていた。事実、年によってはどちらが多く打つ(発生する)か競争している様なこともあった。農家にとって、台風は迷惑千万どころか、襲来する時期によっては大きな被害をもたらす厄介者だ。そんなことは深く考えもしなかった私たち子どもは、台風接近の雰囲気が漂ってくると、大人とは違った意味で心が騒ぎ出し気持ちが高ぶるのであった。まだテレビのなかった我が家では、ラジオが伝える台風情報が唯一の判断材料だった。NHKのラジオをつけっ放しにして耳を傾けていた。「台風○○号は、○時現在、潮岬の遥か南方○○キロメートル付近にあり、中心気圧は910ミリバール、中心付近の最大風速は45メートル・・・、時速35kmの速さで北北東に進んでいます。」...私の少年時代ー8(台風)

  • 私の少年時代ー7(遊山講)

    私たちが遊山講(ユサンコ)と称していた行事がありました。持ち回りで、各家に子どもたちが集まって遊んだり、食事を共にするものです。たしか年に数回、学校の長期休業に合わせて行っていたようにも思います。この行事も事前の準備から始まります。前日に当番に当たる家の子を中心に上級生が手伝いながら各自の家々を回ります。お米を集めるのです。この集め方が面白いのです。1年生は一合、2年生は二合、3年生は三合・・・という具合に学年が上がるにつれて集める量も増えるわけです。子どもですからそれ程には食べることはないのですが、当番に当たる家庭の負担を考えてのことだったのかもしれません。子どもに関するどんな行事も同じですが、上級生が下級生のことをよく面倒見ていました。小中一緒の行事もありますが、このユサンコは小学生だけでした。それも不思議...私の少年時代ー7(遊山講)

  • 学校現場の叫びを聞け!

    文科省がこの3月から始めたTwitterサイト「#教師のバトンプトジェクト」への書き込みは、当局の当初のねらいであった「働き方改革の好事例」どころか、現場教員からの悲痛とも思えるような叫びや嘆きの声だという。それはそうだろう。少しでも学校現場に足を踏み入れた者なら、現在の学校の慌ただしさや大変さは容易に感じ取れるはずだ。ということは、文科省当局は現実の状況を掴んでいないということになる。つい最近も萩生田文科相が連休明けの子どもたちへ「自殺はするな」とメッセージを投げかけたが、そんな切実な状況に追い込まれた子どもたちのことをどれだけ分かっているのだろうか⁉︎学校教育だけで子どもたちは生きているのじゃないということ、彼らが生存する社会は今、どうなっているのか?根底から問い直すことがない限り実態は見えてこないのではな...学校現場の叫びを聞け!

  • 私の少年時代ー6(盆綱)

    24軒の家で一つの集落を形成していた私たちの地域ですが、地形的には北側の台地から一段下がった盆地風な場所に在ります。田園が広がった中央部には小川が流れ、行き着く先は坂東太郎(利根川)です。どこの家も三世代から四世代の大家族でした。農業を営む上で必要な形だったのでしょう…。因みに我が家は9人家族、子ども心にも活気を感じて育ちました。おそらく様々な刺激を家の中にいても感じていたのでしょう。こんな小さな集落でも、2年に一度くらいの割合で新盆を迎える家がありました。この時に活躍するのが子どもたちでした。盆綱を引いて廻るからです。この綱は、藁で編み上げられた長さ20m程のものです。手に持つ部分は機械で編んだ3本の縄だけを使って編みますが、次第にそこに少しずつ藁が加えられます。すると、段々太くなり最大直径20㎝程になりま...私の少年時代ー6(盆綱)

  • 私の少年時代ー5(七夕まつり)

    (写真はWeb上から借用)夏休みの思い出が、やっぱり多く残っている。田舎の季節の行事は旧暦で行われている。今でもそうだが・・・。8月に入ると、私たち子どももにわかに忙しくなる。七夕とお盆が立て続けにやってくるからだ。今の子どもたちの七夕は、7月中に学校等で願い事を短冊に書いて笹竹に付ける程度だが、私たちの頃は部落の一大行事を子どもたちが担うのだ。8月7日が近づくと、各家々で大きな七夕飾りを一本作り上げる。そこには、家族一人ひとりの願い等の言葉が書かれた短冊と嗜好を凝らした飾りつけがなされている。因みに、この飾りつけの豪華さでその年の七夕担ぎの「先立ち」が決まる。7日の午後、子どもたちは手分けして各家々の軒先に掲げられた七夕飾りの笹竹をいただきに行く。部落中の笹竹が集められ、集落中央部の田園の道端に突き立てられる...私の少年時代ー5(七夕まつり)

  • 私の少年時代ー4(チャンバラ)

    田舎の子どもたちの遊びは多種多様だったが、チャンバラも忘れられない一つだ。ほとんどの家に、屋敷の裏には竹林があった。でも、友だちの家の竹林は孟宗竹が多く、チャンバラ用の刀を作るには向いていなかった。そこで、真竹の竹林を持つ我が家が、刀の材料調達からチャンバラの戦いの場としても利用された。数ある真竹の中でも、刀としてふさわしいものは容易に見つからない。うまい具合に曲がったものがあると、やったあ!という感じである。竹用のノコギリとナタ、それにナイフは必需品だ。もちろん、ナイフ以外は祖父から借りたものだ。因みに、ナイフは高学年になり自分で使い方が分かるようになると、どの家でも買い与えてくれたものだ。今では信じられないかもしれないが、男の子はそれを持って上手に使いこなすことが成長の証でもあった。チャンバラは、剣道とは異...私の少年時代ー4(チャンバラ)

  • 私の少年時代ー3(紙芝居)

    夏休みは、子どもたちとって天国であるのはいつの世でも同じだ。朝から夜まで楽しいことの連続だが、今日は紙芝居の話をしよう。昼寝が終わった頃、部落の中心地である桜の木の下のちょっとした空き地に、自転車に乗った紙芝居のおじさんがやって来る。拍子木を叩く音に引き寄せられるように、あちこちから子どもたちが集まって来る。紙芝居そのものもテレビのない時代の子どもたちには楽しみだったが、それより楽しみなのが上演前に販売されるお菓子類だ。定番は、もなかの皮を厚くしたような丸いお菓子の上に、短い割り箸に巻き取られた水飴が載ってるもの。先ずお菓子をかじった後に、割り箸を二つに割って残りの水飴をくねくねと回す。だんだん色が白くなってくる。これを舐めながら紙芝居を観る。題目はほとんど覚えてないが、「黄金バット」「ダッちゃん坊や」?という...私の少年時代ー3(紙芝居)

  • 私の少年時代ー2(草野球)

    私が小学生の頃は、部落(当時の呼び方で、町の中のひとかたまりの地域を指す。)中の子どもたちが集まって遊ぶのが常だった。年長者がリーダーになって、遊び方も遊びの種類も代々下の者に伝わっていた。私の時代の男の子は、野球が遊びの中心だった。野球といっても、当時の田舎は貧しく、グローブ等の道具が十分にそろっていたわけではない。各自が持っているわけではなく、グローブは攻防の度に限られた数を使いまわしていた。当然、何も持ってない子もいた。だから、ボールは素手でも受けられる小さめのソフトボールを使っていたのだ。そして、一番の問題は野球をする場所である。唯一のグラウンドである学校まで行くのは遠いし、競争率も高くほぼ使えない。そこで、私たちは野球のできそうな適当な広場を探すのだ。当時の田舎は、貧しくても庭は広い。農作業に使うため...私の少年時代ー2(草野球)

  • 私の少年時代ー1(牛の目の涙)

    農村に生まれ育った私は、子どもの頃から家の手伝いをよくやった。というか、楽しそうなことを遊びとして行っていただけだが…。4世代9人家族の我が家は、当時では珍しくはなかったが、親父一人の現金収入では暮らしも容易ではなかった。基本的に食料は自給に頼っていた。肉はめったに口にすることはなく、週に一度バイクで訪れる銚子の魚屋さんから買う旬の魚が唯一の定番だった。さて、田舎は貧しく、隙間風が吹き込む様なボロ屋に住んでいたが、屋敷はけっこう広く、主屋以外にも木小屋、豚小屋、牛小屋、鶏小屋、納屋、風呂場、便所等々が建っていた。自給するには様々な施設が必要なのだ。牛小屋に一頭の乳牛がいたのは、私が物心のついた頃からである。祖父が毎日一回搾乳するのを、傍でじっと見ていた記憶がある。チュー!チュー!と勢いよく手で搾り出される乳がみ...私の少年時代ー1(牛の目の涙)

  • 谷津干潟を散歩

    東京で「緊急事態宣言」が発令された日曜日、夕方になってから散歩を始めました。コースは自宅から南の方へ向かいました。通称船取線沿いに南下して花輪インター辺りで京葉道路を跨ぎこし、右手に船橋競馬場を眺めながら湾岸道路(東関道)手前まで進みました。ここでは、東関道はJR京葉線と並行しています。それを右手に見ながら船取線を歩道橋で東側に渡ると目の前に現れたのは谷津干潟です。ちょうど潮が満ちてきているところでした。東京湾とは繋がっているのですが、いくつかの狭い水路を流れてくるのでまるで川の流れのようです。干潟沿いに遊歩道が周囲を囲んでいるので格好の散歩やジョギングのコースにもなっています。反時計回りに歩き始めました。植林によって出来た林の間を進む所もありましたが、「谷津干潟自然観察センター」を過ぎると、再び干潟が目の前に...谷津干潟を散歩

  • 孫っ子との日常ー76(東京の女子)

    父親の転勤で家族ぐるみ南仏ニースへ引っ越してから数週間が経った孫娘は早くも新居に慣れてきたようでまたいつものグータラ生活に戻ったなにしろフランスは学校の休みが多くほぼ2か月に1回は2週間のバカンスがあるバカンスとは大人社会のことだと思っていた私が甘かったでも子どもが休みなら教員も当然ながらお休みバカンスだ!因みに週35時間労働の一般労働者に比べても更に短い勤務時間のようだこの話も興味あるが今は孫娘の学校生活のことを話そうオルレアンの学校を辞めてニースの学校へ入るまでバカンスを利用したしかしその間コロナの影響で学校が休校になってしまったのだ結局新しい学校へ入るまで3週間近く要したのだからダレるのは当たり前さすがのグータラ娘も自宅生活も飽きたころに学校が始まったところがお昼時に帰宅するのは彼女とあと数人だけだったよ...孫っ子との日常ー76(東京の女子)

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