こんにちは。漢の支社長的な動きをしていた石勒ですが、本社の漢の非道なふるまいに怒り自立を考え始めます。漢はその年、国名を「趙」とあらためます。(前趙の成立)石勒は長江を渡り北伐してきた東晋の祖逖と河南・淮水流域エリアで戦いをはじめます。その
中国史・日本史・世界史 歴史について知りたいことを調べるブログ 中国史(三国志・五胡十六国時代・・・)& 日本史(戦国時代・城・武田信玄・毛利元就・・・) などなど
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第四部「後趙建国」② 320年 石勒、周囲へ侵攻する
こんにちは。漢の支社長的な動きをしていた石勒ですが、本社の漢の非道なふるまいに怒り自立を考え始めます。漢はその年、国名を「趙」とあらためます。(前趙の成立)石勒は長江を渡り北伐してきた東晋の祖逖と河南・淮水流域エリアで戦いをはじめます。その
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第四部「後趙建国」① 319年~ 石勒、ついに自立する
こんにちは。317年、江南では司馬睿が晋王に即位し、「東晋」が成立。(318年に皇帝に即位)また、漢ではご乱心ぎみの皇帝・劉聡が死去し、劉粲が即位しますが政治を顧みず、悪臣・靳準によって殺されてしまいます。靳準は首都・平陽にいた劉氏の一族を
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑨ 317年~318年 司馬睿の即位と漢の内乱
こんにちは。河北で勢力を広げていた石勒は、316年に晋の残党勢力の一人・劉琨を攻撃します。劉琨も今はなきマブダチ・拓跋猗盧の残党軍を使い迎撃しますが、石勒の前に敗退、劉琨が治めていた并州北部のエリアは石勒に降っていき、劉琨は段部の段匹磾の元
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑧ 316年 石勒の并州攻撃
こんにちは。洛陽を漢によって奪われたあとも各地にその勢力を残し、漢をはじめとした対抗勢力と戦っていた晋ですが、関中の長安で皇帝になっていた司馬鄴(愍帝)が、316年漢の劉曜によって捕らえられ長安が陥落し、晋(西晋)は滅亡ということになってし
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑦ 314年~316年 西晋の滅亡
こんにちは。314年、石勒は目の上のたんこぶ的に幽州で割拠していた王浚を「へりくだり戦略」で打倒し、薊を中心としたエリアを獲得します。しかし、物事はそうはうまくはいかないらしく、薊の守将に任命した劉翰が鮮卑・段部の段匹磾に帰順してしまったり
こんにちは。久しぶりに日本の城のことを書きます。昨年(2021年)末に久しぶりに城攻めをした滝山城を忘れないうちに書いておきます。新型コロナ以降、城巡りができていませんでしたが、たまたま仕事で行ったところの近くに滝山城がありましたので、急遽
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑥ 314年 石勒、王浚を倒す
こんにちは。石勒は、王浚からの使者へ自分の勢力がたいして振るっていなさそうな様子をわざと見せ、みずからは王浚尊敬万々歳であることを猛アピールします。これにより王浚からの使者をだまし、さらに王浚を油断させることに成功します。また、王浚の元に使
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑤ 314年 石勒、王浚襲撃の下準備を完了
こんにちは。石勒は幽州を中心に勢力をはっていた王浚を打倒しようと思いますが、どのようなスタンスであたっていくか、なかなか方針が決まりませんでした。そこで、張賓に相談したところ、驕り高ぶる王浚に対し下手に出て、信じ込ませたほうがよいという意見
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」④ 313年 石勒、王浚をおだてる
こんにちは。312年以降石勒は、幽州を本拠とする晋の王浚と河北の覇者の座をかけ争います。王浚の尖兵・段部を撃破した石勒は、人質にした段末柸を懐柔し、段部全体も王浚につくことをやめます。石勒はこのあとも河北、河南に勢力を伸ばし、逆に王浚からは
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」③ 312年~313年 石勒、王浚を削っていく
こんにちは。312年石勒は襄国を本拠にし、河北経略に入っていきます。石勒の河北での最大の敵は幽州に本拠を置く晋の王浚です。(この時点では軍閥化している)12月に石勒と王浚の戦いは始まります。王浚は自勢力の主攻、段部を襄国へ向けて進発させます
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」② 312年 石勒、王浚との戦いをはじめる
こんにちは。312年、南方のツアーを切り上げ、河北に戻って来た石勒は張賓の計に従い、鄴の攻略をひとまずスルーし、その北にある襄国に入りそこを本拠と定めます。このあと河北の経略に進んでいく石勒ですが、当時の河北エリア(大きく黄河の北として)は
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」① 312年 石勒の黄河渡河と河北経略の開始
こんにちは。312年に自分の進むべき道を見つけた石勒は、「右侯」張賓の示した戦略に沿って動き始めます。寿春で対峙していた晋軍の追撃も、大きなダメージを受けることなく振り切り、黄河の北を目指して進軍をはじめます。ここから第三部「石勒の河北争奪
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑩ 312年 石勒、自分探しの旅を終え北帰をはじめる
こんにちは。311年に漢が晋の首都・洛陽を陥落させた前後あたりから、石勒は淮水南北あたりをウロウロと自分探しを続けていました。(その最中、心のなかでは嫌っていた同僚の王弥を暗殺しその勢力を併合したりもしています。)漢の主力も洛陽を落としたあ
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑨ 311年 石虎の合流と、関中での晋の反撃
こんにちは。漢が晋の首都・洛陽を落としたあと、石勒は河南~淮水周辺~江北あたりをフラフラと自分探しをしていました。そのあたりは、晋の残党や、石勒の同僚の王弥もフラフラと存在していましたが、石勒はまず晋の苟晞を攻撃してこれを捕らえることに成功
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑧ 311年 石勒、王弥勢力を取り込む
こんにちは。首都・洛陽陥落&皇帝拉致以降、晋は皇族や重臣が各地で行台(臨時の役所)を立ち上げ、漢に対抗をしようとしていました。しかしそんな中、漢は関中への侵攻を行い、長安を陥落させることに成功をします。東西の重要な都城を落とされた晋はこのあ
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑦ 311年 晋の残党の動きと、長安陥落
こんにちは。晋は、重鎮で八王最後の生き残りの司馬越が晋国内各方面から嫌われ、挙句の果てに病死してしまいます。その司馬越から後事を託された王衍も、直後の司馬越の葬儀を石勒に襲われ、情けない最後を見せてあっさり死亡。晋の皇族・重臣も石勒に殲滅さ
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑥ 311年 晋の帝都・洛陽陥落
こんにちは。漢は劉聡がクーデターにより即位したあとも、国家戦略である対晋戦争と洛陽攻撃を継続していきます。310年10月には、第三次洛陽攻撃を行いますが、諸将の連携があまり取れていないようで、またしても洛陽陥落には至りませんでした。晋サイド
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑤ 310年 第三次洛陽攻撃と石勒の迷走
こんにちは。劉淵の漢の対晋戦争は、様々なエリアで晋軍を打ち破る戦果を挙げながらも、晋もまだまださずがの統一王朝の粘り腰を見せ、漢の洛陽攻撃を2回にわたり跳ね返すなどします。石勒も河北エリアで晋軍と戦闘を継続しています。このころになると、全国
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」④ 309年~310年 劉淵の死
こんにちは。劉淵の漢は、劉聡を中心に南方方面の経略を進めていき、石勒を中心に東方方面の経略を進めていきました。そして、南方方面では、劉聡率いる漢軍の主力が、晋の帝都・洛陽への攻撃をいよいよ開始しました。しかし、この洛陽攻撃は第一次、第二次と
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」③ 309年 漢の洛陽攻撃
こんにちは。309年に劉淵率いる漢は南方への進出に力を入れていきます。南への交通に優れる平陽への遷都、黎陽など黄河北への進出、并州上党郡の壺關の攻略など、次々と南方経略を進めていきます。また、劉淵から東方経略をまかせられていた石勒も、経略を
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」② 309年 石勒、参謀・張賓をゲット!
こんにちは。石勒は、劉淵率いる漢に帰順したあと、すぐ将軍として抜擢され、主に関東(河北エリア)の攻略をまかされ、河北の中心都市・鄴を陥落させるなど、武功を挙げていきます。漢は、本拠地である山西エリアから南へ向けての進出を試みます。しかし、晋
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の武将として戦う」① 308年 漢の南方と東方への侵攻
こんにちは。晋の天下が、八王の乱や永嘉の乱などの混乱で揺れ動き崩壊していく中、石勒も河北エリアで勃発した「公師藩の乱」に参加をしてデビューすることに成功します。「公師藩の乱」は306年9月に晋の苟晞率いる軍に鎮圧されてしまいますが、石勒と汲
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第一部「戦乱の世に降り立つ」③ 晋への反乱の末、漢へ加入
こんにちは。前回、石勒がデビューする時代までの中国史の流れを、後漢末から晋で八王の乱が起こる頃まで簡単に書き、石勒のデビューやその後にも関わってくる八王の乱の動きについても書きました。八王の乱の最後の4分の1、司馬亮を倒すための三王起義以降
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第一部「戦乱の世に降り立つ」② 石勒デビュー時の中華の状況
こんにちは。石勒は、羯族の部族長の家に生まれましたが、青年時代に住んでいた并州(現在の山西省)が大飢饉に見舞われ、部族は分解して散り散りになってしまいます。そのあと、石勒は晋の王族の一人司馬騰の奴隷狩りにあい、奴隷身分に落ちてしまいます。し
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第一部「戦乱の世に降り立つ」① 石勒の生い立ち
こんにちは。今回から、石勒のシリーズをはじめます。石勒は、苻堅、慕容垂などともに五胡十六国時代を代表する英雄の一人です。(ただし、極めてダークヒーローに近いと感じている)私が五胡十六国時代に興味を持ち始めたとき、一番はじめにファンになったの
自分が好きな中国史をテーマにした作品をいくつか挙げてみる(小説編)
こんにちは。以前、中国史をテーマにした漫画をピックアップしてみましたが、今回は小説をピックアップしてみようと思います。基本的には、大御所や有名どころの作品が並びました。しかしどれもおもしろかったのは間違いありません。以下、作品を挙げていきま
こんにちは。氐族の苻氏は、後趙の内乱からの華北大乱の隙きをつき、河北エリアから関中への侵攻を行います。そして350年10月長安の攻略に成功し、351年1月に苻健が天王・大単于に即位し、「大秦」を国号とし、「皇始」と改元します。前秦の建国です
こんにちは。五胡十六国時代で英主と言えば、前秦の苻堅です。諸民族の宥和を目指し、傑物・王猛を宰相にし、彼とともに前秦の富国強兵を成し遂げ、華北統一に成功した五胡十六国時代の代表する人物です。前秦はその後、中華統一を目指して東晋に侵攻しますが
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 滅亡編③ 最終回:魔王打倒!! そしてさらなる混乱へ・・・
こんにちは。冉魏という魔の国を建国した冉閔でしたが、首都・鄴のすぐ北の襄國(ドラクエ的に言うと竜王の城のすぐ北にラダトーム城があるのと同じ。間を隔てる海はない)に割拠した後趙の残党・石祗を倒すために、10万の兵で出陣します。しかし、この攻撃
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 滅亡編② 襄國の戦い
こんにちは。351年1月、冉魏皇帝として冉閔でしたが、旧後趙国内の諸勢力が、ことごとく冉閔と対立、もしくは割拠していきます。冉閔が作った魔の国は、建国1ヶ月目から分裂していきます。鄴のすぐ近くの襄國では、後趙の残党をまとめた石祗が後趙皇帝と
こんにちは。後趙君主、大魔王・石虎の養孫として石氏に仕えていた冉閔(当時は石閔と名乗っていた)は、後趙屈指の武将として、優れた武功を挙げていました。大魔王・石虎が没したあと後趙は石氏一族が争う内乱状態に突入し、冉閔を味方につけたものが君主の
こんにちは。五胡十六国時代、石勒が建国して華北の主要エリアの統一を成し遂げた後趙では、石勒の死後、大魔王・石虎が簒奪をし勢力を広げるも、国内や朝廷は混乱状態になっていきました。その石虎の死後、石世が跡を継ぎますが、後趙国内では君主の座を狙っ
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編⑦「冉閔暗殺計画」
こんにちは。439年後趙では石虎の死後、石氏一族の争いなど様々な混乱が起こります。8月に、関中に封ぜられていた石苞が、鄴の皇帝・石遵に反乱を起こそうしますが、関中の豪族どもに総スカンをくらい、そいつらに誘われた東晋の司馬勳が漢中より、関中エ
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編⑥「東晋の北伐その2と、石鑑のクーデター」
こんにちは。石虎の死後、石世が跡を継いだ後趙ですが、すぐ内乱が起きます。石虎の息子の一人、石遵がクーデターを起こし、石世を廃し君主になります。それで終わりかと思いきや、石遵の即位に反対する石氏一族が続いて反乱を起こし、後趙は内乱状態に突入し
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編⑤「後趙の内乱&東晋の北伐その1」
こんにちは。後趙は大魔王・石虎の死後、内乱の火の手があがります。太子であった石世が跡を継ぎますがまだ子供でしたので、石世の母親・劉太后と張豺が後趙の権力を握ります。しかし、長安に向かっていた石虎の息子の一人石遵が長安への道程の途中で、「梁犢
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編④「後趙の内乱:石遵のクーデター」
こんにちは。後趙を強国にしつつ混乱に陥れた大魔王・石虎が没し、太子の石世が跡をつぎました。ここで、石世の母親の劉皇后とその後ろだて的な存在の張豺が後趙の権力を握ろうと石虎の死以前から画策します。石虎の息子の石斌と石遵を、一方は殺し、一方は長
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編③「大魔王・石虎の死」
こんにちは。349年に関中エリアで勃発した高力たちを主力とした「梁犢の乱」は、関中から洛陽へとまさに「破竹の勢い」で進んで行き、成皋関(三国志の虎牢関)をも超え華北平原まで進出してきます。後趙の迎撃軍も次々と粉砕されてしまいますが、姚弋仲と
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編②「老羌(ちょい悪ジジイ)姚弋仲と、梁犢の乱の終焉」
こんにちは。349年に関中エリアで勃発した「梁犢の乱」は、後趙の軍を撃破しながら、東へ進んでいき、とうとう成皋関の防衛ラインも抜き、華北平原のエリアまで進出して来ました。後趙君主・石虎はこれを憂い、姚弋仲と蒲洪の2将を反乱鎮圧に投入します。
五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編①「梁犢の乱勃発」
こんにちは。五胡十六国時代最強の男にして、当代の英雄である冉閔が、魔の国後趙を滅ぼし冉魏という漢人の国を建国するまでの物語を書いてます。前回、後趙の将軍として、持ち前の武力をいかし、各地の戦いで活躍する冉閔を書きました。後趙は石虎の治世に、
こんにちは。今回は、五胡十六国時代において「最強」と謳われる冉閔について書こうと思います。冉閔は、多くの五胡十六国時代のファン(ファンの絶対数自体が多いとは言わない(´ε` ))から「最強」の武人と讃えられる人物です。しかし、胡人20万を虐
自分が好きな中国史をテーマにした作品をいくつか挙げてみる(漫画編)
こんにちは。歴史をテーマにしてブログを書いていますが、とくに中国史に関しての投稿が多くなっています。まあもともと中国史が好きなので、どうしても中国史関係に偏ってしまうのですが、一応「歴史総合ブログ」を目指していますので、もう少し中国史以外の
ゆるっとふわっと中国史の流れを書いてみる③ インシュウその2 東周【春秋時代】
こんにちは。ゆるゆるふわふわの「ゆるっとふわっと」中国の歴史の流れを書きます。前回は、西周までを書きました。インシュウシンカン・・・の、殷のあと周王朝がはじまりますが、周の幽王は前771年に犬戎に攻められて殺されます。これで西の関中エリア・
五胡十六国時代の名勝負を描く 最強・冉閔 vs 名将・慕容恪 「廉臺の戦い」
こんにちは。五胡十六国時代のいろいろなエピソードや戦いをつまんでいこうと思います。中国史上でも最大級の戦乱の時代だけあって、エピソードには事欠かないこの時代です。(救いようがない話のほうが多いですが・・・)今回は、五胡十六国時代に行われた戦
ゆるっとふわっと中国史の流れを書いてみる② インシュウその1 殷~周(西周)
こんにちは。ゆるゆるふわふわの「ゆるっとふわっと」中国の歴史の流れを書きます。前回、新石器文化~夏まで(三皇五帝についても含む)を書きました。今回は、いよいよインシュウシンカンの歴史に入ります。殷(商)【前16世紀頃~前11世紀頃】夏王朝は
こんにちは。このブログ、歴史全般を扱うつもりで書き始めましたが、中国史それも五胡十六国時代がかなりの分量をしめている今日このごろです。もう五胡十六国時代だけでいいんじゃないかと思う日もあったりしますが、まだ一応「歴史総合ブログ」として続けた
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜㉔ 最終回 431年~439年 沮渠蒙遜の死と北涼の滅亡
こんにちは。428年~430年にかけて、北涼の沮渠蒙遜が弱りはじめた西秦に猛攻撃をかけます。西秦も粘り、本拠地を奥地に遷すなどの戦略でなんとか北涼の攻撃をしのぎます。この間、北魏は関中エリアの夏に攻撃をしかけ、壊滅的な打撃を与えます。この北
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜㉓ 428年~430年 沮渠蒙遜、西秦に攻勢をかける
こんにちは。426年~428年にかけて、北魏が夏に侵攻をし、夏の首都・統万城を陥落させます。この侵攻により、夏は統万城はじめとするオルドスエリアを北魏に奪われます。君主の赫連昌も北魏に捕らえられ、関中も一時は長安をはじめかなりの部分を制圧さ
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜㉒ 427年~428年 北魏と夏が停戦
こんにちは。夏は、西秦が北涼を攻めている隙をつき、西秦国内に侵攻していき、国土を蹂躙するほどのダメージをあたえます。ところが、夏の主力軍が遠征をした隙に、今度は北魏が夏国内に3路より侵攻し、統万城への攻撃と、関中への侵攻を進めていきます。こ
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜㉑ 426年~427年 北魏の統万城攻略
こんにちは。426年に西秦がまたしても北涼国内に攻め込みますが、沮渠蒙遜は夏との同盟をいかし、夏に空になっている西秦国内への侵攻を要請します。夏は軍を発し、西秦国内をまさに蹂躙する軍事行動を起こします。西秦は、首都・枹罕まで肉薄され、西秦君
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑳ 425年~426年 赫連勃勃死す
こんにちは。421年の北涼の河西回廊統一直後から、隣り合う北涼と西秦は戦争を続けています。はじめは北涼が西秦を攻めていましたが、そのうち西秦が北涼を攻め始めます。しかし、西秦は北涼・夏・吐谷渾と周辺3カ国と対立しており、包囲網をしかれている
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑲ 423年~424年 北涼と西秦の戦役が勃発2
こんにちは。北涼の沮渠蒙遜が、河西回廊を統一したことで、北涼の東隣の隴西に国を構える西秦との本格的な戦いがはじまります。421年の西涼滅亡後すぐから、422年と続けて戦いが起こり、攻め込んだほうの北涼が一敗地に塗れます。相変わらず攻めたとき
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑱ 北涼と西秦の戦役が勃発
こんにちは。421年3月、敦煌を水攻めで陥落させた沮渠蒙遜の北涼は、西涼を滅ぼし、とうとう河西回廊を統一します。397年に後涼から独立してから20数年にして、後涼、北涼、南涼、西涼と淝水の戦い後に4つの「涼」が乱立した河西回廊を、その智謀一
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑰ 沮渠蒙遜、河西回廊を統一する
こんにちは。西涼の君主・李暠が死去したあと、北涼の沮渠蒙遜は、417年、418年と立て続けに西涼へ攻撃をしかけ、建康を支配下に入れます。西涼は李暠の息子・李歆が跡を継いでいましたが、沮渠蒙遜とは役者が違ったようです。じわじわと侵略されてしま
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑯ 華北西部の戦乱と、北涼の西涼侵攻
こんにちは。400年に北涼から独立して、酒泉や敦煌の河西回廊でも西よりのエリアに割拠し、そこそこ安定した社会を築いていた西涼ですが、君主・李暠が417年に病死してしまいます。西涼は李暠の息子・李歆が跡を継ぎますが、後顧の憂いが無くなった北涼
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑮ 西涼君主・李暠の死
こんにちは。沮渠蒙遜が北涼の君主になって以来最大の敵対国であった南涼が西秦に滅ぼされてから、河西エリアの関係性は大きく変わっていきます。西秦が南涼を滅ぼしたことにより、沮渠蒙遜の北涼と西秦が国境を接するようになり、415年から北涼と西秦が衝
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑭ 混迷が続く河西のエリア3 北涼と西秦
こんにちは。414年に南涼君主・禿髪傉檀が国内の叛乱を鎮圧するために出陣した隙を、西秦軍に突かれ、首都・楽都が陥落、禿髪傉檀も西秦に降伏をして、南涼が滅亡します。沮渠蒙遜の北涼と、10年以上も毎年のように衝突してきた南涼の滅亡は、沮渠蒙遜の
おそらく第10次くらいの小田原征伐(観光)が行われた 今回は小競り合いで終わったが戦果は十分
こんにちは。先週は夏休みでしたが、コロナで遠出はできませんので、近場に少し出かける程度で過ごしました。もともと、小田原征伐に赴く予定はなかったですが、ある理由により赴くことになりました。下りの東海道線に忘れ物をしてしまい、国府津という駅まで
この歴史漫画がおもしろい! 「天上恋歌 ~金の皇女と火の薬師~」 金国の皇女が宋の花火職人に恋をする
こんにちは。最近読んでおもしろかった歴史漫画シリーズいきます。青木朋「天上恋歌 ~金の皇女と火の薬師~」 (ボニータコミックス)です。天上恋歌~金の皇女と火の薬師~【電子特別版】 1 (ボニータ・コミックス)中国史系の漫画は、たくさんありそ
「跡形もない城跡」~遺構がほとんどない地味な城たち~ 澁谷城
こんにちは。最近、コロナのせいで城巡りできない状態でしたが、渋谷に行く用事があったので、澁谷城跡に行ってきました。タイトルにもあるように、この澁谷城、「城」としての跡が「跡形もない」城です。(おそらくは少しはあるがほぼわからない)ただ、私は
この歴史漫画がおもしろい! 「傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン」 ファッションデザイナーの祖と称される人物の物語
こんにちは。今回は、おすすめの歴史漫画について書きます磯見仁月「傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン」(BUNCH COMICS)です。傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン 1巻: バンチコミックスフランス革命前夜のパリで、マリー・アントワネットの
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑬ 混迷が続く河西のエリア2 南涼の滅亡
こんにちは。沮渠蒙遜が姑臧を手に入れたあとも、河西エリアの国々はドンパチドンパチやっています。南涼は国力が衰えてきましたが、めげずに北涼を攻撃しますが、撃退され逆に首都の楽都を北涼軍に囲まれてしまいます。西秦も周囲を攻撃していき、よい調子で
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑫ 混迷が続く河西のエリア1 「河西王に俺はなった」
こんにちは。沮渠蒙遜の北涼に攻撃をかけ続けていた南涼が、夏や後秦から攻撃を仕掛けられ弱っていき、沮渠蒙遜にもチャンスがきました。410年の南涼の侵攻を撃退したのち、逆に姑臧を攻撃し、411年にはついに河西回廊の中心都市・姑臧を手に入れること
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑪ 北涼 vs 南涼3 沮渠蒙遜、姑臧を獲得
こんにちは。周囲を後秦、南涼、西涼と囲まれ苦しい領国経営を強いられてきた北涼の沮渠蒙遜ですが、407年あたりから追い風が吹き始めます。407年6月に半グレ国家・夏が劉勃勃(赫連勃勃)の手によって建国されると、華北西部の超大国・後秦の国境を荒
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑩ 北涼 vs 南涼2 夏が建国され沮渠蒙遜に追い風が吹き始める
こんにちは。403年に北涼が後秦に降伏したあと、姑臧周辺は、後秦、北涼、南涼の勢力が駆け引きを交えたやりとりを繰り広げます。406年から、姑臧エリアの南と北に勢力を張る、南涼と北涼が戦いをはじめます。(南涼は形式的には後秦の服属下にある)そ
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑨ 北涼 vs 南涼1 南涼の姑臧獲得
こんにちは。淝水の戦い後、河西回廊の盟主としてこの地を支配していた「老舗国家・後涼」が403年にその17年の寿命を終え後秦に降伏、滅亡しました。これにより、河西回廊周辺の勢力関係は新しい展開を迎えることになります。後涼の故地・姑臧周辺は後秦
こんにちは。401年に沮渠蒙遜が北涼の君主の座を奪い取ったあと、北涼国は滅亡まであと一歩のがけっぷちに追い込まれます。酒泉、涼寧の2つの郡が裏切り西涼につき、領土が張掖周辺の狭い範囲まで減ってしまい、周囲を西の西涼、東の後涼、南東の南涼と囲
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑦ 北涼が滅亡寸前になる
こんにちは。401年、沮渠蒙遜の鮮やかなクーデターにより、従兄で一緒に北涼を立ち上げた実力者・沮渠男成と、北涼君主の段業を一挙に倒し、北涼という国は名実ともに沮渠蒙遜のものになりました。沮渠蒙遜は6月に臣下たちに推されて、大都督、大将軍、涼
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑥ 華麗で冷酷なるクーデター 沮渠蒙遜、愉快な仲間たちを屠る
こんにちは。沮渠蒙遜が、段業、沮渠男成といった愉快な仲間たちと一緒に河西回廊の酒泉、建康周辺を領土に建国された北涼は、沮渠蒙遜の活躍もあり、後涼の首都で河西回廊の中心都市・姑臧がある武威郡との境にある西郡を攻略しました。次いで、河西回廊西部
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑤ 北涼から西涼が独立
こんにちは。五胡十六国時代、河西回廊の周辺では、後涼が反乱の連続で混乱に陥っていき、沮渠蒙遜たちの北涼が勢力を広げていきます。北涼は、398年沮渠蒙遜の活躍で西郡という河西回廊東部の要衝を抑えることに成功し、そのあと、張掖、晋昌、敦煌と、武
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜④ 北涼が後涼の混乱の最中に勢力を広げていく
こんにちは。383年の淝水の戦いの敗退によって、解体分裂が進んだ旧前秦領の中で、河西回廊は西域遠征から戻ってきた呂光が自立、姑臧(今の武威)を本拠に後涼を建国します。しかし、呂光は君主としては出来がよろしくなく、さらに高齢により耄碌、老害化
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜③ 沮渠蒙遜、愉快な仲間たちと国を作ってみた
こんにちは。河西回廊の覇権国家となる北涼の沮渠蒙遜(そきょもうそん)を書くこのシリーズですが、河西回廊の地理や歴史を2回にかけて説明したので、肝心の沮渠蒙遜が出てきません。しかし安心してください。今回からようやく登場します。河西回廊の魔法使
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜② 沮渠蒙遜以前の河西回廊
こんにちは。五胡十六国時代の英傑の一人、北涼の沮渠蒙遜を描くこのシリーズですが、前回の河西回廊の説明に続き、まだ本題に入れません。今回は、沮渠蒙遜登場前の河西回廊の歴史について、簡単に書きたいと思います。五胡十六国時代のおおまかな流れはこち
五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜① 舞台となる河西回廊とは?
こんにちは。しばらくブログ更新が滞りましたが、心を入れ替えて書いていきます。この前、五胡十六国時代後期の流れについて書いていたときに、北涼の実質上の建国者の沮渠蒙遜が(良い意味でも悪い意味でも)魅力的な人物であることがわかり、また舞台となる
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ⑩420年~439年 最終回:北魏の華北統一
こんにちは。前回、411年~420年を書きました。華北東部の北魏と北燕はこの時代はとくに大きな動きがありません。しかし、華北西部は、関中から河南まで領土を広げていた後秦が、東晋の劉裕によって滅ぼされてしまいます。東晋は、この一連の流れで洛陽
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ⑨411年~420年 夏の侵攻や、後秦の滅亡
こんにちは。前回までに、401年~410年までの五胡十六国時代後期の動きを、華北東部編華北西部編河西回廊まわり編に分けて書きました。華北東部では、北魏の河北侵攻により、後燕が割れて、後燕の北部分が遼西・遼東に逃れ、南部分が南燕を建国し山東に
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ⑧401年~410年 河西回廊まわり編:「涼」がたくさん
こんにちは。前回は、五胡十六国時代401年~410年までの華北西部の動きを書きました。後秦が名君・姚興の下、領土が最大まで広がりますが、407年にオルドスで赫連勃勃が夏を建国して自立し、409年には服属していた西秦も復活してしまい、河南方面
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ⑦401年~410年 華北西部編:北魏と後秦
こんにちは。前回、401年~410年の華北東部を書きました。後燕が北魏の攻撃により分裂し、北は後燕が滅び、北燕に取って代わられ、南は慕容徳が山東半島に南燕を建国しますが、東晋の劉裕に攻められ滅亡してしまいます。北燕は小国ながら領土をキープし
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ⑥401年~410年 華北東部編:燕たちが散っていく
こんにちは。前回の391年~400年は、東部と西部に分けて書きました。東部では、後燕が翟魏と西燕を滅ぼし、華北東部を制圧しますが、その後、参合陂の戦いで北魏に敗れ、慕容垂がその後一撃食らわしますが、その慕容垂が病没、北魏が後燕領内に侵攻、後
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ⑤391年~400年 西部編:前秦の滅亡と後涼の分裂
こんにちは。前回、五胡十六国時代391年~400年の華北東部の動きを書きました。翟魏と西燕が後燕に滅ばされ、その後燕と北魏が参合陂の戦いで激突、なんと後燕がボロ負けしてしまいます。後燕はそのあと慕容垂みずから軍を率い、北魏に殴り込みをかけ平
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ④391年~400年 東部編:後燕の華北東部制圧と北魏の大侵攻
こんにちは。淝水の戦いのあと、全国各地で各勢力が割拠をし、390年までに、後燕、西燕、翟魏、北魏、後秦、西秦、北涼、後仇池などの国が華北に建国されました。また、前秦は苻堅様死後、苻丕→苻登と君主が代わり、関中の地方政権まで領土を減らしながら
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ③386年~390年 激動の80年代
こんにちは。383年の淝水の戦いのあと、前秦に服属した各部族たちは、前秦が揺れているのを見ると、独立の動きを見せていきます。383年~385年にかけて、後燕、西燕、後秦、西秦、後仇池、後涼、代(北魏)などが建国、もしくは自立の動きを見せてい
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ②淝水の戦い後の群雄割拠
こんにちは。今回から五胡十六国時代後期の具体的な動きを書き始めます。以下、登場するプレイヤー(国)たちです。【関東エリア】西燕、後燕、南燕、北燕、翟魏【北の塞外エリア】夏、北魏【関中エリア】前秦、後秦【西の果てエリア】西秦、後涼、南涼、北涼
五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ①こんなふうに書く予定
こんにちは。以前このブログで五胡十六国時代の流れを書きました。そのときは、「淝水の戦い前後で、前期と後期に分けるとわかりやすい!」とし、書いていったのですが、ほぼほぼ前期の流れだけで、後期の流れは登場する国を羅列と、北魏の動きのみで終わって
この歴史(?)漫画がおもしろい! 「パリピ孔明」 現代日本に転生した諸葛亮孔明の知略がハンパね
こんにちは。今回は、最近読んでおもしろかった漫画を書きます。『パリピ孔明』(ヤンマガKCスペシャル) 四葉 夕卜 (原著), 小川 亮 (著)です。パリピ孔明(1) (コミックDAYSコミックス)この漫画、以前から名前は聞いたことはあったけ
五胡十六国時代 【前燕の歴史を簡単に書きました】 関連ブログへのリンクにもなっています。
こんにちは。前燕の歴史を書き終わりましたので、各ブログの目次・リンクを兼ねた前燕史の流れを書いときます。前燕の歴史の簡単な流れはここを読んでいただき、もう少し詳しく読みたい人は、各リンクからそれぞれのブログに飛んでみてください。また、五胡十
五胡十六国時代 前燕の落日㊳ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:前燕の都・鄴の陥落
こんにちは。潞川の戦いで30万の前燕軍を破り、返す刀で長駆、華北平原に進出、前燕の都・鄴を囲んだ王猛率いる前秦軍ですが、ここまでの戦況を前秦皇帝・苻堅様に報告します。苻堅様は、自軍の圧勝劇と、前燕を滅亡寸前まで追い込んでいる状況にウキウキア
五胡十六国時代 前燕の落日㊲ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:鄴城攻防戦へ苻堅様さっそうと登場
こんにちは。前燕の并州に攻め込んだ前秦軍は、またたくまに上党軍と太原郡を制圧し、鄴から30万の兵を率いて進軍してきた慕容評率いる前燕軍と潞川で対峙します。そして、王猛は、持久戦を指向する前燕軍総司令官・慕容評に対し、さらっと前燕軍の兵糧を焼
五胡十六国時代 前燕の落日㊱ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:「潞川の戦い」王猛と鄧羌のショートコント2からの前燕軍の崩壊
こんにちは。潞川で対峙した前秦軍と前燕軍ですが、前燕軍総司令官の慕容評は、前燕国内に遠征し深入りしている前秦軍を持久戦をもって疲弊させ撃退しようとします。しかし、持久戦をはじめたのに、慕容評の貪欲さゆえに、前秦軍より先に前燕軍の士気がだだ下
五胡十六国時代 前燕の落日㉟ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:「潞川の戦い」慕容評の大失敗
こんにちは。前秦が前燕に攻め込み、壺関と晋陽を陥落させたあと、鄴から進行してきた前燕軍30万と潞川の地で対峙しました。その対峙中に、総司令官・王猛と前秦No.1猛将の鄧羌が、おもしろショートコントを行います。軍法違反を侵した徐成を処断しよう
五胡十六国時代 前燕の落日㉞ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:「潞川の戦い」前のショートコント
こんにちは。王猛は、壺関をまたたく間に落とし、返す刀で攻略に苦戦していた晋陽に向かいます。楊安率いる前秦軍の攻撃に頑強に抵抗していた晋陽も、王猛の地下道を掘り城内に侵入するという策により、あっという間に陥落してしまいました。こうして、前燕の
五胡十六国時代 前燕の落日㉝ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:晋陽の陥落と、前燕軍の潞川到着
こんにちは。前秦が前燕に侵攻し、并州への攻撃をはじめました。前燕は、壺関の町と、壺関がある上党郡をあっさりと王猛に落とされ、国都・鄴への侵攻が現実味を帯びてくると、国中がガクガクブルブルに震えだします。前燕国内では、封孚と申胤が、前燕の滅亡
五胡十六国時代 前燕の落日㉜ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:封孚、申胤、戦況予報&東晋国内の動き
こんにちは。前秦軍は、370年6月に侵攻を開始、前燕領の上党郡・壺関と太原郡・晋陽を攻撃します。壺関は王猛指揮の軍の前にまたたく間に陥落し、上党郡も前秦に制圧されてしまいます。前燕も太傅・慕容評みずから30万の兵を率いて并州へ援軍に向かいま
五胡十六国時代 前燕の落日㉛ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:壺関と晋陽攻撃
こんにちは。慕容評の権力下にあって前燕は、桓温率いる東晋の北伐によるダメージ、慕容垂一族の前秦への出奔、慕容垂に近い臣の更迭、国内の社会矛盾、識者の意見を聞かずの国防の備えの怠り、などによる失政が続き著しく国力を落としていました。そのような
五胡十六国時代 前燕の落日㉚ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への本格侵攻はじまる:并州攻防戦
こんにちは。前秦が前燕の洛陽を攻撃したときに、同時進行で王猛は慕容垂親子を抹殺するための策を発動します。疑いつつも、王猛の張り巡らされた罠にはまり、慕容垂の息子・慕容令は、道案内役を務めていた前秦軍から脱出、対峙していた前燕の慕容臧の陣に逃
五胡十六国時代 前燕の落日㉙ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 慕容垂親子に王猛の魔の手が迫る
こんにちは。369年12月に王猛率いる前秦軍は、前燕領内に侵攻しました。前秦軍は洛陽盆地に侵入し、慕容築が守る洛陽城を包囲します。前燕も慕容臧に10万の兵を与え援軍に向かわせますが、王猛は梁成と鄧羌に兵を与え、慕容臧を迎え撃ちます。両軍は滎
五胡十六国時代 前燕の落日㉘ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 洛陽攻防戦
こんにちは。枋頭の戦いの時の援軍に対する、前燕・前秦間の約束事をしれっと反故にしようとした慕容評率いる前燕でしたが、当然そのような行為は許されるはずもなく、苻堅様と王猛に絶好の前燕侵攻の口実を与えてしまいます。369年12月、王猛率いる前秦
五胡十六国時代 前燕の落日㉗ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕侵攻
こんにちは。369年も終わりに迫ろうころ、鮮卑慕容部が建国し、華北東部を勢力におさめる、前燕という国は滅亡の危機が訪れていました。東晋の桓温の第三次北伐を、五胡十六国時代でも比類なき軍才を持つ、慕容垂の用兵でしりぞけた前燕でしたが、人傑(多
五胡十六国時代 前燕の落日㉖ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 滅亡前の前燕の国内状況
こんにちは。表向きは友好国の前秦による、前燕攻撃準備の臭いを嗅ぎ取った前燕の臣・梁琛や、皇甫真の再三に渡る警鐘を抜群のスルースキルでかわしていく慕容評でしたが、この男が全権を握っているあいだに、華北の強豪国・前燕の国内の状況は乱れに乱れてい
五胡十六国時代 前燕の落日㉕ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前燕の臣たちの状況分析2:皇甫真
こんにちは。慕容垂が出奔する前後、前秦では前燕への攻撃準備と思われる怪しい動きがポツポツ出始めています。表面上は、友好国として南の東晋に一緒に当たりましょう~的な関係で、東晋の桓温が第三次北伐の軍を発し前燕に攻め込んだときも(枋頭の戦い)、
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こんにちは。漢の支社長的な動きをしていた石勒ですが、本社の漢の非道なふるまいに怒り自立を考え始めます。漢はその年、国名を「趙」とあらためます。(前趙の成立)石勒は長江を渡り北伐してきた東晋の祖逖と河南・淮水流域エリアで戦いをはじめます。その
こんにちは。317年、江南では司馬睿が晋王に即位し、「東晋」が成立。(318年に皇帝に即位)また、漢ではご乱心ぎみの皇帝・劉聡が死去し、劉粲が即位しますが政治を顧みず、悪臣・靳準によって殺されてしまいます。靳準は首都・平陽にいた劉氏の一族を
こんにちは。河北で勢力を広げていた石勒は、316年に晋の残党勢力の一人・劉琨を攻撃します。劉琨も今はなきマブダチ・拓跋猗盧の残党軍を使い迎撃しますが、石勒の前に敗退、劉琨が治めていた并州北部のエリアは石勒に降っていき、劉琨は段部の段匹磾の元
こんにちは。洛陽を漢によって奪われたあとも各地にその勢力を残し、漢をはじめとした対抗勢力と戦っていた晋ですが、関中の長安で皇帝になっていた司馬鄴(愍帝)が、316年漢の劉曜によって捕らえられ長安が陥落し、晋(西晋)は滅亡ということになってし
こんにちは。314年、石勒は目の上のたんこぶ的に幽州で割拠していた王浚を「へりくだり戦略」で打倒し、薊を中心としたエリアを獲得します。しかし、物事はそうはうまくはいかないらしく、薊の守将に任命した劉翰が鮮卑・段部の段匹磾に帰順してしまったり
こんにちは。久しぶりに日本の城のことを書きます。昨年(2021年)末に久しぶりに城攻めをした滝山城を忘れないうちに書いておきます。新型コロナ以降、城巡りができていませんでしたが、たまたま仕事で行ったところの近くに滝山城がありましたので、急遽
こんにちは。石勒は、王浚からの使者へ自分の勢力がたいして振るっていなさそうな様子をわざと見せ、みずからは王浚尊敬万々歳であることを猛アピールします。これにより王浚からの使者をだまし、さらに王浚を油断させることに成功します。また、王浚の元に使
こんにちは。石勒は幽州を中心に勢力をはっていた王浚を打倒しようと思いますが、どのようなスタンスであたっていくか、なかなか方針が決まりませんでした。そこで、張賓に相談したところ、驕り高ぶる王浚に対し下手に出て、信じ込ませたほうがよいという意見
こんにちは。312年以降石勒は、幽州を本拠とする晋の王浚と河北の覇者の座をかけ争います。王浚の尖兵・段部を撃破した石勒は、人質にした段末柸を懐柔し、段部全体も王浚につくことをやめます。石勒はこのあとも河北、河南に勢力を伸ばし、逆に王浚からは
こんにちは。312年石勒は襄国を本拠にし、河北経略に入っていきます。石勒の河北での最大の敵は幽州に本拠を置く晋の王浚です。(この時点では軍閥化している)12月に石勒と王浚の戦いは始まります。王浚は自勢力の主攻、段部を襄国へ向けて進発させます
こんにちは。312年、南方のツアーを切り上げ、河北に戻って来た石勒は張賓の計に従い、鄴の攻略をひとまずスルーし、その北にある襄国に入りそこを本拠と定めます。このあと河北の経略に進んでいく石勒ですが、当時の河北エリア(大きく黄河の北として)は
こんにちは。312年に自分の進むべき道を見つけた石勒は、「右侯」張賓の示した戦略に沿って動き始めます。寿春で対峙していた晋軍の追撃も、大きなダメージを受けることなく振り切り、黄河の北を目指して進軍をはじめます。ここから第三部「石勒の河北争奪
こんにちは。311年に漢が晋の首都・洛陽を陥落させた前後あたりから、石勒は淮水南北あたりをウロウロと自分探しを続けていました。(その最中、心のなかでは嫌っていた同僚の王弥を暗殺しその勢力を併合したりもしています。)漢の主力も洛陽を落としたあ
こんにちは。漢が晋の首都・洛陽を落としたあと、石勒は河南~淮水周辺~江北あたりをフラフラと自分探しをしていました。そのあたりは、晋の残党や、石勒の同僚の王弥もフラフラと存在していましたが、石勒はまず晋の苟晞を攻撃してこれを捕らえることに成功
こんにちは。首都・洛陽陥落&皇帝拉致以降、晋は皇族や重臣が各地で行台(臨時の役所)を立ち上げ、漢に対抗をしようとしていました。しかしそんな中、漢は関中への侵攻を行い、長安を陥落させることに成功をします。東西の重要な都城を落とされた晋はこのあ
こんにちは。晋は、重鎮で八王最後の生き残りの司馬越が晋国内各方面から嫌われ、挙句の果てに病死してしまいます。その司馬越から後事を託された王衍も、直後の司馬越の葬儀を石勒に襲われ、情けない最後を見せてあっさり死亡。晋の皇族・重臣も石勒に殲滅さ
こんにちは。漢は劉聡がクーデターにより即位したあとも、国家戦略である対晋戦争と洛陽攻撃を継続していきます。310年10月には、第三次洛陽攻撃を行いますが、諸将の連携があまり取れていないようで、またしても洛陽陥落には至りませんでした。晋サイド
こんにちは。劉淵の漢の対晋戦争は、様々なエリアで晋軍を打ち破る戦果を挙げながらも、晋もまだまださずがの統一王朝の粘り腰を見せ、漢の洛陽攻撃を2回にわたり跳ね返すなどします。石勒も河北エリアで晋軍と戦闘を継続しています。このころになると、全国
こんにちは。劉淵の漢は、劉聡を中心に南方方面の経略を進めていき、石勒を中心に東方方面の経略を進めていきました。そして、南方方面では、劉聡率いる漢軍の主力が、晋の帝都・洛陽への攻撃をいよいよ開始しました。しかし、この洛陽攻撃は第一次、第二次と
こんにちは。309年に劉淵率いる漢は南方への進出に力を入れていきます。南への交通に優れる平陽への遷都、黎陽など黄河北への進出、并州上党郡の壺關の攻略など、次々と南方経略を進めていきます。また、劉淵から東方経略をまかせられていた石勒も、経略を
こんにちは。漢の支社長的な動きをしていた石勒ですが、本社の漢の非道なふるまいに怒り自立を考え始めます。漢はその年、国名を「趙」とあらためます。(前趙の成立)石勒は長江を渡り北伐してきた東晋の祖逖と河南・淮水流域エリアで戦いをはじめます。その