こんにちは。漢の支社長的な動きをしていた石勒ですが、本社の漢の非道なふるまいに怒り自立を考え始めます。漢はその年、国名を「趙」とあらためます。(前趙の成立)石勒は長江を渡り北伐してきた東晋の祖逖と河南・淮水流域エリアで戦いをはじめます。その
中国史・日本史・世界史 歴史について知りたいことを調べるブログ 中国史(三国志・五胡十六国時代・・・)& 日本史(戦国時代・城・武田信玄・毛利元就・・・) などなど
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第四部「後趙建国」① 319年~ 石勒、ついに自立する
こんにちは。317年、江南では司馬睿が晋王に即位し、「東晋」が成立。(318年に皇帝に即位)また、漢ではご乱心ぎみの皇帝・劉聡が死去し、劉粲が即位しますが政治を顧みず、悪臣・靳準によって殺されてしまいます。靳準は首都・平陽にいた劉氏の一族を
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑨ 317年~318年 司馬睿の即位と漢の内乱
こんにちは。河北で勢力を広げていた石勒は、316年に晋の残党勢力の一人・劉琨を攻撃します。劉琨も今はなきマブダチ・拓跋猗盧の残党軍を使い迎撃しますが、石勒の前に敗退、劉琨が治めていた并州北部のエリアは石勒に降っていき、劉琨は段部の段匹磾の元
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑧ 316年 石勒の并州攻撃
こんにちは。洛陽を漢によって奪われたあとも各地にその勢力を残し、漢をはじめとした対抗勢力と戦っていた晋ですが、関中の長安で皇帝になっていた司馬鄴(愍帝)が、316年漢の劉曜によって捕らえられ長安が陥落し、晋(西晋)は滅亡ということになってし
石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」⑦ 314年~316年 西晋の滅亡
こんにちは。314年、石勒は目の上のたんこぶ的に幽州で割拠していた王浚を「へりくだり戦略」で打倒し、薊を中心としたエリアを獲得します。しかし、物事はそうはうまくはいかないらしく、薊の守将に任命した劉翰が鮮卑・段部の段匹磾に帰順してしまったり
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こんにちは。漢の支社長的な動きをしていた石勒ですが、本社の漢の非道なふるまいに怒り自立を考え始めます。漢はその年、国名を「趙」とあらためます。(前趙の成立)石勒は長江を渡り北伐してきた東晋の祖逖と河南・淮水流域エリアで戦いをはじめます。その
こんにちは。317年、江南では司馬睿が晋王に即位し、「東晋」が成立。(318年に皇帝に即位)また、漢ではご乱心ぎみの皇帝・劉聡が死去し、劉粲が即位しますが政治を顧みず、悪臣・靳準によって殺されてしまいます。靳準は首都・平陽にいた劉氏の一族を
こんにちは。河北で勢力を広げていた石勒は、316年に晋の残党勢力の一人・劉琨を攻撃します。劉琨も今はなきマブダチ・拓跋猗盧の残党軍を使い迎撃しますが、石勒の前に敗退、劉琨が治めていた并州北部のエリアは石勒に降っていき、劉琨は段部の段匹磾の元
こんにちは。洛陽を漢によって奪われたあとも各地にその勢力を残し、漢をはじめとした対抗勢力と戦っていた晋ですが、関中の長安で皇帝になっていた司馬鄴(愍帝)が、316年漢の劉曜によって捕らえられ長安が陥落し、晋(西晋)は滅亡ということになってし
こんにちは。314年、石勒は目の上のたんこぶ的に幽州で割拠していた王浚を「へりくだり戦略」で打倒し、薊を中心としたエリアを獲得します。しかし、物事はそうはうまくはいかないらしく、薊の守将に任命した劉翰が鮮卑・段部の段匹磾に帰順してしまったり
こんにちは。久しぶりに日本の城のことを書きます。昨年(2021年)末に久しぶりに城攻めをした滝山城を忘れないうちに書いておきます。新型コロナ以降、城巡りができていませんでしたが、たまたま仕事で行ったところの近くに滝山城がありましたので、急遽
こんにちは。石勒は、王浚からの使者へ自分の勢力がたいして振るっていなさそうな様子をわざと見せ、みずからは王浚尊敬万々歳であることを猛アピールします。これにより王浚からの使者をだまし、さらに王浚を油断させることに成功します。また、王浚の元に使
こんにちは。石勒は幽州を中心に勢力をはっていた王浚を打倒しようと思いますが、どのようなスタンスであたっていくか、なかなか方針が決まりませんでした。そこで、張賓に相談したところ、驕り高ぶる王浚に対し下手に出て、信じ込ませたほうがよいという意見
こんにちは。312年以降石勒は、幽州を本拠とする晋の王浚と河北の覇者の座をかけ争います。王浚の尖兵・段部を撃破した石勒は、人質にした段末柸を懐柔し、段部全体も王浚につくことをやめます。石勒はこのあとも河北、河南に勢力を伸ばし、逆に王浚からは
こんにちは。312年石勒は襄国を本拠にし、河北経略に入っていきます。石勒の河北での最大の敵は幽州に本拠を置く晋の王浚です。(この時点では軍閥化している)12月に石勒と王浚の戦いは始まります。王浚は自勢力の主攻、段部を襄国へ向けて進発させます
こんにちは。312年、南方のツアーを切り上げ、河北に戻って来た石勒は張賓の計に従い、鄴の攻略をひとまずスルーし、その北にある襄国に入りそこを本拠と定めます。このあと河北の経略に進んでいく石勒ですが、当時の河北エリア(大きく黄河の北として)は
こんにちは。312年に自分の進むべき道を見つけた石勒は、「右侯」張賓の示した戦略に沿って動き始めます。寿春で対峙していた晋軍の追撃も、大きなダメージを受けることなく振り切り、黄河の北を目指して進軍をはじめます。ここから第三部「石勒の河北争奪
こんにちは。311年に漢が晋の首都・洛陽を陥落させた前後あたりから、石勒は淮水南北あたりをウロウロと自分探しを続けていました。(その最中、心のなかでは嫌っていた同僚の王弥を暗殺しその勢力を併合したりもしています。)漢の主力も洛陽を落としたあ
こんにちは。漢が晋の首都・洛陽を落としたあと、石勒は河南~淮水周辺~江北あたりをフラフラと自分探しをしていました。そのあたりは、晋の残党や、石勒の同僚の王弥もフラフラと存在していましたが、石勒はまず晋の苟晞を攻撃してこれを捕らえることに成功
こんにちは。首都・洛陽陥落&皇帝拉致以降、晋は皇族や重臣が各地で行台(臨時の役所)を立ち上げ、漢に対抗をしようとしていました。しかしそんな中、漢は関中への侵攻を行い、長安を陥落させることに成功をします。東西の重要な都城を落とされた晋はこのあ
こんにちは。晋は、重鎮で八王最後の生き残りの司馬越が晋国内各方面から嫌われ、挙句の果てに病死してしまいます。その司馬越から後事を託された王衍も、直後の司馬越の葬儀を石勒に襲われ、情けない最後を見せてあっさり死亡。晋の皇族・重臣も石勒に殲滅さ
こんにちは。漢は劉聡がクーデターにより即位したあとも、国家戦略である対晋戦争と洛陽攻撃を継続していきます。310年10月には、第三次洛陽攻撃を行いますが、諸将の連携があまり取れていないようで、またしても洛陽陥落には至りませんでした。晋サイド
こんにちは。劉淵の漢の対晋戦争は、様々なエリアで晋軍を打ち破る戦果を挙げながらも、晋もまだまださずがの統一王朝の粘り腰を見せ、漢の洛陽攻撃を2回にわたり跳ね返すなどします。石勒も河北エリアで晋軍と戦闘を継続しています。このころになると、全国
こんにちは。劉淵の漢は、劉聡を中心に南方方面の経略を進めていき、石勒を中心に東方方面の経略を進めていきました。そして、南方方面では、劉聡率いる漢軍の主力が、晋の帝都・洛陽への攻撃をいよいよ開始しました。しかし、この洛陽攻撃は第一次、第二次と
こんにちは。309年に劉淵率いる漢は南方への進出に力を入れていきます。南への交通に優れる平陽への遷都、黎陽など黄河北への進出、并州上党郡の壺關の攻略など、次々と南方経略を進めていきます。また、劉淵から東方経略をまかせられていた石勒も、経略を
こんにちは。317年、江南では司馬睿が晋王に即位し、「東晋」が成立。(318年に皇帝に即位)また、漢ではご乱心ぎみの皇帝・劉聡が死去し、劉粲が即位しますが政治を顧みず、悪臣・靳準によって殺されてしまいます。靳準は首都・平陽にいた劉氏の一族を