ワインにまつわる欧米の歴史がメインテーマです。
ワインは三つの要素で出来上がっている。テロワール/セパージュ/生産者だ。そして実はもうひとつ、大きな要素がある。それは歴史だ。歴史を識らずしてワインを語るのは空疎だ。
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少年時代から母とともにナダールの写真館を手伝っていた愛息ポールは成人すると、めきめきと写真師としての腕を挙げた。写真技術が猛烈な勢いで発達した時期でもある。新…
セーヌ川を赤く染めたティエールは一度だけの大統領で終わった。政争に敗れ1873年退任。道半ばで、彼の政治生命は尽きた。そして失意のうちに4年後の1877年81…
50才になったナダールは、動乱の中で息をひそめていた。 プロイセン軍と戦うために従軍したナダールだが、コミューンには名を連ねてはいない。…
1871年5月21日、パリ側の内通者の手配でティエールの「正規軍」はパリへ突入した。戦いは凄惨を極めた。パリ市民側は女性子供老人…
プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く「帝政ドイツ」と、名と姿を換えた旧プロイセン軍がパリへ入城したのは1872年3月1日。シャンゼリゼを行進した。人々は黒旗を掲げ…
1870年秋。ナポレオン三世失墜/共和政臨時政府へ政権が移行したのちもプロイセンとの戦争は続いた。臨時政府が、プロイセン/ビスマルクが提示した休戦協定の条件で…
1870年9月3日。ナポレオン三世がプロイセン軍に敗れ、捕虜になった知らせを聞いた時、妻ウジェニー皇后が烈火のごとく怒った。 「なぜ自決…
ナダールが撮影した航空写真は人々を驚かせた。新聞も雑誌も挙ってそれを掲載した。ナダールは有頂天になった。そして撮影した写真をゴンドラの中で現像し、着陸したらそ…
たった一回の飛行でナダールは気球に魅せられた。帰宅すると若い妻エルネスティンに熱く空の事を語った。 「写真を撮るんだ。誰も見たことのない…
18世紀ブルボン朝まで、パリの人口は10万人前後だった。産業は市政と港湾事業である。セーヌ川は古くから輸送ルートとして活動しており、パリは内陸部にあるフランス…
ナダールが自宅(113 Rue Saint-Lazare)で写真アトリエを起こしたのは1854年2月。実は『パンテオン・ナダール』が発表したのは同年3月なので…
ふとした思い付きから制作を手掛けた『パンテオン・ナダール』だった。たしかに猛烈な評判にはなった。しかし商売としてはコケた。多数のスタッフを雇い、250名の肖像…
大衆に支持され大統領となったルイ・ナポレオンは、人々に皇子大統領Prince-presidentと呼ばれた。民が、烏合の衆である共和党勢によ…
5才年下の毒弟エイドリアンAdrienがナダールを頼ってパリへ出たのは20才の時だった。このときからナダールは、この出来の悪い弟を生涯背負うことになる。ナダー…
1848年12月10日第二共和政の下、大統領戦が始まった。候補は、臨時政府首魁カヴェニャック将軍を筆頭に、共和派のラマルティーヌとルドリュ=ロラン、獄中から立…
ナダールの義勇軍行軍は参戦もないまま終わった。ナダールは追われるようにパリへ戻った。しかしナダールは挫折しなかった。これがまた彼らしいところだろう。街へ戻ると…
ナダールは、父の血を継いだ熱烈な共和主義者だった。聊か軽いところはあったが自由を信奉する熱い血を持っていた。飄々と溌剌と世間を渡り歩く彼に好感を持つ人は多かっ…
ナダールの育った1820~1837年は、欧州全体が次代に向けて大きく激動した時代だった。 シャルル10世がアルジェリアで惨敗、七月革命が…
ナダールは、その自伝の中で、父ヴィクトルを経営者でいるにはあまりにも夢想家だったと書いています。揶揄ではない優しい視線で、そう書いている。 …
グーテンベルクGutenberg(1398年-1468年)による"知識の開放"が大きく花開いたのは、印刷機の性能が安定化し大量印刷が可能になった1500年代後…
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