ヨハネの黙示録 21:8しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。 おくびょうな者とは、悪に抵抗しない人のことです。
一人でも多くの人がイエスを信じて救われますように
天国や地獄について生き生きと語り、聖書本来の教えを皆と共有していきたい。
ヨハネの黙示録 21:8しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。 おくびょうな者とは、悪に抵抗しない人のことです。
「救い」とは、地獄に堕ちる運命から、助けていただくことです。地獄行きを免れることを、「救い」と言うのです。もし地獄が存在しないのなら、あるいは地獄へ行く人がいないとしたなら、「救い」ということは、なかったはずです。しかし聖書によれば地獄は存在し、またそこへ行く人も存在するため、「救い」が、全人類に必要なのです。
イエスご自身が天国について「父のみむねを行うものだけが入るのだ」と言っておられるのだから、行いが重要だということに何の疑いを挟む余地もない。もし「信仰によってのみ天国に入るのだ」とイエスが言っている箇所が聖書にあるのであれば、それをわたしに教えていただきたい。それとも、行いが必要ないと言う人たちは、イエスの言葉を無視してでも、ルターの「信仰義認」を信じたいということなのだろうか? ヤコブの手紙 2:16~17あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行い…
この世界は危険に満ちている。そのため、人はセキュリティに対して関心を払うでしょう。この世界を去るとき、人は地獄に落ちる可能性がある。これは、私たち人にとって、とんでもない不利益です。だから、注意する必要があります。会社で使う仕事上のパスワードや個人情報等の漏洩には気をつけねばなりません。しかし、何よりも、もっともセキュリティに気をつけなければいけないことは何でしょう。それは神を侮ることです。神を侮ることが、もっとも危険なことです。なぜなら神は、人を地獄で滅ぼすことがお出来になるお方だからです。生きている間は、神は忍耐をしてくださっていますが、罪にまみれた状態のまま死んでしまったなら、もはや手遅…
■ルカによる福音書16:10「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」自分には「姦淫」がなぜいけないのか、恥ずかしいことに、この年齢になるまで理解できなかった。つまり、男女間の恋愛に不忠実な人は、神との関係においても不忠実だと見なされる。 それゆえ、姦淫をおこなってはいけないのだろう。 イエスは花婿にたとえられ、信者の集まりである教会は花嫁にたとえられている。この関係は聖なるものでなくてはならないのだろう。
ルカ16章12節「また、他人のものに忠実でなければ」と書いてあります。ですから、レンタルしている物について、あるいは他人と共有している物について考えてみたいと思います。これらを大切に扱うことは、わたしたちが考えている以上に重要なことです。「他人のもの」というのは、聖書によれば、わたしたちの体もそうなのです。聖霊の宮だからです。結局、すべては神のものであり、わたしの所有物ではないため、私たちには管理人としての忠実さが求められるわけです。もし、その忠実さがなければ、主人から「あなたには何も託せない」と判断されてしまうに違いありません。借りた物を大切にすること。このことがわたしたちの人生において、非…
■マタイによる福音書 5:18~20よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。このイエスの言葉によれば、律法を破ったり、破るように人に教えたりする者は天国で最も小さい者と呼ばれるのです。だから、律法を破ったり、…
The Narrow Door 読者の何かのヒントになればという気持ちで、私ダニエルが訳してみました。日本語の聖書では、「狭い戸口」と訳されることが多い箇所についてです。ここは、「救われる者は少ないのですか?」と質問されて、イエスが答えている場面です。どこかの、誰かのお役に立てますように。Luke 13:22-27あらゆる努力を尽くして、入りにくいドアを通って入れ。“Make every effort to enter through the narrow door,努力が必要な理由を言っておく。多くの人が、入ろうと試みては失敗するからだ。because many, I tell you, w…
ルターの言う「信仰義認」は、足りない考え方です。 神への信仰で救われるというのは、その通りです。 しかし、一切のおこないが必要ないのではありません。 それは、聖書を読めばわかることですし、あまりに様々な箇所で書かれているため引用はしません。 聖書のそこらかしこに、おこないの重要性が書かれているからです。 確かに、人が自分で考えて、様々なおこないを良かれと思ってすることは間違いです。なぜなら、それは自分を誇ることに繋がるからです。 しかし、神の御心をおこなうことは重要です。 ルターの「信仰義認」には、「聖霊」によるおこないのことが抜け落ちています。 信仰があるなら、聖霊とともに生きているので、聖…
「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)羊が、イエスの兄弟である最も小さい者たちのひとりにしたことは、「イエス」本人にしたことになります。なので、「イエスにしたことと同様だ」というようなことではありません。気をつけてください。ここを比喩や例えだと捉えると、とんでもなく間違えてしまいます。イエスの兄弟である、最も小さい者の中に『イエスが共に住んでおられる』ことを信じてください。これらの最も小さい者が苦しんでいるときには、共に住むイエスも苦しんでいるのです!! だから、わたしたちのような者であってもイエスを助けることが出来る、と…
マタイによる福音書 24:6「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。」イエスご自身が戦争について「起らねばならない」と言っておられるのに、戦争反対とか言っている人たちは、いったい何なのか?神やイエスを信じない人であるならば、それも仕方ないと思えるが、教会内にも一定数こうした考えを持つ人たちが存在している。戦争を、人間の理性や知性で回避できると考える人たちが。戦争は神のご意志が関わっているから勃発するのであって、人間の力でどうにか出来ると考えること自体が大変に不敬な態度です。神は「万軍の主」なのであって、よろず…
マタイによる福音書 25:1~13そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてくださ…
イエスが言う「わたしの兄弟」とは、どのような人たちのことでしょうか。聖書にはどのように書かれているのか、一緒に確認してみましょう。 まずは、以下の聖句からです。【マタイによる福音書25:31~40】「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲…
マタイによる福音書 25章 この章でイエスが語られている内容は、すべてのキリスト信者と、ユダヤ人に対してです。 彼らの群れが二分割される、ということが語られているのです。つまり、神を信じる者に2種類ある、ということが語られています。・10人の乙女は5人づつに別けられる。・タラントを増やした僕と、そのままにした僕とで別けられる。・羊とヤギとで別けられる。(イエスの兄弟に対しての行いが分割の基準) あまり、ここの章について詳しく解説したくない気がするので、当ブログでは解説はいたしません。ざっくり言えば、この章が一貫して訴えていることは「行いの伴わない信仰は死んだものである」ということです。そして、…
■マルコによる福音書 10:48~52 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、 「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。 そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。 そこで彼は上着を脱ぎ捨て…
聖霊にしたがって、日々の生活をおこなうのです。 前提として、「自分は死んだ」という自覚を持つのです。 自分は生きていないのだ。だから、 わたしは罪を犯すことができない。 なぜなら、もう死んでいるのだから。 罪を犯すことも出来なければ、自分が良いと思うことすら出来ない。 すでに、死んでいるのだから。 自分の思い、いわゆる「肉の思い」が沸き上がってくるとき、 これを、その都度、十字架につけて殺す必要がある。 この体は聖霊のご意思に従わせることにのみ使用するものだということを 納得して受け入れる。そのためにだけ、自分の意志は使うのです。 この体は、自分の体だと思いこんでいた。長い間、思い込んでいた。…
人は神の奴隷になるか、罪の奴隷になるか、二つに一つの選択肢しかないのですが、このことに気付いていない人が多いのです。 自主的に生きられる、という幻想をサタンにより信じ込まされているからです。ちなみに、最初にこの嘘に騙された人類は、エバとアダムです。 自主的に生きている、何も信じていない、という人が、一般的には多いと思いますが、その状態は、自分を崇めていることになるので、サタンの奴隷、つまり罪の奴隷です。これがサタンによる狡猾な罠であり、ほとんどの人は、この罠に捉えられています。 言うも恐ろしいことですが、その状態の人は「神の敵」です。神が怒りを持って、滅ぼすべき対象なのです。サタンと同類だから…
■狭い門から入りなさい。 滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。 そして、そこから入って行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 (マタイの福音書7章13節―14節)(新改訳) 多くの人は、なんとなく神のところに行けると思っています。 あるいは、自己努力を通して神のところへ行こうとします。神の奴隷になっていないからです。 門を見いだす者とは、羊のように従順についていき、気づいたら門の前にいた、というような感じでしょうか。 イエスは「わたしが道であり、・・・」と言われました。従って、 イエスに従う者、つまりイエスの戒めを守る者が、狭い道を歩ん…
怒れる神の御手の中にある罪人 - Wikisource
■ - 救いと血とイエス・キリスト
Build についてこの Build という英語の言葉は、「家」を建てるときだけに使う言葉ではないようです。もともとは、石を積み重ねて大きな建造物を建てるときに使われる言葉です。 日本語の聖書のように、Build を「家」づくりと決めつけてしまうと、本来の意味がわからなくなりますね。さて、Build だけでは何を建てているのかがわからないため、前後の文章から読み解いていきます。 The stone which the builders rejected, the same is become the head of the corner: this is the Lord's doing, a…
聖書によれば、クリスチャンになったからといって救いが決定するわけではないことが読み取れます。 もちろん、その人がクリスチャンであるかどうかの基準は、その人が洗礼を受けているかどうかです。 例: ◯わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。 ◯兄弟に対して『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる
イエスを信じるとは、すなわち、イエスの言われた掟を守ることです。
イエスが言われたことを、そのまま実行したことが、その人がイエスを信じていたと言うエビデンス(証拠)になるのです。 日本のネット界で有名な牧師の言っているようなこと、「信じているならば行いは関係がない」と言うような理屈は、神の前で通用するでしょうか? 信じていたかどうかは、その人の果実、つまり行動で判断されるのです。 実がなっていない木は切り倒されます。 イエスは何度も、このような例えを語っておられます。 信じているのだから、それでいいのだ、というような考え方は危険です。行動が伴わなければ、神から滅ぼされる可能性があります。 人は誰でも死後に裁き(裁判)を受けると、聖書に書いてあるではありません…
神はすべてを作られた方であって、あまりにも偉大であり、あまりにも恩のあるお方です。 しかし、私たちはクリスチャンでありながら、1日のほとんどを別のことを考えて過ごしていることが多くないでしょうか。 神は、自分の親よりも、自分の兄弟よりも、自分の伴侶よりも恩があり、全身全霊をもって愛するべきお方です。 しかし、私たちは、この世の中の多くのことを愛していますが、神のことについては、あまり気にとめていないかもしれません。 アイドルや、ディズニーランドや、音楽や、美味しい食べ物や、趣味であるとか、色んなことを愛しているのですが、神のことはこれっぽっちも、あるいは、ほんのちょっぴりしか愛していないのです…
マタイによる福音書 5:25~26 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。 そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。 ここの聖句は、直前にある22節「兄弟に対して怒る者は・・・」からの流れで語られているため、訴える者とは「兄弟」であると考えるのが自然だと思います。 ■ダニエルによる訳 あなたが教会の兄弟に訴えられている時には、自分が死んでしまう前に、早いうちに仲直りをしなさい。 そう…
神の国が完成したなら労働はなくなると思われます。 なぜなら労働は、以下の聖句にあるように、アダムが罪を犯した故にこの世に登場したからです。 お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。(創世記:3:19) 平安、安寧、平和 これが天の国です。 天国での食事は、神の口から出るひとつひとつの言葉です。 動植物の血を流して、抜け殻になった体(肉体)を食べなくても生きていけるようになるはずです。 なぜなら、天国には罪がないからです。 これについて詳しい説明が必要であれば答えますので、どうかコメントをください。
天幕の中でぶどう酒に酔い、寝てしまったのはわかります。しかし、なぜ裸(下半身を出していたものと思われます)だったのでしょうか?ノアが酔っぱらった際に、自らパンツを脱いだのでしょうか?それとも酔っぱらって寝ているのをよいことに、誰かに脱がされたのでしょうか? 聖書には、このことが明確には記述されていません。しかし、目が醒めたノアがカナンに対して激怒したことは描かれています。ちいさな息子(よりヘブライ語に近い意味では末の子ではないらしい)であるカナンが「何かをした」ことは間違いがないのです。 さて、同じ創世記に、やはりノアと同じようにぶどう酒に酔い、寝ている間にとんでもないことをされた人物がいます…
死んだ後には、地獄か天国しか行く場所はない、と主張するクリスチャンは大勢います。彼らは、聖書にはそのように書かれている、と主張します。 では、次のイエスの言葉にある「獄」とはどこのことですか? 最後の一コドラントを支払い終えたら出てこられる「獄」とはどこのことですか? あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。(マタイによる福音書:5章: 25~2…
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」 (黙示録1:17~18) 主イエスは天国の鍵をペテロに預けられましたが、死と陰府の鍵はイエスご自身が持っておられるようです。
「だれでも神の御霊に導かれている人たち、その人たちが神の子どもたちであるからです」 (ローマ人への手紙8・14) このように、神の子どもとは、神の御霊に導かれている人のことです。 洗礼を受けて信者になれば神の子どもになるのでもなく、生まれながらに誰もが神の子どもなのでもありません。 神の御霊の言うことを聞いて、そのとおり行動する人が、神の子どもです。 子どもは親の言うことを聞くものです。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。 (ヨハネによる福音書 3:8) まず、風に「思い」があるとイエスが言っていることに着目しようと思う。 風は適当に吹いているわけでも、何かの制約に従って吹いているわけでもなく、風自身の「思いのまま」に吹いているということです。 風、つまり聖霊には「意思」がお有りになり、きちんとどこかに向かって吹いている。 そして、わたしたち人間には、それがどこに向かっているのかがわからない。 わたしたち人間の大多数の人は、こうしたことを普段考えないで生きている。 だから、自分の意志…
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 新共同訳では「地は混沌」口語訳では「地は形なく、むなしく」どうしてこれほども訳の内容が異なっているのか僕にはわからないのですが、それぞれ見ていきましょうか。「地は混沌」と言うのだから、おそらく天は混沌ではないものと思われます。地には闇もいれば、神の霊も働いています。「地は形なく、むなしく」というのだから、まだカチーンとした物体ではなかったようです。そもそも創造の時点では地は水浸し状態で、乾いた地面はなかったのですから。いつから形が形成されて、密度が濃くなったのかは僕にはわかりません。
神が天地創造されたのですが、聖書には「地」の説明はあるが「天」の説明がなされていないことについて、聖書のみ言葉から理由を見てみたいと思います。 ■知恵9・16地上のことでさえかろうじて推し量り、手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。 ■ヨハネによる福音書 3:12わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 つまり、我々は「地」のことだけでも精一杯なので、「天」のことなど到底推し量れないということのようです。 このように、聖書には「天」がどれほど素晴らしいところなのかについ…
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:1~2 新共同訳) 神は天地を創造されました。この後からは地の説明に入り、天のことは何故か語られません。 神が地を創造された段階では、地は秩序のない雑多な状態だったようです。 神が地を創造された段階で、すでに「闇」が地に存在しています。 (まだ光が存在する以前から、闇があった) 神が地を創造された段階で、すでに「水」が地に存在しています。 (水と神の霊とは密接な関係にあるものと推測できます。物質でこの時に存在しているのは水くらいではないでしょうか) 「闇」と「神の霊」は、それぞれ自分の居…
信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタイによる福音書6:30(一部抜粋)~6:32) 「何を食べようか」と思い悩むことは、人であるなら普通にあることだと思います。 誰でも一度や二度は、このような場面が人生の中であったであろうと思います。 それではなぜ、イエスはそれについて「思い悩むな」と言われたのだと思いますか? 実は、「思い悩む」という行為は、信仰がないということの証になってしまうようです。 どういうことか…
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 行いの悪さに応じて、神から受け取るマイナスの報酬も3段階になっています。 ■第一段階(LEVEL.1) 兄弟に腹を立てる → 誰でも裁きを受ける。 ■第二段階(LEVEL.2) 兄弟に『ばか』と言う → 最高法院に引き渡される ■第三段階(LEVEL.3) 兄弟に『愚か者』と言う → 火の地獄に投げ込まれる 兄弟というのはクリスチャン仲間と考えるのが一般的だと思いますが、もしかするとここにユダヤ人が含まれるかもしれないと僕は考えま…
イエスよ。あなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください
ルカ福音書における、この部分の意味は、ユダヤ人以外には非常にわかりずらいので解説いたします。 そして、「イエスよ。あなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ福音書23:42~43) イエスと共に十字架につけられたこの男はユダヤ人の政治犯であるといわれる。ローマに反逆を企てた者をみせしめにするための刑が十字架刑だからだ。 つまり、他のユダヤ人たちよりも、よりいっそう王国を待ち望む気持ちが強かった人のはずだ。この男は、自身の発言からわかるようにイエスを王であると認めている…
『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい』そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」(マタイ16:1-12)。 神の御言葉は、聖書ではしばしばパンに例えられます。 パン種とは、宗教関係者が御言葉に混ぜて入れ込む「パンではないもの」のことであり、それはあたかもパン種とそっくりな性質を持っているのです。 どういうことかというと、 パン種とはイースト菌に代表されるように、パンの生地に入れ込むものです。 このパン種を入れたパンは、大きさが増し、やわらかさが増し、口当たりが良くなって食べやすくなるの…
だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
■マタイによる福音書 5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 教条主義というのか、あるいは規則を守ること自体が正しいと考える人たちというのは、心の中で悪いことを考えたとしても、それを実際に行動としておこなわなければ無罪であると考えるようです。 神が言うところの「姦淫をするな」というのは、姦淫したいような気持ちで生活するなということであって、実際に行動に移さなければOKということではない。 心の中の姦淫ということは自分の意識としておこなうこと、つまり自分の意識世界の中でイマジネーションしていることですので、この自分の認…
なぜ、悔い改めは重要だと言えるのか 神の子とサタンの子とを識別する重要な判断材料
悪魔の特徴 それは決して悔い改めないということです。人は気づいていませんが、反省とか悔い改めは、神からわたしたちに与えられた最も素晴らしい能力のひとつ。 悔い改めは、悪魔には使えない能力のため、これができる者は悪魔の子とはみなされない。 悔い改めない人間は、悪魔の特徴を持っているため悪魔の子とみなされます。 悪魔の特徴には、他にも「自分の欲望のままに行動して他者を顧みない」ということがあります。ですから、このような行動をとる者はやはり悪魔の子であると判断されます。 悔い改めを行うことは、神の子であることを証するための重要なエビデンスです。人が考えるよりもはるかに重要な意味を持っています。
わたしたちが裁判の場に立たされたとき、頼れるのは弁護者だ。弁護者がいなければ、裁判に勝つことは難しい。被告であるわたしたちを訴える者はサタン。彼は被告を有罪に追い込む為の様々な証拠(エビデンス)を持っている。私たちの人生の記録を持っているのだ。私たちを弁護してくださる方は聖霊。この方も私たちの人生の記録を持っておられる。しかし、ほとんどの人は聖霊の存在を感じておらず、聖霊に祈ることもしないし、聖霊を神に求めることもしない。 もちろん被告の大多数はサタンの存在も信じていないから、自分が裁判にかけられるなどとは思ってもいないのだろう。しかし、聖書は死後に裁きがあることを教えてくれている。 裁判にお…
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」 日本語で「地の塩」となっている部分は、英語では「the salt of the earth」です。 ですから、この場合の地とは単に「ground 」(地面)のことではなく、この地球、この世界のことです。 この世界には味付けが必要です。味がなければ無味であり、それは美味しくないのです。 例えて言います。ラーメン屋さんで、とても凝った出汁の素晴らしいラーメンを作ったとします。しかし、もしそのスープに塩味がついていなかったなら、…
コロナ騒動がまだ収まらない現在、ワクチン接種の圧力が日ごとに強まってきている。 祈りました。打つ方が良いのか、打たない方が良いのか。 祈りの結果はすぐ出ました。打つなということでした。 ワクチン接種について祈った人全員に、神は今回のワクチンは打つなと言っておられるそうです。 ですから、今回のワクチンを打った人というのは、全員が、神に訊ねなかった人あるいは忠告を無視した人ということになるようです。
安息日とは何もしない日であり、労働もしない日です。 安息日とは、いったい何を意味するのか。 安息日は天国のかたどりのようなもの、この世において垣間見る天国の断片です。 地獄には安息はありません。 安息日は人にとっての幸せな日。労働の呪いから解放される日。神への賛美を奉げる日。
イエスが言われた【新しいぶどう酒】とは、新しい命のことであり、永遠の命のことです。 イエスが言われた【新しい皮袋】とは、新たにされた私たちの復活後の肉体のことを指しています。 復活後のイエスが密室の真ん中に突然現れたりすることが出来たでしょう。 私たちの肉体も、復活後にはこのようになるはずです。 現状のままの肉体は朽ちたり老いたりします。永遠の命には適さないのです。
イエスがあたえてくださるものは、あまりにも素晴らしくて価値が高いため、それに対してこちらが代価を支払うことは到底無理です。 だから、無償でいただく以外に受け取る方法がありません。なにかの引換にすることなど出来ないほど価値があるから、それに見合うもので支払うことなど不可能なのです。 しかし、ここにイエスがあたえてくださるものにふさわしいほど価値があるもの、つまり代価として成り立つものがあるのです。それがイエスの十字架による贖いです。 関連する聖句を以下にあげておきます。 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。 神に身代金を払うことはできない。 魂を贖う値は高く とこしえに、払い終えることはない。 …
人は心に「何らかの思い」を抱いたとしても、それが実現したり現実化したりするとは限らない。 だが運よくというのか運悪くというのか、心の中の思いが実現してしまうこともある。 いずれにしても、ある人の心の中の思いが現実化するには、神が承諾をあたえる必要があるようです。 その根拠として以下の聖句をあげさせていただきます。 あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。(マタイ福音書5:36) この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」(ヨハネ福音書13:27) 心に悪い思いを抱いていても、それが現実化し…
マタイによる福音書 5章21~26節 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。・・・以下省略」 『兄弟が自分に反感を持っている』という状況は、兄弟が自分に対して腹を立てているのですよね…
確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。(ローマの信徒への手紙14:23)
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 これらは天の父なる神の「自称」のひとつです。 どういう意味かというと、神は「生きている者の神」ということです。 つまり、この世に生きていても霊的に死んでいる人については、その人の神ではありません、という意味です。 霊的に死んでいる人にとっての神は、お金だったり、あるいは別の神仏が神だったりするからです。 人を救うことが出来るのは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である神です。
■マタイ7:22~23 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』 最近では、多くのクリスチャンが悪霊の追い出しをおこなっています。 これがもし悪魔の罠だとしたらどうでしょうか? 悪魔は巧妙であり、少なくとも人間よりも知恵があります。 悪魔が狙っているのは、一人でも多くの人が驕り高ぶって地獄へ行くようにな…
善悪を知る木の実を食べる前は、人は善悪を知らなかったということになりますね。 神の戒めを守って生きていれば、それでよかった。だから善悪を知る必要もなかった。 善悪を知る木の実を食べたことで、人は「悪」を知った。 それで必然的に「善」も知ることとなった。 それまでは「善」というものを意識して知ることはなかった。 それが当たり前の世界に住んでいたのだから。 その後は、自分で「悪」を退けて「善」を選択して生きていかなくてはならなくなった。自分の中に「悪」が存在するようになってしまったから。 きちんと出来るだろうか?「悪」を退けて「善」を選択することが人に出来るだろうか? 人はそのままでは自分の中に判…
賢くならなくていい 知らなくていいことは知る必要がない。 知らなくていいということは、自分はそれについて責任がないということ。 だから、実はとても有難いことなのです。 神は人を、さほど賢いものとしては創造されなかった。 しかし、人を天使よりも愛してくださっている。 この美しい世界を創った全能者を、ただ讃えて生きていきたい 鳥が歌うように自然な気持ちで 無邪気に 喜びに満たされて
Bill Wiese - No Water in Hell もしあなたが地獄へ行った場合、地獄で経験することの1つは、渇きです。あなたは一滴の水も飲めません。飲み水なしで一日過ごしたことはありますか?あなたは一日中何の飲み物もなしに過ごしたことがありますか?それはかなり困難なことです。地獄には水がありません。 ゼカリヤ9:11には、水がない穴にいる囚人たちのことが書かれています。ルカ16節では、裕福な男は、一滴の水で舌を冷やすことを望んでいました。彼は炎の中で苦しんでいたのです。今、あなたに一滴の水を与えたとしても喜ばないでしょう?おそらく、あなたは1滴の水に価値など感じていないのです。 地獄…
■マタイによる福音書 05章 28節~30節 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 いろんなところで、この赤字にした部分の翻訳が『他人の妻』なのか『女』と訳すべきなのか問題にしているようです。十戒のなかの姦淫についての解釈においても、このことを問題にする人たちがいます。 『女』と訳すと、おおよそ世間一般の女性すべてという意味になるので、これはいくら何でも厳しすぎるだろう、ということのようです。 しかし、考えてみてください。 自分の奥さん以外は、すべての女性が他人の妻になる可能性があるのです。 ですから、どちらに訳したとしても…
わたしがまだ若かった頃は、人生とは楽しむべきものと思って生きていました。 けれども、最近ようやくそうではないことがわかりました。
■箴言25章 21節~22節 あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。 こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。 ■ローマの信徒への手紙 12章 20節 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 復讐したい相手には優しくすることで、神が復讐してくださる、という聖句です。
聖書には、人がどのように生きていくのが良いのかが全て書かれています。 ですから聖書に書かれてあることを信じて、そのまま生きればいいのですが、多くの人は自分独自の生き方をしようと試みます。 まるでこの世が壮大な実験場であるかのように、まるでこの世が冒険すべきジャングルであるかのように自分の意志や好みをたよりに生きていこうとする人が多いのです。 しかしどのように生きたらいいのかの答えは最初から聖書に書いてありますから、聖書に書かれてあることを信じ、生きていけばいいだけのことなのです。 ほとんどの人は自分という神に仕えている。別の言い方をするなら、自分の考えを主として価値あるものとして生きています。…
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(マタイ28:18) これはイエスの言葉です。 天の一切の権能を持っているのがイエスです。従ってイエスの言うことを信じ、イエスの言葉を守って生きていくことが天に入るための基本的な事柄となります。 イエスと何の関係もなく生きているなら「あなたのことはまったく知らない」とイエスから言われてしまう可能性が高いです。 天の国とは神の国であると思います。 神の国なのですから、神の掟に従わない者は牢に入れられたり、国外退去になるのは当然です。 イエスを信じないと天国に入れないなどというのはおかしい、という人がたまにいます。 けれども、天国はそもそも神の国なのです。…
この世は酷い世界だと多くの人が嘆いています。僕もその一人でした。 それで、僕は神に祈って、こう尋ねました。 「この世は天国と地獄と、どちらに近いのですか?」すると、その答えは僕の予想に反したものでした。 『天国に近い。休息があるということのゆえ。』 あくまで個人的な体験ですので、どこかの教会の教義とかではないのです。 実際、僕も地獄に休息がないなどということは、そのときまで考えたこともなかったのです。
■マタイによる福音書 05章 28節~30節 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。 ***** 感想 ***** イエスは「あそこを切ってしまえ」とは言われていません。「目をえぐり出して捨ててしまいなさい」と言っておられるのです。 つまり、性行為に及んだかど…
人の罪というのは血によって遺伝的に受け継がれているもののようです。 ですからイエスは処女から生まれる必要があった。 セックスと罪との関係について、僕にはまだよくわからないのですが、大きなシークレットがそこに存在しているものと思います。 『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。 それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』 「あなたをおおいます」とは面白い表現ではないでしょうか。 人は生まれながらに罪人のはずですが、マリアにはおおいがかけられたのです。 僕はこのこともよくわかってはいませんが、何か汚いものをカバーするようなイメージでしょうか。しかし、これは重要な…
プロテスタントの方の中には主の戒めを守ることの大切さを理解している立派な信者の方々が大勢いると思います。現代ではむしろカトリック信者よりも立派な信仰を持っている人が多いのではないかと思います。しかし、そのような人であってもカトリックで母マリアを崇敬していることについては批判的なスタンスであることが多いようです。このようにマリアという存在がプロテスタントの人たちにはわかり難いものであり縁遠いものです。 マリアとはクリスチャンにとっての母であり、それはつまり保護者であるのです。何から保護してくれているのか。それは悪魔の誘惑からです。 聖書にも、マリアとヨハネが「親子」であることをイエスご自身が十字…
マルコによる福音 ■マルコによる福音書 01章 14節-20節 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイ…
使徒パウロのコリントの教会への手紙 ■コリントの信徒への手紙一 6章 13節-20節体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にありま…
■ヨハネによる福音書8:34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。 罪の奴隷、ということについて考えてみましょう。 罪とは神から離れていることを指します。 この罪はサタンなのであって、罪を犯す人は「サタンの奴隷」になっています。 奴隷ですから、サタンに逆らうことが出来なくなります。奴隷となった人に対しては、サタンが好き勝手に扱えるようになります。これは本当に恐ろしいことではないでしょうか。 サタンは奴隷となった人に対して、どんなことをしてくるでしょうか。 考えただけで、身震いするほど恐ろしいことです。
自分の喜びや夢を追求することは、間違った目標であると思います。 しかし、一般的には少しも間違っていないどころか、自分の夢を追求することは素晴らしいことであるとされています。 人がこの世界で生きられる期間は、せいぜい数十年間のことです。その数十年の間、たとえばお金持ちになって贅沢三昧をしたとしても、結局この人生が終わると別の世界に入るのです。 この世界で人がおこなうべきことは、神を怖れること、神に栄光を帰すること、イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んでくださったおかげで、わたしたちは救われたと信じること。悔い改めてイエスの戒め、神の戒めを守って生きていくこと。 これくらいです。 多くの現…
イエスは良い羊飼いです。 イエスに飼われた、わたしたちは羊です。 羊は羊飼いの行くところへはどこへでもついていきます。 良い羊飼いは、羊を気にかけ、羊のためには命も捨てるのです。 野生の羊ではなく、羊飼いに飼われている羊であるから、 食事の心配もありませんし、安心して暮らすことが出来ます。 野生の羊は、自分自身の力で生きていくしかありませんから、 自分の力に頼るしかないのです。 良い羊飼いに飼われている家畜の羊と、野生の羊とでは、どちらが幸せでしょうか。 パウロは自分を『この身に、イエスの焼き印を帯びている』と表現しました。 イエスの名前(所有者の名前)を体に焼き印で押された、という意味でしょ…
■新約聖書外典 コリント人への第三の手紙(抜粋) あなたがたは天と地とそのうちにあるすべてのものは神の創造物ではないなどと(信仰から遠く離れて)言いつつ神の摂理を否定しているかの人たちは、義の子らではなく怒りの子らであることをお考えなさい。彼らは怒りの子らなのです。なぜならば彼らはのろわれたへびの信仰を持っているからです。
キリスト者だからといって救われるわけでもないようです。 パウロの黙示録より
■新約聖書外典 パウロの黙示録31章(抜粋) 海洋の外側に来たとき、わたしは眺めたが、その場所には光がなく、闇と悲しみと嘆きとがあった。わたしは溜息をついた。 わたしはそこで火の川が煮えたぎっているのを見た。その川にはたくさんの男と女がはいっており、彼らは、あるものは膝まで、あるものはへそまで、あるものはくちびるまで、あるものは髪の毛までつかっていた。 わたしは天使にたずねて、「主よ。火の川の中にいるこの人たちはだれですか」と言った。すると天使は答えてわたしに言った。「この人たちは熱くも冷たくもない人たちだ。つまり彼らは義人の数の中にも、涜神者の数の中にも見出されない。彼らは地上で生きていたと…
仏教が説くような『極楽』というものはありません。 『お念仏を何万回唱えれば極楽へ行ける』というようなことを仏教徒が真に受けているのを見て、サタンはだまされやすい人間をあざ笑っていると思います。 人はアダムの子孫であり、生まれながらにアダムの犯した罪を引き継いでいるのです。 アダムの犯した罪とは、自分自身が神のようになる(自分の主が自分になっている)意識のことです。 あたり前のように、誰もがこの罪を犯しているのです。 従って、人は誰もが地獄がふさわしいということになります。 人間的な尺度で、他の人たちよりも自分は善人だから天国に入れるだろう、などと考えることは間違っています。 どんなに立派な人で…
仏教の教えには、『天地創造の神』『全能の神』『人間を創造した神』が不在です。 つまり、仏教は無神論なのです。 全能永遠の神を信じないのですから、仏教を信じている人は地獄へ行くことになるのです。 以前、仏教を信じている方から反論を受けたことがあります。 仏教には梵天という神がいるのだと、その人は言っていました。 しかし、梵天という神は天地を創造したこともなければ、人間を創造したこともない神であって、聖書的な見方からすると、これは堕天使であり悪魔ということになります。 興味のある人は梵天について詳しく調べてみてください。 仏教を信じてはいけない理由 ・天地万物創造の神を信じていないこと 以上です。…
■マタイによる福音書 5:27~30『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 マタイによる福音書のこの聖句からわかることは、目をえぐり出して捨てたほうが良いほど、地獄というのは酷…
聖書において、地獄についての記述は多いです。 かなり以前はカトリック教会においても地獄について普通に説教されていたようですが、現在ではセンシチブな議題の扱いになっていて、地獄について語る神父は、ほとんどいなくなりました。 しかし地獄のことは聖書の中に多く書かれていますし、イエスも何度も言及していますから地獄について考察することが重要なことであるのは今も昔も変わりがないはずなのです。 現代は、人々が耳障りの良い教えを好むようになってきたために、地獄について語ることがタブーのような扱いになってしまっています。 しかし、それではイエスが警告してくれた数々の聖句については無視を決め込むことになるのです…
今後は聖書に書かれてある天国と地獄について生き生きとした内容を書いていきたいです。 多くの人がイエスを信じて救われますように。
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ヨハネの黙示録 21:8しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。 おくびょうな者とは、悪に抵抗しない人のことです。
「救い」とは、地獄に堕ちる運命から、助けていただくことです。地獄行きを免れることを、「救い」と言うのです。もし地獄が存在しないのなら、あるいは地獄へ行く人がいないとしたなら、「救い」ということは、なかったはずです。しかし聖書によれば地獄は存在し、またそこへ行く人も存在するため、「救い」が、全人類に必要なのです。
イエスご自身が天国について「父のみむねを行うものだけが入るのだ」と言っておられるのだから、行いが重要だということに何の疑いを挟む余地もない。もし「信仰によってのみ天国に入るのだ」とイエスが言っている箇所が聖書にあるのであれば、それをわたしに教えていただきたい。それとも、行いが必要ないと言う人たちは、イエスの言葉を無視してでも、ルターの「信仰義認」を信じたいということなのだろうか? ヤコブの手紙 2:16~17あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行い…
この世界は危険に満ちている。そのため、人はセキュリティに対して関心を払うでしょう。この世界を去るとき、人は地獄に落ちる可能性がある。これは、私たち人にとって、とんでもない不利益です。だから、注意する必要があります。会社で使う仕事上のパスワードや個人情報等の漏洩には気をつけねばなりません。しかし、何よりも、もっともセキュリティに気をつけなければいけないことは何でしょう。それは神を侮ることです。神を侮ることが、もっとも危険なことです。なぜなら神は、人を地獄で滅ぼすことがお出来になるお方だからです。生きている間は、神は忍耐をしてくださっていますが、罪にまみれた状態のまま死んでしまったなら、もはや手遅…
■ルカによる福音書16:10「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」自分には「姦淫」がなぜいけないのか、恥ずかしいことに、この年齢になるまで理解できなかった。つまり、男女間の恋愛に不忠実な人は、神との関係においても不忠実だと見なされる。 それゆえ、姦淫をおこなってはいけないのだろう。 イエスは花婿にたとえられ、信者の集まりである教会は花嫁にたとえられている。この関係は聖なるものでなくてはならないのだろう。
ルカ16章12節「また、他人のものに忠実でなければ」と書いてあります。ですから、レンタルしている物について、あるいは他人と共有している物について考えてみたいと思います。これらを大切に扱うことは、わたしたちが考えている以上に重要なことです。「他人のもの」というのは、聖書によれば、わたしたちの体もそうなのです。聖霊の宮だからです。結局、すべては神のものであり、わたしの所有物ではないため、私たちには管理人としての忠実さが求められるわけです。もし、その忠実さがなければ、主人から「あなたには何も託せない」と判断されてしまうに違いありません。借りた物を大切にすること。このことがわたしたちの人生において、非…
■マタイによる福音書 5:18~20よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。このイエスの言葉によれば、律法を破ったり、破るように人に教えたりする者は天国で最も小さい者と呼ばれるのです。だから、律法を破ったり、…
The Narrow Door 読者の何かのヒントになればという気持ちで、私ダニエルが訳してみました。日本語の聖書では、「狭い戸口」と訳されることが多い箇所についてです。ここは、「救われる者は少ないのですか?」と質問されて、イエスが答えている場面です。どこかの、誰かのお役に立てますように。Luke 13:22-27あらゆる努力を尽くして、入りにくいドアを通って入れ。“Make every effort to enter through the narrow door,努力が必要な理由を言っておく。多くの人が、入ろうと試みては失敗するからだ。because many, I tell you, w…
ルターの言う「信仰義認」は、足りない考え方です。 神への信仰で救われるというのは、その通りです。 しかし、一切のおこないが必要ないのではありません。 それは、聖書を読めばわかることですし、あまりに様々な箇所で書かれているため引用はしません。 聖書のそこらかしこに、おこないの重要性が書かれているからです。 確かに、人が自分で考えて、様々なおこないを良かれと思ってすることは間違いです。なぜなら、それは自分を誇ることに繋がるからです。 しかし、神の御心をおこなうことは重要です。 ルターの「信仰義認」には、「聖霊」によるおこないのことが抜け落ちています。 信仰があるなら、聖霊とともに生きているので、聖…
「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)羊が、イエスの兄弟である最も小さい者たちのひとりにしたことは、「イエス」本人にしたことになります。なので、「イエスにしたことと同様だ」というようなことではありません。気をつけてください。ここを比喩や例えだと捉えると、とんでもなく間違えてしまいます。イエスの兄弟である、最も小さい者の中に『イエスが共に住んでおられる』ことを信じてください。これらの最も小さい者が苦しんでいるときには、共に住むイエスも苦しんでいるのです!! だから、わたしたちのような者であってもイエスを助けることが出来る、と…
マタイによる福音書 24:6「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。」イエスご自身が戦争について「起らねばならない」と言っておられるのに、戦争反対とか言っている人たちは、いったい何なのか?神やイエスを信じない人であるならば、それも仕方ないと思えるが、教会内にも一定数こうした考えを持つ人たちが存在している。戦争を、人間の理性や知性で回避できると考える人たちが。戦争は神のご意志が関わっているから勃発するのであって、人間の力でどうにか出来ると考えること自体が大変に不敬な態度です。神は「万軍の主」なのであって、よろず…
マタイによる福音書 25:1~13そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてくださ…
イエスが言う「わたしの兄弟」とは、どのような人たちのことでしょうか。聖書にはどのように書かれているのか、一緒に確認してみましょう。 まずは、以下の聖句からです。【マタイによる福音書25:31~40】「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲…
マタイによる福音書 25章 この章でイエスが語られている内容は、すべてのキリスト信者と、ユダヤ人に対してです。 彼らの群れが二分割される、ということが語られているのです。つまり、神を信じる者に2種類ある、ということが語られています。・10人の乙女は5人づつに別けられる。・タラントを増やした僕と、そのままにした僕とで別けられる。・羊とヤギとで別けられる。(イエスの兄弟に対しての行いが分割の基準) あまり、ここの章について詳しく解説したくない気がするので、当ブログでは解説はいたしません。ざっくり言えば、この章が一貫して訴えていることは「行いの伴わない信仰は死んだものである」ということです。そして、…
■マルコによる福音書 10:48~52 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、 「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。 そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。 そこで彼は上着を脱ぎ捨て…
聖霊にしたがって、日々の生活をおこなうのです。 前提として、「自分は死んだ」という自覚を持つのです。 自分は生きていないのだ。だから、 わたしは罪を犯すことができない。 なぜなら、もう死んでいるのだから。 罪を犯すことも出来なければ、自分が良いと思うことすら出来ない。 すでに、死んでいるのだから。 自分の思い、いわゆる「肉の思い」が沸き上がってくるとき、 これを、その都度、十字架につけて殺す必要がある。 この体は聖霊のご意思に従わせることにのみ使用するものだということを 納得して受け入れる。そのためにだけ、自分の意志は使うのです。 この体は、自分の体だと思いこんでいた。長い間、思い込んでいた。…
人は神の奴隷になるか、罪の奴隷になるか、二つに一つの選択肢しかないのですが、このことに気付いていない人が多いのです。 自主的に生きられる、という幻想をサタンにより信じ込まされているからです。ちなみに、最初にこの嘘に騙された人類は、エバとアダムです。 自主的に生きている、何も信じていない、という人が、一般的には多いと思いますが、その状態は、自分を崇めていることになるので、サタンの奴隷、つまり罪の奴隷です。これがサタンによる狡猾な罠であり、ほとんどの人は、この罠に捉えられています。 言うも恐ろしいことですが、その状態の人は「神の敵」です。神が怒りを持って、滅ぼすべき対象なのです。サタンと同類だから…
■狭い門から入りなさい。 滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。 そして、そこから入って行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 (マタイの福音書7章13節―14節)(新改訳) 多くの人は、なんとなく神のところに行けると思っています。 あるいは、自己努力を通して神のところへ行こうとします。神の奴隷になっていないからです。 門を見いだす者とは、羊のように従順についていき、気づいたら門の前にいた、というような感じでしょうか。 イエスは「わたしが道であり、・・・」と言われました。従って、 イエスに従う者、つまりイエスの戒めを守る者が、狭い道を歩ん…
怒れる神の御手の中にある罪人 - Wikisource
■ - 救いと血とイエス・キリスト
神の国が完成したなら労働はなくなると思われます。 なぜなら労働は、以下の聖句にあるように、アダムが罪を犯した故にこの世に登場したからです。 お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。(創世記:3:19) 平安、安寧、平和 これが天の国です。 天国での食事は、神の口から出るひとつひとつの言葉です。 動植物の血を流して、抜け殻になった体(肉体)を食べなくても生きていけるようになるはずです。 なぜなら、天国には罪がないからです。 これについて詳しい説明が必要であれば答えますので、どうかコメントをください。