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  • アグラ見物と元インド国民軍兵士~アグラの旅

    ・昭和44(1969)年2月8日(土)晴れ(元インド国民軍兵士とアグラ見物) 今日、アグラへ行くので6時に起きた。私とロンは、ニューデリー駅までタクシーで行った。着いて運賃が「1ルピー」と言うので、ロンは「高い」と言って怒ったが、まぁ妥当な運賃であった。インドのタクシー運賃は、『最初の1.5キロまで80パイサ、以後1キロ増すごとに50パイサ加算』と言う計算から行くと、我々が乗った距離はそんなになかったので、80パイサか1ルピー30パイサでなければならなかった。運賃が丁度1ルピー、と言う事は無いので、ドライバーは半端な運賃は切り上げて請求するのが常であった。インドのタクシーは、メーターもドライバーが言う運賃も当てにならなかった。 一昨日、私は切符を買うのに出札口を盥回しにされたのに、今朝は15分で切符(ニュー・デ...アグラ見物と元インド国民軍兵士~アグラの旅

  • ニューデリー最後の日~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月7日(金)晴れ(ニューデリー最後の日)今日、私とロンはアグラへ行く事になっていた。私は6時に起きたが、ロンはまだ寝ていた。「ロン、起きろ。6時過ぎだぞ。アグラへ行くのだろう」と私。「午前3時に帰って来たのだ。眠いよ。明日行こう、Yoshi」と言って彼は又、寝てしまった。そんなに急ぐ旅でなかった。明日でも私は一向に構わないので、そうする事にした。今日は本当に何もする事がなかった。映画『007』でも見に行こうと思ったが又、超満員で入れなかった。インドは自国のインド映画も洋画も繁盛していた。夕方、食事にインデア・コーヒ・ハウスへ行ったらロンが居た。暫らくすると昨夜のアメリカ女性も来た。どうも2人は示し合わせていた感じであった。私が来てしまったから、ロンも仕方ないと言った感じで、3人で又ミカドへ行って食...ニューデリー最後の日~ニューデリーの旅

  • デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話~ニューデリーの旅

    *デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話デリーは、オールド・デリーとニューデリーを合わせて、総称として呼ばれている。オールド・デリーはニューデリー駅北方に位置し、レッド・フォート(赤い城塞)の城壁に囲まれた、所謂『城郭都市』です。ニューデリーは、オールド・デリーの南方に隣接され、イギリス統治時代に新しい都市造りとして出来た都市です。当然、都市造りは近代イギリス様式が取り入れら、そしてニューデリーのみならず、インドの大都市の建物は、イギリス建築様式に似ていて、何処へ行ってもまるでイギリスに居る様な感じがした。ニューデリーの中心は、ConnaughtPlace(コンノート広場)で、そこから四方八方に道路が延びていた。広場の周囲には、事務所、映画館、レストラン、商店等が軒を連ねていた。その中心の円形の広場は、芝生...デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話~ニューデリーの旅

  • インドの現状の話~ニューデリーの旅

    *インドの現状の話所で、日記の中(2月6日(木)(駅で盥回しにされる)の日記の文の中に“訳の分らない”と“何でもあり”と言う語句を使ったが、それについて私がその様に思っている(感じている)だけで、インド人、或いは他の人は特に思っていないかも知れません。しかしあえて言うならば、次の事を指摘しておきます。それらは、一国のインドで多言語、多民族、カースト制度と不可触民の存在(憲法下では廃止されているが、確かに根強く現存しているのだ)、人口過多(街のあちこちで産児制限奨励のポスターや看板が目立つ)、貧富の格差、圧倒的に貧乏人の多さ、路上生活者や乞食の多さ、都市の人口過密、宗教の雑多、原始社会から近代社会の存在、都市と農村の格差等々であり、それらが混然一体となっている現状の事です。そして訳の分らない、或はなんでもありとは...インドの現状の話~ニューデリーの旅

  • インドの現状の話~ニューデリーの旅

    *インドの現状の話所で、日記の中(2月6日(木)(駅で盥回しにされる)の日記の文の中に“訳の分らない”と“何でもあり”と言う語句を使ったが、それについて私がその様に思っている(感じている)だけで、インド人、或いは他の人は特に思っていないかも知れません。しかしあえて言うならば、次の事を指摘しておきます。それらは、一国のインドで多言語、多民族、カースト制度と不可触民の存在(憲法下では廃止されているが、確かに根強く現存しているのだ)、人口過多(街のあちこちで産児制限奨励のポスターや看板が目立つ)、貧富の格差、圧倒的に貧乏人の多さ、路上生活者や乞食の多さ、都市の人口過密、宗教の雑多、原始社会から近代社会の存在、都市と農村の格差等々であり、それらが混然一体となっている現状の事です。そして訳の分らない、或はなんでもありとは...インドの現状の話~ニューデリーの旅

  • インドの鉄道の話~ニューデリーの旅

    *インドの鉄道の話ロンと私はニューデリー駅で乗車券を買うのに、軽くインド人にあしらわれてしまった。この様に乗客を盥回しにする様な案内、或は態度・接客の悪さを駅長やもっと上層部に訴えても埒(らち)が開かないし、加えて私の語学力の無さでは、充分に訴える事が出来ないであろう。例え英語で充分に話が出来たとしても、『何でもあり』のインドでは、1人1人の乗客(否、乗客ではなく、『如何でも良い利用者』なのかも)の声・意見等、一々聞いてくれる様なインド国有鉄道・組織でない、と理解した。駅員の態度、言葉の悪さ、非能率、無責任、自分の窓口しか感心がない縄張り主義、偉ぶっている権威主義等、インドの鉄道には問題が色々あった。インドの鉄道は国有なので、駅員はお役人様なのだ。カースト制度でも上級クラスに入るのであろう。上級クラスのお役人様...インドの鉄道の話~ニューデリーの旅

  • 駅で盥回しにされる~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月6日(木)晴れ(駅で盥回しにされる)明日、私とロンはAgra(アグラ)見物してからBombay(ボンベイ)へ行く事にしたので、私一人で切符2枚を買いにロンと私の旅客運賃学生割引証を持ってニューデリー駅へ行った。インドは州や地域が違うと言葉も人種も違い(多言語、多民族国家)、言語は15以上、方言は100以上あると言う。その様な理由で駅の案内板には、英語やヒンディー語の他、5~6の言語で書かれていた。しかし私の知りたい情報・案内は見当たらなかった。従ってボンベイまでの乗車券を買うのに、何処の窓口へ並べば良いのか分らなかった。駅員(インドの鉄道員は制服を着ていないので、駅員と一般人との見分けが分らない)に聞きたいが、窓口以外見当たらないので、困惑状態であった。とりあえず1階の適当な窓口に並んだ。各窓口...駅で盥回しにされる~ニューデリーの旅

  • オーストラリアの査証を取得~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月5日(水)晴れ(オーストラリアの査証を取得)午前中、査証が出来ていると思い、オーストラリア大使館へ行ったが、館員は午後2時半頃に出来ると言うので一旦戻った。インデア・コーヒ・ハウスでチャイを飲みながら時間を潰し、2時半頃に再び行った。しかし査証は出来ておらず、1時間30分も大使館で待たねばならなかった。そして午後4時、やっと出来た。査証はビジター、滞在期間1ヶ月間、3月19日まで入国、取得料金7ルピーであった。ロンは、日本大使館で査証を20分か30分程で取れたのに、オーストラリアは日数・時間が随分掛かった。ロンは2,000ドル以上持っていたが、私は120ドルと少々しか持ってなかった。国別の大使館、所有のドル額、或は人によって随分違いがあった。ニューデリー滞在中でも一般的な食事は、やはりチャイとチ...オーストラリアの査証を取得~ニューデリーの旅

  • 大使館員を怒鳴りつける~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月4日(火)晴れ(大使館員を怒鳴りつける)毎日、良い天気が続く。炎天下は暑いが、日陰に入ると涼しかった。微熱の方も完全に良くなった。今日早速、日本大使館へ行った。大使館に雇われている案内係のインド人職員に来館目的を告げた。彼は立ち去り、そして直ぐに戻って来てある日本人大使館員の所へ私を案内した。そこはつい立で仕切られていたが、個室ではなかった。インド人職員を含めて、周りで働いている何人かの日本人職員の姿も見えた。“40~45歳位のその大使館員”(以下「T氏」と言う)は、両手を後ろに回して枕代わりにして、イスに踏ん反り返り、しかも靴を履いたままテーブルの上に足を投げ出して私を迎えた。多分インド人職員は、「ヒッピー紛いの貧乏旅行者が来た」とT氏に告げたのであろう。T氏は、『若者の貧乏旅行者が又、金か何...大使館員を怒鳴りつける~ニューデリーの旅

  • ストリートボーイとブラックマーケットの話~ニューデリーの旅

    *ストリートボーイとブラックマーケットの話『ストリートボーイ』とは、我々旅行者がインドの都市の何処でも街を歩いていると呼び掛け、主に闇両替、或は時計、カメラ、万年筆等の高級品からシャツやジーパンまでの売り買いを元締めに斡旋してくれる『売買仲介人』の事である。彼等は、仲介料を元締めから貰って生活しているのだ。したがってストリートボーイを通さないで、元締めと直接交渉した方が高く買い取ってくれる場合があった。一方列車やその他の所で知り合ったインド人と直接に取引した方が有利であった。2月4日の夜、関が「時計を売りに行きたい」と言うので、彼に付き合った。彼は国境で時計6個を没収されたはずなのに、まだ4個位持っていたのだ。彼も中々の食わせ者(?)であった。我々はそのストリートボーイを介して交渉したが、交渉は成立せず結局良い...ストリートボーイとブラックマーケットの話~ニューデリーの旅

  • あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月3日(月)晴れ(あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う)私、ロン、竹谷の3人でInformationOfficeへ行き、その帰りにインデア・コーヒ・ハウス附近を歩いていたら、『?(はてな)どうも何処かで逢った事のある日本人が向こうから歩いて来るではないか。誰だろう』とチョッと訝った。近くに来たら、それは和田(アテネで逢った。トニー・タニーに似ている人)と寺島(最後に逢ったのがアテネ)の2人ではないか。「和田さん。それに、寺島さんでしょう」と私は呼び掛けた。「ビックリした。そう言えば、貴方はYoshiさんではありませんか。再び逢えて嬉しいなぁ。アテネ以来ですね」と和田。「Yoshiさんとはアテネの前に、何処か逢っていますよね」と寺島。「エート?突然言われても思い出せないなぁ。でもここで2人に逢えるな...あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う~ニューデリーの旅

  • チャイの話~ニューデリーの旅

    *チャイの話チャイ(インドの紅茶)について記しておく事にする。インドでは街の至る所にチャイハナ(茶店)があり、チャイが気楽に1杯20パイサから30パイサ(約10円~15円。この様な所は立飲みのお店)で飲めた。イギリス人も顔負けする程インド人はチャイを好んで飲んでいた。イギリスのティーとインドのチャイは如何違うのか、私の知っている範囲内で纏めてみた。イギリスのティーは、ティーポットから紅茶をティー・カップに注ぎ、好みに応じてミルク(牛乳)と砂糖を加え、上品に飲むのがイギリス流だ。これにケーキやクッキーが添えてあれば、最高の持て成しとなるのだ。勿論、場所、雰囲気、紅茶の種類・品質、上等なティー・カップ等で持て成しの度合いは違って来る。インドのチャイハナのチャイは、紅茶にミルクと砂糖をタップリ加え、グツグツ煮込むのだ...チャイの話~ニューデリーの旅

  • 洋服(?)を買おうと思ったが~ニューデリーの旅

    ・昭和44年(1969年)2月1日(土)晴れ(体調悪し)一昨夜の夜行列車は寒かった。昨夜も寒いので、ジーパンを履きジャンバーを着たまま毛布1枚掛けて寝たが、それでも寒かった。お陰で今朝、微熱がある感じがして、頭も重たかった。少し風邪を引いたのか体調は良くなく、一日中、憂鬱であった。本当に病気になって寝込んでは大変なので、今夜は1ルピー余計に払って、もう1枚毛布を借りて寝る事にした。そんな訳で、今日は街へ出掛ける元気もなかった。・昭和44年2月2日(日)晴れ(洋服を買おうと思ったが)午前中、頭が痛く気分も良くなかったが、午後少し良くなった。ニューデリーにあるIndiaCoffeeHouse(インデア・コーヒ・ハウス、所謂チャイハナ、インドの大衆喫茶店)は各国の貧乏旅行者の溜まり場になっていた。ここの春巻きの様な食...洋服(?)を買おうと思ったが~ニューデリーの旅

  • 乞食の話~ニューデリーの旅

    *乞食の話インドを訪れた途端、あらゆる面で旅行者はカルチャーショックを受けるであろう。特に日本や欧米から直接インドに来て、群れをなすその乞食の数を見ると、その悲惨さに身震いし、驚愕しない人は居ないであろう。だが日が経つにしたがって、その悲惨さに慣れて来るのか、インドはこれが現実なのだと認識し、あたりまえの光景になっていた。私はイギリス・フランスから段々貧しい国へと旅をして来たので、身震いや驚愕はしなかったが、カルチャーショックを受け、驚いたのは確かであった。私がニューデリーに着いたその日に、ある体験に出くわしてしまった。1人の子供が「バクシーシ(お恵みを)、バクシーシ」と五月蝿(うるさい)いので、10パイサ(5円)を恵んだら、いつの間にか20~30人以上の大人や子供の乞食に取り囲まれ、「バクシーシ、ババ、バクシ...乞食の話~ニューデリーの旅

  • オーストラリアへの想いの話~ニューデリーの旅

    *オーストラリアへの想いの話最近になって私は、『今後の旅』について悩んでいた。Madras(マドラス)から船でPinang(マレーシアのペナン)へ渡り、Singapore(シンガポール)、若しくはBangkok(タイのバンコク)からM&Mフランス商船で帰国すべきか。或いはオーストラリアへ行き、そこで旅費を稼いでアメリカへ行くべきか』、と。自分の気持としては折角退職してフリーの身になったので、『もっと旅をしたい。アメリカへも行って見たい』と言う希望があった。しかしその反面、既に足掛け8ヶ月間旅をしているので、旅の初め頃と違って、外国に対する新鮮味や旅に対する想いも薄れて来ていた。そして私の旅は、『放浪の旅』の様に感じられる、今日この頃でもあった。こんな状態では、私の旅の意義も薄れるし、放浪の旅を続けていたら今後の...オーストラリアへの想いの話~ニューデリーの旅

  • 足に錘付きの鎖を嵌められた女奴隷達~ニューデリーの旅

    ・昭和44年1月31日(金)晴れ(足に錘付きの鎖を嵌められた女奴隷達)昨夜の列車の旅は寒かった。インドは暑いイメージを持っていたが、この時季の北インドは、夜まだ冷えた。私は寝心地の悪い網棚で、リックと手提げバックの盗難に注意していたから、余計に寝られなかった。列車は朝の6時半頃、ニューデリーに到着した。下車した乗客目掛けて殺到して行く、多くのポーター達にビックリした。彼等は皆、素足で長身、そして痩せこけ纏っているのは腰巻一丁であった。我々はリックを背負っていたので、有り難い事に彼等から免れた。駅構内は乗降客、ポーター、目的不明の人々や乞食・浮浪者でごった返していた。我々は朝食を取る為、駅構内のレストランへ入った。ここで1つの事件が起きた。『首都の駅構内レストラン』と言えば、『格式ある』とは言わないまでも、『それ...足に錘付きの鎖を嵌められた女奴隷達~ニューデリーの旅

  • 1ルピーとその価値の話~ニューデリーの旅

    *1ルピーとその価値の話インドは、“人口6億人以上”(実際には統計されない、出来ない人々が居て、7億とも言う)の人々が住んでいて、凌ぎを削って生きていた。そこには『人を騙す様な行為』が蔓延し、色々な場面・場所で激しいお金の遣り取りがあった。従って、『1ルピーの攻防』はインド滞在中、常にあった。『人を騙す様な行為』と言ったが、実際にこの言い方が、本当に正しいとは思っていない。『商品』と言う物の値打ちが政府によって統制されてない、若しくは需要・供給のバランス関係がなく、値段が決まってないインドに於いて、商品の値段は売り手の値のまま買い手がその値で買えば、その売買は成立する。ようするに買い手は実際の物の価値を分からないが、お金を払えば『買い手は、その価値があった』と判断される。しかし買い手が売り手の値で納得しなければ...1ルピーとその価値の話~ニューデリーの旅

  • 闇売買の話~ニューデリーの旅

    *闇売買の話関から話を聞いたのだが実際、彼はスイスで安い時計を買って、インドで高く売るつもりで持ち込もうとしたのだ。その背景として、インドは自国の製品保護の為に電化製品、自動車、高級品等(カメラ、時計、トランジスター・ラジオ、万年筆等)を輸入していなかった。従って、インド製品は直ぐ壊れる粗悪品である事を彼等インド人も承知していた。金持ちのインド人は、高くても優れた物を求めているので、そこで闇売買が広く存在していた。自分の身の回り品、旅行の為に携行しているカメラや時計等は、インド入国時に申告すれば不正持ち込みにならない。この場合に申告された物は、旅券に記入される。もし申告された物をインドで売れば、出国の際に旅券に記入された申告物を提示出来なければ、売った事が分かり犯罪者として逮捕される。インド国境で私はセイコーの...闇売買の話~ニューデリーの旅

  • 国境での出来事~ニューデリーの旅

    ・昭和44年(1969年)1月30日(木)晴れ(国境での出来事)*参考=公式レート~1ドルは360円、1ドルは7.3ルピー、1ルピーは約49円、1パイサは49銭・日記を書くに当ってルピーは公式レートで表記した。*闇両替レート~1ドルは9.25ルピー、1ルピーは約39円、私は闇両替屋を利用した。デモは終り、ラホールにいつもの様な喧騒な街に戻った様であった。ラホールの街は汚く、通りには男達であふれ、その反面、女性は人っ子1人見当たらず、道路には自動車、自転車、馬車、そしてリキシャであふれていた。私、ロン、竹谷の3人は朝食も食べず、ボーダー(国境)行きバスに乗り込んだ。ラホールから国境まで25km程か、運賃は1.75ルピー(119円)であった。バス車内で“それらしき旅人”(大阪市出身の『関さん』仮称、以後敬称省略)と...国境での出来事~ニューデリーの旅

  • パキスタンのトラックの話~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

    *パキスタンのトラックの話トラックで気が付いた事なのだが、パキスタンのトラック(インドのトラックも同じ)はカラフルで、しかも絢爛(けんらん)であった。何がそんなにカラフル・絢爛なのか。それはトラックの周りにペンキで綺麗に色々な装飾模様を描き、相撲取りの化粧回しの様に煌びやかな色で飾り立て、運転席下(ナンバー板下)に綺麗な暖簾を施し、最後に運転席屋根の上にトラや大鷲、或は美女を描いた大きな絵を掲げて、トラック全体を飾り立てていた。それはあたかもお祭りの屋台や山車の様であった。△パキスタンのカラフルなトラックーCFN▽トラックは高いであろう、その飾り立て費用も相当掛かるであろう。それに反比例して、トラック運転手の収入は低いであろうし、彼らの着ている物もみすぼらしく、生活も貧しい感じであった。それでも自分のトラックの...パキスタンのトラックの話~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

  • 東・西パキスタンの話~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

    *東・西パキスタンの話 『パキスタン』と言っても、私が居るラホールは西パキスタンです。インドを挟んだ東側にも東パキスタンがあります。如何して東西に分かれているのであろうか。そもそもイギリスの植民地であったインドは、1946年に独立した。独立の父・ガンジーは、全ての宗教・民族を統合した「統一インド」を主張していた。それに反し、イスラム教徒連盟のリーダーだったジンナーは、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒はまったく異なる「二つの民族」であると言う、宗教の違いに基づいた「二民族論」を主張した。ジンナーのイスラムの指導者達は、もしガンジー達が主張する統一インドが実現されれば、国民の大多数を占めるヒンドゥ教徒がイスラム教徒を支配する事になる、と恐れていたのだ。   宗教、主張の違いから対立は激化し、終に武力衝突(『独立戦争』又は...東・西パキスタンの話~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

  • 苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

    ・昭和44年1月29日(水)晴れ(苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍)我々は昨日の夕方に到着したばかりなので、もう1泊する事にした。旅の疲れもあり、お昼近くまで寝ていた。とは言っても私は早朝5時、既に目が覚めていた。「覚めた」と言うより、拡声器からのアーザン(サラート=礼拝への呼び掛け)の大音響で起こされてしまった。イスラム教徒は時間になると、お祈りをする義務がある。従って人々は寺院へ行ってお祈りし、或は寺院へ行けない人は、自宅の一定の場所(自宅内に泥で固めた囲いの狭い礼拝の為の場所)でお祈りをしていた。午後、ラホールは学生、市民、労働者によるアユブ大統領の軍事的政策に対する反政府デモがある為、宿の主人から「外出禁止令が出されている。外へ出ないほうが良い」と注意を受けていた。しかし駅近くの安宿(ドミトリー)に...苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

  • 車内を威圧する武装警官~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

    ・昭和44年1月28日(火)晴れ(車内を威圧する武装警官)日本に居た時、パキスタンは森林が生い茂った国と想像していた。いつ列車がインダス川を渡ったのか、夜間で気が付かなかった。実際に列車はこのインダス川流域に沿って走っていたが、車窓からの光景は荒れ果てた大地が、クエッタからラホールまで続いていた。如何して田畑が無いのであろうか。そして町や村の様子は、イランより貧しい様に見受けられた。昨夜、屈強の警察官7~8人が我々の車両に乗り込んで来た。そして彼等は今日もまだ乗っていた。この車両だけではなく、他の車両にも分乗して乗っていた。彼等は緑のベレー帽子、カーキ色のシャツに黄色のベスト、それにカーキ色のズボンを身にまとっていた。彼等の武装は、日本の警察官が携行している短い警棒や拳銃ではなく、2m程の長い警棒と鉄砲であった...車内を威圧する武装警官~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

  • せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

    ・昭和44年1月27日(月)晴れ(せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋)我々6人は朝寝坊をして、ゆっくりと食事を取り、それからレストランを出た。「よしなさい」と私は言ったのに店を出る際、ロンとジェーンはレストランのテーブルの上に置いてあったオリエンタル風の金属製灰皿等を、ポケットにしまい込んでしまった。その店の主人は無くなった事に気が付いたのか、直ぐに大声を発しながら我々を追って来た。彼は我々に捲くし立てた。2人は渋々盗った物を返した。共に旅をしている仲間がこんな事をするなんて、私は恥ずかしく、嫌な感じがした。後で分ったのだが、私と違って、ロンは貧乏旅行者でなかった。ニューデリーへ行った時、彼はアメリカから送金されて来た2000ドルを受け取っているのだ。私にとっては羨ましい限りであった。それにしてもロンとジェーン...せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋~シルク・ロードの旅その3(パキスタン列車の旅)

  • 食べ物に対する欲望~シルク・ロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

    ・昭和44年1月26日(日)晴れ(食べ物に対する欲望)我々(アメリカ人のロン、フランス人のジェーン、カップルのミシェルとカトリーヌ、ザーヘダーンの郊外から乗って来た竹谷、そして私の6人)は、ラホールまでの3等車の切符を買いに駅へ行った。運賃は大人25ルピー、学生12.6ルピー(約958円)であった。私は学生証を持っていたので、学割運賃で切符を買った。私は学生でないのに、如何して学生割引で買えた。と言うのは、アテネのユースに滞在していた時に、「これからインド方面に旅をする場合、学生証を持っていると何かと便利である」とあるアメリカ人に言われ、その彼から2ドルで偽の学生証を作って貰ったのだ。見るからにいい加減な代物であったが、パキスタンでは通用(インドも通用)した。確かに偽学生証で切符を買うのは、良い事でありませんが...食べ物に対する欲望~シルク・ロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

  • 小さな旅(その2)~沼田への旅

    昭和38年8月上旬のある日、『今度は、サイクリング自転車で日本一周しよう』と思い付き、F市を11時頃に出発しました。このサイクリング車は、2番目の義兄の物でした。私が高校3年の時、市ヶ谷の海上自衛隊基地に勤務していた兄が、「不用なので使って良いから、取りに来なさい」と言ってくれました。早速往きは列車で、そして帰りは国道17号(中仙道)をひたすら自転車をこいで6時間要してF市まで戻って来ました。この時が私にとっての初めての小さな旅でした。田舎の高校生の私が東京の道路を知る訳もなく、ただ大宮・高崎方面の道路標識を頼りに、夢中でペダルを踏みました。大宮を過ぎた辺りから尻が痛くなって来て仕方なかったが、無事に戻れて本当に良かったことを覚えています。話は戻しますが、F市を発って本庄まではアスハルトの道でしたが、本庄を過ぎ...小さな旅(その2)~沼田への旅

  • 海の様な大蜃気楼を見る~シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

    ・昭和44年1月25日(土)晴れ(海の様な大蜃気楼を見る)朝食は、又またナンとチャイであった。飽きた。テヘランを発ってからこればかりであった。何か食べ物がこの他に無いのか。砂漠の島には無かった。栄養が摂れない、腹も満たされない、充分な水分も摂れなかった。お陰で一昨日、昨日、そして今日と、オシッコもウンコも出なかった。それもその筈、水分、食料を余り取っていないから、出ないのも無理はなかった。今日も天(空)と地(砂漠)だけの旅が始まった。砂漠には、“ルート”(砂)砂漠と“カヴィール”(塩)砂漠がある。この見渡す限りの茫洋たる砂漠は、砂砂漠の様であった。今日もこの砂漠と灰褐色の世界が相変わらず続いた。窓はきっちりと閉まらないオンボロ・マイクロバスの為、メリケン粉(砂埃)で車内も我々も既に真っ白、そして終に口の中までジ...海の様な大蜃気楼を見る~シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

  • 砂塵を巻き上げ砂漠の旅と満天の星空~シルク・ロードの旅(パキスタン・バスの旅)

    ・昭和44年1月24日(金)晴れ(砂塵を巻き上げ砂漠の旅と満天の星空)昨夜、家の中とは言え直に地面で寝たので、ぐっすり寝られたとは言えなかった。そしてここ3日間、余り寝ていないので旅の疲れも溜まって来た感じであった。朝食は例の不味いナンとチャイであった。我々が食事をしている前で、子供や大人達が動物のウンコを手で拾って集めているのを見た。何に使うのであろうか。肥料にするには村の周辺は見渡す限りの砂漠で、畑など見当たらなかった。それでは乾かして燃料にするのか。この時点、はっきり分らなかった。ノク・クンディの国境の町(村なのか、それとも部落なのか?)の人家は、30軒程であった。彼等の暮らし振りを何て表現してよいのか。とにかく家の中を覗いて見て、家具類は勿論、家庭・生活用品類等、何にも見当たらなかった。クエッタ行きのマ...砂塵を巻き上げ砂漠の旅と満天の星空~シルク・ロードの旅(パキスタン・バスの旅)

  • イラン・パキスタンの国境の様子~シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

    ・昭和44年1月23日(木)晴れ(イラン・パキスタンの国境の様子)*参考=パキスタンの1ルピーは約76円(1パイサは約76銭)。かなり南下して来たので、今朝は寒くなかった。我々5人はザーヘダーンから国境まで、マイクロ・バス(料金イランのお金で80リアル、10人乗り程度)に乗り込んだ。それから直にある場所から日本人旅人(仮称『竹谷さん』と言う学生。以下敬称省略)が乗り込んで来た。我々仲間は6人となり、共に旅をする事になった。国境まで70~80キロ先であるのに、街外れに出入国管理事務所(事務所と言っても小屋であった)があった。我々はイランを出なくても、出国手続きを済ませてしまった。事務所まで舗装されていたが、此処から先は未舗装の砂漠の道で、バスはひたすら走った。そしてイランの国境に着いたのか、我々は2階建て鉄筋コン...イラン・パキスタンの国境の様子~シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

  • 迷路の様なケルマーンの街~シルクロードの旅その1(イランバスの旅)

    ・昭和44年1月22日(水)晴れ(迷路の様なケルマーンの街)昨夜、バスの中で一睡も出来なかった。大分南に下って来たが、ここケルマーンも朝方、とても寒かった。我々はバス・ターミナル広場で露天商いしている店へチャイを飲みに行った。まだ5時過ぎたばかりだが、バスの乗客目当てか、既に店は営業していた。イランに来る前まで、イランはイスラム諸国の一つであり、当然お茶はコーヒーで、パリ滞在中、マサオに連れて行って貰ったアラブ風の喫茶店で飲んだ、あの粒々がカップに残るアラビアン・コーヒを飲んでいるとばかり思っていた。所がパキスタンやインドと同様にイランは、イギリスの植民地であった影響からか、チャイ(お茶)はイギリスのティーと同様、紅茶にミルクと砂糖入りであった。『バスは11時に発車』と言うので、我々はその店でゆっくり、ゆでたま...迷路の様なケルマーンの街~シルクロードの旅その1(イランバスの旅)

  • 廃墟になったキャラバン・サライ~シルク・ロードの旅その1(イランのバスの旅)

    シルク・ロードの旅その1(イランのバスの旅)・昭和44(1969)年1月21日(火)晴れ(廃墟になったキャラバン・サライ)シルク・ロード(絹の道)は、有史以前からアジアとヨーロッパを結んでいる東西交易路の総称であり、幾筋もの道から成り立っていると学校で教わり、又その様に認識していた。ある時代にどの道が栄えたかは、その時代の勢力の隆替(りゅうたい)によって目まぐるしく変貌したようだ。日本にシルク・ロードの事が伝わったのは、マルコ・ポーロの東方見聞録による。彼は1271年のまだ17歳の時にヴェネチアを出発し、25年間かけての大旅行をして西安の都に辿り着いたそうだ。そしていよいよ私のシルク・ロード、砂漠の旅が始まった。7時30分に起き、部屋を出ようとしたらドアの前に財布が落ちていた。拾い上げ中を見るとイラン紙幣やドル...廃墟になったキャラバン・サライ~シルク・ロードの旅その1(イランのバスの旅)

  • イスラム教の話~テヘランの旅

    *イスラム教の話私はイスラムの国に来たと言うのに、恥ずかしながらイスラム教について殆んど知らなかった。それではいけないので、又この日記を纏める為にも、『イスラム教とはこんな感じ』と言うアウト・ラインでも良いから知る必要があり、少し記述する事にした。[イスラム教の人々を「ムスリム」と言う。ムスリムはイスラムの教えであるイスラムの戒律(へジャブ)の中で生活している。そのヘジャブの基本的な信条として、①唯一の神アッラー(アラー)とムハンマド(マホメット)のみを信じる事。これを『シャハーダ』と言う。但しイランのシーア派は異なり、イマーム(聖人)を信じている。②礼拝の義務(サラート)。③3月の断食の義務(サウム)。④メッカ巡礼の義務(ハッジ)。⑤喜び、快楽を捨てる義務(ザカート)、の5行があります。その他に守らなければな...イスラム教の話~テヘランの旅

  • イスラム教の話~テヘランの旅

    *イスラム教の話私はイスラムの国に来たと言うのに、恥ずかしながらイスラム教について殆んど知らなかった。それではいけないので、又この日記を纏める為にも、『イスラム教とはこんな感じ』と言うアウト・ラインでも良いから知る必要があり、少し記述する事にした。[イスラム教の人々を「ムスリム」と言う。ムスリムはイスラムの教えであるイスラムの戒律(へジャブ)の中で生活している。そのヘジャブの基本的な信条として、①唯一の神アッラー(アラー)とムハンマド(マホメット)のみを信じる事。これを『シャハーダ』と言う。但しイランのシーア派は異なり、イマーム(聖人)を信じている。②礼拝の義務(サラート)。③3月の断食の義務(サウム)。④メッカ巡礼の義務(ハッジ)。⑤喜び、快楽を捨てる義務(ザカート)、の5行があります。その他に守らなければな...イスラム教の話~テヘランの旅

  • 通行許可書を取得、テヘランの簡単な印象の話~テヘランの旅

    ・昭和44年1月20日(月)雪後小雨(通行許可書を取得)雪の降る中、パキスタン大使館へ通行許可証を取りに行った。大使館員が、「チョッと待ってくれ」と言うので、私は待った。1時間程で通行許可証(ロード・パ-ミッション)を手に入れた。時間にルーズなイスラム人と言うよりは、大陸的な感覚を持った人にとって1時間位で出来たのは、早い方かもしれなかった。午後、小雨になった。ジェーン、ロンそして私の3人は、バザールへ行き、ザーヘダーンまでのバスの切符(350リアル、約1,680円)を買った。夜、このホテルで出逢った大西さんから、普通サイズの日本の国旗を貰った。今日は寒い1日であった。明日、シルク・ロードの旅に出るので早めに寝た。*テヘランの簡単な印象の話テヘランは私が思っていたより物価が高かった。物によっては、日本よりも高か...通行許可書を取得、テヘランの簡単な印象の話~テヘランの旅

  • 通行許可書を取得、テヘランの簡単な印象の話~テヘランの旅

    ・昭和44年1月20日(月)雪後小雨(通行許可書を取得)雪の降る中、パキスタン大使館へ通行許可証を取りに行った。大使館員が、「チョッと待ってくれ」と言うので、私は待った。1時間程で通行許可証(ロード・パ-ミッション)を手に入れた。時間にルーズなイスラム人と言うよりは、大陸的な感覚を持った人にとって1時間位で出来たのは、早い方かもしれなかった。午後、小雨になった。ジェーン、ロンそして私の3人は、バザールへ行き、ザーヘダーンまでのバスの切符(350リアル、約1,680円)を買った。夜、このホテルで出逢った大西さんから、普通サイズの日本の国旗を貰った。今日は寒い1日であった。明日、シルク・ロードの旅に出るので早めに寝た。*テヘランの簡単な印象の話テヘランは私が思っていたより物価が高かった。物によっては、日本よりも高か...通行許可書を取得、テヘランの簡単な印象の話~テヘランの旅

  • インドへの旅の準備~テヘランの旅

    ・昭和44年1月19日(日)曇り(インドへの旅の準備)朝食は昨日の朝に買った食べ残しのパン、チーズ、そしてオレンジ・ジュースで済ませた。ホテルでゆっくり寛いでから11時30分頃、インドの査証を取りに出掛けた。途中、店に安そうなサンドイッチが売っていたので、昼食用に買った。12リアルであったがパンの大きさと中身の質を考えると、やはり割高感があった。インド大使館へ行ったら査証は出来あがっていた。それを受け取り、ホテルに戻った。夕方、談話室でロンに会った。彼から「パキスタンの通行許可証を持っているか」と聞かれ、「持ってない」と言った。彼の話だと、パキスタンを通過して他国へ行く場合、査証より取得が簡単なRoadPermission(通行許可証)の方が良いと聞かされた。査証はその国の滞在許可証であり、滞在期間は目的によっ...インドへの旅の準備~テヘランの旅

  • スチュワーデスとデート、旅仲間を募集~テヘランの旅

    ・昭和44年1月18日(土)晴れ(スチュワーデスとデート、旅仲間を募集)昨夜宿泊したアミルカビルホテルはテヘラン中心部からそれ程遠くなく、又、日本大使館やインド大使館、或はバザールへ歩いて行ける距離であった。昨夜は寝てからもエール・フランスのスチュワーデスのMさんの事が気になって仕方がなかった。今日、彼女は休みでテヘランに滞在との事、そしてエール・フランスの乗務員が宿泊するホテルは決まっているとの事であった。この2点は昨夜、彼女の話から分っていた。『彼女ともう一度、会って話がしたい』そう言う一途な想いが、私をエール・フランス営業所へ行かせた。最近雪が降ったのか所々、街角に残雪があった。私は市内マップを頼りに、その航空会社の営業所へ行った。「昨夜、テルアビブからテヘランに着いた○○便のスチュワーデスが滞在している...スチュワーデスとデート、旅仲間を募集~テヘランの旅

  • テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話~テヘランの旅

    〇前ブログの続き*テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話それにしても飛行機で到着すると、その国やその都市の様子、方向感覚、お金の価値(換算)、交通の便、或いは地理等が全く分らないので、それが困るのであった。しかも空港から鉄道やバスのアクセスが無ければ、全くの陸の孤島であり、どうしてもタクシーを頼るしかなかった。そして例えタクシーに乗ったとしても、その料金が本当に正当なのか、乗る前に他の運転手にも聞けば良いのであるが、言葉も通じないので、簡単に聞けなかった。しかも料金メーターが頼れるのは、先進諸国の西ヨーロッパと日本だけなのだ。飛行機から降りて来る外国人は、『ネギを背負った鴨に等しい』と言う事を、肝に銘じるべきだと思った。イスラエルに入国した時の乗り合いタクシー(シェルート)もおかしかった。イランは、タクシ...テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話~テヘランの旅

  • スチュワーデスとの出逢い~テヘランの旅

    ・昭和44年(1969年)1月17日(金)晴れ(スチュワーデスとの出逢い)*参考=イランの1リアルは、4.8円(10ディナールは、48銭)住み良い国?・イスラエルを去る日が来た。今朝、キブツ仲間のアメリカ娘のジョアンがバートと共に尋ねて来た。再びキブツの仲間に逢えた事は嬉しかった。ジョアンとバートに再び出逢えた記念に、日本の絵葉書を2枚プレゼントした。ジョアン、バート、そして私の3人は、例のフランス風のレストランへお茶を飲みに行った。我々はお互いに何ヶ月も遠い故郷を離れ、旅愁を感じていたのか、余り語らなかった。否、何も語らずとも胸の内は、お互い分っていたのでした。我々はハッゼリム・キブツで共に農作業をしたり、楽しいパーティをしたり、相撲をとったり、ボクシングをしたり、そして楽しい食事したりして共に1ヶ月間過ごし...スチュワーデスとの出逢い~テヘランの旅

  • 平成18年(2006年)現在の状況の話~エルサレムの旅

    *平成18年(2006年)現在の状況の話『人間(人類)は、勇気と知恵を持っている』と言われておりますが、あれから40年近く経っても、パレスチナ問題は一考に解決されておりません。私が滞在していた頃、ユダヤ人もパレスチナ人もある地域では共に暮らしていた。しかし、現在は高い障壁を築き『一定の地域にパレスチナ人を集めた隔離政策』(ガザ地区及びヨルダン川西岸地区)を取る様になり、双方が暴力の応酬を繰り返されていると言うのが現実です。そして双方の暴力行為は寧ろ悪化の一途を辿って、繰り返されているのが現状であり、私は憂慮しています。(注)この見出しから14年後の2020年になってもパレスチナの現状は余り変わっていない様です。むしろイスラエルはヨルダン川西岸地区を自国領に編入しようと企てていたり、トランプ大統領と組んで首都をエ...平成18年(2006年)現在の状況の話~エルサレムの旅

  • *第4次中東戦争(10月戦争)の話し~エルサレムの旅

    *第4次中東戦争(10月戦争)の話しテルアビブ空港乱射事件の翌年の昭和48年(1973年)10月、第4次中東戦争が勃発した。ナセルの死後、エジプト大統領になったサダトによって企てられ、第3次中東戦争の敗北で失ったシナイ半島の奪還を目指したものだった。戦闘は当初、アラブ側が有利であったがイスラエル軍が反撃し、膠着状態になった。ここで、サウジアラビアを始めとするアラブ産油国は石油戦略を用いた。彼等はOAPEC(アラブ石油輸出機構)を結成し、原油価格を一気に70%も引き上げた。さらにイスラエルを支援するアメリカへの石油輸出を禁止し、又アラブ諸国に協力的でないとみなした国家にも同様の処置を取ると宣言した。これが『石油危機』(第1次オイル・ショック)の原因であり、日本を含む世界経済に大きな打撃を与えた。日本政府はアメリカ...*第4次中東戦争(10月戦争)の話し~エルサレムの旅

  • テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話~エルサレムの旅

    *テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話私がイスラエルを去ってから3年後、昭和47年(1972年)5月31日(水)発行の夕刊の一面に次の様なセンセイショナルな記事が載った。[5月30日(火)夜、日本人ゲリラ3人(岡本公三は生存し終身刑になったが、後に獄中自殺した。岡本公三の兄・岡本武は昭和45年の日航機『よど号』乗っ取り犯の1人で北朝鮮へ亡命。奥平剛士はこの時に死亡、彼は赤軍派最高幹部の重信房子の夫。安田安之はこの時に死亡)がテルアビブ国際空港で軽機関銃を乱射、手投げ弾を数発投げ、乗降客に100人近い死傷者(実際は死者28名、重軽傷者78名)が出た。3人はローマから到着したエール・フランス航空機に乗客として紛れ込んでいたもので、1人は流れ弾で死亡、1人は自殺、残る1人は逮捕された。逮捕さ...テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話~エルサレムの旅

  • デモ騒動と夕日の美しさ~エルサレムの旅

    ・昭和44年1月16日(木)晴れ(デモ騒動と夕日の美しさ)昨夜知り合ったイギリス人から靴を貰った。その靴は歩き易い感じがしたし、私も丁度欲しかったので戴いた。その彼が今朝になって「ベツレヘムへ行くから靴を返してくれ」と言うので返したが、私は考え直し「今日、私はテルアビブへ行くから駄目だ」と言って、彼に返した靴を取り返した。貰った物は既に私の物なのだ。可笑しな話であるが、人に物を与えてから今度返してと言うのである。又、貰った方の私も相手が必要なら返せば良いのであったが、これまた返さなかった。私は気まずい思いがした。エルサレムのユースを去り、テルアビブへヒッチで行った。ヒッチは容易であった。クリスマス・イヴの夜中のベツレヘムからハッゼリム・キブツのヒッチは大変であったし、ベエルシェバから死海へのヒッチは、問題外であ...デモ騒動と夕日の美しさ~エルサレムの旅

  • エルサレム観光と異様なイスラムの祈り~エルサレムの旅

    ・昭和44年1月15日(水)晴れ(エルサレム観光と異様なイスラムの祈り)今日、私は1人でJerusalem(エルサレム)観光に出掛けた。エルサレムはユダヤ教、キリスト教の聖地であると共に、又『マホメットが昇天した地』と言われ、イスラム教にとっても聖地である。三つの宗教が共に『エルサレムは、我々の聖地である』と言っているので、必然的に宗教争いが起こるのも頷けた。中世おいてはイスラム教からキリスト教を守るための十字軍の遠征、第二次世界大戦後はイスラエルの独立に伴う第一次から第三次中東戦争、又その裏にはユダヤ教対イスラム教と言う宗教戦争でもあった。そんな事を思いながらのエルサレムの観光は、本当に意義深いものであった。△エルサレムの城壁内のオールド・シティエルサレムは、新市街(Newcity)と昔から存在する都市・旧市...エルサレム観光と異様なイスラムの祈り~エルサレムの旅

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