・昭和44年1月14日(火)曇り時々雨(キブツを去り、エルサレムヘ)晴れていたら、死海へ再挑戦で行くつもりであったが、やはり天候が怪しく、断念した。イスラエルは雨季に入ったのか、ここ3日間、悪天候が続いた。色々な思い出や体験が出来、そして多くの友達にも知り会えた。又私に対するキブツの持て成しは、同国人や色々な国の一時滞在者と変わりなく扱ってくれた。食事内容も良く、労働していると三度の食事がとても楽しみであった。そんな仲間達やキブツを去る事は本当に辛く、そして寂しい感じがした。しかし私は旅人であり、17日にイスラエルからイランへの航空予約をしてあるので、いつまでもここに居られなかった。昼時、農作業から帰って来た仲間達に別れの挨拶をした。この時に仲間と住所交換した。又オランダ人のバートからは、「中近東、南西アジアは...キブツを去り、エルサレムへ~聖地・エルサレムの旅
・昭和43年12月29日(日)晴れ(同部屋のフランクと喧嘩)今日、同部屋で北アイルランド人24歳のフランクと喧嘩をした。何日か前に、「そうですか」(Isthatso?)と言う日本語をフランクに教えた。そうしたらここ2・3日、フランクは朝から晩まで私と話をする度に、そして私の顔を見る度にそればっかり言っていた。多分、彼からすれば初めて覚えた日本語が珍しいのか、或いはふざけて言っているのであろうと、最初は私もその様に受け取っていた。でも今日は度重なるので『もうバカにされている』、と感じて来て少し腹が立っていた。キブツでは、オレンジをいつでも食べられる様にと、食堂入口付近に山盛りで置いてあった。ジャガイモ畑の農作業が終り、食堂に立ち寄り部屋でオレンジを食べようと2個ばかり貰い、フランクと歩いていた。そしたらそのオレン...ハッゼリム・キブツでの一番の思い出
キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問の思い出今日はクリスマス・イヴであった。所が、イスラエルはキリスト誕生の地・聖地にも拘らず、休みどころか普通と変わりなく、我々はジャガイモ収穫作業をしなければならなかった。ガッカリしたのは私だけでなく、他の仲間達も同じであった。お昼に食堂へ行くと、「夕方、Bethlehem(ベツレヘム)へ連れて行って貰えるから、午後の農作業は早めに終り」の情報が届いた。皆大いに喜びで、午後の農作業に従事した。作業は、3時前に終った。シャワーを浴びた後、他の仲間と共に食堂前に集合した。キブツから1人6ポンドのお小遣い(原則キブツは無賃金で、この様な事は最初で最後)、そしてイスラエル軍及びベツレヘム陸軍総督のクリスマス・セレモニーへの招待状が手渡された。管理者から「招待状は、身分・安全を保証される物...キリストは馬小屋で生れた?
イスラエルの簡単な歴史のおさらいそもそもこの国は、4,000年の歴史があり、紀元前(BC)のソロモン時代、既に最盛期を迎えた。[その基礎を作ったのが、BC1,020年頃の初代の王・サウルであり、その跡を引継いだのがダビデ王であった。ダビデは王国をより徹底して統治する為、BC997年、エルサレムに都を移した。又その息子ソロモンによってエルサレム神殿(『第一神殿』と言われ、今ではその跡に黄金のオマール・イスラム寺院が聳え建っている)が築造され、その中に十戒石板を入れた契約の箱が収められた。その事によって聖都として、エルサレムの地位が確立した。ダビデは、バビロニアによるエルサレム滅亡(BC586年)までのイスラエルの王国史の中で、名君中の名君と称された。神からもイスラエルの民からも最も愛され、その治政はイスラエルの黄...イスラエルの簡単な歴史のおさらい
・昭和44年1月13日(月)雨後曇り(キブツ滞在最後の日)農作業の仕事は、昨日で終りにした。6時頃起きた。晴れていたら気持を改め再度、ヒッチで死海へ行こうと思ったが、空を見上げると雨が今にも降りそうな空模様なので、行くのを諦めた。朝食後、やるべき事が無く再びベッドへ入った。その直後から、やはり雨が降り出し、風も強く吹いて来た。死海へ出掛けなくて正解であった。午後、イギリスのマリアンとミルスおじさんへ手紙を書いたり、荷物の整理等したりして過ごした。夜、我々仲間の例のパーティがあったが、私は行かなかった。キブツ滞在最後の日~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和44年1月12日(日)曇り(最後の農作業と小田君からの手紙)7時にボンに起こされ、彼と食堂へ行った。朝食はいつもと変わらなかったが、朝から卵、野菜サラダ、ヨーグルトや果物が食べられ、私にとって贅沢であった。私のジャガイモ収穫農作業は、今日で最後となった。風があったので、顔中が泥埃だらけになってしまった。ここ何日間は晴れていても以前より暖かくなく、裸になれなかった。段々と寒くなって来たようだ。4時に一日の作業、そして私のキブツの仕事も終り、ホッとした。いつもの様に食堂からオレンジを貰って部屋で食べた。そして昨年の12月23日、キブツから支給された残りのブランディーを全部飲んでから、シャワーを浴びた。それにしても、今日は落ち着かない日であった。『去る』と言う事は、いつもながら寂しさと、今後の旅の不安を感じた。...最後の農作業と小田君からの手紙~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和44年1月12日(日)曇り(最後の農作業と小田君からの手紙)7時にボンに起こされ、彼と食堂へ行った。朝食はいつもと変わらなかったが、朝から卵、野菜サラダ、ヨーグルトや果物が食べられ、私にとって贅沢であった。私のジャガイモ収穫農作業は、今日で最後となった。風があったので、顔中が泥埃だらけになってしまった。ここ何日間は晴れていても以前より暖かくなく、裸になれなかった。段々と寒くなって来たようだ。4時に一日の作業、そして私のキブツの仕事も終り、ホッとした。いつもの様に食堂からオレンジを貰って部屋で食べた。そして昨年の12月23日、キブツから支給された残りのブランディーを全部飲んでから、シャワーを浴びた。それにしても、今日は落ち着かない日であった。『去る』と言う事は、いつもながら寂しさと、今後の旅の不安を感じた。...最後の農作業と小田君からの手紙~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和44年1月11日(土)晴れ(死海へヒッチで行こうとしたら)昨日、仕事が終ってからエンディとDeadSea(死海)へ行く予定であったが、取り止めたので今日、私1人で行く事にした。6時半に起き、朝食を軽く取ってキブツ前からヒッチをした。キブツ前の道は、日中でもポツンポツンと車が走っている程度であった。この道の左方面はネゲヴ砂漠へ、そしてアカバ湾に面するイスラエルでも南の重要な港Eilat(エイラト)へ通じる道であった。20分位待って右方面の車をゲットし、ベエルシェバに8時着いた。歩いて町の郊外へ出た。死海への道は未舗装(土漠の道)であった。イスラエルは人々、建物、社会生活、そして雰囲気も西洋的な感じがするが、ここは確かにアジア地域であり、アラブ、若しくは中東的な雰囲気が漂っていた。泥で出来ている家々、通りはラ...死海へヒッチで行こうとしたら~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月29日(日)晴れ(同部屋のフランクと喧嘩)今日、同部屋で北アイルランド人24歳のフランクと喧嘩をした。何日か前に、「そうですか」(Isthatso?)と言う日本語をフランクに教えた。そうしたらここ2・3日、フランクは朝から晩まで私と話をする度に、そして私の顔を見る度にそればっかり言っていた。多分、彼からすれば初めて覚えた日本語が珍しいのか、或いはふざけて言っているのであろうと、最初は私もその様に受け取っていた。でも今日は度重なるので『もうバカにされている』、と感じて来て少し腹が立っていた。キブツでは、オレンジをいつでも食べられる様にと、食堂入口付近に山盛りで置いてあった。ジャガイモ畑の農作業が終り、食堂に立ち寄り部屋でオレンジを食べようと2個ばかり貰い、フランクと歩いていた。そしたらそのオレン...同部屋のフランクと喧嘩~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)今日はクリスマス・イヴであった。所が、イスラエルはキリスト誕生の地・聖地にも拘らず、休みどころか普通と変わりなく、我々はジャガイモ収穫作業をしなければならなかった。ガッカリしたのは私だけでなく、他の仲間達も同じであった。お昼に食堂へ行くと、「夕方、Bethlehem(ベツレヘム)へ連れて行って貰えるから、午後の農作業は早めに終り」の情報が届いた。皆大いに喜びで、午後の農作業に従事した。作業は、3時前に終った。シャワーを浴びた後、他の仲間と共に食堂前に集合した。キブツから1人6ポンドのお小遣い(原則キブツは無賃金で、この様な事は最初で最後)、そしてイスラエル軍及びベツレヘム陸軍総督のクリスマス・セレモニーへの招待状が手渡された。管理者から「招待...キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月27日(金)晴れ(ジョンの誕生日パーティ)穏やかな日、今日もジャガイモの収穫作業であった。夜、ジョンの所でパーティがあると言うので、行って見たら皆が集まっていた。聞けば、ジョンの誕生日だとの事。それではと思い、オリンピックの100円記念硬貨を持っているので、部屋に取りに行って彼にプレゼントした。彼は大変喜んで受け取った。このパーティでの飲み物は瓶ビールであった。これは仲間がベエルシェバまで買いに行ったのである。同じ部屋のフランクも参加していた。一時滞在者の我々だけのグループで、何度かこの様なパーティ(集まり)があった。ビールだけで、いつもツマミは無かった。パーティは飲むのが目的ではなく、お喋りをしたり、歌を歌ったりして楽しんだ。私の片思いのナンシーは、片時も離れずジョンに寄り添っていて、口惜し...ジョンの誕生日パーティ~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月26日(木)雨後曇り(鶏小屋の清掃作業)6時に起きた。雨が降っていたので、今日のジャガイモ収穫作業は中止になった。その代わり朝食後、作業は鶏小屋の清掃作業になった。臭かったが、我々は小屋をきれいにした。作業後、私は相撲のルールを仲間に教え、相撲を取った。勿論、私は勝ったが、馬鹿力のあるジョンには上から羽交締めされ、相撲ルールにない『ギブアップ』して負けた。鶏小屋の清掃作業~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月26日(木)雨後曇り(鶏小屋の清掃作業)6時に起きた。雨が降っていたので、今日のジャガイモ収穫作業は中止になった。その代わり朝食後、作業は鶏小屋の清掃作業になった。臭かったが、我々は小屋をきれいにした。作業後、私は相撲のルールを仲間に教え、相撲を取った。勿論、私は勝ったが、馬鹿力のあるジョンには上から羽交締めされ、相撲ルールにない『ギブアップ』して負けた。鶏小屋の清掃作業~ハッゼリム・キブツに滞在
キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その2)~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)その2(その1)からの続きこの後、我々キブツ仲間はレストランへ行ってビールを飲もうと言う事で、ある店に入った。店は大勢の人で混んでいて、我々は「小瓶一本1ポンドは高い」と言う事で、他の店を捜した。その店は60アゴロ(52円)であった。これらの店は前の店構え、店内も大して変わらないのに、どうして値段が違うのか。アラブ人は人を見て値段を替える、油断出来ない民族の様であった。ベツレヘムは、六日戦争(第三次中東戦争)前までヨルダン領であった所為か、顔を白い布で覆った多くのアラブ人(ヨルダ人)を見掛けた。レストラン経営者や従業員もアラブ人であった。イスラムの世界では、『アルコールを販売してはいけない、飲んではいけない民族』と聞いていたが、イスラエル領に...キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その2)~ハッゼリム・キブツに滞在
キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その1)~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)その1今日はクリスマス・イヴであった。所が、イスラエルはキリスト誕生の地・聖地にも拘らず、休みどころか普通と変わりなく、我々はジャガイモ収穫作業をしなければならなかった。ガッカリしたのは私だけでなく、他の仲間達も同じであった。お昼に食堂へ行くと、「夕方、Bethlehem(ベツレヘム)へ連れて行って貰えるから、午後の農作業は早めに終り」の情報が届いた。皆大いに喜びで、午後の農作業に従事した。作業は、3時前に終った。シャワーを浴びた後、他の仲間と共に食堂前に集合した。キブツから1人6ポンドのお小遣い(原則キブツは無賃金で、この様な事は最初で最後)、そしてイスラエル軍及びベツレヘム陸軍総督のクリスマス・セレモニーへの招待状が手渡された。管理者から...キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その1)~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月15日(日)晴れ~23日(月)晴れ(ジャガイモの収穫作業)7時前に起き、食事をしてからジープに乗ってジャガイモの収穫作業に行った。9人も一緒にジープに乗るので、ぎゅうぎゅう詰の状態であった。ジャガイモ畑は広く、そしてその向こうは、木一本もない半砂漠の小高い山並みが幾重にも連なっていた。ジャガイモ収穫作業は、キブツ人が大きなトラクターを運転し、掘削機見たいな機械でジャガイモを掘り起こし、振いに掛けてベルトコンベアーで運ばれて来たジャガイモと共に泥の塊や石ころが混ざって来るので、我々の作業は左右に分かれ、その泥の塊や石ころを手で取り除く作業であった。そしてベルトコンベアーの先に麻袋が設置されていて、ジャガイモだけが袋の中へ入って行く様になっていた。従って我々が手を抜くと、泥の塊や石が混ざってジャガ...ジャガイモの収穫作業~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月15日(日)晴れ~23日(月)晴れ(ジャガイモの収穫作業)7時前に起き、食事をしてからジープに乗ってジャガイモの収穫作業に行った。9人も一緒にジープに乗るので、ぎゅうぎゅう詰の状態であった。ジャガイモ畑は広く、そしてその向こうは、木一本もない半砂漠の小高い山並みが幾重にも連なっていた。ジャガイモ収穫作業は、キブツ人が大きなトラクターを運転し、掘削機見たいな機械でジャガイモを掘り起こし、振いに掛けてベルトコンベアーで運ばれて来たジャガイモと共に泥の塊や石ころが混ざって来るので、我々の作業は左右に分かれ、その泥の塊や石ころを手で取り除く作業であった。そしてベルトコンベアーの先に麻袋が設置されていて、ジャガイモだけが袋の中へ入って行く様になっていた。従って我々が手を抜くと、泥の塊や石が混ざってジャガ...ジャガイモの収穫作業~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月13日(金)晴れ(初めての農作業)昨日午後にキブツに入り、今日早々キブツの人に6時前に起こされ、朝食前から温室内の穴掘り作業をキブツ人と共にした。午後は鶏小屋の糞や清掃作業に従事した。私と同年配位のキブツ人との作業で、言葉が通じ合わず気疲れと久し振りの労働で疲れた。夜、中近東の本(深田久弥の「中東の砂漠を自動車で走破」)を読んで過ごした。これは先日、長倉から貰った本だが、後日何処かで紛失してしまった。初めての農作業~ハッゼリム・キブツに滞在
*共に働いたキブツの仲間達の話私の部屋の仲間は2人居た。1人はFrank(フランク)、もう1人はPeder(ピーター)と言う人でした。フランクは、北アイルランド出身の田舎者、髭を生やし、少し太り気味、海賊バイキングに似ていた。彼はイギリス人であるが、アイルランド系なので訛りのある英語を話していた。彼は読書が好きなのか、よく本を読んでいた。少し意地が悪く、私はフランクを好かなかった。ある日、フランクと話をしている時、何度か「Isthatso?」と言ったら、彼が「Isthatso?は日本語で何と言うのか教えてくれ」と聞くので、日本語で「『(あ、)そうですか』と言う意味です」と教えた。その後、彼は事あるごとに「あ、そうですか」とバカの一つ覚えで、口癖になっていた。何回も言うので、私はバカにされている感じがして来た。そ...共に働いたキブツの仲間達の話~ハッゼリム・キブツに滞在
*ハッゼリム・キブツの話私は前記の条件を承諾して、テルアビブのキブツ事務所からこのキブツを紹介され、遣って来た。このキブツの周囲は、鉄条網で囲まれていた。1日数回、銃を片手に管理人の方2名が、その鉄条網に沿って巡回、警備をしていた。私の家(時に、「部屋」とも言う)は、ゲートから一番奥にあった。そこからの光景は、木一本も生えていない、赤茶けた半砂漠的な小高い台地が幾重にも連なり、荒涼とした大地が広がっていた。15キロ~20キロ先はヨルダン川西岸地域で旧ヨルダン領であった。ヨルダン兵やゲリラがキブツに潜入し攻撃して来てもおかしくない地理的な状況を思うと、『少しも不安を感じない』と言う訳にはいかなかった。私の様な一時的滞在者の為の家も、何件もあった。共用のトイレは、キブツ内に何ヶ所かあった。私の部屋の右の奥まった鉄条...ハッゼリム・キブツの話~ハッゼリム・キブツに滞在
*キブツ入所条件の話こちらのハッゼリム・キブツに来る前に、テルアビブのキブツ事務所である条件を提示され、それに署名しました。それでこちらのハッゼリム・キブツを紹介され、来られたのでした。その提示された『キブツ』(日本語にすると「農業共同体、農業共同組織、農業共同部落、或はソーシャリステック・アグリカルチャラル・コミュニティ」等の言い方があるであろう)の入所条件は英文であった。日本語にして、ここに書き留めて置く事にした。【〈一時滞在労働者へ〉簡単に貴方が働くキブツが見付かる様に、この紙面を読んで頂きたいのです。キブツは、貴方にとって不思議な、或は全く理に合わない様に思われるかもしれませんが、習慣や制度を伴った一つの生活の道なのです。例え不思議な現象であったとしても、全体的に見れば通常、良き道理なのです。そして貴方...キブツ入所条件の話~ハッゼリム・キブツの話
イスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、そしてヨルダン人の見分け方(私感)~ハッゼリム・キブツに滞在
*イスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、そしてヨルダン人の見分け方(私感)六日戦争(第3次中東戦争)でエルサレムの旧市街地を含むヨルダン川西岸地域やシナイ半島をイスラエルが占領したので、私が訪れたベエルシェバ、エルサレム、そしてベツレヘムの一帯はパレスチナ人の他に、多くのヨルダン系のアラブ人も住んでいた。イスラエルは又、複雑な地域であった。イスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、そしてアラブ人(ヨルダン人)の見分けは、そんなに難しくなかった。彼等の顔は三者とも似ているが、外見はどこかが違って見分けが出来た。パレスチナ人男性はズボンを履いて、長い手ぬぐい(クーフィーヤ=パレスチナの代表であるアラファタ議長が頭に被っている物)を頭に巻いていた。パレスチナ女性は、ワンピースの様な服で、頭に頬被りをしていた。アラブ人...イスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、そしてヨルダン人の見分け方(私感)~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月12日(木)曇り後雨後曇り(キブツへ行く)長倉はハイファへ旅立った。青山は、2・3日後に何処かのキブツに入ると言う。私もキブツへ行く為、ベエルシェバへヒッチで行く事にした。ベエルシェバは、テルアビブから110キロ程行った所、ハッゼリム・キブツは、その町からさらにネゲヴ砂漠へ15キロ位行った所であった。私の持っている道路地図には、「ハッゼリム」と言う地名は載っていなかった。私は歩いて郊外へ出た。途中、基地へ行くのか、それとも軍服姿(多くは迷彩服)のまま職場へ行くのか、自動小銃を肩から提げている多くの男女の兵士を見掛けた。街の中央では見掛けなかったが、郊外へ出ると古い家並みが沢山あった。そこはアラブの雰囲気が感じられ、パレスチナ人達が住んでいた。町の片隅にひっそりと暮らしている彼等は、スッカリ立場...キブツへ行く~ハッゼリム・キブツに滞在
・昭和43年12月11日(水)曇り(テルアビブの様子)キブツへ行く予定であったが、取り止めて明日にする事にした。長倉もHaifa(ハイファ)へ旅立つ予定であったが、明日行くことになった。所で、テルアビブはイスラエルの首都であるが、イスラエル人の雰囲気として、或は心情として、Jerusalem(エルサレム)を首都にしたいらしい。テルアビブの建物は建国してから建てたらしく、殆んど新しかった。個人の住宅は皆、高床式になっていたのが特徴的であった。6日戦争でテルアビブの街が攻撃させた様な痕は、ロッド空港を除いて私の見た範囲内で全くなかった。イスラエルの人々は、概ね親切、友好的であった。そしてテルアビブは明るく、住み良い感じがする街であった。それでは街の様子が全く平和そのもの、と言う訳ではなかった。街の至る所でやたらと銃...テルアビブの様子~テルアビブの旅
・昭和43年12月10日(火)晴れ(私の誕生日)午前中、長倉とレストランでお喋りし、午後はボーリング場へ行って過ごした。遊ぶ程の金がある訳ではなかったが、誕生日なのに余りケチるのも虚しいし、彼に付き合った。ボーリング場は空いていた。ワンゲームして私の得点は77と100で、彼は140と90であった。我々は帰りにレストランでビール(小瓶1本60アゴロ、約52円)を飲んで、ユースに戻った。今日も無事に、且つ平穏に私の誕生日を過す事が出来た。私の誕生日~テルアビブの旅
・昭和43年12月9日(月)晴れ(日本の10大ニュースと長倉は強かった)昨日、キブツで働く所をテルアビブから余り離れてない所を希望していたが、キブツ事務所の係りの方から「そこは一杯で希望に添えませんでした。明日又、来て下さい」と言われ、今日再び事務所に立ち寄った。そうしたらHazzerimKibbutz(ハッゼリム・キブツ)に決定した。係りの方からそこの住所と行き方を教わった。そのハッゼリム・キブツは、テルアビブから100キロ以上のBeersheba(ベエルシェバ)の町からさらに南下したNegev(ネゲヴ砂漠)の北端に位置する所であった。Sinai(シナイ半島)とDeadSea(死海)の中間地点で、まさに何にもない様な所であった。国境付近では現時点、休戦協定が成立している状態であるが、依然として小競り合いが起き...日本の10大ニュースと長倉は強かった~テルアビブの旅
・昭和43年12月8日(日)晴れ(キブツ探しと長倉君との再会)今日未明、雷を伴った凄い雨が降り、目が覚めた。今朝方もヒョウ交じりの物凄い雨が降った。朝食を取ってから主人に、「キブツに入所したいのだが、如何したら良いのか」と尋ねたら、キブツ事務所の場所を教えてくれた。朝食後、そのキブツ事務所へ行った。その事務所(IchudHakvutzotVehakibbutzim)の方は、私が「キブツへ入所したい」と言ったら、友好的に迎い入れてくれた。入所申込用紙に名前等必要事項を記入したが、この時点ではまだ何処のキブツになるのか、決まらなかった。キブツはたくさんある様で、自分の『何処のキブツへ行きたい』ではなく、事務所側の『何処のキブツで人が足りないので、そちらへ行って下さい』と言う様な関係であった。暫らくすると、日本人1人...キブツ探しと長倉君との再会~テルアビブの旅
*イスラエルの簡単な歴史の話イスラエルに滞在するにあたって、この国の歴史について少し記して置く事にした。そもそもこの国は、4,000年の歴史があり、紀元前(BC)のソロモン時代、既に最盛期を迎えた。[その基礎を作ったのが、BC1,020年頃の初代の王・サウルであり、その跡を引継いだのがダビデ王であった。ダビデは王国をより徹底して統治する為、BC997年、エルサレムに都を移した。又その息子ソロモンによってエルサレム神殿(『第一神殿』と言われ、今ではその跡に黄金のオマール・イスラム寺院が聳え建っている)が築造され、その中に十戒石板を入れた契約の箱が収められた。その事によって聖都として、エルサレムの地位が確立した。ダビデは、バビロニアによるエルサレム滅亡(BC586年)までのイスラエルの王国史の中で、名君中の名君と称...*イスラエルの簡単な歴史の話~テルアビブの旅
・昭和43年12月7日(1968年)(土)曇り後晴れ後雨(シーラおばさんと出会う)その2*今日はイスラエルの『安息日』何はともあれ無事に着陸し、ホッとした。私はシーラおばさんの手荷物を持ち、彼女と共にタラップを降りた。外は雨が降っていた。最近火事があったのか、空港待合室の天井は焼け落ちてポッカリと大きな穴が空き、空が見えた。彼女の話しによると、「昨年の第3次中東戦争時、エジプト空軍の爆撃によるもの」と話してくれた。私は内心、『偉い所へ来てしまった』と思ったが、アラブ諸国とイスラエルはまだ戦争状態である事を承知していた。お世話になったシーラおばさんと、ここで別れなければならなかった。彼女はアテネ空港で私の航空券の事を心配してくれたり、コーラを奢ってくれたり、又彼女と話をしている内に不安が薄れ、搭乗時間が大幅に遅れ...シーラおばさんと出会う~テルアビブの旅(その2)
・昭和43年12月7日(1968年)(土)曇り後晴れ後雨(シーラおばさんと出会う)その2*今日はイスラエルの『安息日』何はともあれ無事に着陸し、ホッとした。私はシーラおばさんの手荷物を持ち、彼女と共にタラップを降りた。外は雨が降っていた。最近火事があったのか、空港待合室の天井は焼け落ちてポッカリと大きな穴が空き、空が見えた。彼女の話しによると、「昨年の第3次中東戦争時、エジプト空軍の爆撃によるもの」と話してくれた。私は内心、『偉い所へ来てしまった』と思ったが、アラブ諸国とイスラエルはまだ戦争状態である事を承知していた。お世話になったシーラおばさんと、ここで別れなければならなかった。彼女はアテネ空港で私の航空券の事を心配してくれたり、コーラを奢ってくれたり、又彼女と話をしている内に不安が薄れ、搭乗時間が大幅に遅れ...シーラおばさんと出会う~テルアビブの旅(その2)
・昭和43年12月7日(1968年)(土)曇り後晴れ後雨(シーラおばさんと出会う)その1*参考=イスラエルの1ポンドは、約86円(1アゴロは、約86銭)アテネを去る日が来た。出発まで私は和田そしてインテリの日本人と共にアラブ大使館(現エジプト)へ行ったり、行き付けでない食堂で昼食を取ったりして過ごした。いつも20ドラクマ以内で食事を済ませていたが、アテネ最後の食事なので2人に合わせ、普段より奢ってしまった。食事後、1人45ドラクマを請求されビックリした。他の2人も一応、『高い』と認識し、店主に抗議した。しかし言葉が通用せず、埒(らち)が開かなかった。この様な状況の下、4ヶ国語も5ヶ国語も知っているインテリも所詮、私と同じであった。そこで和田が主人の見ている前で店の名前をメモした。店を出る際、私は100ドラクマ紙...シーラおばさんと出会う~テルアビブの旅
アテネの人々の話(古代文明の栄光とあの美男美女は何処へ)~アテネで思った事、感じた事
*アテネの人々の話(古代文明の栄光とあの美男美女は何処へ)ギリシャはスペインやイタリアと同様に『シェスター』があり、12時から午後の4時頃まで店を閉めていた。アテネの街を歩いているとする事も無い多くの男性が見受けられ、彼らは何の為なのか、数珠をジャラジャラと弄んでいた。又、道路上でボサーと長時間座っていたり、サイコロを転がして遊んでいたりする光景を街の至る所で目にした。又何もしないでボサーと立っている多くの大人達、若しくはいつ買ってくれるのか分らないのに、宝くじを売っている男性もいた。この様に一般的に余り働いていない多くの男性が目に付いた。そうかと言えば、学校へ行っている様子もない、多くの子供達が働いているのを見掛けた。その反面、家に閉じ籠っているのか、女性が余り見当たらなかった。そんな女性の結婚について、女の...アテネの人々の話(古代文明の栄光とあの美男美女は何処へ)~アテネで思った事、感じた事
*美術品の話ギリシャは、アテネのみならず国中に、又エーゲ海の島々や地中海のクレタ島に数多く遺跡があり、まさに遺跡と美術の宝庫であった。それにも拘わらず、その方面の知識も関心も無く、私が尋ねたのはアクロポリスの丘とアテネの国立博物館だけであった。興味、関心がある人にとっては、折角そこまで行ったのに『勿体ない』と思ったでしょう。しかし、私にとっては『それらは猫に小判』であった。もっとこの国の歴史や美術を勉強しておけば良かった、とつくづく思った。そんな私であるが、アテネの国立博物館へも行って見た。古代の彫刻が主であり、中には幾つかの模写もあった。しかし誰もが足を止める様な有名な美術品は無かった(私が知らなかっただけ)。以下、私の独り言。【古代パルテノン神殿に飾ってあったと思われる数々の彫刻が、ロンドンの大英博物館に陳...美術品の話~アテネで思った事、感じた事
*ギリシャとアテネの印象の話ユーゴスラビアからアテネへ来る途中の車の中から、或はアテネに滞在してギリシャ人の着ている物、生活実態、道路、交通事情、街の商業・経済の様子等を見て、先ず感じた事は想像していたより人々の暮らしは貧しそうであった。物価は安く、旅行者にとって大変有り難いが、経済が停滞している証であった。外国に来てから私は分ったのであるが、物価が安い国は、一般的に経済が停滞して、人々の暮らしは貧しい様であった。それから私が見た範囲でギリシャは全体的に森林が無く、山々は石ころだけで禿山であった。自然保護林、森林がなければ、大雨に対する防災は如何なのか、或いは飲料水の確保は如何なのか、等々の疑問があった。アテネは、私が想像していたよりこじんまりした都市であったで、首都にも拘わらず何処となく(何となく)素朴的と言...ギリシャとアテネの印象の話~アテネで思った事、感じた事
アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話~アテネで思った事、感じた事(古代文明の栄光と現実)
*アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話私はアテネに着いた翌日の11月29日、市内地図を片手に持ち、1人パルテノン神殿を見にユースを出た。アテネは、ロンドンやパリの様な大都会でなかった。従って主な史跡や観光スポットは、殆んど歩いて行ける範囲にあり、バスを使う程ではなかった。そしてこの都市は、アクロポリスの丘を中心に形成され、何処からでもアクロポリスの丘とパルテノン神殿を望む事が出来た。私は地図を頼りに街を散策しながら、アクロポリス方面へ向かった。その丘の少し急坂な小道と石段を上ると、忽然、目の前に巨大な神殿が飛び込んで来た。しかし2,000有余年の風雪の為か、ローマ帝国やトルコ帝国の略奪、破壊の為か、残っているのは屋根を支える一部の枠組みと建物を支える巨大な石柱のみであった。そして神殿の周りには崩れたか破壊された...アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話~アテネで思った事、感じた事(古代文明の栄光と現実)
・昭和43年11月29日(金)~12月6日(金)(堤康次郎と後藤慶太の裏話)昨日、イスラエル大使館へ行って査証申請したが、旅券の渡航先にイスラエルが未記入の為、出来なかった。今日12月2日、日本大使館へ渡航先追加記入をして貰いに、ユースで知り合ったある日本人と共に行った。この際、合わせて東南アジア諸国を追加記入して貰った。我々はこの時、日本大使館でギリシャ移住の日本女性と出逢った。話によると彼女は、ギリシャ人の船員と結婚して、こちらに来てまだ1個月と少しだと言う。その彼女が「私の家に遊びに来て下さい。味噌汁をご馳走します」と言って、家に誘ってくれた。彼女は日本語の飢え、或いは故国が恋しくなって我々を誘ったのか。いずれにしても味噌汁の誘惑に負けた我々は、彼女の後に付いて行った。彼女の家は海岸近くで、ギリシャでは高...堤康次郎と後藤慶太の裏話~ギリシャ・ヒッチの旅
・昭和43年11月29日(金)~12月6日(金)(アテネ滞在と今後の旅)私は今後の旅について、来た道を戻ってテッサロニキからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、マレーシア、タイを経由してシンガポールへ旅立つべきか、寄り道してIsrael(イスラエル)へ行こうか迷っていた。アテネに着いてから今後の旅程について悩んでいると、ある日本人から、「イスラエルのキブツは良いぞ。食事は好きなだけ食べられるし、部屋は勿論、生活必需品全て与えられる。仕事は農業関係だが、ただお金は貰えない」と聞いた。私は『手持金を減らさないで一つの所でゆっくり過ごせたら良いなぁ』と思ったし又、次の理由でイスラエルへ行く事にした。①ロンドンに居る時に陸続きでイスラエル行きを考え、シリアやレバノンの査証収得に動いていたが、戦争状態でシ...アテネ滞在と今後の旅~ギリシャ・ヒッチの旅
国境から一気にアテネへ~ギリシャ・ヒッチの旅(古代文明の栄光と現実)
・昭和43年11月28日(木)晴後曇り(国境から一気にアテネへ)*参考=ギリシャの1ドラクマは、約10円(10レプタは、1円)。昨夜泊まった場所は、ゲヴゲリヤ(マケドニア共和国の国境の町)の郊外であった。今日、このモーテルから国境を歩いて越えようと思い、出立した。30分以上歩いていたら、ユーゴの出入国管理事務所の検問が設けられていた。そこを何の問題なく通過した。その管理事務所を過ぎたら、上り坂になって来た。この辺りは小高い山が幾つか連なっていて、チョットしたハイキング・コース(道は舗装されてなく、山道であった)の様で、この道はトラック1台が充分に通れる幅があった。ここまで来ると大分、温かくなっていた。あれから相当南下して来たし、大陸性気候から地中海性気候に変わって来たからであろう。暖かな太陽が燦々と降り注ぐ、ハ...国境から一気にアテネへ~ギリシャ・ヒッチの旅(古代文明の栄光と現実)
*昼食抜きの理由の話前に書いた様な気がするが、何故昼食を食べずに旅をしているのか、その理由は・・・。ヒッチ・ハイクは基本的に食べたくても食べられなかった。誰かに乗せて貰っている間はお昼だからと言って、レストランや食料品店へ寄って貰う訳にいかなかった。又、降ろされた場所に食料品店や食堂、レストランがあれば良いのだが、無かった。私はヒッチ中、街の中以外に食料品店や食堂を見掛けなかった。特にユーゴのこの街道は町から離れているので、それらしき店が無いのも当然であった。それでは前の日に用意しておけば良いのであるが、泊まったユース等の近くに食料品店があれば良いのだが、大体に於いて無かった。それに前の日に準備しておくのも億劫であったし、第一金が掛かる。食べられなければ食べない、それで我慢をする事が出来た。最近(ロンドンを去っ...昼食抜きの理由の話~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
・昭和43年11月27日(水)晴(「おばさんの家に泊めて」と懇願)昨夜泊った所は、Leskovac(レスコヴァツ)と言う地方都市の郊外であった。此処に来る時に遠く右方向高い位置に幾つも灯が見えたのは、この町の夜景であった。このレストラン兼キャンプ場は、その町から坂を下りて来て、丁字路の右脇に位置する所にあった。軽く食事を取り、ゆっくりコーヒーを飲んでからレストランを後にした。30分間ヒッチした後、トラックをゲットした。割かし直ぐに乗せて貰う事が出来た。200キロぐらい乗せて貰い、TitovVeles(ティトフ・ヴェレス)郊外の幹線道路で降ろされた。私は既にマケドニア共和国に入った。ここ(ティトフ・ヴェレス)は首都・スコピエから60キロ程南下したした所であった。そしてスコピエはこの街道から大分離れているので、通っ...「おばさんの家に泊めて」と懇願~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
*旅人の話ヨーロッパのユース、或いは、その他の宿泊施設で各国の多くの旅人と出逢って来た。一番見かけたのがアメリカ人、その次にカナダ人、イギリス人、オーストラリア人と、如何してか英語を母国語としている国が目立った。そして次にドイツ人、フランス人、オランダ人、北欧人でした。黒人に逢ったのは、スウェーデンのユースの時に1回だけであった。南米人、ソ連及び社会主義諸国の人、東南アジア人、アラブ人や中近東人、インド人、パキスタン人、中国人(中共人)そして南北朝鮮人の旅人とは、一度も逢わなかった。『旅をする』と言う事は、経済的裏付けがないと出来ないのか、目立ったのは先進諸国、所謂アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアを含む西ヨーロッパの人々であった。そして後進国の人達は経済的、政治的に旅が出来ない現状であった。そう言う意...旅人の話~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
*ヤンキースピリットの話今朝、共にユースを出たアメリカ人は、インドやパキスタンをヒッチした、大ベテランの旅人であった。その彼は5年間、世界中旅をしているとの事であった。それにしても男女問わずアメリカ人は、何処へ行っても気後れせず旅をしているので、いつも感心した。アメリカ人の根性(ヤンキースピリット)は、あの西部劇に見られる開拓魂から来ているのであろうか。日本人に無いポジィテブな面があると思った。アメリカ人は、何処へ行っても母国語の英語が使えるし、外国人と接しても“気後れしない態度”(他の国の人々との接触、交流に慣れている民族)、経済的にも我々よりずっと恵まれているので行動の範囲が広く、そして『我々が世界をリードしている』と言う自負を持ち、あの体格で闊歩していた。アメリカ人の精神、言語、社交性、豊かさ、自負、体付...ヤンキースピリットの話~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
・昭和43年11月26日(火)晴後曇(寒風吹く中のパンク事故)昨日、共に観光したカナダ人のヘンリーは「もう一泊する」と言うので彼と別れた。そして私は昨夜遅くユースに到着した5年間も世界中を旅しているアメリカの旅人と共にユースを去り、ベオグラード郊外の街道に出た。彼は私と反対のイタリア方面へ向かって行った。地理や方向感覚が分からず、それに言葉の障害でユースへ辿り着くにも、郊外へ出るのもいつも苦労をするが、それでいて何とはなしにユースに辿り着くし、又自分の行きたい方向への道路に着くから不思議であった。ユーゴの幹線道路は良く整備された片側一車線であるが、絶対的に交通量が少なく、交通信号機が無い平面交差が多かった。今日は如何した訳か、100キロと行かない内に2度、交通事故の惨劇を見てしまった。いずれにしても『私が乗って...寒風吹く中のパンク事故~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
・昭和43年11月25日(月)晴れ後曇り(ベオグラード観光と盗難事件)今日、昨晩知り会ったカナダ人のヘンリーと共に市内と郊外にある古城見物に行った。その古城は、市の北端ドナウ川とサヴァ川の合流した場所でした。古城から市街、ドナウ川とサヴァ川の眺めがとても素晴らしかった。又、城内には中世の刀剣、鉄砲、絵画、骨董類等、数多く展示された博物館があった。素晴らしい古城にも拘わらず、観光客は少なかった。そして、ドナウ川から吹く風は、強く冷たかった。市内見物からの帰りは労働者の帰る時間帯と重なり、路面電車は大変混雑した。ユースに着いたら相棒のヘンリーが、「リックの中からトランジスター・ラジオが無くなっている」と騒ぎ始めた。「Yoshiも調べた方が良い」と言うので、私もリックの中を調べた。すると確かにある筈の万年筆が無くなっ...ベオグラード観光と盗難事件~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
・昭和43年11月25日(月)晴れ後曇り(ベオグラード観光と盗難事件)今日、昨晩知り会ったカナダ人のヘンリーと共に市内と郊外にある古城見物に行った。その古城は、市の北端ドナウ川とサヴァ川の合流した場所でした。古城から市街、ドナウ川とサヴァ川の眺めがとても素晴らしかった。又、城内には中世の刀剣、鉄砲、絵画、骨董類等、数多く展示された博物館があった。素晴らしい古城にも拘わらず、観光客は少なかった。そして、ドナウ川から吹く風は、強く冷たかった。市内見物からの帰りは労働者の帰る時間帯と重なり、路面電車は大変混雑した。ユースに着いたら相棒のヘンリーが、「リックの中からトランジスター・ラジオが無くなっている」と騒ぎ始めた。「Yoshiも調べた方が良い」と言うので、私もリックの中を調べた。すると確かにある筈の万年筆が無くなっ...ベオグラード観光と盗難事件~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
*ユーゴスラビアの話ユーゴは、複雑な国家なのだ。その理由は一つの国家であるが、2つのアルファベット文字を持ち、3つの宗教があり、4つの言葉があり、5つの民族が共存し、そして共和国が6つもあるからであった。『バルカン半島は世界の火薬庫』と学校で教わった事があった。各共和国は第2次世界大戦以前にも何回かの戦火を経験し、分裂と混乱を繰り返して来た。第二次大戦中、ナチス・ドイツに侵略されたが、チートがパルチザンを結成し、勇敢に戦い、その侵略から解放に導いたのだ。大戦後、その偉大な指導者・チート大統領によりこの複雑な国家が統一された。そしてユーゴは、ソ連とは一味異なった社会主義を目指していた。それは同じ社会主義国家であるが、ユーゴの方がソ連と比べて自由な雰囲気に溢れている様な感じがしたし、ある一面、西ヨーロッパ的な感じも...ユーゴスラビアの話~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
*ユーゴスラビアの話ユーゴは、複雑な国家なのだ。その理由は一つの国家であるが、2つのアルファベット文字を持ち、3つの宗教があり、4つの言葉があり、5つの民族が共存し、そして共和国が6つもあるからであった。『バルカン半島は世界の火薬庫』と学校で教わった事があった。各共和国は第2次世界大戦以前にも何回かの戦火を経験し、分裂と混乱を繰り返して来た。第二次大戦中、ナチス・ドイツに侵略されたが、チートがパルチザンを結成し、勇敢に戦い、その侵略から解放に導いたのだ。大戦後、その偉大な指導者・チート大統領によりこの複雑な国家が統一された。そしてユーゴは、ソ連とは一味異なった社会主義を目指していた。それは同じ社会主義国家であるが、ユーゴの方がソ連と比べて自由な雰囲気に溢れている様な感じがしたし、ある一面、西ヨーロッパ的な感じも...ユーゴスラビアの話~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
・昭和43年11月24日(日)曇り(ピーチカと美味しいワイン)中年のおばさんが起こしに来た。時計を見ると、まだ5時半前であった。いくらなんでも起きるにはまだ早過ぎた。早く起こされたので、『ブゥブゥ』独り言を言いながら、又ベッドへ潜ってしまった。6時前、又おばさんが入って来て、「わぁわぁ」訳の分らない事を言いながら今度は、叩き起こされた。何がどうなっているのか、まだ大声でわめき散らしていた。私は何も悪い事をしていないのに、如何して怒っているのか、面食らってしまった。如何もそのおばさんの様子から、『もう遅いので直ぐ起きて、部屋から出て行ってくれ』と言っているようであった。仕方がなく私はペンションを出た。宿泊施設で6時(彼等にしてみれば、『こんなに遅くまで寝ていて』と言う感じであった)に追い出された事は、生まれて初め...ピーチカと美味しいワイン~ユーゴスラビア・ヒッチの旅
社会主義国・ユーゴスラヴィアに入る~ユーゴスラヴィア・ヒッチの旅(荒涼とした原野を越えて)その2
・昭和43年11月23日(土)晴れ(社会主義国・ユーゴスラヴィアに入る)その2(その1からの続き)車はいつしかスロベニア共和国の首都リュブリャーナに入った。神父さんは「今日はZagreb(ザグレブ)まで行く」と言うので、私も願ったり叶ったりで便乗させて貰った。実際に今日、ザグレブまで行けると思ってもいなかったので、内心は大喜びであった。車内から見るユーゴの家々は西ヨーロッパより一目瞭然に貧しく見えた。又、リュブリャーナはそれなりの都会的であったが、街の中はやたらと多くの警察官や兵隊の姿が目に付き、何となくソ連と同じ共産圏の重苦しさ、暗い感じがした。リュブリャーナを過ぎ、快適なドライブが続いた。夕方、トリエステから約250キロ進んだザグレブに到着した。街の中央で下ろして貰い、感謝の気持で神父さんに絵葉書1枚を渡し...社会主義国・ユーゴスラヴィアに入る~ユーゴスラヴィア・ヒッチの旅(荒涼とした原野を越えて)その2
社会主義国・ユーゴスラヴィアに入る~ユーゴスラヴィア・ヒッチの旅(荒涼とした原野を越えて)その1
・昭和43年11月23日(土)晴れ(社会主義国・ユーゴスラヴィアに入る)その1*参考=ユーゴスラヴィアの1Dinar(1ディナール)は25円、1Para(1パラ)は25銭歴史あるトリエステの町から道幅の狭い石畳の道路を国境に向かって歩いた。両側は古い建物が建ち並んでいて、ユーゴスラヴィア(正式名称はユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国。以後「ユーゴ」と言う)へ行く主要道路であったが、走っている車は無かった。道は上り坂になっていてその途中、小さな食料品店があった。お昼用のパンを買おうと思い、店に入った。その店は田舎の商いで、店内は薄暗かった。声を掛けたら奥から出て来たおばさんは私を見た途端、「店から出て行け」と言った様な大声と素振りで、売るのを断られてしまった。如何しておばさんはあんな態度を取ったのであろうか。私の...社会主義国・ユーゴスラヴィアに入る~ユーゴスラヴィア・ヒッチの旅(荒涼とした原野を越えて)その1
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