五重塔解体修理調査から分かることは? 本山寺の五重塔については、柱の銘文や寺記録から、当時の住職 頼富賓毅 の発願により、日清戦争が終わり下関条約が結ばれた1895(明治28)年に斧初めを行い、15年後の1910(明治43)年に上棟式を行...
四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの? 根香寺にはゆかりの怪物がいます。牛鬼です。 今では、境内に立つブロンズの牛鬼像の方が、本尊の千手観音より有名だという話まであります。確かに、千手観音は秘仏で33年毎の開帳ですから・・・...
高松藩主松平頼重が作らせ祈っていた明王たち この寺には、納経所の裏に五大明王堂があります。 その内陣最奥の壇上に中尊不動明王を中心に、等身の四天明王が横一列に並びます。 東方に降三世(ごうさんせ) 南方に軍荼利(ぐんだり) 西方に大威徳(だ...
本堂の毘沙門天立像はどこから来たの? 県立ミュージアム調査研究報告第4号(2012年)は、根来寺の総合調査報告です。仏像については、本尊の秘仏千手観音像(重要文化財)と仁王門の仁王像をのぞく、本堂三件、大師堂五件、五大堂四件の調査が行われて...
ブログの「引っ越し」について Y ahoo!ブログサービス終了に伴い、8月中に下記へ引っ越しすることになりました。「住み慣れたブログ」を去ることは忍びないのですが、遺憾ともしがたし。 長い間ありがとうございました。 宜しければ、下記の引っ越...
根来寺の縁起について、霊場会のHPには次のように紹介されています。 空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとします。その一つである青峰...
近世百姓の生活 四季の農作業を描いた歌川貞虎「豊年万作の図」
近世百姓の生活はどのようなものだったのでしょうか。 中世は絵画といえば、西洋と同じで仏画や宗教画が中心でした。 庶民の姿が描かれることは殆どありませんでした。しかし、西洋では近世になるとフィレンツェでは大富豪の依頼に基づいて肖像画が描かれ始...
本山寺 その起源を奥の院 興隆寺石塔群を見ながら考える 五重の塔から見る本山寺本堂 明治の五重の塔に登って、下に見える鎌倉時代の 国宝の 本堂を見ながら、この寺の起源について私なりに考えました。その視点は 宗教史家の五来重の次の勧めです。 ...
どうして明治になって五重塔が建てられたのか 解体修理が終わった本山寺の五重塔 スリムな印象を受けます 本山寺の五重塔は、三豊平野の中にすくっと立ちランドマークタワーの役割を果たしてきました。遍路道を歩いてくると大和の古寺巡礼のように...
四国霊場・本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか
本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか 文化財協会で改修が終わったばかりの本山寺の五重塔と善通寺の五重塔を見に行くことになりました。明治以後に作られた讃岐の五重塔を実際に見て、登って内部まで身近に観察し、ふたつの塔を比較...
飯山町三谷寺 なぜこんなに多くの建物が建っているの 初めてこの寺を訪ねたときにはいくつかの驚きがありました。 まず額坂線から鉄門に入り、仁王門から境内に至までの長さです。それは雲辺寺の徳島県側からの参道を思い出させるような道のりでした。これ...
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