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toshiw47
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まんのう町
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愛媛県
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2017/07/08

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  • 四国霊場本山寺 五重塔解体修理の調査から分ったことは?

    五重塔解体修理調査から分かることは? 本山寺の五重塔については、柱の銘文や寺記録から、当時の住職 頼富賓毅 の発願により、日清戦争が終わり下関条約が結ばれた1895(明治28)年に斧初めを行い、15年後の1910(明治43)年に上棟式を行...

  • 四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの?

    四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの? 根香寺にはゆかりの怪物がいます。牛鬼です。 今では、境内に立つブロンズの牛鬼像の方が、本尊の千手観音より有名だという話まであります。確かに、千手観音は秘仏で33年毎の開帳ですから・・・...

  • 四国霊場根香寺 高松藩主松平頼重が作らせ祈っていた明王たち

    高松藩主松平頼重が作らせ祈っていた明王たち この寺には、納経所の裏に五大明王堂があります。 その内陣最奥の壇上に中尊不動明王を中心に、等身の四天明王が横一列に並びます。 東方に降三世(ごうさんせ) 南方に軍荼利(ぐんだり) 西方に大威徳(だ...

  • 四国霊場根香寺 本堂の毘沙門天立像はどこから来たの?

    本堂の毘沙門天立像はどこから来たの? 県立ミュージアム調査研究報告第4号(2012年)は、根来寺の総合調査報告です。仏像については、本尊の秘仏千手観音像(重要文化財)と仁王門の仁王像をのぞく、本堂三件、大師堂五件、五大堂四件の調査が行われて...

  • ブログの「引っ越し」について

    ブログの「引っ越し」について Y ahoo!ブログサービス終了に伴い、8月中に下記へ引っ越しすることになりました。「住み慣れたブログ」を去ることは忍びないのですが、遺憾ともしがたし。 長い間ありがとうございました。 宜しければ、下記の引っ越...

  • 四国霊場・根来寺 寺の縁起を絵図に読む

    根来寺の縁起について、霊場会のHPには次のように紹介されています。 空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとします。その一つである青峰...

  • 近世百姓の生活 四季の農作業を描いた歌川貞虎「豊年万作の図」

    近世百姓の生活はどのようなものだったのでしょうか。 中世は絵画といえば、西洋と同じで仏画や宗教画が中心でした。 庶民の姿が描かれることは殆どありませんでした。しかし、西洋では近世になるとフィレンツェでは大富豪の依頼に基づいて肖像画が描かれ始...

  • 四国霊場本山寺 その起源を興隆寺の石塔群を見ながら考える

    本山寺 その起源を奥の院 興隆寺石塔群を見ながら考える 五重の塔から見る本山寺本堂 明治の五重の塔に登って、下に見える鎌倉時代の 国宝の 本堂を見ながら、この寺の起源について私なりに考えました。その視点は 宗教史家の五来重の次の勧めです。 ...

  • 四国霊場本山寺・どうして明治になって五重塔が建てられたのか

    どうして明治になって五重塔が建てられたのか 解体修理が終わった本山寺の五重塔 スリムな印象を受けます 本山寺の五重塔は、三豊平野の中にすくっと立ちランドマークタワーの役割を果たしてきました。遍路道を歩いてくると大和の古寺巡礼のように...

  • 四国霊場・本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか

    本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか 文化財協会で改修が終わったばかりの本山寺の五重塔と善通寺の五重塔を見に行くことになりました。明治以後に作られた讃岐の五重塔を実際に見て、登って内部まで身近に観察し、ふたつの塔を比較...

  • 丸亀市飯山町の三谷寺

    飯山町三谷寺 なぜこんなに多くの建物が建っているの 初めてこの寺を訪ねたときにはいくつかの驚きがありました。 まず額坂線から鉄門に入り、仁王門から境内に至までの長さです。それは雲辺寺の徳島県側からの参道を思い出させるような道のりでした。これ...

  • どうして讃岐の三豊の古墳に阿蘇石の石棺が使われているのか?

    どうして讃岐に阿蘇石の石棺が運ばれてきたのか。 観音寺の琴弾八幡神社の裏の山からは有明海をバックに寛永通宝の砂絵が松林の中に描かれているのが見えます。 広がる海は、燧灘。古代にはこの海を越えて九州から、重い石棺がはこばれてきたようです。三...

  • 金毘羅街道を行く 丸亀街道スタート編(丸亀市内)

    金毘羅参拝道 丸亀街道を行く その1 丸亀市内編 街道めぐりを続けています。何の変哲もないような道を歩いていて、そこに古い道しるべとともに「歴史」の一コマがさっくりと顔をのぞかせ、それを垣間見るような体験をするのは、私にとっては楽しい体験で...

  • 金毘羅さんの奥社に祀られているのは修験道の山伏?

    近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか? 当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルです。 幕末の勤王...

  • 金毘羅さんの桜の馬場と五人百姓の由来

    桜の馬場と五人百姓の由来 金比羅大芝居が始まる頃が、金毘羅さんの櫻の見頃になります。 いつものように原付バイクで、牛屋口経由の近道ルートでアクセスするとここに出てきます。 ここは五人百姓のひとつ笹屋さんのお店。 振り返ると石段が続きます。 ...

  • 絵図と写真で追う四国琴平 金堂と高灯籠

    ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。 まずは、 本堂(現旭社)の再建工事 が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。 「金堂上梁式の誌」には 「文化十酉より天保...

  • 琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代 その3 琴電

    琴平に3番目に乗り入れた琴電(コトデン) 第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。 今回は3番目に乗り入れてきた琴電(コトデン)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック 1899 讃岐鉄道...

  • 四国琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代 その1 琴平参拝鉄道版

    琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代 1889年に丸亀ー琴平間にマッチ箱のような小さな客車4両の汽車が走り始めます。しかし、以後30年間、土讃線は南に伸びることはありませんでした。第一次世界大戦後にやっと財田までの延長工事が始まります。...

  • 土讃線の琴平・讃岐財田間の開業について

    土讃線が琴平から讃岐財田駅まで伸びたのはいつ? 1889明治22年5月21日に、丸亀・琴平を結ぶ讃岐鉄道が開通します。 多度津駅構内での式典に参列した大久保�之丞は祝辞を述べ「鉄道四国循環と瀬戸大橋架橋構想」を披露します。そして、8年後には...

  • 香川県で最初に汽車を走らせた讃岐鉄道

    香川県で最初に汽車が走ったのはどこ? 多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。 本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。 ...

  • 琴平以南に電灯が点ったのは百年前 そこには増田穣三・一良の姿が・・

    琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか? 今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に...

  • 増田穣三評伝 目次 2019版

    増田穣三評伝 1 塩入駅前の増田穣三像を見ながら https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48586881.html 増田穣三評伝 2 まんのう町七箇春日と増田家 https://blogs.yah...

  • 増田穣三評伝 5 七箇村議会開設と増田穣三

    明治23年 七箇村議会開設と増田穣三 増田穣三に関しての資料は少ない。日記や手紙・私信等は戦争末期の高松大空襲の際に居住していた家屋が焼け、ほとんど残っていない。写真類も少ない。いわゆる「根本資料」がない。そのため周辺部から埋めていき人...

  • 讃岐でも流行した阿波人形浄瑠璃

    浄瑠璃の義太夫としての増田穣三 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を...

  • 増田穣三評伝 1 塩入駅前の増田穣三像を見ながら

    やってきたのは塩入駅 立っているのが増田穣三像 いまは無人駅となり乗降客もめっきり少なくなった塩入駅。 その駅前の広場の東の隅の方にぽっつりと立っている銅像。 近づいてよく眺めてみる。 なで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いている...

  • まんのう町出身の国会議員 増田穣三伝

    まんのう町出身の国会議員 増田穣三伝 塩入駅前の銅像は何者なの? https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/47601828.html?type=folderlist 増田穣三像の台座碑文について h...

  • 国史跡 まんのう町の中寺廃寺 石組遺構は何のためにつくられたの?

    中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの 中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。 ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。 Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。 ...

  • 国史跡 中寺廃寺について Q&A

    中寺廃寺について、分からないこと、分かったこと 中寺廃寺は大川山に近い山の中にある「山林寺院」として「国史跡」に指定されています。しかし、地上に残るものを見てもその「ありがたさ」が私にはもうひとつ理解できません。そこで自分の疑問に自分で答え...

  • 讃岐への真宗布教 海からの「教線拡大」はどう進められたか?

    讃岐への真宗布教 海からの「教線拡大」はどう進められたか? 浄土真宗の中讃への布教は、 阿波の安楽寺が布教センター だったことを前回にお伝えしました。それは興正寺派の教線拡大につながりました。しかし、真宗の伝播には、 もう一つ、海のルートが...

  • 中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして?

    中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして? 中讃地域では仏さんの前で正信偈があげられ「南無陀弥陀仏」の六文字が称えられることが多く、真宗信者の比率が非常に高いと感じます。 資料を見ると 県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が...

  • 丸亀駅と福島町は海で隔てられていた?

    丸亀駅裏に「新町」ができるまでのお話 「丸亀駅近くの線路の北側は明治の末ごろまでは海であった。 福島町はそこに浮かぶ中洲だった」と聞きました。本当 でしょうか? いろいろな資料からそれを探ってみましょう。まず丸亀市史には 中世には「旧四条川...

  • 多度津藩葛原村の庄屋の日常業務は?

    江戸時代の庄屋(村役人)さんの「日常業務」とは、どんなものだったのでしょうか。 多度津・葛原村の庄屋を長く務めた木谷家には、享保から文政までのほぼ一世紀間、葛原村のさまざまな日常生活の様子が文書として記録されています。木谷家の歴代当主の残し...

  • 江戸時代 多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

    多度津・千代池の改修工事はどう進められたか 千代池からの大麻山と五岳 前回は金倉川の付け替えによって廃河跡が水田として開発され、 河道を利用してため池が次々と作られたこと、 その開発リーダーが多度津・葛原村の庄屋・木谷家であった という「仮...

  • 多度津の豪農木谷家 なぜ安芸から讃岐に移住したのか

    多度津の豪農木谷家 なぜ安芸から讃岐に移住したのか? 以前に書いた「丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川」 https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48569679.html で、丸亀市史を参考にしながら次のよう...

  • 空海が学んだ虚空蔵求聞持法とは

    虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが 「道慈→善儀→勤操→空海→道昌」 であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。 虚空蔵求聞持法とは...

  • 空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか?

    空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか? 空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。 真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長...

  • 丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川

    丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川 丸亀平野を南北に流れる金倉川については 「近世に作られた人工河川」説 が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。 また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでし...

  • 讃岐秦氏と田村神社について

    讃岐秦氏と讃岐一宮について 渡来系の讃岐秦氏については、いろいろと「謎」が多いようです。讃岐秦氏の動きを追ってみることにします。 秦氏の拠点はどこ? 讃岐における秦氏の分布を表にすると、東から大内郡・三木郡・山田郡・香河郡・多度郡と、讃岐十...

  • 空海=摂津・生誕育成説の小説「釈伝 空海」について

    小説「釈伝 空海」について 前回は「空海=母・阿刀氏の本拠である摂津・生誕生育説」が研究者の支持を集めていることをお伝えしました。昨年には、この説に基づく小説「釈伝 空海」も発表されています。小...

  • 空海が生まれたのは摂津の母親の実家 阿刀氏の館?

    空海=摂津・生誕養育説を追ってみると・・・ 空海の母親については、「玉寄(依)御前」とする伝承が広く伝えられてきました。私も、小学校ではそう教わりました。現在も善通寺市内の小学生達が使う郷土学習副読書には「空...

  • 円珍(智証大師)の家 和気氏の「改姓申請」戦略は?

    円珍が残した 和気氏の系図 前回見たように八〜九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。 その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)...

  • 讃岐豪族の平安時代の改姓申請の背景は?

    新しいアイデンティティーを求め、改姓申請 香川県史の年表を眺めていて気になることがいくつかあります。 そのひとつに9世紀前後に、豪族達の改姓申請や本貫地の変更申請が数多く見られことです。少し並べてみると 791 9・18 寒川郡凡直千継らの...

  • 写経プロジェクト行った讃岐の古代豪族舎人国足

    仏教経典100巻の写経プロジェクト行った讃岐出身の豪族 8世紀半ばに、聖武天皇が国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じた頃に、仏教経典「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクトを開始した讃岐出身の豪族がいました。 山田郡殖田郷(現在の高松市東植田〜...

  • 「ごうつくで がいな女?」 三木郡の古代豪族の妻 広虫女について

    「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女 空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』をまとめます。これは、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいな...

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