と担任のK先生はおっしゃったが、「多分大丈夫でしょう」「僕はD大を受けるけど、他の人も受けるんでしょう」「その中でTOPの成績なんだから問題無いでしょう」。だが内申書の提出期限が迫る中で、担任のK先生は書いてくれなかった。それを見て教頭のI先生が、「K君今日中に書いてやれ」と怒り心頭だった。K先生は。「分かりました、今日中に書きます」。そのくせ私が試験の前日にK先生に電話をしなかった事に、「心配で仕方ないんじゃ」。その頃はまだ新幹線が岡山までしか通っていなくて、(翌年の4月から広島まで開通)福山では特急列車で約3時間かかって大阪に着いた。12月に推薦試験があるのは私がクラスで1番最初で、K先生としては最初に受けた生徒が受かって欲しいと言う思いもあったと思うのだが。結果は3科目英国社で特に政経を選択したのが決め手...「それでええんか」
なって、クラスも組み換えになって文科系のクラスになったが、3Eと言うクラスは変わらなかった。勉強をしないのは相変わらずだが、1学期の中間テストが終わった後に担任のK先生に呼び出されて、「小川君このままじゃ希望する大学に入れんぞ」「全体の君の成績を1割UPしなきゃ」「分かりました」。で、期末テストの1週間前から1日に2時間の勉強時間を1日3時間に伸ばして期末テストを受けた。すると、「小川君、やれば出来るじゃないか」「ちゃんと1割UPしている」「まあ1日3時間勉強をしましたので、1週間前にだけ」「小川君それ程勉強をしなかったのか?」「はい」K先生は呆れていた。1E、2Eと言う学校内でも有名な所から組み換えで普通の学級になったことで、何のストレスも無かったからだ。担任の先生も「やれば出来るじゃないか、もっと上を目指せ...高3に
共学だが、私がいた頃は男子校だった。高1の時は落ちた高校によって「ああ、やっぱりS高は出来が違うな」とか「M高は私と大体おんなじだ」と勝手に比べていた。30位以下がM高を落ちたのは大体判ってはいるが、口に出しては言えない。現在はE高も中々難しくなっている学校だが、私の時代は私の時だけレベルが高くて、それ以降はぐっと生徒数が増えて偏差値も下がっていた。東大卒の先生もいたが、それは他校との掛け持ちでそれが許されていた。実にいい加減だ。だから勉強をする生徒には教えるが、しない生徒にはほったらかし。当然ながら私もしない生徒だった。高2の頃はIVYが流行っていて、兎に角私はIVYに夢中。私の家は工場を経営していたので、親父は骨董品と庭木三昧。それと灯籠。かけた金額は高2当時で楽に1億は超えていた。親父は「どこでも良いから...現在は
一学期(夏休みまでは)学食で済ませていたが、親父がお袋に、「弁当位作ってやれ」と弁当を持っていったのだが、元々家事が得意ではなかったので何時の間にか再び学食に戻っていた。カレーは2,3年生に度々食われるので、天ぷらうどんか天ぷらそば。身長はと言うと中1の時が132㎝高1の入学時が152㎝、相変わらず身長は低かったが大学の2回生の時は167㎝と普通よりちょっと低い位に伸びた。公立高校を落ちたので、すっかり勉強をする気が失せて全く勉強をしなかった。高1の2学期までは全く勉強をしなかったにも関わらず、S高、I高、F高を落ちた人がほとんどだから47人中30位の成績は健闘していたと思うが、流石に3学期は37,8位と勉強をしなかったつけがモロに出て、しかも2年の時はは組み換えがなかったので成績は下がる一方。それでも勉強をし...高1の
そろそろ尽きたので、もう1度40数年前の大学時代に戻って見たい。土佐錦魚の話は3月上旬からしてみたい。まあこれも二番煎じなので土佐錦魚の話しか興味が無い人はスルーしてもらっても一向に構わない。大学時代の1期生の頃は、前期はほとんど授業に出なかった。それと言うのも応援団の勧誘が前期はあったからだ。私の母校は私立のE高校だったが、福山市内では1番大きい高校だった。私が高校に上がる時に三吉町から千田町に代わって、それまでは偏差値もぐじゃぐじゃで広島県だけでなく岡山県の井原市や笠岡市まで生徒を集めていた。ただ単に新校舎の資金集めのためだ。だから私の時は普通科5クラスと商業科の2クラスの合わせて7クラスしかなくて、270人位とF市のF高校よりも少ない人数だった。あまりにも少ない数だったので2次試験も行ったが、2次試験で入...ネタも
全国大会は池袋で開催されたわけだが、前回の名古屋とは違って当歳魚に力が入っていた。田中さんは「親魚でやっと完成するんですよ」とは言っておられた訳だが、土佐錦魚もランチュウに習ってほとんどの方が当歳魚がメインだったと思う。結果から言うと親魚が2位と4位、当歳魚が優勝魚と10位と言う物だった。他のホームページでは私の魚が優勝魚になっていないが、それは誤りでありN氏のブログでもUPされている方が正しい。まあ10年近く前の事なのでどうでもいい話だが。田中さんは細かいことにとにかくうるさい。10位になった当歳魚などほんの少し鰓が捲れているだけで、10位に落とされた。まあ納得だが。この魚は10月下旬に軽い鰓捲れてに気付いたので、慌てて眉毛切り用のハサミで切り取ったが僅かに残った部分が切り取れなくなって、それを田中さんは見逃...第4回目の
全国大会は2010年の11月の第3週の日曜日に行われている。第4週の日曜日だと如何にも肌さむすぎなので。それに名古屋が担当になっているため、室内で行われるので寒さを気にする必要がなくなったためだ。審査委員長は泉さんで、審査員は再び7名になった。それは関東土佐錦魚保存会の方が1名しか来られなかったためだ。審査はいつも通り親魚から始まったが、結果を言えば私の魚が1位で、ギャラリーの言葉を借りれば「ぶっちぎりの1位」らしい。まああくまでもギャラリーの言葉なので。ただ出した魚は1匹だけで、種魚だけしかいなかったのが全てだ。続けて2歳魚の部に入ったが、1位は文句なしのS君の魚。私の魚は素赤で目立った欠点はなかったが、優勝魚に比べてみても返しの部分で明らかに劣っていた。で、私の魚は辛うじて2位、皺たるみの無いところが選ばれ...第3回目の
親魚は2位10位と健闘したものの、2歳魚は3位と7位、当歳魚に至っては10位と13位と振るわなかった。振るわなかった理由は11月の第4日曜日に開催された事もあって、特に2歳魚は池袋の大会では2位と健闘したものの、全国大会の1週間前にひっくり返ってしまって、品評会の当日には何とか立ち直ったものの、実に弱弱しく「やっぱり品評会は無理だったな」。面被りの更紗は数年振りに出たのだが、この魚以外にももう1匹出ていた。その魚は出さなかったけれど。1か月前の時点では皺もたるみも全くない優勝魚に近い魚だったが、11月に入った途端に軽い皺が出ていて、池袋の大会では2位、20日の時点では皺が大きくなって、3歳の春の時点で流した。当歳魚は全く不本意な物だったが、レベルが高くて「まあこんなもん」と諦めた。審査終了後に他の人は気随ていた...だがしかし
馬鹿にしていた訳ではなくて、ただ飼い方が上手ではないだけだった。何時も会う度に、「あの魚はどうなったんですか?」「殺したんだよ」「でもまだ3歳でしょ」「餌のやりすぎかなーー」「金魚は1~2週間餌を与えなくても死んだりしませんから」「なーーんだ、そうだったの」とまた高笑い。その時の品評会では親魚の部で5位に入ったが、「初めて5位に入ったよ」とまたまた高笑い。佐藤さんがいるだけで、周りが明るくなる。多分5位にしか入れなかったのはサイズ不足を指摘されていたためだと思う。後ろに皺たるみが全くないのにだ。で、話はとんでもなくそれてしまったが、2009年の全国大会の親魚の部門では、私の魚は結果は2位と10位だった。優勝はトサキン保存会と関東土佐錦魚保存会の両方に所属しているKさんだった。素赤で4歳になっていたので大きさも十...決して
翌日は、高知城の境内で集いは開催されたのだが、寺澤さんは土佐錦魚を1匹も持って来なかった。集いは良い土佐錦魚は上げるものの、順位付けはしない。この年は私と泉さんが選ばれたのだが順位付けはしなかった。毎年トサキンの集いは賑やかに行われており一般の方も沢山見学に来られ、出品者も幅広く来られた。出品料は2千円で出品しない方はタダ。その代わり会報も出ない、はがき代やその他諸々に消えるのだ。2001年から集いは始まったと思うが、最初からほぼ毎年参加していたのが佐藤さんだ。2002年には佐藤さんが、「小川さん、この2歳魚2匹15万で譲ってよ」「絶対に譲りません、10万なら譲ります」「ほんと、10万でいいの、よしこの魚は俺の物だ」と上機嫌で発泡スチロールにビニール袋を押し込んだ。「わーーはーーはーーは」と言う大きな声が響き渡...その
広島開催なので私が担当したが今回は8名が審査するので、私は8人の中の1人に過ぎない。いくら「1位はこの魚だ」と言っても他の人が推さなければ1位では無い。話は変わるが11月の第1週の文化の日の前の土曜日に、名古屋の泉さんに午前10時頃に新幹線で福山駅まで寄っていただいて私の魚を見たもらった。その後に町内のお好み焼きを食べて高知に向かったのだが、それには理由があった。高速を高知を過ぎて次の土佐市で降りて向かったのは寺澤さんの自宅だった。もう何度も訪ねたところだが、相変わらず良魚であふれていた。「種魚ばかりやけんど」と寺澤さんは言うが私と泉さんの目には品評会魚ばかり。「どうしてとさきんの集いに出さないんですか?」「順番つけるのいややき」。「それより気に入った魚がおったら持って行ってもかまんきねーー」。それではと赤勝ち...審査員長は
全国大会は11月の第4週の日曜日に開催されていたと記憶している。ランチュウの全国大会もとっくに終わっている時期であり、高知生まれの土佐錦魚にとってかなり苛酷な時期だった。第2回目の全国大会と言う事もあって、広島市で開催されると言う事も考慮して11時の開催にしたのだが、西日本支部の人は10時集合(9時にはほとんどの人が集まっている)、中日本支部の人も10時にはほとんどの人が集まっていたのだが、東京と関東の1部の方が11時になっても現れない。11時半過ぎにようやく現れたが完全に遅刻。田中さんも前日の夕方に近くのホテルに泊まったのだが。西日本支部の人達が9時に集まったのは理由があって、洗面器に水を貯めるのに4,50分かかるからだ。区役所と言う場所がら故何事にもきっちりしている。また親魚、2歳魚は洗面器の容量が多いので...2009年までは
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