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  • 10位から

    6位にも私の魚は入っていなかった。その後急に田中さんが、「この2匹が1位と2位だから、残った3匹で順位を決めよう」。田中さんを前にしては誰も異を唱える人はいなかった。1位2位は1匹は私の魚だったが、もう1匹は他の人の魚だった。3匹で3位から5位を決めたのだが、後で集計を見るとほとんどの人が私の魚を3位に指示して下さった。後の魚は西日本支部のS君の魚だった。その後に1位2位を決めたが1人を残して全員が私の魚を1位に推して下さった。優勝したことは嬉しかったのだが、2週間前の池袋の品評会で5位だった魚が優勝して、3位だった当歳魚が同じく3位と私見ながら「順番が逆じゃないの?」と内心思ってしまった。1位の魚は後ろの大きさが十分にあって返しもまあまあ、角度も180度と品評会の基準を満たしている。だが3位の魚は泳いだ時は1...10位から

  • 当歳魚は

    20位まで順位が付けられたが、その順位もまず20位から16位までの順位を付けた。内心、「ここの順位に来る事はないだろう」と思ってはいたが、7名で順位を付ける訳だから何があってもおかしくない。だがやはり所謂まともな順位付けだった。軽い皺やたるみが有ればまず上位には行かない訳だし、部門が2匹までと限定されているので、所謂種魚が出される事はまず無い。例え各支部で上位に入ったとしても、全国大会では簡単には通用しない。11月の第2週の日曜日に出した当歳魚は3位と5位で、それをそのまま出した訳だが2名の審査員で決める池袋の大会とは違って7名の審査員が決める訳だからそうは行かない。2週間前では5位と3位に甘んじたものの、「多分全国大会では違った結果が出るはず」と思っていた。「次は15位から11位ね」またまた私の魚はその順位に...当歳魚は

  • 全国大会での

    2歳魚の結果を先に言えば私の魚は2位と10位。十分な成績だったと言える。審査員の2名が私の未退色の魚を優勝に推したが後の3名以上が大賀さんの素赤の2歳を優勝に推したので、決まってしまっていた。勿論私も大賀さんの素赤を1位に推したのだが、何故か田中さんは私の魚を1位に推していた。後日電話で田中さんに2歳の事を聞くと、「実はね、あれほど返しが見事な魚は高知じゃ見るけど東京じゃ見る事はないんですよ」「11月の第4週の日曜日だから寒くて確認出来なかったけど、あの魚はオスですかメスですか?」「メスです」「ええーー、あれだけ返してるのにメスですか」「来年卵を採ったら幾らか分けて下さい」「全然構いませんけど、ひっくり返えらないかそれだけが心配なんです」興奮気味に私に田中さんは私に話した。「とにかくあれだけの返しは東京じゃ見た...全国大会での

  • 久しぶりに

    2008年の全国大会を見てみると、各魚2匹に限定されていたので、流石に「これはどう見ても種魚でしょ、何で出品したの」と言う魚は見当たらず、かなりレベルの高い品評会になった。まず親魚は大賀さんが優勝したのだが、左側の鰓が幾分捲れており、私は優勝魚に推さなかったが他の6名の審査員の方が推したので優勝した訳だが、実はこの魚は2歳の8月に「良かったらこの魚を貰ってやって下さい」「ええん、ちょっと鰓が捲れてるだけで、他は何にも悪い所が無い魚じゃけど?」「まあ品評会に出せば上位に間違いなく入れる魚ですけど」「なんぼ払えばええん」「無償です」「ほんまに」「気が変わらん内に袋に詰めとこう」。2歳の時に分譲したのが2005年だから3年を経ているので5歳になったと思うが、私が飼えば衰えが見えて品評会には使えないはずなのだが、大事に...久しぶりに

  • 翌年度の

    99年の春に田中さんから電話があり、「東京の田中です、今年は幾らか土佐錦魚を分譲してもらえませんか?」突然の事で凄く戸惑ったが、「それは構いませんけど、私の魚で良いんですか?」「実は隣の家の人が何の連絡も無しに農薬をばら撒いたんですよ」「そのせいで大半の土佐錦魚が死んだんです」「抗議にも行けないし、黙っているしか方法がないんですよ」。「もう1回ばら撒かれたら全滅しちゃう」。「もう1度お尋ねしますけど、本当に私の魚でいいんですか?」「小川さんの魚はかなり良い魚ですから」「分かりました、数回に分けて送りますので」10月までに数回送ったが、品評会魚も含まれていた。品評会の日に送った金額を渡されたが、その金額は11,2万と記憶している。「いやーー、助かりましたよ」と田中さんとも一層仲良くなった。で、品評会の結果を言えば...翌年度の

  • 98年を境に

    少しは私の名前も知られるようになった。ほんの少々だが。もちろんこの頃はT県の人に分譲をしたのが初めてで、酸素ボンベを購入したのも95年から。それも中島さんに「今度はなくなったら、入れてあげるけーー」と初期費用は2万8千円かかったが、それ以降はタダだった。だからボンベも最小の0,5Lで持ち運べるボンベだった。その頃は分譲するという気が全くなかったので。まあそれよりもパソコンを初めて買ったのが2000年の2月で、98年はシャープの液晶ビューカムの時代だった。だから品評会が終われば直ぐに画面を見ながら撮るのに必死だった。98年の品評会では当歳魚は2位、3位、18位だったが、それは多分1位が退色済みの赤勝ちの更紗であり、どうしても退色済みの方が優先される。田中さんも、「やっぱり金魚は色変わりしているのがどうしても上位に...98年を境に

  • 前にも

    書いた通り、井上さんは野中さんと考え方が合わず、2000年頃には会を辞めていた。95年頃にはあれほど沢山いた会員も徐々に減ってしまっていた。井上さんも会を辞めてからは目的がなくなって、土佐錦魚飼育がおろそかになって専らソフトボールに熱中していた。話は変わるが、98年の品評会で一躍上位に入ったことで、数名の方から当歳魚の分譲の依頼を受けた。T県の郵便局に務める方は、「2万円程譲って戴けませんか?」「それくらいでしたらお譲り致します」。数名の方からの分譲の申し出だったが、その程度が精いっぱいだった。何しろまだその頃は丸ハチ30鉢程度だったので。結局12匹譲ったのだが、魚を送った次の日夜にT県の方から電話があって、「良い土佐錦魚を12匹も譲って戴いて有難うございました」「いえいえほんの種魚ですので」「種魚にしては随分...前にも

  • 寺澤さんに

    言われた通りにそれまで抜きたくても抜けなかった稚魚を、いや応無しに捨てられた事で不良魚がいっぺんに減った。捨てられた事で稚魚が以前にも増して大きくなった。だから8月になればあまり大きくしては良くないので、餌の量を減らした。2歳、親魚は人工飼料(アユ餌)で十分だが、当歳魚にだけは相変わらず糸目頼みだった。9月になると高知の井上さんが、「石の品評会が広島市であるき、その前にちょっといかしてもらうわ」と9月半ばの日曜日の午前中に訪ねて来られて、「2歳、親魚はまあまあやね」。9月半ばだから当歳魚は1鉢5匹に減っている。「こらええわ」と1,3トンの2個のタンクの隣の鉢に見入った。「6月に15匹だけ残った寺澤さんの兄弟掛けの2歳魚同士の当歳魚なんですけど、現在は1鉢5匹だけです」「こら優勝に近い魚やで」「とにかく大切にしい...寺澤さんに

  • 98年に

    特に当歳魚は2位、3位、18位と前年までなら1桁にも入らなかった私の魚だが、表彰式に2歳魚と当歳魚が早めに呼ばれてようやく名前を覚えられる様になった。これには伏線があって、6月初旬に寺澤さんが奥さんと一緒に、「宮島へいくき1時間程おまんの飼育場に寄りたいけど、かまん」「願っても無い事です」。10時過ぎに寺澤さんは奥さんを伴って現われたが、1時間と言う事で奥さんは車から降りようとはしなかった。2階の飼育場でプラ船の2歳魚と親魚を見た後、「うんまあまあやね」続けて丸鉢に入った稚魚を見るなり、「ちょっといかんところが目だっちゅう」12,3鉢見て貰ったが、「あれもこれもいかんねーー」と不良魚は最大で半分以下に達した。「それと兄弟掛けした?」「高知はあんまり兄弟掛けはせんきねーー」「全部捨てるか、たまにええ魚が出るかどち...98年に

  • 当歳魚の上位は

    30位までにも、まだ1匹も外れていない。田中さんが、「じゃあ30位から20位までをこれから選ぶから」。だが20位から30位にも1匹も外れていない。「今度は10位から20位まで選ぶから」流石に1匹は18位にはなったが、しかしまだもう2匹は残っている。「よし今度は5位から9位だ」それでも後の2匹は外れていない。「こりゃあ4位以内が2匹確定じゃないか」と心の片隅で呟いた。4匹はFRPの大きな洗面器に移されて、審査員は田中さんと井口さんの2人だけだ。まず最初に4位が決まったが、それは私の土佐錦魚では無かった。この後の審査で私の魚は2位、3位と確定した訳だが、初めて1桁に入ってしかも2位、3位に入った訳だから、信じられない思いだった。審査が終わった後は複数の人に囲まれて、次々と質問。「やっぱり餌はベビーゴールドですか?」...当歳魚の上位は

  • 当歳魚は

    またまた結果を言えば、2位、3位、18位と飛躍的な出来事だった。ビニール袋から洗面器に移す時に当歳魚は、「ひょっとしたら上位に一匹位入るんじゃないか?」と洗面器に入れた後に一応隅から隅まで見てみた段階で、そう思った。相変わらず最後尾から順位を決めて行くが、田中さんが、「何だこの土佐錦魚尾芯が飛んじゃってるじゃないか、こんなの審査対象外だよ」「1番端の隅に置いて来ちゃって」と尾芯飛びは論外だ。最初は10匹単位で行われるので、12~3匹から下位10匹を選ぶ。中には「これはずっと上だよ」と上位30匹の中に洗面器を移す。尾芯の重なりは落とされるが、軽い重なりはもっと上位に行く。ただ形は土佐錦魚でも尾が小さくて返しもほとんどない魚は遠慮なく下位に落とされる。何しろ100匹前後を審査する訳だから、「えっ、何でこの土佐錦魚が...当歳魚は

  • 98年の

    続きは、結果から言うと2歳魚が6位、8位、17位、当歳魚が2位、3位、18位と当歳魚が準優勝まで登り詰めた。だから、初めて「小川」の名前が覚えて貰える年になった。97年の惨敗を踏まえて、「2度と繰り返す事が無い様に」と万全の体制で品評会に挑んだ。10位にも入らない魚は品評会に出せないと親魚は出さなかった。事実3歳親魚になると尾に皺たるみが出て来て、品評会には出せなかった。2歳魚は常連のベテランで上位は埋まったものの、ベストテンに6位、8位と入りどのクラスも3匹以内と決まっているので、2匹入った事は私の様な中堅にやっと入ったばかりの物には出色の出来で、やっと一目置かれる会員になった。特に6位になった白勝ちの更紗は、現在では考えられない更紗で、尾に皺やたるみが一切無い尾の大きな反転も十分な更紗だが、コメントは差し控...98年の

  • 昨日は

    午前8時40分から午後3時前まで病院に行きっぱなしだったので、日記は書けなかった。来年の3月まではたいしたネタも無いので約4カ月間は他のブログに以降しても何ら差し支えない。96年の続きを書いて見ると、糸目は5月から10月までは採りほうだい、ミジンコも5月から9月までは採りほうだいだったが、糸目は国産で生きが良くて2,3週間は持ったのだが、ミジンコは2日で死んでしまうのが難点だった。ただ糸目は丸鉢に入れて置くと、2,3日もすれば青水化する。特に8月はエアレーションしないので、毎日水替えしなきゃいけない。だから2日に1度はミジンコを採りに行く。だが手城川まで片道30分は如何にもキツ過ぎる。だから隣の神辺町にミジンコを求めた。車で5~6分の短い時間でついてしまう。フツウミジンコだがタマミジンコと違って4~5日は平気だ...昨日は

  • やっと

    名前が皆さんに覚えられたのは、98年の品評会だった。多分親魚は出品しなかったが(全部ビデオで確認したが、小川の名前は無かった)、2歳魚は6位、8位、17位、当歳魚は2位、3位、18位のトラ禿だった。98年からは尾にしわたるみが無い魚と言う事で、親魚はそのどちらかが有れば出品しなかったので、多分親魚にはどちらかがあったので、出品しなかったのだと思う。この時は田中さんと寺澤さんの魚を掛けた魚ばかりだと思うが、田中さんの色がかなり2歳魚には残っていた。2歳魚は親骨が少し強い。体型にもそれは表れていて、2歳魚は丸手気味の中手だった。その代わりどれも尾が幾分大きくそれが審査員の目に止まった。96年から車で30分の川に糸目を取りに出掛けたが、シュリンプが約2週間で終わればその後は糸目を1か月与えて、その後はミジンコと言うパ...やっと

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