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ブログタイトル
気ままに何処でも万葉集!
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo
ブログ紹介文
千年以上も前の出来事を直に見聞きするような…なんと万葉集は謎だらけ
更新頻度(1年)

5回 / 365日(平均0.1回/週)

ブログ村参加:2017/02/09

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気ままに何処でも万葉集!さん
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気ままに何処でも万葉集!
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気ままに何処でも万葉集!

気ままに何処でも万葉集!さんの新着記事

1件〜30件

  • 防人はなぜ東国で徴集されたのだろう・大伴家持が収載した防人の歌

    今日は、防人の歌の紹介です。万葉集巻二十に収載されている防人の歌のいくつかを、教科書でも習いました。白村江敗戦後に唐と新羅から倭国を守るために防人が徴集されたということでした。彼らは家族と別れて故郷を離れ、難波に集められました。そこから、筑紫に向かったのです。教科書で習う歌です。4425防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず「今度防人に行くのはどなたの旦那さん」と尋ねる人、そんな人を見るのは羨ましい限り。なんのもの思いもせずに。(万葉集釋注・伊藤博)国号が「日本」となるのは670年あたりだそうですから、百済救援に兵を出した頃は、倭国でした。白村江戦に派遣されたのは、九州の二万の兵です。畿内や東海からは兵士が出ていません。畿内の王権が、九州のまつろわぬ豪族の勢力を奪うために筑紫から...防人はなぜ東国で徴集されたのだろう・大伴家持が収載した防人の歌

  • 令和二年、やっぱり万葉集を読もう

    八月になりました、もう四日ですね。今年の一月以来、半年以上ブログを休んでいました。そろそろ動き出したいのですが、コロナの第二波が広がっていて身動きが取れませんでした。そんな中、熊本の球磨川流域が水害に襲われて、二十代に一年間住んだ人吉市の九日町が壊滅状態になりました。重く落ち着かない日を送っていたら、最上川が氾濫して夫の遠い親族が住んでいる山形が被害を受けました。流れる映像を見て、茫然と過ごす夏となりました。この夏を耐えて過ごして居られる皆様に、お見舞い申し上げます。今年はコロナ禍のなか、万葉集を読む会主催の「令和二年・万葉集を読む」(五回)は開けませんでした。更に、月に一回の筑紫古代史の会での講座「万葉集と古代史」も休止のままです。取材旅行にも今年の二月以来行けていませんし、忙しかったはずはないのですが、ブロ...令和二年、やっぱり万葉集を読もう

  • 万葉集を編集させた平城天皇の歌

    万葉集を編集させたのは平城(へいぜい)天皇です。桓武天皇が病に倒れた時、二十年前に除名されていた(家持は死亡して二十日も経っていたのに大伴氏の罪に連座して除名された)大伴家持の官位を復したのです。そして、万葉集を召し上げ、自分の近臣に選ばせ(編集させ)ました。万葉集は日本最古の歌集として重要視されてはいますが、古今集が国文学の中でも重要な位置にあり、和歌史上の最高峰と考えてもいい、とも言われています。その評価は人によってさまざまだと思いますが。では、古今和歌集はどんな編集をしているのでしょうね。気になりますね。勅撰和歌集は二十一集ありますが、古今集が勅撰集のさきがけです。万葉集は勅撰和歌集ではありません。古今和歌集は紀貫之が醍醐天皇の勅で、長い年月をかけて精選し編集されたものです。それは、世に出た直後から世間の...万葉集を編集させた平城天皇の歌

  • 大伴家持が詠んだ万葉集の最終歌、その前の一首の意味

    天平文化が花開いた奈良時代。でも、政変が連続した厳しい時代でした。「万葉集」は奈良時代の歌人である大伴家持が編集した、と言われています。「万葉集」の最終歌は、4516番歌の「新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」ですね。とても爽やかな新年の喜びと期待感に満たされる歌です。この歌を詠んだのは、大伴家持でした。因幡守として国郡司を饗応する宴席で詠んだ歌です。彼がどんな思いでこの歌を詠んだのか、この歌から読み解ける歴史の一端を知りたくなりますね。この歌が詠まれた時代を考えるために、ひとつ前の歌・4515番歌を読んでみましょう。同じ大伴家持の作歌です。4516秋風の末吹き靡く萩の花ともにかざさず相か別れむ天平宝字二年(758)七月に詠まれた歌ですが、なんだか非常に寂しい歌です。題には『七月の五日に、...大伴家持が詠んだ万葉集の最終歌、その前の一首の意味

  • 万葉集の最終歌を詠んだ大伴宿禰家持

    4516新年乃始乃波都波流能家布弗流由伎能伊夜之家餘其騰あらたしき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事この歌を詠んだのは、万葉集の編集者とみなされている大伴宿禰家持です。天平宝字三年(759)正月一日、家持は「新しき年の初めの」の歌を因幡国の国庁に国郡司らを招いた宴で詠みました。前年、天平宝字二年六月、家持は因幡守に任じられ、七月に親しい者による別れの宴を済ませ、ほどなく家持は任地に赴いていたのです。そして、正月一日の宴。この年は、正月一日と立春が重なった年でした。その年の宴歌です。新しい年の初めの一日が立春に重なった今日、このめでたい日に降る雪よどんどん降り積もれ。吉いことが積み重なるようにこの国の弥栄をことほぐように降り積もれ凛と引き締まった寿歌です。国土と人々の幸せを願い、新年を寿ぐ思いが込められてい...万葉集の最終歌を詠んだ大伴宿禰家持

  • 天平二年正月の梅花の宴で、大伴旅人は長屋王を偲んだ

    お盆が過ぎると涼しくなると、昔の人は言いました。しかし、最近はそれが通じません。9月まで暑いのです。さて、まだ暑さの厳しい時期ですが、阿蘇はさすがに8月後半から風が変わり、さわやかな風が吹くようになります。8月28日もそんな風が吹きますように。8月の歴史カフェは、万葉集の巻五の「梅花の宴」について考えます。天平二年の正月に、大伴旅人はどんな思いで正月儀式を行ったのか。その時代背景と旅人の置かれた状況から「梅花の宴」を深読みします。大宰帥・大弐・少弐・国司から無官の者までが一同に会して「梅歌」を詠むなど、前代未聞の出来事でした。その行事は、旅人の思い付きだったのか、筑紫の伝統行事だったのか、宴の目的は何だったのか、ここが重要なのです。当時、大伴旅人には都の藤原氏から秘密裏に三人の監視人が付けられていました。旅人は...天平二年正月の梅花の宴で、大伴旅人は長屋王を偲んだ

  • 壬申の乱に勝利した高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

    壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇熊本県阿蘇郡西原村での歴史カフェは、7回目となります。今年は万葉集のお話です。7月31日(水)のテーマは「壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇」となっています。壬申の乱は、大海人皇子(天武天皇)の周到な計画のもとに起きた内乱でした。天武は東国の兵を召集していました。ですから、吉野を脱出して不破ノ関辺りのワザミが原の仮宮にいて、動きませんでした。天武の代わりに軍を率いて活躍したのが、高市皇子です。万葉集の「高市皇子の挽歌」にはそのように書かれています。この内乱の大義名分は、当時の社会に受け入れられたのでしょうか。この後の天武朝の皇位継承に関する事件を見ると、壬申の乱には矛盾と無理があったようです。天武天皇の皇統はことごとく政変に巻き込まれ命を落としていくのですか...壬申の乱に勝利した高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

  • 万葉集巻九の冒頭歌は雄略天皇・そこに詠まれた鹿の運命

    万葉集は謎が多いと云われます。それは、現在時間で読むからです。もともと「初期万葉集には秘密も謎もなかった」のです。<!--interest_match_relevant_zone_start-->今日、令和元年5月28日(火)のことです。筑紫古代文化研究会の講座(福岡市中央区天神・光ビル)で「万葉集巻九・紀伊国十三首」のお話をします。まず、「有間皇子とは」から話し始めて、紀伊国十三首までたどり着きます。巻九の冒頭歌は、雄略天皇の歌です。万葉集巻第九「雑歌」泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首1664暮去者小椋山尓臥鹿之今夜者不鳴寝家良霜ゆふさればおぐらのやまにふすしかはこよいはなかずいねにけらしも泊瀬朝倉宮天皇とは、雄略天皇のことです。雄略天皇御製歌が万葉集の巻の冒頭に置かれているのは、巻一と巻九なのです。然...万葉集巻九の冒頭歌は雄略天皇・そこに詠まれた鹿の運命

  • 大伴卿の最後の日、初期万葉集が家持の手に渡る

    大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。万葉集には旅人の最後の歌が残されています。三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首969しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ970さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。あの懐かしい小野の萩の花を...大伴卿の最後の日、初期万葉集が家持の手に渡る

  • 新元号「令和」は、万葉集の梅花の宴の序文から

    「梅花の宴」の歌を紹介をしますと書いてから、もう何週間たったでしょう。今日、5月に改元される新年号が発表されました。出典は万葉集の梅花の宴の序文、ということでした。それは、読み下し分にすると、次のような文章です。集英社の「万葉集釋注」(伊藤博)の訳文を紹介します。今日は新元号の発表日。選ばれたのは『令和』。万葉集を世に出された平城天皇の業績に深く感謝したくなりました。延暦二十五年(806)、平城天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。それまで、大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座して官位を剥奪されていました。万葉集も大伴氏と共に廃されていたのでしょう。平城天皇は即位前から万葉集を知り、そこに書かれている内容を、十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣...新元号「令和」は、万葉集の梅花の宴の序文から

  • 大伴旅人の友人だった山上憶良とは何者か

    前回「志賀白水郎の歌十首」について紹介しましたが、この十首は山上憶良の作歌、もしくは憶良が手を入れた歌が数首ある、というのが多くの学者の説でもあります。志賀の海人には歌は詠めないという前提に立っての説でしょうか。しかし、十首の内容や言葉使いから見ると十分に率直で素朴ですから、志賀島の海人の作と考えていいと思います。ところで、山上憶良が「志賀白水郎の歌」に関わったとされる理由は、なにより彼が筑前の守として大宰府に来ていたからです。その関係で志賀の荒雄の遭難を知り、社会派歌人として関心を持ち歌を詠んだのではないか、と思われたのでした。やがて七十歳にもなろうかという老人がなぜ筑前守として九州に来たのでしょう。憶良でなければならなかった政治的理由があるのでしょうか。実は、憶良が九州に来たのは、その教養を生かした極秘任務...大伴旅人の友人だった山上憶良とは何者か

  • 志賀島の白水郎の遭難の歌を詠んだのは山上憶良なのか?

    ここは、福岡県福岡市の志賀島。金印が出土した島です。この島の北側には、日本海が広がっています。昔、志賀島の北側の外海(玄界灘)に面したところに志賀海神社の本宮はありました。今日では、博多湾側に志賀海神社(延喜式内名神大社)は遷っています。いえいえ、神社の紹介ではありません。遭難した志賀の荒雄を偲んだ歌の紹介です。荒雄は「白水郎」ですから、海の男・船乗りでした。ですから、知り合いの百姓(ひゃくせい)津麻呂に頼まれて糧を届けましたが、遭難してしまったのです。命令は荒雄に出されたのではないから行かなくてもよかったのに、船を出したばっかりに遭難してしまった。家族は毎日毎日神に飯を供え祈り待ち続けた。島の人々も、島の木を切れば荒雄が帰る時の目印がなくなるというので、なるべく島の姿を変えないように心を砕いた。荒雄たちが行っ...志賀島の白水郎の遭難の歌を詠んだのは山上憶良なのか?

  • 『六義園記』注解(島内景二著)が紹介する『六義園記』の序文

    『六義園記』注解では、「柳沢吉保が幕府歌学方・北村季吟(または、その高弟)の指南のもと、六義園記を書き上げた意味と、その思い」を丁寧に紹介されていました。今日は、その「序」の紹介です。元禄15年(1702)江戸駒込の地に造営された六義園は、大名庭園の最高傑作です。この庭園・六義園を造営した柳沢吉保は、「犬公方」と呼ばれた五代将軍綱吉に仕えた側用人で、名前の「吉」を将軍から拝領したほどの寵臣でした。わたしも子どものころから時代劇映画やテレビでその名前を知っていました。なにしろ「赤穂浪士」事件が起きた元禄14年時の将軍と寵臣ですから年末恒例のテレビ番組では必ず耳にする名前だったのです。彼を演じたのは常に悪役を得意とする俳優でしたから、子ども心に良い印象は持っていなかったと思います。しかし、その柳沢吉保が六義園を造営...『六義園記』注解(島内景二著)が紹介する『六義園記』の序文

  • 柳沢吉保も知った有間皇子と間人皇后の物語

    江戸時代になっての話ですが、側用人柳沢吉保(1658~1714)が徳川五代将軍・綱吉に仕えたのち隠居して六義園という庭園を駒込に造りました(1702年)。「回遊式築山泉水」の大名庭園です。江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治になり三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、岩崎家より東京市に寄付され、昭和28年に国の特別名勝に指定された文化財になっています。「六義園記」は、『大名庭園の最高傑作・六義園の理念を高らかに宣言し、「八十八境」と呼ばれる名所のネーミングの由来を記したものである』ということです。この「六義園記」ついて注釈を加えた本がありますから、現代の私たちも柳沢吉保の名文に触れることができます。この庭園は散策しながら源氏物語の世界や万葉集の世界を偲ぶようにできていていますが、庭園...柳沢吉保も知った有間皇子と間人皇后の物語

  • 万葉集巻一の最終歌が外され巻八に移動された、其の理由

    人麻呂が編集した初期万葉集・巻一の冒頭歌と最終歌は何だったのか巻一の冒頭歌は雄略天皇の御製歌でした。では、巻一の最終歌は何だったのでしょう。ちょっと興味が湧きますね。現存する巻一の最終歌は長皇子の歌になっています。以前にも書きましたが、長皇子は持統天皇のお気に入りでたいそう大事にされていました。ですから、巻一の最終歌には長皇子の歌が選ばれることに異存はないのですが、ちょっと変です。それは、長皇子が佐紀の館で宴会をしてる時の歌で、わざわざ「長皇子、志貴皇子と佐紀の宮にしてともに宴する歌」と題詞が在るのに、志貴皇子の歌がないのです。題詞に名が在れば、その人の歌がもともとは置かれていたのではないかというのが、万葉集学者の意見でもあります。わたしもそう思います。では、元々あったのに外された…その理由は何でしょう。おかし...万葉集巻一の最終歌が外され巻八に移動された、其の理由

  • 柿本朝臣人麻呂の妻に人麻呂の死を告げたのは誰か

    依羅娘子は人麻呂の死を知って、直接には会えないと悟った巻二の223は、人麻呂の「臨死の時の歌」でした。その歌を伝え聞いた後に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)が歌を詠んでいます。今日は帰って来るかも知れない、今日こそは、と私が待っている貴方は、石水の貝に交じっているというではありませんか。もう、あなたに直にお会いすることは、とてもできないでしょう。石川に雲よ立ち渡れ。その雲を見ながらあなたを偲びます。依羅娘子(よさみのをとめ)から石川は見えているのでしょう。しかし、現代の私たちには石川が何処なのか分かりません。人麻呂が刑死したと思われる「鴨山」も分かりません。石川が何処なのか色々説があります。石見国(島根県)の江川・高津川・浜田川・女良谷川のいずれであるかとかです。更に、人麻呂を偲んでいる娘子が居る所、そこは島根...柿本朝臣人麻呂の妻に人麻呂の死を告げたのは誰か

  • 柿本人麻呂の妻依羅娘子、挽歌を詠む

    人麻呂の死を知った時、依羅乙女は何処にいたのか柿本朝臣人麻呂が、死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌とその妻の歌を読んでみましょう。万葉集・巻二の223番歌柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首223鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ柿本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首224今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも225直(ただ)の相は相かつましじ石川に...柿本人麻呂の妻依羅娘子、挽歌を詠む

  • 万葉集は文武天皇のために人麻呂が編纂した歴史書

    人麻呂は謎だらけの歌人なのか?否!彼は大王の忠実なしもべだったそうなのです。人麻呂の歌は率直で誠実です。「もののふのやそ宇治川の…」の歌は、人麻呂が、個人的な思いを詠んだと編集されています。近江大津宮を見て春草に被われた荒れた旧都を見て古に心を寄せ、瀬田川では身を投げた近江朝に仕えた娘を偲び、更に宇治川まで下って命を落としたあまたの武人を思ったのです。余りに感傷的な歌ですが、人麻呂がここまで近江朝を偲ぶ歌を披露したのは誰に対してでしょうか。「柿本朝臣」という姓の「朝臣」は、壬申の乱に功績のあった氏に送られた姓でしたから、天武側に立って壬申の乱を乗り切った氏のはずですね。それなのに、倒した相手の天智朝を偲ぶのです。いつ読んでもなんだか違和感が残ります。これまでの流れから言えることは、人麻呂は持統帝の忠臣であり、す...万葉集は文武天皇のために人麻呂が編纂した歴史書

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