ルカ10章3節「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(新共同訳)1節「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。小見出し『七二人を派遣する』。ルカ福音書特有の記事である。6章で十二人の弟子を選ばれたイエスは、七十二人という数字の根拠は、民数記11章24~26節の故事に由来したものと考えられるが、そこでは七十人であった。理由は「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)という実情からである。福音書記者は宣教の視野を「全世界」(マルコ16章章15節、ルカ24章42節)に置いていたに違いない。主イエスとで弟子たちの周囲には多くの病人や貧しい者の数が多かったは当然伺える(2節)。4~10節は9章2~5節と同じである。3...それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ
ルカ福音書9章23節「それから皆に言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(新共同訳)1~6節12人を宣教に派遣する(並行記事マルコ6章7~12節)病気の癒しと神の国を宣伝える。遍歴の説教者であるが物乞いを禁じ、迎えられる家で共に食事をし、そうでない時は「足の塵を払う」(10章11節、使徒言行録13章51)。宣教の実践である。7~9節領主ヘロデの戸惑い。イエスの出来事を聞き、イエスは何者だろうと訝かしく思い、やがて敵意に変わる(13章31節)。この後イエスと弟子たちはベッサイダに退く。10~17節五千人への供食押し掛けてきた群衆に神の国の説話と癒やしの業があるが、日没になり十二弟子に群衆への配慮を促す。「パン五つと魚二匹」しかないと言う。増食の奇跡は列王...自分の十字架を背って従いなさい
ルカ福音書第8章15節「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実をむすぶ人たちである」(聖書協会共同訳)1~4節「婦人たちの奉仕」ルカ福音書特有な記事で12弟子に同行する。ユダヤ教社会では極めて異例であるが、奉仕(ディアコネイン)は持ち物を出し合って一向に仕える。イエスの死と復活に際して、初めに彼女らは出会う証人となる(23章51~24章10節)。4~8節「種を蒔く人」のたとえ。この並行記事はマタイ13章10~17節、マルコ4章10~12節である。聞き手は群衆(オクロス)である。聞き手として様々な可能性を持つ。蒔く人は出来るだけ広い範囲に腕を広げて蒔いた。種は道端、石地、茨の中、そして良い土地に落ちた。「聞く耳を持つ者は聞きなさい」(8節)と大声がある。神の言葉を聞く耳があるかどうか...良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞く
ルカ福音書第7章28節「言っておくがおよそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(聖書協会共同訳)1~10節「百人隊長の僕をいやす」。ピラトに仕える百人隊長が危篤の部下のいやしを求めてきた。会堂を建てるユダヤ教の新派と考えられる(5節)。そこに出向くイエスに対して自らの権威に比較できない方として認める言葉に、イエスへの信頼を読み取っている。異邦人伝道はイエス復活後のコルネリウスの姿と重なって見える出来事である(使徒言行録10章1~40節)。11~17節「やもめの息子を生き返らす」死者の復活記事は旧約のエリヤとエりシャの伝承(列王記上17章7~24節、下4章32~37節)を、イエスを「主」として記載されている(13節)。群衆は「大予言者が現われた...神の国で最も小さい者でも、偉大である
ルカ福音書第6章48節「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった」(聖書協会共同訳)1~5節安息日に麦の穂を摘む。他人の麦畑から麦穂を摘みとることは律法で許されていた(申命記23章26節)。しかし安息日律法は重要であり、その違反は死罪に相当する(レビ記15章32~36節)。ここでは食事の準備で労働に値するとした。イエスはダビデの故事に言及し(サムエル上21章1~7節)律法の柔軟性を要求。安息日律法の解釈をする権威を主張した。6~11節手の萎えた人を癒やすこと(マタイ12章9~14節)、12~16節十二人を選ぶ(マタイ10章1~4節)記事である。ルカ6章12節では人の選びに先立ち徹夜の祈りをイエスはさ...岩の上に土台を置いて家を建てる人
ルカ福音書第5章28~29節「その後、イエスは出て行き、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(聖書協会共同訳)1節「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来た、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた」というのは4章の終わりに見られた状況に「続く事柄であった。席の温まる間もない忙しさが伺える。イエスの宣教に弟子を選任することは急務であった。2~11節この時ガリラヤの漁師たちが夜通しの漁を終えて網を洗っていた。その内漁師シモンの舟に乗り込んで陸から少し離れたところで群衆に教え始めた。マタイ福音書では小高い丘の上から宣教が始まるが、ルカ福音書にはそれはない。人が選ばれている(5章1~11節)。沖へ漕ぎ出して網をおろして見よと告...何もかも捨てて立ち上がり従った
ルカ福音書第4章18~19節「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(聖書協会共同訳)1~13節イエス荒野の誘惑で、平行記事はマタイ4章1~11節、マルコ1章12~13節にある。40日の断食はイスラエル荒野40年と重なる。悪魔の存在は天使の顔を持つ(ヨブ記1章)。誘惑の第一は飢餓で、奇跡でなく神の言(ロゴス)で応える。第二は権力と繁栄、第三は神殿だがイエスはこれも神の言葉で応える(申命記6章13節、6章16節)。イエスのメシア性が証明された。14~15節イエスは育ったナザレで、安息日に会堂に入り立ってイザヤ6...貧しい人に福音を告げ知らせるため
ルカ福音書3章16節「ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなた方に水で洗礼(バプテスマ)をさずけているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる」(聖書協会共同訳)1~3節歴史的背景を先ず述べる。サマリアの総督ポンティオ・ピラトはユダヤ、サマリアの総督(28~36年)でヨハネが登場する。イエスの受難の時と重なる。彼は罪の赦しと悔い改めを洗礼(バプテスマ)によって示した。群衆はヨハネがメシアであると誤解した。彼は解く必要があり「わたしより遥かに権威ある方が来られる」と語り、その方の前には身を屈めて靴の紐を解き、外出の時には持ち運ぶ役目にも及ばぬ僕だと伝える(16節)。彼は水のバプテスマをヨルダン川で授け、罪の悔い改...その方は聖霊と火でバプテスマを授ける
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