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日毎の糧 https://blog.goo.ne.jp/matunaga2954

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

日毎の糧
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2016/12/16

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  • 天に栄光神に、地に平和人に

    ルカによる福音書第2章11節「いと高き所には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(聖書協会共同訳)キリスト誕生を十二月二五日に定められたのは、ローマの皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教を公認した紀元三世紀以降であるが、その根拠にはローマ人の冬至祭で太陽神ミトラから取って替ったことによっている。いつの時期にキリスト誕生があったかという議論があるが、羊飼いらが野宿する季節は、ユダヤ地方の冬の雨期では無い筈と言われる。然し羊飼いらが常識論に当てはまらない様な生活を強いられ野宿する生活から軽蔑され、羊の群を牧する為に雇われ労働者でした。ここで大切なことは、十一節「あなたがたのために、救い主がお生れになった。この方こそ主メシヤである。」という天使らの告知である。当時のユダヤ社会で、軽蔑され疎外され、季節はずれ...天に栄光神に、地に平和人に

  • わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます

    ルカ福音書第1章47-48節「わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです」(聖書協会共同訳)1章はマリアとエリサベトの二人の女性が描かれている。3~7節エリサベトはアロン家の娘で神の前に正しく主の掟を守る、夫は祭司ザカリアで、二人とも神の前に正しく主の戒めを守り、非のうちどころがなかったがエリサベツトは年老いて不妊の婦人であった。{正しい人}とは神の祝福を受けて嫡子を得ると思われていたのである。祭司の勤めをしていたザカリアに妻エリサベトが男子を産むと告げられ、またエリサベトにも同様の告知があり、驚く(8~25節)。そしてナザレに住むダビデの家系ヨセフと婚約している年若い乙女マリアにも6ヶ月後、身分も育ちも異なるが、この二人にも神から男の子を授かるという物語(26~...わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます

  • 昨日も今日もまた永遠に変わることのない方

    ヘブライ人への手紙第13章8節「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(聖書協会訳)1節「兄弟愛をいつも持っていなさい」。(小見出し=神に喜ばれる奉仕1~19節)。神の御國を継ぐ者として、地上の生活を確かなものとするという実践が勧められる。先ず愛の実践であるが、旅人をもてなすこと、気づかないで天使たちをもてなすことがあるという(2節)、迫害で投獄されている者と虐待されている者の慰問(3節)。この旅人も虐待されている人々も概ね巡回伝道者を指している。4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」。貞節が問われている。健全な結婚とは夫婦間の性的生活を指している。「汚す」とは男女の性的不道徳を犯すことで、一夫一婦の関係が質される。他人の目を誤魔化しても神の目...昨日も今日もまた永遠に変わることのない方

  • 信仰の創始者また完成者イエスを見つめながら

    ヘブライ人への手紙第12章2節「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとはないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(新共同訳)1節「こうゆう訳で」は11章の「証人の群れ」に登場した信仰の英雄たちを示しながら、今や信仰の馳せ場を走らなければならないと促すのである。絡みつく重荷をかなぐり捨て、身軽になるのである。それは罪の重い外套を着ていては定められた各自の競走を完走することは出来ない。2節「信仰の創始者」は2章10節では「救いの創始者」(アルケーゴス)となっている。この語は「先導者」という意味もある。イエスいて信仰が開始し、信仰が完成するという事になる。このお方のことをよく考え、罪と戦い抵抗したことに導かれているなら、迫害の恐怖...信仰の創始者また完成者イエスを見つめながら

  • 望むところの実質と、見えない事実の確証

    ヘブライ人への手紙第11章1節「信仰とは、望んでいる事柄の実質であり、見えないものを確証するものです」(日本聖書協会訳)1節でまず信仰の内容と前提が示される。信仰とは、望んでいる事柄の実質であり、見えないものを確証するものという。「信仰」には定冠詞がないので、定義的な文体となっている。「望んでいる事柄」は人間の側の態度と関係なく、存在する客観的なものを意味する。「確証」は1章3節では「本質」と訳されている。「信仰によって~」が3~12節までに七回繰り返して述べている。3節は1節後半の主張が別な角度から述べているといえる。「この世界」とは1章2節に述べている世界でなく、神の言葉により創造されたという。まず創世記4章2節以下のアベルとカインの物語である。「勝れる犠牲」は「豊かな」という意味であるがその種類と選択にお...望むところの実質と、見えない事実の確証

  • 信頼しきって、真心から神に近づこう

    ヘブライ人への手紙第10章22~23節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう」(新共同訳)1節「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。ですから、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」。人の手で造られた幕屋で、年毎に生け贄を献げて神に近づく人たちを完全な者にはできない。出来たら生け贄を献げることは中止される筈だが、実際は繰り返されて、罪の記憶が甦るだけである(2~3節)。ここで詩40篇7~9節を引用し、キリストが来られた時「罪を贖う生け贄を好まない、むしろわたしのため、体を備えて下さった」とい...信頼しきって、真心から神に近づこう

  • 世の終わりにご自身を生け贄として献げ

    ヘブライ人への手紙第9章26節「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身を生け贄として献げて罪を除くために、ただ一度現れてくださいました」(聖書協会共同訳)小見出しにあるとおり「地上の聖所と天の聖所」について述べられている。最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」。8章で旧新の契約についてであったが、9章から地上と天上の幕屋について展開する。第一の幕屋とは聖所、第二の幕屋は至聖所で、そこにある祭具とその間にある垂れ幕について述べる(2~5節)。6節「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります」。地上の幕屋での祭司の勤めがあり、続いて大祭司の勤めについて述べる(7節)。大祭司が年に一度...世の終わりにご自身を生け贄として献げ

  • 大胆に恵みの座に近づこう

    へブライ人への手紙第4章16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(新共同訳)1節「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。三章後半で神の民が不信仰で安息にあずかることが出来なかったことを知ったが、しかし神の約束はまだ成就していないので、安息に入りそこねないよう注意しようと勧める。2節「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。…」。「福音が告げ知らされている」とは神の安息に入ることを指す。彼らはこれを聞いても信じて受け入れなかった為に安息に与ることができなかった。しかし信じたわたし達は、この安息に与る...大胆に恵みの座に近づこう

  • 『今日』という日のうちに~

    ブライの手紙第3章『今日』という日のうちに13節「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(新共同訳)1節「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。既に2章17~18節からわたしたちが信仰を告白しているイエスは、民の罪を償うためにすべての点で同じ試練を受けられた使者であり、神の前に憐れみ深い忠実な大祭司であることを考えなさいという。「考えなさい」(カタノエオー)は充分に知ること、「思い見るべきである」(口語訳)、「見据えなさい」(岩波訳)。2節「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」。「神の家」と...『今日』という日のうちに~

  • 救いの創始者

    ヘブライ人への手紙第2章10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(新共同訳)1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば~」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の...救いの創始者

  • この終りの時

    ヘブライ人への手紙第1章1節「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。の終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」1~2節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。著者は、冒頭の挨拶なしに、まず神の語りかけに注目させる。旧約時代は預言や夢、幻、自然、奇跡などで語られたが、しかし「この終わりの時代」には、もはや何の媒介もなく直接御子イエスを通して語りかけられた。口語訳「終りの時」TEV「thelastdays」ギリシャ語「エスカト―」から終末論(eschatology)が展開される。「…神は御子を...この終りの時

  • 新しい契約の大祭司

    ヘブライ人への手紙第8章6~7節「しかし、今、わたしたちの大祭司は、はるかに優れた務めを得ておられます。この方は、更にまさった約束に基づいて制定された、さらにまさった契約の仲介者だからです。もしあの最初の契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったでしょう」(聖書協会共同訳)1節「以上述べたことの要点は、わたしたちにはこのような大祭司がいて、天で大いなる方の玉座の右の座に着き~」。これまで論述してきたメルキゼデクに等しい永遠の大祭司イエスが、御座の右に着いておられること、そして人間ではなく神が建てられた真の幕屋で仕えておられる(2節)。すべての大祭司は供え物といけにえとを献げる任命を受けているが、この方も何か献げ物を持っていなければならないであろう(3節)。しかしこの方が地上におられる...新しい契約の大祭司

  • 永遠に変わることのない祭司職

    ヘブライ人への手紙第7章24~25節「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それで、ご自分を通して神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるからです」(聖書協会共同訳)1節「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました」。本章はイエスがメルキゼデクに等しい大祭司であることを論証している。彼が聖書に登場するのは創世記14章17~20節である。まず彼の名前の意味を説く。「メルキ」はマルヒー(使者=王)、「ゼデク」はツェデカー(正義)で「義の王」である(2節)。同時に「サレム」はシャローム(平和)で「平和の王」である。彼には父もな...永遠に変わることのない祭司職

  • 最後まで希望を持ち続ける

    ヘブライ人への手紙第6章11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」(新共同訳)1~2節「だからわたしたちは、…基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」。基本的な教えとしてここに六項目が挙げられているが、5章終りの未成人の状態にある読者に対する言葉である。なぜこの六項目はキリストの教えの初歩であるが、何故これが初歩なのか。ユダヤ教の指導者ラビから学んだ共通の教えだからである。「成熟を目指して進みましょう」は意訳。これは3節の神からの呼び掛けに対して応えること。TEVではLetusgoforward!となっている。4~5節知識と実際とが離れては、厳しい時代状況にはついて行けない。棄教、背...最後まで希望を持ち続ける

  • 成熟したキリスト者の生活

    ヘブライ人への手紙第5章「乳を飲んでいる者は皆、幼子ですから、義の言葉を味わったことがありません。固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた大人のためのものです」(日本聖書協会訳ヘブライ5章13~14節)1節「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。ここで大祭司の資格が明らかにされる。第一に人間の中から選ばれ、人々のために神に仕える役に任じられることである。それは「弱さを身にまとっている」ので、罪にいたる無知と迷いにある人々を「思いやる」ことが出来ねばならないからである(2節)。「弱さを身にまとう」とは、人としての脆弱で壊れやすい「土の器」である。「思いやる」(メトリオパセイン)とは「判断する、測る、思い測る」ということ...成熟したキリスト者の生活

  • 恐れる生活出なく、神を畏れる生き方

    「神はすべてを時宜に適うように造りまた、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(コヘレテの言葉3章11節)1聖書協会訳では、「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた」となっている。「永遠を思う」ということは、現実主義ではなく、様々な事柄に出会った時にその先に「何かがある」ということである。本書では「全てが空しい」という無情と虚無に陥ることでなく、人生を大切に生きるということにつながる。2仏教にも「般若心経」という教本がある。「色即是空、空即是色」というが、ここで「空」というのは、実体を欠いた現象は常に変化し無情だというのである。その現実に適応して生きるのである。「空」というのはヘブライ語で「へベル」は「蒸気」「息」で実体を備えて...恐れる生活出なく、神を畏れる生き方

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