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日毎の糧 https://blog.goo.ne.jp/matunaga2954

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

日毎の糧
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2016/12/16

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  • 主は大いなる方

    詩48篇2節「主は大いなる方我らの神の都、聖なる山で大いに賛美させる方」聖書協会共同訳1節「歌。賛歌。コラの子の詩」2節「主は大いなる方我らの神の都、聖なる山で大いに賛美させる方」本詩は13節にある通り神殿内を行進する出発を促す言葉ととり、全体を祭儀に関連づけて解釈されることが多い。2~4節はその導入、5~9節は過去を回想、10~12節神を二人称で記し、13~15節は命令形で指示を与える四段落に分けられる。2~4節はシオンの麗しさを歌う。それは全地の喜びである。これは47篇で力は神に属すると述べているが、本詩では13~15節にある城壁、城郭、砦、塔など力の語彙を配して同様の指摘ができよう。3節「シオンの山は高く、美しく、全治の喜び北の果ての、大いなる王の町」この「北の果て」はイザヤ14章13節では異教の神々の居...主は大いなる方

  • 静まれ、私こそが神であることを知れ

    詩46篇11節「静まれ、私こそが神であることを知れ、国々に崇められ、全地において崇められる」聖書協会共同訳1節「指揮者によって、コラの子の詩。アラモト調。歌。2節「神は我らの逃れ場、我らの力、苦難の時の傍らの助け」力強い神への信頼を言い表す。本誌の背景にはBC702年アッスリア軍が攻めてきてエルサレムを包囲した時、一夜にして神の使いにより敗退したことが考えられている(列王記下18章13~19章35節see)。原文「非常に(メオッド)見いだされる(ニムツア―)苦難の時に(ヴェツアロット)助け(エズラー)」。容易に見出される助けということである。口語訳「悩めるときのいと近き助け」。がなじみ深く、名訳である。3節「それゆえ私たちは恐れない。値が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。海の波の横揺れを外敵からの勢力に...静まれ、私こそが神であることを知れ

  • 私の心に湧き立つ美しい言葉

    詩45篇2節「私の心に湧き立つ美しい言葉私の詩を王のために歌おう。私の舌は巧みに物書く人の筆」聖書協会共同訳1~2節「指揮者によって「百合」に合わせて、コラの子の詩。マスキール。愛の歌。私の心に湧き立つ美しい言葉私の詩を王のために歌おう。私の舌は巧みに物書く人の筆」10節まで王に対する語りかけである。「愛の歌」とは宮廷の詩人が王の結婚に対して捧げた歌である。「イエデイドット」はヘセドではない。これを比喩的に解釈して王をメシア、花嫁をイスラエルと見なした。同じ比喩的解釈は雅歌にも見られる。「心に湧き出る美しい言葉」とは動きが止まらないことで、自分の舌が書記の筆のように流暢に動くのである。3節「あなたは人の子の誰よりも美しくその唇は優雅に語り出す。それ故神はあなたをとこしえに祝福された」。第一に王が人として優雅で魅...私の心に湧き立つ美しい言葉

  • 心に隠していることを神は知っておられます

    詩44篇22節「神はそれを探り出さないでしょうか。心に隠していることを神は知っておられます。」聖書協会共同1節「指揮者によって」。コラの子の歌。アスキール。神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。先祖の時代、いにしえの日々にあなたのされた業について」。本詩の時代背景は、バビロン捕囚後の近い頃と考察される。その状況は民の苦難と恥辱の中で、神による解放と勝利を願っている内容となっている。ここから国を憂い執りなす祈りの姿勢を学ことができる。「先祖が私たちに語り伝えたこと」(2節)とは出エジプトの出来事を指し、それは信仰の原点でもあった。過去の出来事を根拠にして、現在の苦境からの解放を願うのである。4節「彼らは自分の剣によって土地を得たのでも自分の腕で勝利を得たのでもありません。あなたの右の手...心に隠していることを神は知っておられます

  • あなたの光とまことを遣わしてください。

    詩43篇3節「あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう」聖書協会共同訳本詩は42篇に続く内容的同一のものとされている。小見出しはなく、呼び掛けが「神よ」(エろヒーム)と同じであり、42~49篇を「コラ詩篇」とされ、詠唱者(管理者)を担当した。1節「神よ、私を裁き私のために争ってください。神に忠実ではない国民から、欺きと不正の者から私を救い出してください」。直訳「また争い給え(ヴエリヴア-)、わが訴えを(リヴイ―)」2節「あなたこそ、わが砦なる神。なぜ私を拒まれたのですか。なぜ私は敵の虐げの中を嘆きながら歩むのですか。直訳「なぜ私を見放されたのか(ゼナふターニ)岩波訳「なにゆえ私を突き放したのですか」。3節「あなたの光とまことを遣わしてください。それらは...あなたの光とまことを遣わしてください。

  • 私は喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。

    詩42篇5節「私は祭りに集う人の群れと共に進み、喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。それを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。」聖書協会共同訳1節「指揮者によって、マスキール、コラ」の子の詩。43篇に表題がないことと、6節、12節と、43篇5節に同じ繰り返しがあるところから、この二つは連続した詩と見なされる。2節「鹿が谷川で水をあえぎ求めるように神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」かつてはエルサレム巡礼の行列を導いた音楽を奏でる者であったが(43篇4節)、今は捕囚により、エルサレムと神殿から追放され、異教徒に苦しめられ激しい嘆きの中にある。干上がった川床で鹿が水を求めて喘ぐように、私の魂はあなたを慕い喘いでいるという。3節「神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか」。エルサレムの神...私は喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。

  • 主は彼が病の床にあっても支えてくださる

    詩41篇4節「主は彼が病の床にあっても支えても支えてくださる。その人が病気の時あなたはその床を新たにしてくださる」聖書協会共同訳1節指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。この小見出しは40篇と同じである。文頭に「幸いなるかな」(アシュレー)が来る。それは「弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる(2節)。原文「弱い者」(ダる)は3~4節に言及している弱く貧しい者である。聖書は一貫して主なる神への信頼と、同胞への愛の働きかけを連動して説く。つまり愛の業のなかで神の聖意が働くのである。箴言14章31節、マタイ福音書25章31~36節を参照したい。「主が守り、生かし彼はその地で幸いな人と呼ばれる。その人を敵の思いのままにさせないでください」と。「主は彼が病の床にあっても支えてくださる。その人が病気...主は彼が病の床にあっても支えてくださる

  • 私の耳を開いて下さった

    詩40篇7節「生け贄の供え物も、あなたは喜ばれず私の耳を開いて下さった。焼き尽くすいけにえも、清めのいけにえも、あなたは求められなかった」聖書協会共同訳1節指揮者によって。賛歌。2節「私は耐えて主に望みを置いた。すると主は私に向って身を乗り出し私の叫びを聞いてくださった」神への嘆願。2~12節は破滅から救われた感謝。後半13~17節は敵の攻撃より神の救助を求める祈りである。「身を乗り出し~」は意訳で「望みに(カヴオー)」「私は待ち望んだ(キヴイーティ)」。3節「主は私を滅びの穴,泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ歩みを確かなものとし」。私の口に新しい歌を我らの神への賛美を授けてくださった。多くの人はこれを畏れ,主に信頼する(4節)。5節「幸いな者主を頼みとする人、ラハブにも、偽りの神に迷う者にも顔を向け...私の耳を開いて下さった

  • 主よ、私の祈りをお聞きください

    詩39篇主よ、私の祈りをお聞きください13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください」聖書協会共同訳1節指揮者によって。エドトンの詩、賛歌。ダビデの詩。2節私は言った。『舌で罪を犯さないように。わたしの道を守ろう。悪しき者がわたしの前にいるうちは、口に轡をはめておこう』と。神への嘆願。38篇と同じ重い皮膚病を担っているかに思われる。何故口に轡をはめておくのか。それは悩ませている苦難のゆえに人生の空しさつぶやき「神に逆らう者」(口語訳=愚かな者)からのそしりを受けることがないためである。岩波訳「不法者の冒涜と曲解をうけさせぬように言葉を慎む」。ここでは悪意を抱いている者で9~⒑節で繰り返されている。3節「私は黙り込み、口を閉ざし善いことついても沈黙した。だが、わが私の苦痛は募り」。私の内で心...主よ、私の祈りをお聞きください

  • 私の望みはすべてあなたの前に

    詩38篇10節「わが主よ、私の望みはすべてあなたの前にあります」聖書協会共同訳1節賛歌、ダビデの詩。記念のために。2節「主よ、怒って私を責めず、憤って私を懲らしめないでください」見出しの「記念」とは素祭(レビ記2章1節)の中で火祭として献げる感謝を表している。本詩は七つの悔い改め(6,32、38,51,102.130,143各編)の一つ。先ず神の怒りから解放されることを嘆願する。わたしは「矢で射抜かれ、押さえつけられた獲物」のようだと訴えている(3節)。あなたの矢がわたしの中に突き刺さったという。痛みが全身に走るのである。矢を射られた獲物が暴れて逃げる有り様を想定している。4節「あなたの憤りのために私の肉体は健やかなところはなく私の罪のために骨に安らぎはありません」。「私の過ちは頭を越えるほどにもなり、罪が耐え...私の望みはすべてあなたの前に

  • 主の前に沈黙し、主を待ち望め

    詩37篇7節「主の前に沈黙し、主を待ち望め成功の道を行く者謀を遂げる者に怒りを燃やすな」聖書協会共同訳1節(アルファベットによる詩)ダビデによる詩悪をなす者に怒りを燃やすな不正を働く者に怒りを燃やすな。」アルファベット詩は34同じである。一人の長老(わたし25、35節)が神に逆らう者のむくいについて若者に忠告を与える形の箴言に近い詩である。同じテーマは49、73編にある。全体を1~11節静かな信頼、12~22節神に従う者と逆らう者にたいする反省、23~40節祝福と裁きの三つに区分される。1節の悪事をなす者が繁栄しているように見えるが心悩ますな、心熱くなるなと勧める。彼らは若草に見えるが、それは一時に過ぎない。彼らは草のように瞬く間に枯れ若草のようにしおれる(2節)3節「主に信頼し、善を行え地に住み、真実を育め。...主の前に沈黙し、主を待ち望め

  • 主よ あなたの慈しみは天にあり

    詩36篇6節「主よあなたの慈しみは天にありあなたのまことは雲にまで及びます」聖書協会共同訳1節「指揮者によって、主の僕の詩。ダビデの詩(小見出し)。「背きの罪が悪しき者にささやくのが私の心に聞こえてくる。彼の目には神への恐れがない」本詩も三十五編と同じ内容から三つに区分される。①1~5節悪しき者について述べる。②6~10節一変して神への祈りと賛美となる。③11~13節主の慈しみに生きる者と悪事を働く者の対比された祈り。2節「主の僕の詩」は詩18篇と同じで罪中心の生き方を止めて神の愛に生きることである。「私の心に聞こえてくる」直訳「わが心の奥に悪しき者への咎(ペシャ)のささやきである。わたし(ダビデ)は悪しき者に罪がささやかれていることが判る」という、鋭い洞察力が示される。3節「彼は自分の過ちを認め、憎むはずが、...主よあなたの慈しみは天にあり

  • 私は大いなる集会であなたに感謝をささげ

    詩35篇18節「私は大いなる集会であなたに感謝をささげ強力な民の中で、あなたを賛美します」聖書協会共同訳1節「ダビデの詩。主よ、私と争う者と争い私と戦う者と戦ってください」。盾と大盾を手にし、私を助けるために立ち上がってください2節。本詩は三つの詩が纏められている(1~⒑節、11~17節、18~28節)。10節までは主の助けを呼び求める祈りである。争いに勝ち、立ち上がって助けてくださいと祈る。3節「槍と投げ槍を構えて私に迫り来る者に立ち向かい私の魂に言ってください『あなたの救いはわたしだ』と。直訳「私に向って追い攻める者達を、槍を抜いて閉じ込めてください。そして「私こそお前の救いだ」と言ってください。4節「私の命を狙う者が恥じと屈辱を受け、私に悪をたくらむ者が、退き、辱められますように。」そして恥をかき後退して...私は大いなる集会であなたに感謝をささげ

  • 主は心の打ち砕かれた者に寄り添い

    詩34篇19節「主は心の打ち砕かれた者に寄り添い、霊の砕かれた者を救い出す」聖書協会共同訳1節「小見出しダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で気がふれたように装い、逃れて去ったとき。2節「私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美がある」。前半11節までが苦難からの救いの喜びと賛美であり、後半12節以下は教訓的な教えである。すべての時に主を賛美し、口に賛美が絶えないのである。3節「私の魂は主を誇り苦しむ人は聞いて喜ぶ」。私と共に主を崇めよう。共に御名を崇めよう(4節)。原文「へりくだる者達は(アナヴイ―ム)聞くように(イシュメウー)そして喜ぶように(ヴェイスマーフー)。苦難は心貧しく、謙遜な態度にされる(マタイ福音書5章3節)4節「私と共に主を崇めよ。共に御名を崇めよう」。私が主を尋ね求めると...主は心の打ち砕かれた者に寄り添い

  • 幸いな者 主に過ちをとがめられず

    詩33篇1節「正しき人よ、主によって喜び歌え」聖書協会共同訳1節「正しき人よ、主によって喜び歌え。賛美はまっすぐな人にふさわしい」。1~3節は賛美への招きであるが、1節は32篇11節と同じであり、原文「義人たちよ(ツアデイキーム)」喜び歌え。「正しい者達(らイエシヤリーム)喜びの声をあげよ、力強く賛美することが出来る。琴と十弦を奏でて主に感謝をささげ、ほめ歌うのである(2節)。3節「新しい歌を主に歌え、喜びの叫びと共に麗しく奏でよ」。本詩は新年祭の詩篇とされている。4節「主の言葉はまっすぐ主の業はすべて真実」。ここら神の創造の業とその秩序を賛美する。主は正義と公正を愛し、主の慈しみに地は満ちる(5節)。主の言葉により、その息吹によって天の万象は造られた(6節)。主は大海の水を革袋に入れるように集め、深淵の水を倉...幸いな者主に過ちをとがめられず

  • 幸いな者 主に過ちをとがめられず

    詩32篇2節「幸いな者主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人」聖書協会共同訳11節「(小見出し)ダビデの詩、マスキール。背きの罪を赦され、罪を覆われた人」悔い改めの詩篇のひとつ。詩51篇と同じ「バト・シェバとの不倫事件」サムエル記下11章が想起される。共通している詩篇は51篇、130篇、143篇もある。1、2節の文頭に「幸いだ!」(アシュレー)が来る。この形式は1篇1節、33篇12節、41篇2節などにも出てくる。それは罪の悔い改めの結果である。その罪の赦しが四様に出ている。(1)「背き(ペシャア)」文語訳「咎」違反=赦された人(ネスイ)(2)「罪(はタアー)的が外れる。踏み外す」=覆われた人(ケスイ)。(3)「不義(アヴオン)」咎。邪悪な性格=主がとがめない(ろーヤふショヴ)。(4)「欺き(レミヤ)」陰謀...幸いな者主に過ちをとがめられず

  • まことの神よ 私の霊を御手に委ねます

    詩31篇6節「主よ、まことの神よ私の霊を御手に委ねます。あなたは私を贖われた」聖書書協会共同訳1節「(小見出し)指揮者によって。賛歌、ダビデの詩。」2節「主よ、あなたのもとに逃れます。私がとこしえに恥を受けることがないようにしてください。あなたの正義によって私を救いだしてください」嘆き(2~7節)と信頼(8~9、20~23節)とが交互に歌われている。2~7節は71篇1~3節と同じである。「~もとに逃れます」は原語「あなたの中に私は逃げ込む(ハスイ―テイ)」である。3節「私に耳を傾け、急いで私を助け出してください。私のために、砦の大岩、救いの城となってください。」逃げ込むのは、あなたが私のために「砦の大岩・巨岩(れツール)」砦の家・私の岩(サるイ)だからである」これが4節で繰り返されている。「あなたこそわが岩、わ...まことの神よ私の霊を御手に委ねます

  • わが主に憐れみを乞い願います

    詩30篇わが主に憐れみを乞い願います9節「主よ、私はあなたに呼び掛けます。わが主に憐れみを乞い願います。」聖書協会共同訳1節「(小見出し)賛歌、神殿奉献の歌。ダビデの詩。「主よ、あなたを崇めます。あなたは私をすくい上げ私のことで敵を喜ばせる事はありませんでした」(2節)。小見出しにある通り、神殿奉献の歌でマッカベヤ時代(BC164年~)から「宮きよめの祭に用いられるようになったという(ヨハネ福音書10章22節see)2節にあるとおり「主よ、あなたを崇めます」という賛美から始まる。3節「わが神、主よ、私があなたに叫ぶと、あなたは私を癒してくださいました。」本詩から32篇まで重い病から癒された経験が歌われる。それは瀕死に直面する程の者であったことが伺われる。4節「主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下る者...わが主に憐れみを乞い願います

  • 主がその民に力を与えてくださるように

    詩29篇11節「主がその民に力を与えてくださるように、主がその民に力を与えてくださるように」聖書協会共同訳1節「(小見出し)賛歌、ダビデの詩神々の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ」。8篇2~10節、19篇1~7節に同じ自然の中で神の力の働きが賛美されているが、本詩は自然の猛威の中から主(アドナイ・岩波訳ヤハウエ)の名を呼ぶ祈りである。「神々の子ら」は大空に無数に存在する星と雷鳴を表しているカナンの文学形式に基づいている(ヨブ記38章7節)。ヘブライ語対訳では「神の子らよ」で、礼拝の会衆に呼び掛けた典礼用に転用した加筆と言われる(9節、11節cf)。汎神論を避ける必要はない。2節「御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いで主にひれ伏せ。」天にある無数の星と雷鳴に呼びかけて「御名の栄光を主に帰せよ」と三度繰り返す...主がその民に力を与えてくださるように

  • 父と母が私を見捨てようとも主は私を迎え入れて下さいます

    詩27篇10節「父と母が私を見捨てようとも主は私を迎え入れて下さいます」聖書協会訳1節「(小見出し)ダビデの詩主は我が光、我が救い。わたしはだれを恐れよう。主はわが命の砦。私は誰におののくことあろう」。「悪をなす者が私の肉を食らおうと近づくとき、私を苦しめる者、私の敵のほうが、かえってつまずき、倒れる」2節。1~6節は信頼の祈りであり、7~13節は嘆きの歌である。主は私の不安や恐れを取り除く光であり、命の砦である。然し苦難の描写や克服は共通した事柄で相互補完した詩篇と読むことが出来る。3節「たとえ、軍勢が私に対して陣を敷いても私の心は恐れない。たとえ、戦いが私に向って起こっても私の信頼は揺るがない」。4節「私が主に願った一つのこと私はそれを求め続けよう。命のあるかぎり主の家に住み主の麗しさにまみえ主の宮で尋ね求...父と母が私を見捨てようとも主は私を迎え入れて下さいます

  • あなたの栄光の宿る所を慕います

    詩26篇8節「主よ、私はあなたの生む家をあなたの栄光の宿る所を慕います」聖書協会訳1節「(小見出し)ダビデの詩主よ、私を裁いてください」。私は全き道を歩みました。私は主を信頼し揺らぐことはありませんでした。」。2節「主よ、私を調べ、試してください。私の思いと心を確かめてください」。直訳「調べる」(=ベはネーニ試験する、「試す」=ツォルファ真偽を鑑定する)はらわたと心を火をもって試してくださいと祈る。本詩では信頼の姿勢が強く求められ一層強くそれが示される。「完全に歩んだ道」である。3節「あなたの慈しみは私の目の前にあります。私はあなたの真実に従って歩んできました。」これは25篇10節にもある。私を導く使者はあなたの慈しみ(ヘセド)であり、あなたの真実(エムナー)だと告白する。4節「私は空しい者と共に座らず欺く者と...あなたの栄光の宿る所を慕います

  • 主は恵み深く、正しい。それゆえに罪人に道を示す

    詩25篇8節「主は恵み深く、正しい。それゆえに罪人に道を示す」聖書協会訳1節「(小見出し)ダビデの詩主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見る」。わが神よ、私はあなたに信頼する。私が恥を受けることのないように。敵が勝ち誇ることがないように(2節)。9~10篇と同じアルファベット詩篇である。1節と2節は冒頭にアルファベットが来ないで、「あなたに向かって」(エレーは)と「あなたに」(べはー)である。まず「私が恥を負わないように、」敵が勝ち誇ることがないように」と祈る。更に主を待ち望む者は恥を受けない。理由なく裏切る者は恥じると、「恥じ」が三回出ている(2~3回)。それは神との正しい関係についてである。4節「主よ、私にあなたの道を知らせ、行く道を教えてください」。前の「道」は複数で「諸々の道」デレヘーは(・口語訳大路)、後の「道...主は恵み深く、正しい。それゆえに罪人に道を示す

  • 栄光の王とは誰か。強く勇ましい主

    詩24篇8節「栄光の王とは誰か。強く勇ましい主。戦いの勇者なる主」聖書協会訳1節「地とそこに満ちもの。世界とそこに住むものは主のもの。」(小見出しダビデの詩。賛歌)聖書協会共同訳。「主が大海の上に地の基を築き大河の上に世界を添えたから」2節。エルサレム入城に先立ち、その資格が質されている。先ず主は全地を支配されるかたであり、その御業は天地創造の時にまで遡る。「大海の上に地の基を築き」とあるが、「大海」「大河」は創世記1章2節「混沌」(カオス)で、その上に天と地が創造されたということである(2節)。続いて主の山(エルサレルムの都)に上り、聖所で主を礼拝する人は誰かが問われる(3節)。これは15篇にもある。その人は①「汚れのない手と清い心を持つ人(4節)暴力や不正で汚れていない人。②「魂を空しいものに向けない人異教...栄光の王とは誰か。強く勇ましい主

  • 主は私の羊飼い。私は乏しいことがない

    詩23篇1、2節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ憩いの汀に伴われる」聖書協会共同訳1節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」。新共同訳は「主は羊飼い」であったが、原文は「ヤハウエロイー」(主はわが羊飼い)で、一人称を省いていたが、ダビデの個人的経験(サムエル記上16章11節)の枠を超えて主を羊飼いとして導かれるイスラエル民全体の賛歌という解釈であった(エゼキエル34章see)。民として欠けることのない土地に平穏に生きる確信が込められていたのであろう。主は私を草原(若草の牧場・岩波訳)に伏させ、「憩いの水のほとり・アルメーメヌほット)に伴って下さる。流れる水ではない。動物も人間も貴重な岩盤を砕いて掘った井戸である(出エジプト記2章15~17節)。3節「主は私の魂を生き返らせ御名にふ...主は私の羊飼い。私は乏しいことがない

  • すべての人が主を心に留め、立ち帰るように

    詩22篇28節「すべての人が主を心に留め、立ち帰るように。国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように」聖書協会共同訳1節「指揮者によって、曙の牝鹿による、賛歌。ダビデの詩(小見出し)21篇とは対照的に弱さを一身に負う者の嘆きの詩が22節まで詠われる。2節「わが神、わが神なぜ私をお見捨てになったのか。私の悲嘆の言葉は救いから遠い」。『わが神、わが神なぜ私をお見捨てになったのか』は原文「エリーエリーラマーアザヴターニ」がそのまま十字架上で叫ばれた主イエスの言葉として引用されている(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。3節「わが神よ、昼に呼びかけてもあなたは答えられない。夜もなお、私は黙ることはできない」。昼も夜も呼び求めて止まないのに応えてくださらないと「わたしの神に」訴える。絶望のどん底にありながら、あなたヘ...すべての人が主を心に留め、立ち帰るように

  • あなたの救いにどれほど喜び踊ることか

    詩21篇2節「主よ、王はあなたの力を選び、あなたの救いにどれほど喜び踊ることか」聖書協会共同訳1節「指揮者によって、賛歌。ダビデの詩」小見出し20篇に続く王の詩である。20篇が取り成しの詩であり、21篇は御救いの感謝の詩である。全体は2~8節と9~13節に二分される。2節「主よ、王はあなたの力を選び、あなたの救いにどれほど喜び踊ることか」。讃美は主の御力を喜び祝うというものである。「あなたの力を選ぶ」とあるが直訳「主よ『あなたの力の中で』(アドナイベオズは)は20篇で三度くりかえされた「神の名の力」(2,6,8節)である。主が王の心の願いに応え、聞き届けられた勝利が与えられたという確信が歌われる。4節「あなたは恵みの祝福をもって彼を迎え、その頭に黄金の冠を載せた」。主がイスラエルの王位に就けられたことを喜ぶ。「...あなたの救いにどれほど喜び踊ることか

  • あなたの救いを喜び歌おう

    詩20篇6節「あなたの救いを喜び歌おう。我らの神の名により旗を揚げよう。主があなたの望みをすべてかなえてくださるように」聖書協会共同訳1節「指揮者によって、賛歌。ダビデの詩」小見出し「ダビデの詩」とあるが、民が王と共に戦いに出陣する時の歌である。本詩はその祈りであり、21篇は感謝。背景としてサムエル記下10章1~19節が考えられる。この時祭司が王に呼び掛け、執り成す祈りである。2節「苦難の日にあなたに答え、ヤコブの神の名があなたを守ってくださるように」。「あなた」は以下王を指している。イスラエルを救出したヤコブの神(出エジプト記19章3節see)の御名が崇められ、戦場で起こり来る苦難に助けられるようにと願う。3節「聖所からあなたに助けを送り、シオンからあなたを支えてくださるように」民の真ん中にある神殿から勝利の...あなたの救いを喜び歌おう

  • 天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる

    詩19篇3節「その声は全地にその言葉は世界の果てにまで及ぶ」」聖書協会共同訳1~2節(小見出し)指揮者によって、賛歌。ダビデの詩。「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる」。本詩は2~7節と8~15節との二つの詩が結び合わされている。前者は神(エル)の御手で万物の創造を支配している事を讃美する。それは天の栄光を物語る(原文メサペリーム)働きとして示している。後者は神(ヤーヴェ)が大空を両手(原文マギッド)の業として創造された事を言い表している。3~4節「昼は昼に言葉を伝え夜は夜に知識を送る。語ることもなく、言葉もなく、その声は聞こえない」これは8篇2、4にも詠われている。5節「その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ。そこへ神は太陽のために幕屋を張った」。大空に張られた弦の響きは世界に伝えられるとい...天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる

  • 主はわが岩、わが城、私を救う方

    詩18篇3節「主はわが岩、わが城、私を救う方、わが神、わが大岩、私はそこに逃れる。わが盾、わが救いの角、わが砦」聖書協会共同訳1節「小見出し:指揮者によって、主の僕ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った。同じ詩がサムエル記下22章に出てくる。サウル王から逃れて読んだ詩は52,54,57篇にもある。全体を五つに区分できよう。①苦難の中から神に呼ばわる(2~7節)②神の顕現(8~16節)③救いは正しい者に与えられる(17~31節)④神こそわたしの力、敵を滅ぼす(32~46節)⑤感謝と讃美(47~51節)2節「主よ、わが力よ、私はあなたを慕う。」以下九つの表現で神を告白する。主はわしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の...主はわが岩、わが城、私を救う方

  • あなたの道を守り、足取りの揺らぐことはない

    詩17篇3節「私の歩みはあなたの道を守り、足取りの揺らぐことはありません」聖書協会共同訳1節「主よ、私の正しさをお聞き下さい。叫びに耳を傾けてください。偽りのない唇から出る私の祈りに。」無実の訴えである。ダビデの生涯では、マオンの荒れ野に逃れた時(サムエル記上23章24~29節が想定される。「正しさ」原語は義(ツエデク)である。2節「御前から私のために判決が出され、あなたの目が公平に注がれますように」神の義(ツエデク)をもって訴えを聞き、公平(ミシュパト)をもってご覧下さいと強く迫る。3節「あなたは私の心に試練を与え、夜訪れて私を試みましたが、何も見出すことはありませんでした。たくらみなど口にすることはありません。」あなたが私の内側を火で精錬して不純物があるかどうかを試しても、何一つ無いでしょうという。4節「人...あなたの道を守り、足取りの揺らぐことはない

  • 私の心は喜び、心の底から喜び躍り

    詩16篇9節「それゆえ私の心は喜び、心の底から喜び躍り、この身もまた安らかに住まう」聖書協会共同訳1節小見出しミクタム、ダビデの詩「神よ、私を守ってください私はあなたのもとに逃れました。」ミクタムの意味は明らかでないがカタムが「金の飾り」から最高に美しいと解説される。直訳「神よ守り給え、あなたの中に逃げ込む私を」11篇1節と似ている。「お前は言う、わが主あなたの上にわたしの幸いはないと」(2節)あなたは眞の保護者、助言者であると告白している。1節の神は「エる」は力強い神を示し、2節は「アドナイ」である。3節「この地の聖なる者らに私の喜ぶ力ある者すべてに言う。」この地にある聖なる者とは誰か。私の喜び力ある者とは誰を指すのか。大きく二つの解釈に分れる。一般的にはイスラエルの共同体であり、神によって聖別された人々と理...私の心は喜び、心の底から喜び躍り

  • とこしえに揺らぐことはない

    詩15篇5節「利息を取って金を貸さず賄賂を取って罪なき人を苦しめないこれを行う人はとこしえに揺らぐことはない」聖書協会共同訳1節「主よ、だれがあなたの幕屋にとどまり、聖なる山に宿る事が出来るでしょうか」本詩の構成は1節の問い掛けに対して「それは~」という答えが2節から5節aになり、5節bが、その結語になっている。巡礼者がエルサレム神殿に入城する時に門前で祭司とする問答と解釈され「入城典礼」と呼ばれる。2節「それは、全き道を歩み、義を行い、心の中で真実を語る者」。ここで三つの立場が語られる。先ず自分自身の事柄である。①「完全な道を歩く人(足)②「義(ツエデク)を行う者(手)、③「心の中に真実を語る者。3節「舌で人を傷つけない、友に災いをもたらさない、隣人をそしることもない。」ここで三つの対人関係が語られる。①舌で...とこしえに揺らぐことはない

  • 神が正しき人の輪の中におられるから

    詩14篇6節「だが、彼らは恐れおののく事になる。神が正しい人の輪の中におられるから」聖書協会共同訳1節「(前書き指揮者によって、ダビデの詩)愚かな者は心の中で言う『神などいない』と。彼らは堕落し、忌むべきことをした。善を行う者はいない。」この詩は53篇と殆ど同じであるが、両者の神名が異なることから、時代的背景の相違が推定される。14篇では神を貧しい人の避け所としているところ(4~6節)が53篇とは異なっている。「忌むべきこと」とは動詞と名詞の二語よりなっている。1節「愚か者」(原語ナーバール)を「神などない」(エンエロヒーム)としている。無神論者ではなく「神を無視する人」(10篇4節)を指し、神の創造的な知恵の欠洛した考えを持つ者で、その心は腐敗した状態で、憎むべき行い=偶像礼拝に陥っている。神の善を行う者はい...神が正しき人の輪の中におられるから

  • 私はあなたの慈しみに頼り

    詩13篇6節「私はあなたの慈しみに頼り、私の心はあなたの救いに喜び踊ります。『主に歌おう主が私に報いてくださった』と」聖書協会共同訳1、2節「(前書き指揮者によって、賛歌、ダビデの詩)嘆きの歌であるが、『いつまで』(アッドアーナ)が以下のように2節から4節までに四回も繰り返されている。2節「いつまで主よ、あなたは私を永久に忘れるのですか」。「いつまであなたは私から御顔を隠しておられるのですか」3節「いつまで、私は、心に悲しみを日々抱き(直訳エツオト計画する)続けるのですか。悲しみが魂の計画になっていると告白している。いつまで敵は私に対して高ぶるのですか」。(直訳敵はわが上に高くなっている。これはダビデ自身の個人的経験に留まらず、ヨブもそうであったが、信仰者が陥る嘆きの現実である。敵がいつまで誇っているのかとある...私はあなたの慈しみに頼り

  • 主の仰せこそ清い仰せ

    詩12篇7節「主の仰せこそ清い仰せ。主の炉で精錬され、七度純化された銀」聖書協会共同訳本詩は大きく三つに区分される。先ず2~4節「主の助けを求める訴え」である。2節(前書き指揮者によって、シュミニトによる。賛歌。ダビデの詩。)「主よ、お救いください。忠実な人が消え、真実な人は人の子の中から去りました」。先ず「お救いください」(ホシーア)が冒頭に出てくる。「忠実な人」は、へブル語では「敬虔な人」(はスイード)は消え去った。「慈しみに生きる人」とも訳されている。「信仰の達人」(エムニーム)は人の子から消えた。11篇4節では「人の子」は主から見つめられる者であった。信仰の継承者がいないということか。3節「人々は互いに空しいことを語り、滑らかな唇で、二心をもって語ります」。「空しいこと」(シャーヴ・虚偽)。岩波訳は3~...主の仰せこそ清い仰せ

  • 朝が来る度に、身を整えて待ち望みます

    詩11篇心の真っ直ぐな人は御顔を仰ぎ見る7節「主は正しき方、正義を愛される。心の真っ直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」聖書協会共同訳1節(指揮者によって、ダビデの詩)「主のもとに私は逃れた。なぜあなたがたは私の魂に言うのか。「小鳥よ、山に飛んでゆけ」と。「主を私の避け所とする」詩篇は7,11、16、31、57、71篇など多い。ここではそれに反対する者がいる。2節「見、悪しき者が弓を張り、矢をつがえた。闇の中、心の真っ直ぐな人を射るために」。鳥のように山に逃れて自分の才覚で戦いを避けようとする選択だが、真っ暗闇の中で待ち伏せし、弦に矢をつかえ射落されてなす術がない。3節「礎が崩れてしまっては正しき者に何ができよう」。「礎が崩れる」はヘブライ語直訳では「キー・ハシャトット(時の柱)で統治権を指し、土台が崩れてしまう状態で、...朝が来る度に、身を整えて待ち望みます

  • 御手によって救おうと顧みて下さる

    詩10篇14節「あなたは苦しみと悩みをご覧になり御手によって救おうと顧みて下さる。不幸な人はあなたに身を委ね、あなたは孤児の助け手となられた」聖書協会共同訳1節(アルファベットによる詩)「主よ、なぜあなたは遠く立ち苦難の時に身を隠されるのですか」。9篇の続きでアルファベット後半部分(ラッメド~タウ)の歌。岩波訳「なぜ」(ラマー・ラッメド)が最初に来る。そのように翻訳すべきであろう。10章は立場の違いが一層明確で神に強く不義不正を訴える祈りとなっている。2節「悪しき者は高ぶり苦しむ人を追い回している。彼らが自らの謀に陥りますように」共同訳は原文に近く直訳は「悪しき者の驕りに燃えて貧しい者は捕らえられている」となる。詩人の立場は「貧しい者」「苦しむ人」(9、12、14、17節)「不幸な人」8、14節)「みなしご」(...御手によって救おうと顧みて下さる

  • 身を横たえて眠り、目覚めます

    詩9篇9節「主は義によって世界を裁き、公平に諸国の民を裁かれる」聖書協会共同訳1節表題(アルファベットによる詩9章ではアーレフからコフまである)「指揮者によって、ムトラベンによって。賛歌。ダビデの詩」。小見出し共同訳では「ギテイトに合わせた賛歌」となっていたが「ムトラベン」は意味不明である。この詩の伴奏メロデイ―の名か琴の一種という節もある。ペリシテの町ガテの兵士が楽器を奏して行進した曲とか、他に81,84篇がある。2節から始まり10節で同じ歌を繰り返して終わる。これは42、46、57、103篇にある。2節「私は心を尽くして主に感謝を献げ、その奇しき業をすべて語り告げよう」。私は感謝する」。わたしは感謝する(オデー・ヘブライ語アーレフ)で始まる。「心を尽くして」は心のすべてをもって(withallmyheart...身を横たえて眠り、目覚めます

  • 幼子と乳飲み子の口によって砦を築く

    詩8篇3節「幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え敵と報復する者を鎮めるために」聖書協会共同訳3節1節「指揮者によって。ギテイト(ギツテイ―ト)に合せて。賛歌。ダビデの詩。小見出しギテイトに合わせた賛歌とある。ペリシテの町ガテの兵士が楽器を奏して行進した曲とか、他に81,84篇がある。2節から始まり10節で同じ歌を繰り返して終わる。これは42、46、57、103篇にある。2節「主よ、我らの主よ御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威光をこの地上に置き」。直訳すると「アドナイ、アドネーヌ、何と力強いあなたの名は、全地に、与えられた至るところに。天にあるあなたの威光が」となる。その威光を讃えることは7章18節と結びつく。それはどのようにしてか。3~7節で示していて、大きく二つに分れる。3節...幼子と乳飲み子の口によって砦を築く

  • 夜ごと涙で寝床を浸す

    詩6篇「私は嘆き疲れました。夜ごと涙で寝床を浸し、床を漂わせています」(聖書協会共同訳7節)1節「指揮者によって、弦楽器で。シュミニトによる。賛歌。ダビデの詩」。共同訳は「シュミニト」を「第八調」と訳しているが、正確な意味は不明で、数詞八を指し、歌の調子を表すと思われる。七つの悔い改めの一つである。2節「主よ、怒りに燃えて私を責めず憤りに任せて懲らしめないで下さい」。主よ、憐れんで下さい。私は病み衰えています。主よ、癒して下さい。わたしの骨はおののいています(3節)。「怒り」(ペアぺは-)は烈火のごとく憤激すること。赦しと憐れみを求める内容は何なのか。「癒して下さい」とは罪過の故に心が千々に乱れ打ち沈んだ状態に陥っているのでる。それは何時までなのかと問う(4節)。5節「主よ、帰ってきて下さい。私の魂を助け出し慈...夜ごと涙で寝床を浸す

  • 朝が来る度に、身を整えて待ち望みます

    詩5篇「主よ、朝に私の声を聞いて下さい。朝が来る度に、あなたに向かって身を整え待ち望みます」(聖書協会共同訳4節)2節「主よ、私の言葉に耳を傾けて下さい。私のつぶやきを聞き分けてください」本詩も苦しみの中から神に祈る。構成としては神への訴えと悪しき者への審判が交互に記されている。両者を厳しく対照させるのは1,3.4篇と同じであるが、ここでは悪しき者に対して徹底的に神の審判を厳しく求めている。「つぶやき」(ハギギー)直訳は歯ぎしりすることだが「呻き」とも訳される。取り繕わない真摯な要求である。「私の王、私の神よ、わが叫びの声をよく聞いて下さい」(3節)と願う。それは民がイスラエルの王に求めるのと同じである。4節「主よ、朝に私の声を聞いて下さい。朝が来る度に、あなたに向かって身を整え待ち望みます」。「身を整えて」は...朝が来る度に、身を整えて待ち望みます

  • 床の上で心に語り、そして鎮まれ

    詩4篇「わが義の神よ、呼び掛けに答えてください。あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました。私を憐れみ、祈りを聞いてください」(聖書協会共同訳2節)本詩も苦しみの中からの祈りである。人称が2節「私」、3~6節「人の子ら」。7節「私たち」、8~9節「私」に変わっている。先ず義なる神が苦難から解放し守ってくださるようにと祈る。「解き放ってくださる。口語訳は「くつろがせ」で「夕の祈り」といわれることから、寝床で祈る状況を伺わせて面白い。3節「人の子らよ、わが栄光の主をいつまで辱めるのか。空しいものを愛し、偽りを求めて」。苦しめている敵に悔い改めを求める4節「あなた方は知るがよい。主は忠実な人を選び、呼びかけを聞いてくださることを知れ」。主から聖別されているので、深い配慮を受け、祈りにいつも応えてくださると確信する...床の上で心に語り、そして鎮まれ

  • 身を横たえて眠り、目覚めます

    詩3篇6節「身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから」(聖書協会共同訳)1節小見出し「賛歌、ダビデの詩、ダビデが息子アブシャロムから逃れたときに」。本詩は6篇まで一連の詩で、朝の詩に始まり、夕の詩(4篇)、夜の詩(5篇)、夜半の詩(6篇)となる。一節の表題のようにダビデがわが子アブサムの反逆を避けて逃走中に作った詩であるが必ずしも内容は一致しない(サムエル記下15章30節以下)2節「主よ、私の苦しみの何と多いことでしょう。多くの者が私に立ち向かい、多くの者が私の魂に言っています『あの者に神の救いなどない』と。」不信と反対の敵対者に囲まれ、神の救いなどないと侮られていると訴えている(3節9。この局面を打開させる鍵は「それでも主よ」と呼び掛ける。口語訳「しかし主よ」英訳はButYouOLord、岩波...身を横たえて眠り、目覚めます

  • 畏れつつ、主に仕えよ

    詩2篇「畏れつつ、主に仕えよ。震えつつ、喜び踊れ。」(聖書協会共同訳11節)1節「なぜ国々は騒ぎ立ち、諸国の民は空しいことをつぶやくのか」。これは1篇1、4~6節「悪しき者」への呼び掛けである。彼らは騒ぎ立ち、空しいことをつぶやき、主と、主が油注がれた者に何故逆らうのかと問い(2節)、彼らの枷を壊し、その縄を投げしてようと振舞うのか(3節)。「油を注がれた者」(マーシーアハ・メシア)は神の霊力を宿す者で王の即位の儀式で行われた(サムエル記上10章1節、列王記上1章39節)4節「天にいます方は笑う。わが主は彼らを嘲る」天の王座から見おろされる主なる神は、彼らの高慢さを冷笑し、憤りに任せて彼らをおののかせる(5節)「わたしこそ聖なるシオンの山で、この油を注いだ方を地上の王として即位させたのだ」と宣言されるのである(...畏れつつ、主に仕えよ

  • 教えを昼も夜も口ずさむ人

    詩1篇+「幸いな者、悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人」(聖書協会共同訳1節)。箴言は人と人の横糸、詩編は神と人の横糸で織りなす人生模様となぞらえることが出来る。詩編には讃美、祈り、感謝、嘆き、禱告、悔い改めがある。本詩は2篇と一つに結ばれた詩と考えられる。「幸い」で始まり「幸い」(2篇12節)で結ばれている。内容は律法(1篇)と予言(2篇)で、旧約の二大命題となっている。ヘブライ語の語順は「幸いだ!その人は」(アシュレーハイーシュ).「幸いだ!歩まない」(アシュルローハラフ)で詩編冒頭に相応しいことばである。先ず消極的態度と行動が示される。先ず神に逆らう者らの計画に組みしない、一緒に歩かない、傲慢な者と同席しないのである。神の働き(共同体)の圏外に出て行くことをしないのである。これ...教えを昼も夜も口ずさむ人

  • 信仰によって義と認められ

    ローマの手紙第1章16―17節聖書はバイブルというが、これはギリシャ語で「本」(書物)、英語ではザブック(ザ=大文字)といいます。唯一の本ということです。印刷技術が発達していなかった紀元16世紀マルティン・ルターの宗教改革があった時代には一般人には手にすることは出来なかった。印刷技術が発明された同じ時期に、宗教改革が置きて、ルターは、これに相まって誰でもルター訳聖書が読めるようになったのです。同じキリスト教でもルターの宗教改革を認めなかったローマカトリック教会では二十世紀になるまで、ラテン語聖書しかありませんでしたから、人々は礼拝で神父の話で聖書を彼らの都合のよい話として聞くだけで充分だったのでした。1987年になって日本で、初めてカトリック教会とプロテスタント教会が一緒になって「新共同訳聖書」が出版されたので...信仰によって義と認められ

  • それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ

    ルカ10章3節「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(新共同訳)1節「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。小見出し『七二人を派遣する』。ルカ福音書特有の記事である。6章で十二人の弟子を選ばれたイエスは、七十二人という数字の根拠は、民数記11章24~26節の故事に由来したものと考えられるが、そこでは七十人であった。理由は「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)という実情からである。福音書記者は宣教の視野を「全世界」(マルコ16章章15節、ルカ24章42節)に置いていたに違いない。主イエスとで弟子たちの周囲には多くの病人や貧しい者の数が多かったは当然伺える(2節)。4~10節は9章2~5節と同じである。3...それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ

  • 自分の十字架を背って従いなさい

    ルカ福音書9章23節「それから皆に言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(新共同訳)1~6節12人を宣教に派遣する(並行記事マルコ6章7~12節)病気の癒しと神の国を宣伝える。遍歴の説教者であるが物乞いを禁じ、迎えられる家で共に食事をし、そうでない時は「足の塵を払う」(10章11節、使徒言行録13章51)。宣教の実践である。7~9節領主ヘロデの戸惑い。イエスの出来事を聞き、イエスは何者だろうと訝かしく思い、やがて敵意に変わる(13章31節)。この後イエスと弟子たちはベッサイダに退く。10~17節五千人への供食押し掛けてきた群衆に神の国の説話と癒やしの業があるが、日没になり十二弟子に群衆への配慮を促す。「パン五つと魚二匹」しかないと言う。増食の奇跡は列王...自分の十字架を背って従いなさい

  • 良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞く

    ルカ福音書第8章15節「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実をむすぶ人たちである」(聖書協会共同訳)1~4節「婦人たちの奉仕」ルカ福音書特有な記事で12弟子に同行する。ユダヤ教社会では極めて異例であるが、奉仕(ディアコネイン)は持ち物を出し合って一向に仕える。イエスの死と復活に際して、初めに彼女らは出会う証人となる(23章51~24章10節)。4~8節「種を蒔く人」のたとえ。この並行記事はマタイ13章10~17節、マルコ4章10~12節である。聞き手は群衆(オクロス)である。聞き手として様々な可能性を持つ。蒔く人は出来るだけ広い範囲に腕を広げて蒔いた。種は道端、石地、茨の中、そして良い土地に落ちた。「聞く耳を持つ者は聞きなさい」(8節)と大声がある。神の言葉を聞く耳があるかどうか...良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞く

  • 神の国で最も小さい者でも、偉大である

    ルカ福音書第7章28節「言っておくがおよそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(聖書協会共同訳)1~10節「百人隊長の僕をいやす」。ピラトに仕える百人隊長が危篤の部下のいやしを求めてきた。会堂を建てるユダヤ教の新派と考えられる(5節)。そこに出向くイエスに対して自らの権威に比較できない方として認める言葉に、イエスへの信頼を読み取っている。異邦人伝道はイエス復活後のコルネリウスの姿と重なって見える出来事である(使徒言行録10章1~40節)。11~17節「やもめの息子を生き返らす」死者の復活記事は旧約のエリヤとエりシャの伝承(列王記上17章7~24節、下4章32~37節)を、イエスを「主」として記載されている(13節)。群衆は「大予言者が現われた...神の国で最も小さい者でも、偉大である

  • 岩の上に土台を置いて家を建てる人

    ルカ福音書第6章48節「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった」(聖書協会共同訳)1~5節安息日に麦の穂を摘む。他人の麦畑から麦穂を摘みとることは律法で許されていた(申命記23章26節)。しかし安息日律法は重要であり、その違反は死罪に相当する(レビ記15章32~36節)。ここでは食事の準備で労働に値するとした。イエスはダビデの故事に言及し(サムエル上21章1~7節)律法の柔軟性を要求。安息日律法の解釈をする権威を主張した。6~11節手の萎えた人を癒やすこと(マタイ12章9~14節)、12~16節十二人を選ぶ(マタイ10章1~4節)記事である。ルカ6章12節では人の選びに先立ち徹夜の祈りをイエスはさ...岩の上に土台を置いて家を建てる人

  • 何もかも捨てて立ち上がり従った

    ルカ福音書第5章28~29節「その後、イエスは出て行き、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(聖書協会共同訳)1節「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来た、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた」というのは4章の終わりに見られた状況に「続く事柄であった。席の温まる間もない忙しさが伺える。イエスの宣教に弟子を選任することは急務であった。2~11節この時ガリラヤの漁師たちが夜通しの漁を終えて網を洗っていた。その内漁師シモンの舟に乗り込んで陸から少し離れたところで群衆に教え始めた。マタイ福音書では小高い丘の上から宣教が始まるが、ルカ福音書にはそれはない。人が選ばれている(5章1~11節)。沖へ漕ぎ出して網をおろして見よと告...何もかも捨てて立ち上がり従った

  • 貧しい人に福音を告げ知らせるため

    ルカ福音書第4章18~19節「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(聖書協会共同訳)1~13節イエス荒野の誘惑で、平行記事はマタイ4章1~11節、マルコ1章12~13節にある。40日の断食はイスラエル荒野40年と重なる。悪魔の存在は天使の顔を持つ(ヨブ記1章)。誘惑の第一は飢餓で、奇跡でなく神の言(ロゴス)で応える。第二は権力と繁栄、第三は神殿だがイエスはこれも神の言葉で応える(申命記6章13節、6章16節)。イエスのメシア性が証明された。14~15節イエスは育ったナザレで、安息日に会堂に入り立ってイザヤ6...貧しい人に福音を告げ知らせるため

  • その方は聖霊と火でバプテスマを授ける

    ルカ福音書3章16節「ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなた方に水で洗礼(バプテスマ)をさずけているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる」(聖書協会共同訳)1~3節歴史的背景を先ず述べる。サマリアの総督ポンティオ・ピラトはユダヤ、サマリアの総督(28~36年)でヨハネが登場する。イエスの受難の時と重なる。彼は罪の赦しと悔い改めを洗礼(バプテスマ)によって示した。群衆はヨハネがメシアであると誤解した。彼は解く必要があり「わたしより遥かに権威ある方が来られる」と語り、その方の前には身を屈めて靴の紐を解き、外出の時には持ち運ぶ役目にも及ばぬ僕だと伝える(16節)。彼は水のバプテスマをヨルダン川で授け、罪の悔い改...その方は聖霊と火でバプテスマを授ける

  • 天に栄光神に、地に平和人に

    ルカによる福音書第2章11節「いと高き所には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(聖書協会共同訳)キリスト誕生を十二月二五日に定められたのは、ローマの皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教を公認した紀元三世紀以降であるが、その根拠にはローマ人の冬至祭で太陽神ミトラから取って替ったことによっている。いつの時期にキリスト誕生があったかという議論があるが、羊飼いらが野宿する季節は、ユダヤ地方の冬の雨期では無い筈と言われる。然し羊飼いらが常識論に当てはまらない様な生活を強いられ野宿する生活から軽蔑され、羊の群を牧する為に雇われ労働者でした。ここで大切なことは、十一節「あなたがたのために、救い主がお生れになった。この方こそ主メシヤである。」という天使らの告知である。当時のユダヤ社会で、軽蔑され疎外され、季節はずれ...天に栄光神に、地に平和人に

  • わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます

    ルカ福音書第1章47-48節「わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです」(聖書協会共同訳)1章はマリアとエリサベトの二人の女性が描かれている。3~7節エリサベトはアロン家の娘で神の前に正しく主の掟を守る、夫は祭司ザカリアで、二人とも神の前に正しく主の戒めを守り、非のうちどころがなかったがエリサベツトは年老いて不妊の婦人であった。{正しい人}とは神の祝福を受けて嫡子を得ると思われていたのである。祭司の勤めをしていたザカリアに妻エリサベトが男子を産むと告げられ、またエリサベトにも同様の告知があり、驚く(8~25節)。そしてナザレに住むダビデの家系ヨセフと婚約している年若い乙女マリアにも6ヶ月後、身分も育ちも異なるが、この二人にも神から男の子を授かるという物語(26~...わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます

  • 昨日も今日もまた永遠に変わることのない方

    ヘブライ人への手紙第13章8節「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(聖書協会訳)1節「兄弟愛をいつも持っていなさい」。(小見出し=神に喜ばれる奉仕1~19節)。神の御國を継ぐ者として、地上の生活を確かなものとするという実践が勧められる。先ず愛の実践であるが、旅人をもてなすこと、気づかないで天使たちをもてなすことがあるという(2節)、迫害で投獄されている者と虐待されている者の慰問(3節)。この旅人も虐待されている人々も概ね巡回伝道者を指している。4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」。貞節が問われている。健全な結婚とは夫婦間の性的生活を指している。「汚す」とは男女の性的不道徳を犯すことで、一夫一婦の関係が質される。他人の目を誤魔化しても神の目...昨日も今日もまた永遠に変わることのない方

  • 信仰の創始者また完成者イエスを見つめながら

    ヘブライ人への手紙第12章2節「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとはないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(新共同訳)1節「こうゆう訳で」は11章の「証人の群れ」に登場した信仰の英雄たちを示しながら、今や信仰の馳せ場を走らなければならないと促すのである。絡みつく重荷をかなぐり捨て、身軽になるのである。それは罪の重い外套を着ていては定められた各自の競走を完走することは出来ない。2節「信仰の創始者」は2章10節では「救いの創始者」(アルケーゴス)となっている。この語は「先導者」という意味もある。イエスいて信仰が開始し、信仰が完成するという事になる。このお方のことをよく考え、罪と戦い抵抗したことに導かれているなら、迫害の恐怖...信仰の創始者また完成者イエスを見つめながら

  • 望むところの実質と、見えない事実の確証

    ヘブライ人への手紙第11章1節「信仰とは、望んでいる事柄の実質であり、見えないものを確証するものです」(日本聖書協会訳)1節でまず信仰の内容と前提が示される。信仰とは、望んでいる事柄の実質であり、見えないものを確証するものという。「信仰」には定冠詞がないので、定義的な文体となっている。「望んでいる事柄」は人間の側の態度と関係なく、存在する客観的なものを意味する。「確証」は1章3節では「本質」と訳されている。「信仰によって~」が3~12節までに七回繰り返して述べている。3節は1節後半の主張が別な角度から述べているといえる。「この世界」とは1章2節に述べている世界でなく、神の言葉により創造されたという。まず創世記4章2節以下のアベルとカインの物語である。「勝れる犠牲」は「豊かな」という意味であるがその種類と選択にお...望むところの実質と、見えない事実の確証

  • 信頼しきって、真心から神に近づこう

    ヘブライ人への手紙第10章22~23節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう」(新共同訳)1節「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。ですから、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」。人の手で造られた幕屋で、年毎に生け贄を献げて神に近づく人たちを完全な者にはできない。出来たら生け贄を献げることは中止される筈だが、実際は繰り返されて、罪の記憶が甦るだけである(2~3節)。ここで詩40篇7~9節を引用し、キリストが来られた時「罪を贖う生け贄を好まない、むしろわたしのため、体を備えて下さった」とい...信頼しきって、真心から神に近づこう

  • 世の終わりにご自身を生け贄として献げ

    ヘブライ人への手紙第9章26節「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身を生け贄として献げて罪を除くために、ただ一度現れてくださいました」(聖書協会共同訳)小見出しにあるとおり「地上の聖所と天の聖所」について述べられている。最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」。8章で旧新の契約についてであったが、9章から地上と天上の幕屋について展開する。第一の幕屋とは聖所、第二の幕屋は至聖所で、そこにある祭具とその間にある垂れ幕について述べる(2~5節)。6節「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります」。地上の幕屋での祭司の勤めがあり、続いて大祭司の勤めについて述べる(7節)。大祭司が年に一度...世の終わりにご自身を生け贄として献げ

  • 大胆に恵みの座に近づこう

    へブライ人への手紙第4章16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(新共同訳)1節「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。三章後半で神の民が不信仰で安息にあずかることが出来なかったことを知ったが、しかし神の約束はまだ成就していないので、安息に入りそこねないよう注意しようと勧める。2節「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。…」。「福音が告げ知らされている」とは神の安息に入ることを指す。彼らはこれを聞いても信じて受け入れなかった為に安息に与ることができなかった。しかし信じたわたし達は、この安息に与る...大胆に恵みの座に近づこう

  • 『今日』という日のうちに~

    ブライの手紙第3章『今日』という日のうちに13節「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(新共同訳)1節「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。既に2章17~18節からわたしたちが信仰を告白しているイエスは、民の罪を償うためにすべての点で同じ試練を受けられた使者であり、神の前に憐れみ深い忠実な大祭司であることを考えなさいという。「考えなさい」(カタノエオー)は充分に知ること、「思い見るべきである」(口語訳)、「見据えなさい」(岩波訳)。2節「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」。「神の家」と...『今日』という日のうちに~

  • 救いの創始者

    ヘブライ人への手紙第2章10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(新共同訳)1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば~」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の...救いの創始者

  • この終りの時

    ヘブライ人への手紙第1章1節「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。の終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」1~2節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。著者は、冒頭の挨拶なしに、まず神の語りかけに注目させる。旧約時代は預言や夢、幻、自然、奇跡などで語られたが、しかし「この終わりの時代」には、もはや何の媒介もなく直接御子イエスを通して語りかけられた。口語訳「終りの時」TEV「thelastdays」ギリシャ語「エスカト―」から終末論(eschatology)が展開される。「…神は御子を...この終りの時

  • 新しい契約の大祭司

    ヘブライ人への手紙第8章6~7節「しかし、今、わたしたちの大祭司は、はるかに優れた務めを得ておられます。この方は、更にまさった約束に基づいて制定された、さらにまさった契約の仲介者だからです。もしあの最初の契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったでしょう」(聖書協会共同訳)1節「以上述べたことの要点は、わたしたちにはこのような大祭司がいて、天で大いなる方の玉座の右の座に着き~」。これまで論述してきたメルキゼデクに等しい永遠の大祭司イエスが、御座の右に着いておられること、そして人間ではなく神が建てられた真の幕屋で仕えておられる(2節)。すべての大祭司は供え物といけにえとを献げる任命を受けているが、この方も何か献げ物を持っていなければならないであろう(3節)。しかしこの方が地上におられる...新しい契約の大祭司

  • 永遠に変わることのない祭司職

    ヘブライ人への手紙第7章24~25節「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それで、ご自分を通して神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるからです」(聖書協会共同訳)1節「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました」。本章はイエスがメルキゼデクに等しい大祭司であることを論証している。彼が聖書に登場するのは創世記14章17~20節である。まず彼の名前の意味を説く。「メルキ」はマルヒー(使者=王)、「ゼデク」はツェデカー(正義)で「義の王」である(2節)。同時に「サレム」はシャローム(平和)で「平和の王」である。彼には父もな...永遠に変わることのない祭司職

  • 最後まで希望を持ち続ける

    ヘブライ人への手紙第6章11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」(新共同訳)1~2節「だからわたしたちは、…基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」。基本的な教えとしてここに六項目が挙げられているが、5章終りの未成人の状態にある読者に対する言葉である。なぜこの六項目はキリストの教えの初歩であるが、何故これが初歩なのか。ユダヤ教の指導者ラビから学んだ共通の教えだからである。「成熟を目指して進みましょう」は意訳。これは3節の神からの呼び掛けに対して応えること。TEVではLetusgoforward!となっている。4~5節知識と実際とが離れては、厳しい時代状況にはついて行けない。棄教、背...最後まで希望を持ち続ける

  • 成熟したキリスト者の生活

    ヘブライ人への手紙第5章「乳を飲んでいる者は皆、幼子ですから、義の言葉を味わったことがありません。固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた大人のためのものです」(日本聖書協会訳ヘブライ5章13~14節)1節「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。ここで大祭司の資格が明らかにされる。第一に人間の中から選ばれ、人々のために神に仕える役に任じられることである。それは「弱さを身にまとっている」ので、罪にいたる無知と迷いにある人々を「思いやる」ことが出来ねばならないからである(2節)。「弱さを身にまとう」とは、人としての脆弱で壊れやすい「土の器」である。「思いやる」(メトリオパセイン)とは「判断する、測る、思い測る」ということ...成熟したキリスト者の生活

  • 恐れる生活出なく、神を畏れる生き方

    「神はすべてを時宜に適うように造りまた、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(コヘレテの言葉3章11節)1聖書協会訳では、「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた」となっている。「永遠を思う」ということは、現実主義ではなく、様々な事柄に出会った時にその先に「何かがある」ということである。本書では「全てが空しい」という無情と虚無に陥ることでなく、人生を大切に生きるということにつながる。2仏教にも「般若心経」という教本がある。「色即是空、空即是色」というが、ここで「空」というのは、実体を欠いた現象は常に変化し無情だというのである。その現実に適応して生きるのである。「空」というのはヘブライ語で「へベル」は「蒸気」「息」で実体を備えて...恐れる生活出なく、神を畏れる生き方

  • 『主の栄光を仰ぎ見る』

    聖書民数記21章4~9節第二コリント3章12~17節1「信仰」という日本語の漢字は、「人偏」がついていますが、これは人が生まれた時から、信じ仰いで生きる者という意味が込められているように思います。それは乳幼児のことを考えてみると納得できるでしょう。それは母親の乳房が乳幼児の顔と向き合ってあるということです。喉の骨格が特別に出来ていると言われます。類人猿のゴリラやチンパンジーも同じだと思わるでしょうが、何時襲われるかも知れない外敵から子猿を守る為に、哺乳の仕方が違っていて骨格が人と異なっている訳です。2乳幼児は安心しきって乳を飲んでいて、時々休み母親の顔を見つめます。「信じ仰ぐ」という生き方を身に付けています。八木重吉の詩に「あんあんあん、あんあんあん、あんあんあん、うるさいよ、うるさいよ、うるさか(く)ないよ、...『主の栄光を仰ぎ見る』

  • 罪を取り除いてくださる方法

    聖書ヘブライ人の手紙9章23~28節「もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、只一度現われてくださいました(26節日本聖書協会訳)1わたし達は、大祭司キリストがかつてのレビ族の大票司にはるかに優れた資質を持つお方であることを示されましたが、9章ではそのことを、罪を清める力の違いによって明らかにします。まず罪の清めを行う場所のことです。かつての大祭司は、手で造られた幕屋で犠牲をささげました。幕屋は聖所と幕で仕切られた至聖訴に分けらました。通常は聖所で犠牲をささげましたが、至聖所には年に一度贖罪日に大祭司が入り、民の罪の清められることを祈りました。従って幕屋、後のエルサレム神殿は、ユダヤ教徒にとって神との...罪を取り除いてくださる方法

  • 永遠の救いの源

    聖書箇所ヘブライ4章14~5章10節1全く人性を持つ方として来られたイエス・キリストが神の本質の姿を持つという第1章の最初の部分で示されたわたし達は、その働きが神と人との間に祭司的働きを持つということを更に学ぶことが出来ます。旧約聖書に記されている祭司職は、イスラエルの民の中から選任されましたが、同時にその選任は神の指示によるものでした。イエス・キリストが終わりの時として来られるまでは、その任務は重要でした。2祭司は12部族の中でレビ族から立てられ、世襲で継承されました。最も大事な務めは、祭壇に犠牲をささげ、罪の赦しを神に祈ることでした。個人でも民族でも罪の赦しの為に焼き尽くす捧げ物をささげました(Lev1、4)。ですから祭司は、罪の問題を解決するために人びとが頼りとする専門職だったのです。今やこのレビ族の祭司...永遠の救いの源

  • 神の決定的な語りかけ

    神はかつて予言者たちを通して、折に触れ、様々な仕方で先祖たちに語られたが、この終わりの時には、神子を通して私たちに語られた(聖書協会共同訳ヘブライ1章1節)1ヘブル人への手紙は、手紙の形式として冒頭に挨拶の言葉がなく、いきなり主題に対する序文がきます。著者と宛先がわかりませんが、ヘブライ人という題名は後から付けられたものです。それは手紙の内容がユダヤ人キリスト者であろうと言うことからでした。著者はパウロ説がありますが、手紙の背景から見て妥当ではありません。バルナバ説やアポロ説などもあります。2この序文はヨハネ福音書に匹敵するようなものです。誰に宛て書かれたか明確ではありませんが、背景としてキリスト共同体に危機が迫っていることが伺われます。その困難に対応するもので、説教をまとめて書き送ったものだと考えられます。年...神の決定的な語りかけ

  • 救いの導き手

    「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(聖書協会共同訳ヘブライ人への手紙2章10節)1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば~」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪される...救いの導き手

  • 三段飛びの信仰

    「私たちは、この信仰のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むのでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるであれば、私たちは忍耐して待ち望むのです。(日本聖書協会訳ローマ信徒への手紙八章二四―二五節)一新年を迎えて、先ず『初夢』を今夜は見ることでしょう。昔から一藤富士二鷹三茄子」と言われますが、何故でしょうか。これには諸説があります。富士山、鷹狩り、初物のナスを徳川家康が好んだことからだそうです。富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、ナスは事を「成す」。富士は「無事」、鷹は「高い」、ナスは事を「成す」という掛け言葉です二きょうの説教題はわたし達の希望についてのことす。実はこのヒントは祈祷会で元鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師のFEBCラジオ放送テープを毎週祈祷会で...三段飛びの信仰

  • 三段跳びの信仰

    私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている信仰は希望は希望ではありません。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを誰が尚望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐してまちのぞむのです。(聖書協会訳8章24~25節)一新年を迎える人は、先ず『初夢』を見ることでしょう。昔から一藤富士二鷹三茄子」と言われますが、何故でしょうか。これには諸説があります。富士山、鷹狩り、初物のナスを徳川家康が好んだことからだそうです。富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、ナスは事を「成す」。富士は「無事」、鷹は「高い」、ナスは事を「成す」という掛け言葉です二きょうの説教題はわたし達の希望についてのことす。実はこのヒントは祈祷会で元鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師のFEBCラジオ放送テープ...三段跳びの信仰

  • Heb2:17 憐れみ深い大祭司イエス

    それで、イエスは神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点で兄弟たちと同じようにならねばなりませんでした(日本聖書協会訳ヘブライ人への手紙2章17節)1「憐れみ」は「哀れみ」とは別です。憐れみは基本的に人の心に良い感情を起し、優しさや理解をつくり出すものであり、憐れみの無さは人間性を欠くことになります。英語はcompassionですが、これはcom(共に)とpati(苦しむ、耐える)の意味があります。Lk6:36「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」と主は言われました。2わたし達が「憐れみ深い者」になるには、自分という壁を取り除かなければ出来ないことです。ひとりだけの世界では自己憐憫であり、人と人とを結び合わせる優しさや良い感情は閉鎖されている...Heb2:17憐れみ深い大祭司イエス

  • 今光は見えないが、雲の彼方で輝いている

    ヨブ記37章21節「今、光は見えないがそれは雲のかなたしかで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと~」(新共同訳)1節「それゆえ、わたしの心は破れんばかりに激しく打つ」。前章で、エリフは雨雲と稲妻について述べたが、それは本章でも続いている。雷鳴が神の怒りの御声として彼の心を激しく打ち、神の轟きを聞けと呼びかける(2節)。確かに雷鳴は恐れと驚きとして呼びかける。彼はこれを自然現象としてみないで、知り得ない御業として受け取る(3~5節)。6節「神は命じられる。雪には、「地に降り積もれ」雨には、「激しく降れ」と」。神は御業を認させる為に、人の手の業をすべて封じ、働く事が出来なくなる。獣は巣穴に隠れ、嵐が吹き荒れ、寒さが撒き散らされ、神の息吹で氷ができ、広く河川は凍結する(7~10節)。雲は雨を含んで重くなり、密雲は稲...今光は見えないが、雲の彼方で輝いている

  • 苦悩の中で耳を開いて下さる

    ヨブ記36章15節「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し/苦悩の中で耳を開いてくださる」(新共同訳)1節「エリフは更に言葉を続けた」。32~36節まで長々と弁論を続けたエリフは改めてヨブに「もう少し私の話を聞いてくれ」と呼びかける(2節)。私の考えを述べ、私の造り主は正しく偽りはない。完全な知識をもつお方を示そう。その支配は力強く知恵に満ちて、逆らう者を生かしておかず、貧しい人に正しい裁きをしてくださる方(3~6節)、従う者に目を止め、栄誉を与えられる(7節)。「貧しい者」とは「苦しむ者」(口語訳)である。8節「捕われの身となって足枷をはめられ苦悩の縄に縛られている人があれば」その行いを指摘し、その罪の重さを指し示され、耳を開いて戒め、耳を傾けて従うなら日々を幸いな者とし長く恵みのうちに過ごす事になる(9~1...苦悩の中で耳を開いて下さる

  • あなたは神を待つべきなのだ

    ヨブ記35章14節「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」(新共同訳)1節「エリフは更に言った」。エリフは教育的な態度で更にヨブを説得しようとしている。34章に続いてヨブの言葉を取上げて語る。しかし正確ではない。「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」と言っているが、それは正当だろうかと反論する(2節)。13章18節だが、これはヨブの基本的な主張。新改訳「わたしの義は神からだ」。「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の益があるか」と言うが、犯しているとか犯していないとか損得にしている高慢な態度を批判しているが、むしろエリファズが22章3節で述べている。4節「あなたに、また傍らにいる友人たちにわたしはひとこと言いたい」。ヨブと友人たちに、エリフは3節と...あなたは神を待つべきなのだ

  • 命を得て光を仰ぐ

    ヨブ記33章28節「しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐと」(新共同訳)。1節「さてヨブよ、わたしの言葉を聞きわたしの言うことによく耳を傾けよ」。三人の友人とヨブに呼びかけたが答えがないので、改めて「さてヨブよ」と語り始める。わたしは口を開き、率直に語り舌は偽りを決して言わない、唇は真実をもってはっきり言う(2~3節)。全能者の息を吹きかけてわたしは生かされた者だ(4節)。これは創世記2章7節を指す。あなたもわたしと同様に土のかけらに過ぎないのだから、脅かして押さえつけようとしている訳ではない。答えられるなら答えてみよという(6~7節)。8節「あなたが話すのはわたしの耳に入り声も言葉もわたしは聞いた」。あなたは潔白で、罪を犯していない、清く不義はない。それでも神は敵視して足枷をは...命を得て光を仰ぐ

  • エリフは怒った

    ヨブ記32章2節「さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。」(新共同訳)。1節「ここで、この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分は正しいと確信していたからである」ここで最後にエリフという友人が突然登場し語り始める。彼はヨブと三人の会話を聞いていたが、そこに居合わせていたことはこれまで出てきていない。エリフの言葉は32~37章まである。「エリフ」とは「彼は神」という意味で神への篤い信仰を表す名である。本章は弁論の導入部で何故最後に彼が出てきたか理由を述べる。ヨブが神より自分のほうが正しいと主張していること、そしてこの主張に三人が適切な反論の出来ないとからで、話しかけるのを控えていた(5節)。この時ヨブの「怒り」が4回も出て...エリフは怒った

  • 全能者よ、答えてください

    ヨブ記31章19節「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を。」(新共同訳)。1節「わたしは自分の目と契約を結んでいるのに、どうしておとめに目を注いだりしようか。」29章で義人だヨブとして正義と公平をもって生きていることが語られ、30章ではそれにも関わらず苦難と悩みの日々であることを嘆く独白であった。本章では自分が潔白であることを強く主張する。そして告白状を用意していると結んでいる。その潔白であることを次々と羅列する。不倫の目で乙女を見たことはない不正を行う者に神は災いを与えられるが不正の富を手にしたことはない(1~3節)。神はわたしを見張っておれら、その歩みを全て数えておられる(4節)。5節「わたしがむなしいものと共に歩き...全能者よ、答えてください

  • わたしは塵芥に等しい

    ヨブ記30章19節「だが今は、わたしより若い者らが、わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。」(新共同訳)。1節「だが今は、わたしより若い者らがわたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすらわたしは忌まわしいと思っていたのだ」。「だが今は」は全勝と比較して不幸で悲惨な有様になっているという。「若い者ら」はそうではなかった(29章8節)かつて彼らは無一物で飢え、砂漠や沼地をさまよい、あかざの葉、れだまの根を食料としていた(2~4節)。砂漠に自生し、食用に不適である。世間から追われ、泥棒呼ばわりされ、谷間や土の穴、岩の裂け目を住まいとする(5~6節)。愚かな者、卑しい者の子(新改訳「しれ者の子たち、つまらぬ者の子たち」)。甚だしい差別を受け、世間から排除された...わたしは塵芥に等しい

  • 正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着

    ヨブ記29章14節「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。」(新共同訳)。友人との論争で因果応報の思想には限界性を示し、友人との論争は未解決のまま残っている為に29~31章で明らかにしようとした。神に守られていた日々は、頭上に灯を輝かせて暗黒の中を歩いていたわたしであった(2~3節)。信頼のできる友と親しく交わりをして繁栄(収穫の秋)の日々であったあの頃は全能者はわたしと共におられ、わが子らは周りにいた(4~5節)。ヨブの自己評価である。6節「乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで、わたしのためにはオリーブ油が岩からすら流れ出た」。「乳脂」はクリーム状のもので石鹸の原形。町の城門」は住民の集まる場所で、公訴のなされる処、そこにヨブは着座し若者が静まり、老人たちは敬意を表し、主だった人々は会...正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着

  • 知恵はどこに見いだされるのか

    ヨブ記28章12節「では知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか」(新共同訳)。1節「銀は銀山に産し金は金山で精錬する」本州に新共同訳で混み出しに「神の知恵の賛美」となっている。ここは独立した章に思えるが4~27章の三人の友人との議論から一つの結論を出しているといえよう。それは因果応報論と不条理の問題である。人の知恵には限界があり神の聖知=叡智が示されねば解決しないということであろう。これは既に7章17節、9章4節、23章2~9節、26章12節に語られている。友人チョファルも述べている(11章7節)。人は山を掘り起こし岩を切り開き金銀鉄鋼を掘り出し精錬する知恵を持っている。地下の坑道を深く掘る知恵があるが猛禽も禿鷹も獰猛な獅子すらもそれは無い(5~8節)。人は硬い岩まで手を伸ばし切り裂いて進み、川を堰...知恵はどこに見いだされるのか

  • 破滅が洪水のように

    ヨブ記27章20節「破滅が洪水のように彼を襲いつむじ風が夜の間にさらう」(新共同訳)1節「ヨブは更に言葉をついで主張した」。26章に続くヨブの答弁であるが、2節から、彼は徹底して身の潔白を全能者にかけて誓う。2節「わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う。」息が鼻にあり生きている限り、決して唇は不正を語らず、舌は偽ったことを語ったことはない(4節)。あなたがたこそ間違った判断をしているのであり、わたしは死に至るまで一日たりとも正しさに固執して断じて譲らない(5~6節)。7節「わたしに敵対する者こそ罪に定められわたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」。身の潔白を主張するヨブにとって、今は友ではなく、敵対する者だから、神から罪と不正によって裁かれ、命が断たれるであろうとい...破滅が洪水のように

  • 神の道のほんの一端

    ヨブ記26章14節「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう」(新共同訳)1節「ヨブは答えた」。ビルダデの貧弱な知恵に対する痛烈な皮肉を込めた反論をヨブはしている。あなたは無力な者にどんな助けを与え、どんな救いをもたらしたのか、知恵のない者にどんな忠告を与え、多くの人にどんな策を授けたというのかと問う(2~3節)。神の言葉を述べているつもりでいるが、それは本当か、誰の息吹(霊)なのかと問いかける(4節)。ヨブは真の霊の働きを知っていることを言外に述べようとしているのである。5節「亡者たち、陰府の淵に住む者たちは水の底でのたうち回る」。ビルダデが25章では言及しなかった神の権威と知恵について語っている。先ず陰府と深淵についてである。...神の道のほんの一端

  • 光に背く人々がいる

    ヨブ記24章13節「光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず光の射すところにとどまろうとしない」(新共同訳)1節「なぜ、全能者のもとには、さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」。ヨブの独白が続く。本章は12節までと、13節以下とに大きく二つに区分できよう。前半は、悪しき暴君の圧制のもとで虐げられている人々の悲惨である。彼らは神を愛する者なのに神の裁定の日を見ることなく、地境を移し、家畜の群を奪い、孤児が手塩に掛けている驢馬を連れ去り、やもめの牛を質草に取る悪人がいる(2~3節)。4節「乏しい人々は道から押しのけられこの地の貧しい人々は身を隠す」。彼らは飢えて食べものにこと欠く状態で、野驢馬のように、子に食べ物を与えるために荒れ野で労し、悪人の畑で刈り入れをする...光に背く人々がいる

  • 神に祈って何になるのか

    ヨブ記21章15節「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか」(新共同訳)。1節「ヨブは答えた」。ツォファルに対するヨブの反論である。これまで語ったのは因果応報論では説明し切れないということである。わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。13章17節でも同じことを述べている。我慢して聞いてくれ。それから笑うなら笑えと訴える(2~3節)。わたしはこれまで人に訴えているのではないのに、なぜ我慢しなければならないのか。これから語ることは慄然とし身震いさえするのだ、だから口に手を当て驚くがよい(4~6節)。7節「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ年を重ねてなお、力を増し加えるのか」。ヨブは因果応報を批判し問い直す。神に逆らうものが幸福に生き永らえ、子孫も栄え(8節)、家は平和で...神に祈って何になるのか

  • 神に祈って何になるのか

    ヨブ記21章15節「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか」(新共同訳)。1節「ヨブは答えた」。ツォファルに対するヨブの反論である。これまで語ったのは因果応報論では説明し切れないということである。わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。13章17節でも同じことを述べている。我慢して聞いてくれ。それから笑うなら笑えと訴える(2~3節)。わたしはこれまで人に訴えているのではないのに、なぜ我慢しなければならないのか。これから語ることは慄然とし身震いさえするのだ、だから口に手を当て驚くがよい(4~6節)。7節「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ年を重ねてなお、力を増し加えるのか」。ヨブは因果応報を批判し問い直す。神に逆らうものが幸福に生き永らえ、子孫も栄え(8節)、家は平和で...神に祈って何になるのか

  • わたしを贖う方は生きておられる

    ヨブ記19章25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」(新共同訳)1節「ヨブは答えた」。ビルダドへのヨブの応答である。内容はビルダドに向けられた言葉と、神がヨブに向けておられる怒りの凄まじさを披瀝した言葉が出てくる。あなた達はどこまでわたしを苦しめ、そんな論法でわたしを打ち砕くのかと問い、侮辱するのはもう充分だと訴える(2~3節)。故意に犯したのでもない過ちを、跨張して責め立てて辱めているという(4~5節)6節「それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをしわたしの周囲に砦を巡らしていることを」。神がわたしに不当な取り扱いをされているのを知るがよい。救いを求めても応えてもらえず、わたしの道はふさがれて通れず、行く手には暗黒があり、栄誉の冠は奪われ、希望は根こそ...わたしを贖う方は生きておられる

  • 神はわたしの歩む道を知っておられる

    ヨブ記23章10節「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」(新共同訳)1節「ヨブは答えた」。エリファズとの対話は噛み合わなかった。そこでヨブは神との対話を切に願うのである。彼の独白は24章にまで続いている。ここでは16~17章、19章程の激しさはないようだ。来る日も来る日もわたしは、苦しみ嘆き(口語訳=呟きは激しく)、呻いて祈りの手は重い。どうしたら、その方を見出せるのか…どうしたら、おられるところに行けるのか。わたしの訴えを差し出し、思う存分(口語訳=口を極めて)…言い分を述べたいとつぶやく(2~4節)。必死に神を探し求めるヨブである。5節「答えてくださるなら、それを悟り話しかけてくださるなら、理解しよう」。神は強い力で争われる方でなく、...神はわたしの歩む道を知っておられる

  • わたしを贖う方は生きておられる

    ヨブ記19章25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」(新共同訳)1節「ヨブは答えた」。ビルダドへのヨブの応答である。内容はビルダドに向けられた言葉と、神がヨブに向けておられる怒りの凄まじさを披瀝した言葉が出てくる。あなた達はどこまでわたしを苦しめ、そんな論法でわたしを打ち砕くのかと問い、侮辱するのはもう充分だと訴える(2~3節)。故意に犯したのでもない過ちを、跨張して責め立てて辱めているという(4~5節)6節「それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをしわたしの周囲に砦を巡らしていることを」。神がわたしに不当な取り扱いをされているのを知るがよい。救いを求めても応えてもらえず、わたしの道はふさがれて通れず、行く手には暗黒があり、栄誉の冠は奪われ、希望は根こそ...わたしを贖う方は生きておられる

  • 天は彼の罪を暴く

    ヨブ記20章27節「天は彼の罪を暴き地は彼に対して立ち上がる」(新共同訳)1節「ナアマ人ツォファルは答えた」。今度は二番目の友人ツォファルの登場である。慰めと勧告の要素は無くなっている。神が不当に苦しみを与えているというあなたの説はわたしを興奮させ、わたしに対する非難と聞こえるので、反論せずにおれないという(2~3節)。19章2~5節、22節を指していよう。ツォファルの因果応報論を受け入れないヨブの態度である。5節「神に逆らう者の喜びは、はかなく神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない」。ツォファルはヨブが神を逆らう者、神を無視する者とし、徹底して悪人の破滅は間近いこと、天に達するほどの高慢さは、自分の汚物ように地下に投げ捨てられる。夜の幻のように消え失せて、何処を探しても見出すことはできないだろう(6~8...天は彼の罪を暴く

  • 破滅が四方から彼を脅かし彼の足を追い立てる

    ヨブ記18章2節「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。滅が四方から彼を脅か」。1節「シュア人ビルダドは答えた」。ヨブの激白に対する、ビルダドの八章に続く二回目の非難である。いつまで言葉の罠の掛け合いをするのか、先ず理解してから話し合おうという(2節)。なぜ獣のように思われるのか、あなたの目に愚か者のように見えるのか(3節)。ヨブを「怒りによって自らを引き裂く者よ」と呼ぶ。彼の身に振りかかるすべての災禍は自業自得であり、自分の勝手で地が捨てられたり、岩が移されたりするというのかと非難する(4節)。5節「神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝かない」。因果応報論が述べられる。「天幕」《ヨブの一族》の灯は暗黒となる(6節)。それはまるで、網を仕掛け、落とし...破滅が四方から彼を脅かし彼の足を追い立てる

  • わたしの味方をしてくれるでしょう

    ヨブ記17章3節「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう」(新共同訳)1節「息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり」。絶望の淵からの叫びは続く。既に死と隣り合わせに置かれていると告白する。「息は絶え」口語訳「わが霊は破れ」元訳「わが気息(いき)はすでにくさり」となっている。人々は尚もわたしを嘲笑い、彼らの敵意の中に夜を過ごす(2節)。3節「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう」。16章19節で「天にはわたしのために証人があり」とあり、神以外に保証人になる方はおられないというのである。新改訳は「わたしを保証する者をあなたのそばに置いてください」としている。メシヤ的な存在が意図しているのだろうか。これは16章20節「わたしの友」...わたしの味方をしてくれるでしょう

  • 天にはわたしの証人があり、弁護してくださる方がいる

    ヨブ記16章19節「このような時にも、見よ天にはわたしのために証人があり高い天にはわたしを弁護してくださる方がある」。(新共同訳)1節「ヨブは答えた」。そんなことを聞くのはもうご免だ。慰める振りをして、皆苦しめている、無駄口をたたくな、何を苛立ってそんな答えをするのかとあなた達は言う(2~3節)。これは15章11~13節の反論である。わたしがあなたたちの立場だったら、頭を振って嘲笑的な態度で、口先だけの言葉で励ますなどはしないだろうと非難する(4~5節)。逆の立場だったらこうだというのである。「唇を動かす」は口語訳「唇の慰めで…苦しみを和らげる」である。6節「語っても苦しみはやまず黙っていても、それは去りません」。ヨブの独白である。いま語っても、黙っていても解決しないジレンマに立たされている。疲れ果て、わたしの...天にはわたしの証人があり、弁護してくださる方がいる

  • 悪人の一生は不安に満ちている

    ヨブ記15章20節「さて、悪人の一生は不安に満ち暴虐な者の生きる年数も限られている」(新共同訳)1節「テマン人エリファズは答えた」。12~14章にヨブの訴えがあったが、本章から再び三人の友人がヨブと対話することになる。最初は4章に出てきたエリファズである。ヨブの述べていることは「知恵ある者」の言葉ではない。無益で役に立たない空虚なもので(2~3節)、神を畏れ敬うことを捨て、罪が口に教えて語り、舌が悪る賢い人の言葉を選ばせている。あなたを罪に定めるのはあなたの口と舌だという(4~6節)。7節「あなたは最初の人間として生まれたのか。山より先に生まれたのか」。ヨブの高慢を厳しく指摘する。最初の人間とは、原初の知恵を有する人間が考えられている(エゼキエル書28章12~17節see)。神の奥義を聞き知恵を自分のものにした...悪人の一生は不安に満ちている

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