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土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜 https://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006

君の臣を視ること土芥の如く、臣の君を視ること寇讎の如し、と評されし末永一族の闇に埋もれた叛骨の歴史。

時は鎌倉時代から戦国時代、現在の宮城県北から岩手県南にかけて蟠踞した武家の一族葛西氏の家臣末永氏。我が母方の先祖とされるこの一族、時に主君に謀叛を起こしながらも家老にまで立身を遂げた叛骨気鋭の武者ぶりを、様々な視点から論じ、滅びし者達の声無き声を明らかにするブログです。

末永能登守14611514
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住所
宮城野区
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石巻市
ブログ村参加

2016/09/03

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  • 土芥の一類~奥州葛西家臣末永氏一族~FC2版へのリンク

    https://yamanisyosuke19159.blog.fc2.com/

  • ブロガー末永能登守14611514臨終す

    ※本文中、実在するブロガーさんの名前(敬称つき)を紹介する場合があります。決して悪意ある紹介ではありませんのでご了解下さい。 照れ臭いから一回しか書かないよ。 おいらことブロガー・末永能登守14611514がブログデビューしたのは、奇しくも...

  • 第二章82母方の家系・末永貞蔵の二人の後見人

    末永貞蔵に二人の後見人が付いた昭和7年(1932)3月12日、末永泰蔵の3妻ふくは、最早末永家には用は無いとばかりに家を去り、加美郡中新田町字町裏に住む弟・大村大八郎の戸籍に入り、末永家の戸籍からは除籍となります。薄情と言えばそれまでですが...

  • 第二章81母方の家系・末永泰蔵の死

    昭和5年(1930)3月、末永泰蔵3男貞蔵が石巻高等小学校を卒業します。 その時の卒業アルバムが遺されています。アルバムの裏にクラスメイトの名前を祖父が自筆で書き込んでいて、何故か自分には末永貞三と記入しています。 祖父は齢16の青春の入り...

  • 第二章80母方の家系・長女ゑいと父泰蔵の婚姻届、5男荘蔵の悲劇、北村フヂの早世

    昭和3年(1928)11月22日、私鉄宮城電気鉄道仙台石巻間が開通します。後に仙石線となる鉄道です。宮城電鉄仙台駅は当初、地下にありましたが、国鉄時代は地上に、JRとなってよりは再び地下化しています。尤も、他の路線の仙台駅ホームと比べると、...

  • 第二章79母方の家系・大正天皇崩御

    大正15年(1926)12月25日、かねてより体調を崩し、ともすれば危険な状態が続いていた123代大正天皇が崩御します。享年48歳。摂政皇太子として父帝に代わって政務を行使していた長男裕仁親王が124代昭和天皇として即位し、元号は昭和と改元...

  • 第二章78母方の家系・小牛田平山家の転居、留次郎夫妻の死、貞蔵と継母の対立

    大正14年(1925)11月、中瀬と湊の間を埋め立てる計画が持ち上がりますが、これも実現しませんでした。そんなことしたら恐らく日本五指の暴れ大河・北上川によって門脇側が月のように抉れたことでしょう。 大正15年(1926)2月20日、小牛田...

  • 第二章77母方の家系・間違いだらけの結婚相手探し、末永泰蔵と長女ゑいと次女みつの場合

    紫式部や高橋春男氏が、“何でもない偶然じみたことに何か凄い意味合いを持たせて感動したりはしゃいだりするのは愚か者の思考回路だ”とあっさり書き捨てていましたが、既に40半ばを過ぎた好色一代男は、ここへ来て間違いだらけの嫁選びを犯してしまいます...

  • 第二章76母方の家系・苦労しないで得たあぶく銭はすぐ逃げる

    大正14(1925)年5月8日、榧野定太郎とマサヨが離婚します。平山姓に戻った次女マサヨは何故か父留次郎の戸籍には入らず、5月15日、再び小牛田平山家の戸籍に復籍します。 二人の間に産まれた3男岩信と4男岩光は紆余曲折を経ながらも結局は石巻...

  • 第二章75母方の家系・平山留次郎と末永泰蔵の独立と転居

    末永志め危篤の報せが桃生郡十五浜村熊沢浜に届きます。 後に末永泰蔵家と阿部家との関係についておいらの取材に応じてくれた故・阿部栄助氏はこの時14歳。小学校を出た後、郵便局で配達員として勤務していました。 石巻の末永泰蔵からの報せを受け取った...

  • 第二章74母方の家系・祖母の誕生と曾祖母末永志めの死

    あちこちに愛人を作ったとされる艶福家の父親はまぁいいとして、流石に母親の41歳は高齢出産の範疇に入ります。 それゆえか志めは荘蔵を産んでよりは体調を崩すようになり、自身で荘蔵を育てることが出来なくなったため、牡鹿半島のある浜に嫁いだ妹の嫁ぎ...

  • 第二章73母方の家系・末永ゑいの最初の結婚と荘蔵の誕生

    後年、婆ちゃんは実家の親族と共にその幼くして亡くなった隠し子の墓所を訪ねるべく千厩に行きますが、余りの山深さと既に日が落ちてしまったことに加え、地元の人から止められてしまったこともあり、断念しています。結局その詳しい場所と記憶、追憶などは千...

  • 第二章72母方の家系・千厩の泰蔵とゑい

    湊尋常小学校に入学した末永貞蔵はその後、門脇尋常小学校に転校したらしく、更に石巻尋常小学校に転校して卒業を迎えています。 この頃、末永泰蔵は岩手県釜石町から東磐井郡千厩村に移り、米搗き業を営んでいました。とかく何でもやる人物だったようです。...

  • 第二章71母方の家系・末永貞吉の早世

    名古屋とも神戸とも云われる旧制中学に通う末永泰蔵の長男貞吉は、ここでも秀才ぶりを発揮します。 貞吉の噂を聞きつけて、大阪の製薬会社、社長か重役幹部と思われますが、その一家に気に入られ、婿に来ないかと誘われる程だったと言いますから、その俊童ぶ...

  • 第二章70母方の家系・末永ナツヨの最期とその末裔の奇妙な因縁

    大正6年(1917)9月25日、末永泰蔵37歳、後妻阿部志め35歳との間に3女が誕生し、母より一字取って志んと命名されます。 貞蔵同様婚姻届が無い中での出生届を提出したため、母志めの私生児として扱われます。役所に顔が利くなら戸籍上の手続きは...

  • 第二章69母方の家系・末永貞吉の早世

    白銀崎と金華山の姉妹関係はさておき、末永泰蔵は木箱に使う材木の原料を何故か岩手県に求めています。 それは泰蔵が岩手県を本籍地としているからだと伝えるのですが、泰蔵の戸籍謄本を見る限り、石巻字立町、湊字本町、湊字町裏と記すものの、岩手県が本籍...

  • 第二章68母方の家系・羽坂の白銀崎と金華山の姉妹関係

    末永志めとなった(事実上)曾祖母は、血の繋がらない子供達にも別け隔て無く慈しみを与え、長女ゑいは、継母には良くしてもらったと、礼讃こそすれ、悪く謗ることはありませんでした。 こういう女性をフイにする前夫もつくづく駄目男ですが、如何なる配剤か...

  • 第二章67母方の家系・阿部志めの再婚

    夫藤井氏にあらぬゲス不倫を疑われた志め。そこに実父阿部千松の助け船が入ります。 高祖父千松は、自分の道楽を棚に上げ、うちの娘の潔白を疑うなら宜しい、娘はうちに帰してもらおう、と。 藤井氏もいいとこの坊っちゃんというだけあって、それなりに遊び...

  • 第二章66母方の家系・戦勝に沸く日本の影で泣かされる妻

    明治27年(1894)7月25日、李氏朝鮮王国の自主独立化を促したい日本と、それを阻止して属国支配を続けたい清帝国との間に日清戦争が勃発し、明治28年(1895)4月17日、辛くも日本は清帝国に勝利し、朝鮮、台湾、遼東半島の保護及び支配権と...

  • 第二章65母方の家系・阿部志めの生きざまとその背景

    曾祖父末永泰蔵の後妻となった曾祖母阿部志めは明治15年(1881)2月18日、地元ではそこそこの立場にあった阿部千松23歳・藤井のゑ19歳の長女として、桃生郡十五浜村熊沢7番地に誕生しています。 ガンコ者であった父と、美人で優しい性格の母の...

  • 第二章64母方の家系・雄勝の泰蔵とお転婆娘ゑい

    「牡鹿郡案内誌」巻頭の大正初期の地図、今からおよそ100年前になるのでしょうが、こうして俯瞰して見ると、余りに興味深くて思わず嵌まってしまう面白さがあります。 当時の仙台市域は北は梅田川を越えず、西は大崎八幡宮の辺りで留まり、南は広瀬川に沿...

  • 第二章63母方の家系・牡鹿郡案内誌の世界

    高橋鉄牛著「牡鹿郡案内誌」は大正初期の牡鹿郡、とりわけ石巻の風景を今に伝えてくれます。 石巻の市街地は北上川、中瀬を軸として、東側の湊は、住吉神社の対岸辺りから牧山山麓にへばりつくように存在し、湊小学校、いづおんつぁんを脇目に、大門崎の交差...

  • 第二章62母方の家系・ヤマニ末永家破産の真の理由

    平山留次郎はその長男末永泰蔵が先妻の病死をきっかけに再婚したのに恰もタメを張ろうとしたわけでは無いでしょうが、3人目を迎えます。 平山留次郎3番目の妻大平すゑは東京府東京市日本橋区本石町(ほんごくちょう・東京都中央区日本橋本石町)の、現在は...

  • 第二章61母方の家系・末永泰蔵の再婚と貞蔵の誕生

    大正2年(1913)2月14日に妻フクを、3月27日に養父貞助を喪った末永泰蔵は、葬儀が終わって間もなく、後添えを探したようです。 その際、先妻フクと同じ年恰好の女性であることを求めたようです。それは後妻に妻としてよりも、母親としての要素を...

  • 第二章60母方の家系・末永貞助の位牌と3人目の養子

    位牌を持ち去った貞助の妾と娘のその後については不明です。勿論位牌の行く末も。 その後末永泰蔵は失われた位牌をどうしようとしたかわかりませんが、結果として再び作られるということはありませんでした。 失われた位牌の問題は更に後々厄介な問題を巻き...

  • 第二章59母方の家系・ヤマニ末永家3代目末永泰蔵とその生涯、時代

    大正元年9月、9代石巻町長に石母田正輔が就任します。 10月、石巻線の前身たる仙台軽便鉄道小牛田石巻間が開通します。 末永泰蔵が3代目の家督を継いでよりのヤマニ末永家は多難、波瀾の時代でした。遅くとも大正5年(1916)までにヤマニ屋号はそ...

  • 第二章58母方の家系・明治天皇崩御

    末永泰蔵は単なる色男であるだけでなく、要領よく、体格も良く、人付き合いも良く、頼まれれば嫌とは言わない男前な性分で、役人的、実務的、頭を使った仕事には才能を発揮しましたが、力仕事はからっきしだったと伝わります。 後に泰蔵の後妻の一族として泰...

  • 第二章57母方の家系・湊小学校3神童、末永貞助の隠居、泰蔵の人物像

    平山留次郎と末永泰蔵にオメデタが同時期に来れば、不幸もまた、何故か並行して来ています。 明治41年(1908)1月3日18時、平山留次郎・りこ夫妻の長女さわが早世します。享年14歳。 明治44年(1911)9月6日、末永泰蔵・フク夫妻に次男...

  • 第二章56母方の家系・末永サトの最期

    ヤマニ末永家女性家督・サトは娘義太夫でもないのに、三味線を弾くのが趣味で、事ある毎にベンベケベンベケ弾いていたようです。 死期を悟った末永サトは菩提寺が臨済宗妙心寺派であるにも関わらず、京都の西本願寺に参詣します。そこで当時の100円を払い...

  • 第二章55母方の家系・末永サトの人となりとその去り際

    平山留次郎はまぁいいとして、後妻の今野りこは当時でも高齢出産に当たる45歳迄に2男3女の子宝に恵まれる訳ですから、相当身体頑健な女性だったようです。 4月10日、志田郡下伊場野村(大崎市三本木)出身の教師、教育者・高橋由蔵鉄牛(1866&#...

  • 第二章54母方の家系・末永泰蔵とフクの結婚

    末永善助の内海橋での濫行に末永サト、養嗣子貞助とナツヨ夫妻はどう考え、対処し、処理したかは伝わりません。両親の離婚という哀れな境遇から預かっては見たものの、返りて甘やかしたのが不味かったか、手のつけられない悪ガキ糞ガキに育ったわけで、その後...

  • 第二章53母方の家系・善助の悪漢伝説、内海橋濫行事件

    明治31年(1898)は火災が良く発生した年でした。5月、一皇子神社の膝元に当たる牡鹿郡石巻町湊字東町(石巻市湊町4丁目)で火災があり、40軒から50軒が焼失しています。 10月、3代渡波町長に内海広吉が、11月には5代石巻町長に平塚茂八が...

  • 第二章52母方の家系・謎の先祖末永常助と梅光童子

    明治27年(1894)10月、2代渡波町長に佐々城謙益が就任します。 この年は石巻を天然痘、赤痢が猖獗を極め、200人の死者を出します。アバタなどの後遺症も考えるとそれ以上の被害ではなかったでしょうか。 明治28年(1895)9月20日、平...

  • 第二章51母方の家系・平山留次郎の離婚と再婚、善助の養子入り

    これらの個人墓は母方祖父末永貞蔵が亡くなって、その義姉二人から、末永の妻たる者、夫の死後3年以内に墓を改めなければならない、というほぼほぼ強制的な嫁いびりに対し、婆ちゃんが土葬を火葬にし、やっとこさ石を築き上げて墓碑銘を刻んだ際に、業者に頼...

  • 第二章51母方の家系・末永清助の死

    東北本線が石巻を避けたことは、結果として石巻を鉄道網の整備による陸上交通の本格化から立ち遅れ、所謂陸の孤島化する先序となりました。 内海橋は元々、通行料から建造費を後払いするシステムで宮城県と約定していましたが、水上交通利権たる渡し船と共存...

  • 第二章49母方の家系・石巻湾冬景色、吹き飛ばされた野蒜見詰め泣いていました

    所謂石巻市民が言う“イシノマキ”とは、嘗ての旧石巻町の中核的領域を指し、蛇田、稲井、渡波、荻浜はそれに附随する周辺町村として、恰も京都でいう洛内に対する洛外のように認識されていました。 更にその先の、桃生郡前谷地(石巻市)となると、もはや他...

  • 第二章48母方の家系・第2師団と市町村合併

    勝海舟によれば死ぬ迄徳川慶喜を嫌い抜いた天璋院篤姫は、徳川慶喜と並ぶ東京市中の人気者で、誰もがその死を悼みました。その影響は夏目金之助漱石(1867〜1916)のデビュー小説「吾輩は猫である」の主人公が想い焦がれたまま早世した...

  • 第二章47母方の家系・内海橋架橋と天璋院篤姫の遠行

    明治15年(1882)7月15日、中瀬を利用して北上川に内海橋が架橋されます。 江戸に同じく、北上川もまた、セキュリティと称して渡し船はあっても橋が架けられることは禁止されていましたが、中瀬では勝手に橋を架けるという驚くべき行為が幾度かあり...

  • 第二章46母方の家系・従兄妹であった善助とフクの家庭環境、野蒜築港とその副産物

    後に末永泰蔵の妻となる末永フクは恐らく、サトや貞助と同族の末永家の血筋で、明治14年(1881)、渡波に誕生しています。両親の名前や誕生日は不明です。 末永氏であるフクの母親と善助の母親は姉妹同士、特に姉であり、高橋氏に嫁いで善助を産んだ母...

  • 第二章45母方の家系・ヤマニ末永家の養子縁組事情

    近代戸籍の嚆矢たる壬申戸籍(明治5年・1872)は調査する側の精度に不備があったり、調査される側も手続きに怠りがあったりで、出生届を後になって出してみたり、死亡届を出さないまま、坂本龍馬と同い年の人がついこないだまで戸籍上存命だった事件(と...

  • 第二章44母方の家系・平山留次郎と菅野ひさの馴れ初めと人となり

    喜惣兵衛の息子と思われる平山弥助(82歳)とすて(80歳)夫妻の長男が八郎治、八郎治とかん(57歳)夫妻の3男が平山留次郎となります。 平山八郎治はこれに先立つ明治6年(1873)10月23日、享年54歳で没しています。戒名は善心了覚信士。...

  • 第二章43母方の家系・宮城県の県境が確定、小牛田の平山家

    明治8年(1875)11月22日、水沢県が磐井県と改称します。 明治9年(1876)4月8日、磐井県の内、玉造郡、栗原郡、登米郡、本吉郡が宮城県に、磐井郡、江刺郡、気仙郡、胆沢郡が岩手県に編入され、磐井県は消滅します。 4月22日、刈田郡、...

  • 第二章42母方の家系・幻の鎮台本営

    結局東山道鎮台が軍事組織として編成、運営されることはありませんでした。 明治4年(1871)8月20日、兵部省は鎮台を4つに細分し、東山道鎮台を東北鎮台として改組します。対象地域は現在の宮城県、福島県、岩手県、青森県、秋田県。 新たな東北鎮...

  • 第二章41母方の家系・ヤマニ末永家の創業

    文明開化の明治の世相を目の当たりにした磐渓は、“ほら見ろ、ワシの言う通り(開国)になった。攘夷とかいってた奴、馬鹿だぜ”、と毒舌をかましています。 それだけ価値観に迷い、激しく試行錯誤した時代だったのでしょう。 明治4年(1871)4月23...

  • 第二章40母方の家系・石巻県の消滅、亘理伊達邦成の北海道開拓

    順調にいけば石巻県も周辺各県を合併し、江刺県のような巨大な行政機関に成長する可能性もあったことでしょう。さすれば旧葛西氏領の再現として葛西県が成立し、県庁が石巻に置かれ、国の出先機関を石巻に設置することで仙台の存在感を無実化したい明治政府の...

  • 第二章39母方の家系・石巻県の成立、末永縫殿之允の改易

    明治2年(1869)7月20日、高崎藩大河内氏取締地である陸前国桃生郡、牡鹿郡、本吉郡をもって桃生県が成立します。県庁所在地は桃生郡寺崎村(石巻市桃生町)、権知事は山中献。 8月7日、陸前国涌谷県(遠田郡、登米郡、志田郡21か村)に栗原県栗...

  • 第二章38母方の家系・宮城県と岩手県の県境の決め方

    生前、但木成行は“儂は儒者の言う事を採用して間違った”と発言し、儒者とは大槻磐渓のことで、これは暗に磐渓を批判したのだと解釈されているのですがどんなもんでしょう。大槻磐渓の本業は漢学者であり、加えて蘭学と砲術を少々嗜む開国主義者であって、儒...

  • 第二章37母方の家系・負けて当然だった?旧江戸幕府勢力

    江戸時代は誰もが貧乏、皆が非武装することで天下泰平を謳歌安逸しながら徳川300年の支配を盤石に確立せしめた時代でした。その副産物として庶民にまで花開く文化を楽しむことが出来たのです。 しかし一方で、医療の進歩や、馬車や機関車の発明、橋梁の建...

  • 第二章36母方の家系・村方騒動鎮圧、箱館五稜郭開城、戊辰戦争終了

    明治2年(1869)2月4日、折浜の仙台藩士の家来というのが、榎本艦隊にゼニとメシを無心されでもしたか、その返済を求めて一人、蹶起します。 家来は恐らく牡鹿コバルトライン、地方道2号線石巻鮎川線をくねくね南下して桃浦で農民4人を同志に引き入...

  • 第二章35母方の家系・俊蔵さんの酒が来ていない、村方騒動

    明治元年(1868)10月16日、但木土佐成行が東京に護送されます。 10月21日には仙台藩主伊達慶邦も東京へ護送され、11月10日より謹慎となります。 世良修蔵リベンジに燃える明治政府長州藩士どもは、冷酷なまでに従順で臆病で卑怯で了簡が狭...

  • 第二章34母方の家系・石巻の明治時代がスタート、16ささげの食し方

    明治元年(1868)10月13日、明治政府官軍が石巻に来た時には既にもぬけの殻でした。裏切り津藩藤堂氏の藩兵が折浜近辺を捜索しますが、石巻の者にはちょいと何言うてるか解らへん伊勢訛りで、石巻のやつらはようけ何言うてるか通じひんと、呆れて帰っ...

  • 第二章33母方の家系・ハワイ航路にならなかった箱館行き

    春日左衛門に渡した銭は、昔取った杵柄である石巻鋳銭場で鋳造された仙台通宝(ビタ銭として全国的に有名)を、何とかを駆逐するための追い銭か、はたまた袖の渡しでソデにするための渡し賃、ではありませんが、明治元年(1868)10月9日、石巻退去に同...

  • 第二章32母方の家系・細谷直英が石巻を戦火から防ぐ

    ここにおいて旧幕府軍は兵をまとめて陣立てを直します。 各隊の布陣は以下の通り。 牧山西麓一帯…中瀬対岸の湊村田町(石巻市八幡町)界隈に星恂一郎を隊長とする額兵隊 渡波入口…現在の石巻市伊原津と思われる辺りに土方歳三を指揮官とする新撰組 渡波...

  • 第二章31母方の家系・土方歳三の本性、遠藤允信の榎本武揚暗殺未遂

    嘗ては東北有数の政商・斎善当主斎藤善次右衛門有房のように、“おらほの殿様だづに負げねで貰わねぇど(我等が殿様達には負けないでいただかないと)”と、民衆は支配者に無償で資金を提供したものですが、旧幕府軍の負けが込んで来ると、あべこべに武士達が...

  • 第二章30母方の家系・細谷十太夫直英の説得と星恂一郎忠狂の挑発

    星恂一郎説得を再三頼まれた細谷十太夫は明治元年(1868)10月2日、桃生郡小野(東松島市)にある阿部旅店で会見します。 星恂一郎忠狂は、“明治政府は悪逆なる威勢を振るい、仙台藩の執政や忠臣を逮捕するのみならず、我を暗殺しようとしている。我...

  • 第二章29母方の家系・弘前藩の火事場泥棒、星恂一郎説得工作

    奥羽越31藩同盟崩壊後の弘前藩と黒石藩に似た様な現象が第二次世界大戦敗戦前後の満洲国、千島樺太で発生しています。 そのソ連軍といい、この弘前藩黒石藩といい、こういう輩を火事場泥棒といいます。 とはいえ、郷土史の根底に流れるファクターの一つに...

  • 第二章28母方の家系・仙台藩無条件降伏、榎本艦隊の石巻入り

    明治元年(1868)9月12日、仙台藩抗戦派奉行但木土佐成行らが失脚、更迭され、和平恭順派の遠藤文七郎允信(さねのぶ)、大条孫三郎道徳(みきおさんの高祖父・1838〜1924)らが奉行に就任、仙台藩の降伏が正式に発表されます。...

  • 第二章27母方の家系・同盟崩壊、火事場泥棒、南部氏と津軽氏の対立

    米沢藩の降伏に、更に追い打ちをかけるように明治元年(1868)9月10日、仙台藩は旗巻峠の奪還に失敗。これで抗戦派は沈黙させられ、恭順派が藩の主導権を握り、藩論を降伏へと一気にシフトさせます。 9月12日、仙台藩抗戦派奉行但木土佐成行らが失...

  • 第二章26母方の家系・明治改元、同盟崩壊、火事場泥棒

    慶応4年(1868)9月4日、米沢藩が降伏します。 9月8日、元号は明治と改元されます。 この改元が特殊だったのは、慶応4年の1月1日まで遡って明治元年が適応されたことと、後に一世一元の制として122代明治天皇在位の間続けられたことです。 ...

  • 第二章25母方の家系・細谷直英衝撃隊からす組の活躍、榎本艦隊の到着

    仙台藩兵の足並みは揃わず、慶応4年(1868)8月11日、駒ケ嶺の陣地を安々と獲られてしまいます。 遂に藩領内に敵の侵入を赦した仙台藩は果たせるかな恐慌状態となり、8月16日、奪還作戦が開始されますが、旗巻峠の守備軍が臆病なのか、馬鹿なのか...

  • 第二章24母方の家系・天璋院篤姫の失策と旗巻峠の戦い

    おいらは天璋院篤姫って書いていますが、厳密には薩摩藩主島津斉彬の養女になった際に篤姫と改名の後、薩摩国を出立して京都に着いてよりは、近衛家の養女に“ルーツ替え”した折に敬子(すみこ)と改名しているので、そういう名乗りは史実ではありません。 ...

  • ヤフーの中の蛙、茹で蛙に成り、引越す鳥、お茶を濁し、猛々しい野蛮人にも五分の屁理屈

    こんな嗤い噺がある。 ブログ、ホームページ、CD、DVD、ブルーレイ、カセットテープに8ミリフィルム、紙に書くとか木に刻むとか、人類が滅亡しても遺るであろう記録媒体は何だろう?って考えると、実はロゼッタストーンなんだとさ。そういや、5000...

  • 第二章23母方の家系・同盟脱退する藩と盟主に就いた東武皇帝

    しかしながら、時代が過去ないし過去の状態に逆戻りした例が無いように、東武皇帝を推戴する東北新潟諸藩同盟という形での東日本独立政権の夢は… 例えば新皇を名乗った平将門が忽ちの内に朝廷政治の焼き直しと見られて地元からの総スカン、ないし不参加を喰...

  • 第二章22母方の家系・葛西氏史から見た東武皇帝説、奥羽越31藩同盟

    旧葛西領に当たる宮城県北岩手県南にかけての地域は、アテルイ公、安倍貞任、藤原泰衡、その後の葛西一族の最期と、古今よりとかく反逆者を良く出す地域でもありました。 そして、その葛西氏を侵した伊達氏も今や反逆者の首魁にあります。 清原家衡も含め、...

  • 第二章21母方の家系・東武皇帝即位説の真偽

    慶応4年(1868)5月15日、上野の天台宗東叡山寛永寺円頓院を本陣として、輪王寺宮公現入道親王を旗印に、彰義隊が大規模に挙兵します。彰義隊は不忍池の北東岸に布陣しますが、長州藩士でトコトンヤレ節や日本陸軍の祖としてよりも12代将軍徳川家慶...

  • 第二章20母方の家系・長岡藩の加盟、からす組、彰義隊

    家老に抜擢された河井継之助秋義主導で藩政改革を成し遂げた長岡藩牧野氏の元に、新政府官軍の代表者が会談に訪れます。家老河井秋義に対するのは、土佐藩士岩村精一郎高俊。 河井継之助と会談した相手がこの“豎子にして冠する”が良く似合う馬鹿野郎なんか...

  • 第二章19母方の家系・奥羽越31藩同盟成立

    東北に派遣された新政府官軍のメンツは、薩摩藩の大山格之助綱良、土佐藩の岩村精一郎高俊というような、向こうの藩の一番のクズを代表に選んだのかってくらい酷い人材ばかり。特に長州藩士世良修蔵という、幕末史上最も度し難い成り上がりの阿呆が、藩主伊達...

  • 第二章18母方の家系・東北諸藩の団結と嘆願

    新政府官軍が新たなる標的に選んだのは、京都守護職・会津藩保科松平氏と、江戸市中取締役・庄内藩左衛門尉系酒井氏。 長岡藩家老河井継之助秋義の言を借りればそれは、“私的な制裁を目的とした”戦争でした。 慶応4年(1868)3月23日、奥州鎮撫軍...

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土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
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