信州の円空調査その(3)は、円空が関東の旅から(おそらく往路ではなく)帰還する時にたどったであろうルートの調査。円空は、上野国(群馬県)から、峠越しで信濃国に入ったと考えられる。信濃国に入ってからの足取りの手掛かりとなるのは、浅間山の和歌、
「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録
観音寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、JRと近鉄の八田駅にほど近い場所にあり、荒子観音寺とは1.5�しか離れていないためか、八田観音寺と呼ばれている。今は近郊都市化しているけれど、八田というほどなので、かつては田園地帯だったのでしょう。代々尼寺
10月の第2土曜日の12日、荒子観音寺の円空仏拝観日(拝観時間13:00〜16:00)に3度目の訪問。今回は、「『円空の冒険』諸国山岳追跡記 愛知県編�」のために、もう一度しっかり諸像を拝むため。 <荒子観音寺の沿革>荒子観音寺は
〇はじめに円空は、延宝2(1674)年、志摩国片田村(志摩市志摩町片田)の真言宗醍醐寺末寺三蔵寺の大般若経に引き続いて、6月上旬から8月中旬にかけて同国立神村(同市阿児町立神)の薬師堂でも大般若経を補修した。欠本だった21巻分を写経して補足
〇はじめに三重県志摩市には、円空が補修し、巻物から折本に改めた『大般若経』が、志摩町片田と阿児町立神に伝わる。いずれも、延宝2(1674)年に補修されており、円空が、寛文12年から延宝3年(1672〜1675)にわたる大峯修行の合間に、志摩
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信州の円空調査その(3)は、円空が関東の旅から(おそらく往路ではなく)帰還する時にたどったであろうルートの調査。円空は、上野国(群馬県)から、峠越しで信濃国に入ったと考えられる。信濃国に入ってからの足取りの手掛かりとなるのは、浅間山の和歌、
円空当時は信濃国だった長野県には、円空の像が21体確認されている。近年荒子観音寺から移入された像を除くと、19体。円空は、何のために信濃を訪れ、どのようなルートで行脚したのだろう。これを調べる信州の円空調査、第1回目は、4月12日、御嶽のお
4月30日は、とある事情があって、円空最後の山籠修行の地、高賀山に行くことに(「とある事情」は、いずれご報告)。高賀の森公園の登山口から登山開始。長良川の支流板取川、さらにその支流高賀川の源流部に沿って登高していく。水音が心地いい。高賀山は
4月13日〜15日、2泊3日で円空を追って栃木県日光へ。日光は、昨年9月の日光秋峰修行の折の調査以来2度目、栃木県としては11月に鹿沼市廣濟寺に行って以来3度目の調査となる。13日、円空がたどっただろう上野国(群馬県)大間々から日光に至る足
4月15日の日光清瀧寺の年1度の円空作不動三尊御開帳に合わせ、日光円空調査行に12日(土)〜15日(火)に出かけることに。12日は長野飯綱高原の小屋に前夜泊するだけなので、道中、信州の円空調査(1)として、木曽谷の円空の足取りを調査。中津川
〇はじめに仏像を乗せる台座は、儀軌に応じて定められている。最も一般的なのは、如来や菩薩などが乗る蓮の花弁が開いた姿を模した蓮華座で、蓮台ともいう。そのうち、右足と左足をそれぞれ別の蓮華に乗せる台座を踏割蓮台といい、五大明王像や来迎像に用いら
円空の絵は、延宝2(1674)年志摩(三重県)の片田三蔵寺と立神薬師堂で大般若経の補修にあわせ描いた見返し絵を除くと極めて少ない。その数少ない絵画のひとつに、高山市個人蔵の富士山の墨絵がある。この絵はいつ・どの場所で描かれたものだろう?円空
「円空の冒険」追跡を始めた最初の頃は、山岳修験僧円空の、山岳修行部分だけを追いかけ、それ以外の行跡については、先行研究を参考にさせていただけばいいと思っていた。例えば、円空研究の第一人者で、高賀神社の『大般若経』の表裏の見返しに円空自詠の和
2月28日、三井記念美術館で「魂を込めた円空仏」を観た午後は埼玉県見沼区の某寺へ。まだ拝んだことのない円空像を拝観させていただけないかと、2週間前資料も同封してお便りを書き、「ご都合悪いようならお教えください」と書き添えておいた。お寺に伺い
5カ年計画で進めている「円空の冒険」追跡、4年目の今年は飛彈を中心とする計画。ところが、2月1日から3月30日までの2か月間、三井記念美術館の特別展「魂を込めた円空仏ー飛騨千光寺を中心にして」のため、飛騨の円空像が140体あまり、東京に大移
昨年11月に、愛西市の教育委員会生涯学習スポーツ課に仲介していただき常瑞寺の円空作の観音菩薩立像を拝観させていただいた。愛西市にはもう一体森川区有の観音菩薩立像があるとうかがっていたので、改めてお願いしたところ2月17日、拝観させていただく
正覚寺は、愛知県尾張地方北部、丹羽郡扶桑町斎藤にある臨済宗妙心寺派の寺院で、地元では「斎藤の薬師堂」と呼ばれてきた。ここに、寛文9年頃、おそらく様式から鉈薬師の諸像のすぐ後に制作されたと考えられる円空作の十二神将像が伝わる。やや時代は下るが
津保川を遡行し、旧武儀町エリアから、最上流の旧上之保村エリアに入る。このエリアも旧武儀町の主要部分と同様、江戸時代初頭は金森氏領、その後幕府領を経て元和元(1615)年から尾張藩領となっている。正徳から嘉永年代(1711〜1853年)の古文
旧武儀町の円空の足取り追跡、残るは津保川沿いの大洞集落(現関市富之保)にある曹洞宗の寶鏡山満願寺。寺の由緒は津保川沿いの寺院の中でも古く、➀景雲元(704)年行基自らが弥陀三尊を刻み建立したと伝えられる。➁文明年
旧関市街から津保川沿いを遡行すると、いったん丘陵地に差しかかる。現在の道路は、丘陵地を越え直行していくが、江戸時代の街道は川沿いの狭い場所をたどっていた。そして、1954年に関市に合併された高沢山南の旧富野村エリアに出る。この一帯は、藤谷な
2025年 飛騨の円空追跡計画、第一弾として、2月3日、➀津保川沿いから金山へ(飛騨に至るルート)の踏査 を行ったので、レポートします。<調査の概要>江戸時代と今とでは、交通事情が全く違う。列車や自動車はなく、トンネルや橋で最
関市池尻の弥勒寺は、美濃地方の豪族・身毛津(むげつ:牟義都)氏の氏寺と推定される古代寺院の弥勒寺跡に、円空が自らの寺として再興したもの。当時幕府は、新寺建立禁止令(元和8(1622)年、寛永8(1631)年)を出し、新たな寺を創建することは
羽島郡笠松町に、円空の比較的早い時期の不動明王像と毘沙門天像があると聞いていたけれど、拝む機会がないままになっていた。笠松歴史未来館に常設展示されているそうなので、1月22日、美濃郡代の陣屋があった笠松と円空の関わり追跡を兼ね訪問。&nbs
円空の生涯の足取りを5カ年かけて追いかける「円空の冒険」追跡、4年目の2025年は、いよいよ岐阜県飛騨地方が主舞台。<飛彈での活動時期は?>円空が、江戸時代は飛彈国であった岐阜県飛騨地方で造像活動をした時期については、諸説ある。そのうち文献
円空が延宝8(1680)年から天和2、3(1682〜1683)年頃にかけて巡錫した関東の旅からの帰還ルートを考察してみた。円空が、貞享元(1684)年3月には美濃国に戻っていたことが、高賀神社蔵大般若経の七言絶句に「貞享甲子三光春」とあるこ
今回の埼玉県の円空追跡は、6日の春日部市小渕の観音院と、8日のさいたま市見沼区の薬王院の開帳に合わせて計画。その間の7日は、円空像こそ拝観できなかったけれど、以下のとおり、非常に充実した調査の一日でありました。 杉戸町の道の駅で車
春日部市小渕の小淵山観音院は、本山修験宗の寺院で、聖観音菩薩立像(194.0�)、不動明王立像(132.0�)、毘沙門天立像(134.0�)の大作をはじめ、7体の円空像を伝える、円空巡礼の聖地。かつて日光道中(日光街道)の宿場町だった粕壁は
埼玉県の円空像の集中する南東部の像は、おおよそ岩槻城を中心に円周状に分布している。そんなことで、遠征踏査第1日目の6日昼間は、➀円空は、誰かに呼ばれて当地に来たのか(例えば不動院や岩槻藩など)について、旧岩槻藩領:今の行政区で
江戸時代の武蔵国北部にあたる埼玉県は、意外にも円空像が約170体と大変多く確認されている地域で、これは愛知県、岐阜県に次ぐ、第3位となる。ただし、同県の円空像については数が多いわりに、同じ関東地方でも、栃木県日光周辺の諸像や茨城県笠間市月宗
前に載せた記事「円空裳懸坐の像に関する考察」「中観音堂創建にまつわる試論」にまとめたように、長良川の周辺に裳懸坐の像が特異に集中する。そのうち、10�前後の定型的な小像が、尾張藩領だった岐阜市・関市や、西神頭家ゆかりの郡上市南部の、寺や個人
本ブログ「『円空の冒険』追跡ノート」は、2022年から2026年までの5カ年をかけ、円空の足取りを<原則時系列順で>追跡するのが、基本方針。しかし、展覧会で、この機会を逃すと、2026年までに拝観不可能という場合も結構あるので、そこは筋を曲
4月9日、美濃加茂市民ミュージアムで、撮影させていただいたもう一組の円空像は、蜂屋町北薬師堂の薬師三尊像。一体ずつ箱から出していただき、拝観しながら撮影をさせていただいた。まずは、主尊の薬師如来立像。像高84.5�、薬壺を持ち手は裳に隠して
美濃加茂市は、中山道太田宿のあった太田町をはじめ、古井町・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村、および三和村・和知村の一部が合併してできた市で、その名の由来は美濃国加茂郡にちなむ。木曽川と飛騨川の合流地点に近く、太田宿と今戸宿の間は
4月8日花祭りの午後は、雨が降り出した。多治見普賢寺を後に、犬山市の妙感寺へ伺う時間調整のため、国宝犬山城天主閣を遠望する城下町を歩いてみる。犬山城主だった成瀬家は、徳川家康の命で尾張藩に付属された、家老より格上の「付家老」で、犬山城主とし
像内納入品のある円空像訪問その(3)は、多治見市大原町の普賢寺。象王山普賢寺は、普賢菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院。寛文12(1672)年に全久院13世了然玄超により、瑞光院という古寺の跡に建立されている。前身の瑞光院について、宗派など詳しい
像内納入品のある円空像訪問、その(2)は、関市広見の松見寺。松見寺は、「寺伝によれば足利尊氏の祖母である俗名千代野が開山した寺院である。がその創建年月日は明らかではない。(中略)慶長年間から暫く無住になっていたが、慶安年中(1648〜52)
「円空像内納入品の謎に迫る」考察を、さらに深めるため、未見の像内納入品のある円空像を集中して訪問。その(1)は、4月6日午前、北名古屋市鹿田院田屋敷にある院田薬師堂へ。鹿田は旧師勝町の古い集落で、道路も集落の中に自然発生した狭いうねうねした
「円空の冒険」追跡は、目下、鉈薬師の諸像を造った寛文9(1669)年から、同10年の法隆寺での修行、中観音堂諸像の造顕、大峯山の修行を経て、延宝2(1674)年に志摩の片田三蔵寺および立神薬師堂の『大般若経』を修復し、その扉に添絵を残した時
3月10日(日)の円空追跡は、美濃市の古城山と郡上市和良町の和良岳登山の間を使ってもの。雁曽礼白山神社からは、円空の足跡が色濃い津保川沿いを北上して和良岳をめざす。 途中通りかかったのが、津保川最上流部の集落、鳥屋市。有名な「尼僧
円空が、鉈薬師の諸像を造顕したと考えられる寛文9(1669)年に、雁曽礼(現在の関市富之保雁曽礼)集落の白山神社のご神体の白山三神も造顕している。同社の棟札に「時寛文九年己酉 拾月十八日 奉造立白山妙理大権現佛身躰所」とあり、さらに裏面には
一般財団法人全国山の日協議会は、次のような会であります(以下、谷垣禎一会長の挨拶の引用)。「10年ほど前、『山の日』を作ろうと立ち上がった民間団体の皆さまが、『山の日』制定協議会を構成し、祝日制定への取り組みを開始しました。そこに、超党派『
円空の寛文年間後期に集中的に造顕された裳懸座の像について調べていくうち、尾張藩家老石川(いしこ)正光の存在が浮かび上がってきた。正光は中観音堂の創建にも大きく関わっていたのではと考えられるので、以下にまとめてみます。 1 尾張藩家
円空は、寛文年間後半頃を中心に「裳懸坐」という、あまり一般的ではない台座の坐像を集中的に制作している。大型の像もある一方、個人蔵の小像も多く伝わり、それら小像は、堂舎に祀られることを前提として造像していた円空が、庶民に像を分け与えるようにな
現在、大阪のあべのハルカス美術館で、開館10周年記念『円空—旅して、彫って、祈って—』展が開催中(2月2日〜 4月7日)。「円空仏」ではなく「円空の冒険」を追う身としては、ご神体などで拝観は叶わないにしても、時系列に現地に伺うのを旨として踏
北は盛岡、秋田、仙台からはじまって、南は鹿児島市まで、県庁所在地で城下町だった市は数多い。わが岐阜県の岐阜市もそうなのだけれど、斎藤道三と織田信長によって築かれた稲葉山(金華山)山麓の城下町が母体で、江戸時代、同地は城下町でなかったところが