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2015/11/20

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  • 悪い人間関係に流されない勇気(後編・下)

    (「力関係」によって成り立つ“悪”の人間関係は地獄界に似ている)確かに、教室で十人も二十人もがいじめをしたならば、「誰がやったか」という犯人の特定はしにくくなりますし、教師のほうも、犯人が一人ならば叱ろうと思いますが、「クラスの十人も二十人もが誰か一人をいじめている」ということになると、「その十人、二十人を処罰して、一人を護る」ということは、なかなかできません。そのため、教師は、いじめの事実を知っていても、わざと見逃します。いじめグループがクラスの主流派になっているので、そちらを叱ると、学級崩壊を起こして、言うことを聞いてくれなくなるからです。「あの先生の言うことは聞かないぞ」と、みんなでストライキを打ったりされるので、教師も怒れないような状態になっています。こういうかたちで悪が増殖していくのです。このパ...悪い人間関係に流されない勇気(後編・下)

  • 悪い人間関係に流されない勇気(後編・上)

    (「いじめ問題」は悪しき交遊関係の縮図)例えば、昨今、大きな社会問題になっている学校でのいじめ問題のなかにも、悪しき交遊関係の縮図を見ることができます。最近は、「一対一」でのいじめは少なくなっていて、たいていは、ボス格の子と、その取り巻きがいて、「大人数」対「一人」でいじめます。とても卑怯(ひきょう)なやり方ですが、少数の人を大勢でいじめるかたちをとるのです。ただ、いじめている人たちのなかにも、「本当は、いじめたいとは思っていないのだけれども、ボスが怖いからやっている」という人がたくさんいます。ボスに従っていると、いろいろと護ってくれたり、一緒に遊んでくれたりします。そのため、何かのときに自分が仲間から外されると嫌なので、グループに入った以上は必ず一緒に行動するのです。そういうボス役のいる「いじめグループ...悪い人間関係に流されない勇気(後編・上)

  • 悪い人間関係に流されない勇気(前編・下)

    (言うべきことはきちんと言うのが友情である)今、中高年あたりでは、万引きをする子も多くなっていますが、どちらかといえば、一人でやるよりも何人かでチームを組んでやる場合が多いようです。品物を盗んでくる人のほかに、見張り役や、フェイント役、何かを買うふりをする役がいたりします。コンビニなどは店員が一人ぐらいしかいないことも多いので、何人かで組んでやれば容易に盗むことができます。そのように、万引き仲間をつくって一緒にやるようなことがありますが、これは悪い友達です。ただ、友人が五人、六人、七人、八人という数になり、いったん、そういう人たちと交遊関係をつくってしまうと、万引きをするときだけ抜けることは、なかなかできません。抜けようとすると、「おまえは生意気なやつだ。仲間外れにするぞ」などと脅(おど)されるために、心...悪い人間関係に流されない勇気(前編・下)

  • 悪い人間関係に流されない勇気(前編・上)

    (「誰を師とし、誰を友とするか」は人生に決定的な影響を与える)学生時代や青年期において大事なのは、「誰を先生とするか」「誰を友とするか」ということであり、この「師友関係」が非常に大きな影響をもたらします。みなさんの人生観や将来の決定的な影響を与える人として出てくるのが師と友なのです。この師と友の選び方には、とても難しいものがあります。師というのは、数十年間にわたって自分の進むべき道を指し示してくれる、北極星のような存在であるため、師の選び方は難しいのです。友の選び方もそうです。友の選び方を間違えると道が曲がっていくので、「誰を友とするか」ということは、とても大事な考え方です。二千六百年前に釈迦は、「愚かな人を友とするな」「悪い友と交わってはならない」ということを繰り返し説いています。そして、「愚かな人、悪...悪い人間関係に流されない勇気(前編・上)

  • 自分も相手を傷つけない人間関係を築く(後編)

    (腹を割って話ができる深い友情関係もある)このカードのなかには、自分の信条など、心の最も深い部分にかかわるものもあるでしょう。宗教を信じている人の場合は、信仰のカードということになりますが、このカードを切るときがいちばん難しいのです。例えば、同じ学校や塾に通っていて、学力的に釣り合っている人や、会社で同じような立場にいる人が相手の場合には、信仰のカードを切らなければ、この世的なレベルで、そこそこの付き合いをすることはできるでしょう。しかし、信仰心のカードを切る段階になると、バーンと絶壁のようなものが現れてくることがよくあります。信仰を持っている人が、好きになった異性と話をしてみたら、その人がガチガチの唯物論者だったら悲しいでしょう。「この人は、いい人だな。ぜひ、付き合って、結婚したい」と思っても、価値観が...自分も相手を傷つけない人間関係を築く(後編)

  • 自分も相手を傷つけない人間関係を築く(前編)

    (相手にどこまで自分の心のなかの“カード”を見せるか)ただ、段階を踏んで付き合っていくなかで、しだいに深い付き合いになっていくと、自分の心の内を見せ合い、お互いの友情を確かめ合うようになっていきます。お互いに、自分の思いや考え方など、持っている“カード”を順番に切っていき、「相手が、どんなカードを持っているか。強いカードを持っているか」ということを確かめ合うわけです。「えい、やあ」とカードを切り合い、相手のカードを見て、「おっ、なかなか強い手を出してくるな」と思ったりします。友情が深まるにつれて、しだいに、強いカードを切っていくようになりますが、「どこまでカードを切り続けるか、最後のカードまで切るかどうか」ということは、一考を要する問題です。(「どのレベルまで付き合えるか」をよく考える)すべてを理解し合う...自分も相手を傷つけない人間関係を築く(前編)

  • この心構えで、「人間関係」は変わる (後編)

    (人間関係を育んでいく「距離の取り方」とは)この距離の取り方を間違えると、うまくいかないことが多いのです。例えば、少しでも好意的な姿を見せたり、親切な言葉をかけたりして、こちらが扉を少し開くと、ダダーッとなかに入ってきて、あまりにも密着してくるタイプがいます。これは、自分が他の人に対してする場合も、他の人が自分に対してする場合もあるでしょう。そのように、こちらが少し関心を示したり、理解を示したりして、扉を少し開けると、玄関から奥まで入ってきて座り込むタイプの人とは、友情が成立しにくいのです。その人は、密着した関係になることが友情であると思っているのかもしれませんが、そういう人と友情を結ぶのは意外に難しいのです。友情は、適度な距離感を保ちながら付き合うなかに、長くゆっくりと成立していくものです。そのように、...この心構えで、「人間関係」は変わる(後編)

  • この心構えで、「人間関係」は変わる(前編)

    (「長続きする友情、壊れやすい友情」の違いはどこにあるのか?)「友情と勇気について」というテーマで、学生や青年向けに述べていきますが、若い人に限らず、人生を生きる上での大切な心構えとして参考になる話をしてみたいと思います。私は、若い人むけに、「勉強は大事である。将来のための投資として、若いうちに、しっかり勉強しておきなさい」ということは伝えてきたと思いますが、「若いときに、人間関係をどのように築いていけばよいか」ということはあまり述べていなかったと思います。それでは、若いときには、どのように人間関係を結んでいけばよいのでしょうか。私が青年のみなさんに述べておきたいことは、「友情というものは、ある程度、自立した人間同士が付き合うときに、うまく成立しやすい」ということです。みなさんは、ベタベタした関係が友情だ...この心構えで、「人間関係」は変わる(前編)

  • 天下で実現しようとした3つの目的

    ㉖今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――「しかし、いまの石田三成には、不思議に悔いはなかった。それは彼がこの天下で実現しょうとした三つの目的、すなわち、・豊臣秀頼公を戴いて、織田信長公の政治路線を引き継ごうとしたこと。・徳川家康をはじめとする、嘘つきどもが練り固めたこの世の中を復し、もっと真実味のある社会を建設しようとしたこと。・そういう世の中が来たら、その時こそ、本当に石田三成の本領が発揮できたであろうこと。この三つの目的に対し、たとえ敗れたりとはいえ、石田三成は全力を出し尽くしたからだ。おそらく、その気持ちを本当にわかってくれたのは親友の大谷吉継だけだったに違いない。大谷吉継も...天下で実現しようとした3つの目的

  • 三成は最後まで黒田長政の策に気がつかなかった

    ㉕今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――「なにをいう」三成は、背骨を立てた。頬は削げおちていたが、両眼に気塊をこめ、正則をにらみすえた。「うぬのような智恵たらずの男に、おれの心のありかがわかってたまるか。そこをどけ。めざわりである」と、ひくいが、しかしよく透る、底響きのする声でいった。三成は、自分の尊厳を維持することに、残された体力のすべてを使おうとしていた。「なぜ汝は」と、正則はさらにいった。死なぬ。切腹をせぬ。縄日のはずかしめを受けておる(古語で「縄で縛られて恥をかいている」)、とたたみかけたが、三成は蒼白の顔をひきつらせ、うぬに英雄の心事がわかるか、と、みずからをもって英雄と...三成は最後まで黒田長政の策に気がつかなかった

  • 島津豊久は三成に感情のもつれから戦わなかった

    ㉔今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――戦勢は、有利であった。天満山の山麓では、字書多隊が余裕をもって福島隊以下をあしらっているし、この石田隊の前面の敵は何度か撃退きれている。(しかし、南宮山も松尾山もまだうごかぬ)いま山を駈けおりれば、味方の勝利はだれの目にも確実ではないか。三成は絶叫したくなり、それらの陣にむかって何度めかの狼煙をあげさせた。このころ、石田隊の広くもない前面の野は、敵の人馬で満ちはじめている。黒田長政、細川忠興、竹中重門、加藤嘉明、田中書政、戸川達安の諸隊だけでなく、戦場の中央部にいた佐久間安政、織田有楽斎、古田重勝、稲葉貞通、一柳直盛といった小部隊も、-おなじ...島津豊久は三成に感情のもつれから戦わなかった

  • 三成は明敏な頭脳をもつが、つねに物の一面しかみえない

    ㉓今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――勝った、とおもった。じつは物見が霧のなかを駈けもどってきて、家康が桃配山(ももくばりやま)に本陣を置いた、ということを告げたのである。家康にとって最悪の場所であった。三成は当初、家康がどこに本陣をおくかということをあれこれと想像してみたが、どう考えても関ケ原の北方、菩提山山麓の伊吹柑のどの丘陵かをつかう以外に適当な場所はない。まさか、桃配山とはおもわなかった。味方が陣どる南宮山の一方の斜面ではないか。(あれほどの戦さ上手が)信じられぬことではあったが、事実とあればこれほど味方にとって勿怪(もっけ)のさいわいはない。三成は大きく膝を打った。「勝...三成は明敏な頭脳をもつが、つねに物の一面しかみえない

  • 三成は情報収集であまい

    ㉒今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――岐阜で家康は諜者を大垣方面に放ってみたところ、なお大垣の西軍陣地に変化がないことがわかった。ここにいたってもなお西軍は家康がほんの四、五里さきまで来ていることに気づかないのであろう。(おどろくべきうかつさだ)と、家康は敵の三成の力量を、この一事で知った。かつて家康の盟主であった織田信長や、小牧長久手の戦いの敵であった秀吉とくらべると、なんとあまい敵であろう。家康はさらに隠密をつづけるために、家康の存在を証拠だてる馬印、旗、戦鼓、伝令将校団、親衛隊などを夜陰ひそかに岐阜から発たせ、ひとあしさきに赤坂の前線へむかわせた。翌十四日、家康は夜明けとと...三成は情報収集であまい

  • 三成はつねに受け身の反射

    ㉑今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――三成はそういって、宇喜多秀家の旅館を出た。城にもどると、一同が騒いでいる。西方の天にしきりと火煙があがっているという。三成はいそぎ天守閣へのぼった。(なるほど)方角は西である。中山道垂井から関ケ原にかけて黒煙があり、すでに薄暮(はくぼ)だけに火があかあかとみえる。ありようは、東軍の藤堂高虎が、そのあたりに滞陣するにあたって敵襲に備え、民家が敵の防御に使われぬよう、せっせと焼き立てているにすぎない。が、三成は別の反応を示したく(佐和山城があぶない)と見たのである。なるほど美濃から近江佐和山に出る道が、垂井-関ケ原の中山道である。敵は美濃から一挙...三成はつねに受け身の反射

  • 三成は最初の固定観念に、諸情勢・諸条件をあてはめたため破れる

    ⑳今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――「兵力を分散しすぎまするな」と、この大戦略をたてた当初、謀臣(ぼうしん)の島左近が首をひねって消極的な反村をした。が、積極的に三成の構想に反対する能力は左近にはなかった。左近の得意とするところは、局地戦闘の指揮にある。三万の兵を指揮して五万の敵と戦わせれば島左近ほどの勇敢で智略に満ちた指揮官はいないであろう。が、天下を両分してその一を持し、他の一に当たるという大戦略の構想は、なんといっても若いころから秀吉の側近にいてその戦略の樹て方、進め方をまざまざと見てきた三成の領分に属する能力であった。自然、こんどの一挙では、戦略は三成がうけもち、戦闘は...三成は最初の固定観念に、諸情勢・諸条件をあてはめたため破れる

  • 福島正則は三成への憎悪だけで家康に味方

    ⑲今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――正則はさらに使いをやり、「貴殿は清洲城での約束をきたなくも破った。いましばし城攻めを中止して拙者と勝負せよ」と申し入れると、池田輝政もさすがにこの執拗(しつよう)さに手を焼き、辞を低くし、「昨暁(さくぎょう:きのうの夜明けがた)、われら渡河のとき、いきなり開戦したのはわが本意ではなく、敵が鉄砲を打ちかけてきたためやむなく応戦したまでである。またこの城攻めも敵の大手門を攻めるつもりではない。大手門は貴殿が攻められよ。拙者は水ノ手口にむかう所存」と正則のもとに申し送ったため、正則の感情はいささか鎮まった。「三成めは、膝を屈しおったな」正則は天にむ...福島正則は三成への憎悪だけで家康に味方

  • 小早川秀秋への三成と家康の対応の違い

    ⑱今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――翌三年、秀秋は小早川家に入った。隆景は安堵し、毛利家の養子については自分の末弟にあたる穂田元清の子の宮松丸を入れて事をおさめた。秀吉の小早川秀秋に対する愛はなおもつづき、第二次朝鮮出兵では、この秀秋を自分の名代として総大将にしている。秀秋は朝鮮出陣中、おろかしい所業が多く、小早川家の家臣たちを悩ました。軍法でも小早川家の慣習をまもらなかった。十六万三千という大軍の総大将としての将器がないばかりか、ときに気負いだって士卒(しそつ;将校・下士・兵卒の総称)のように敵陣に駈けこむようなことがあり、在陣の諸将を当惑させた。その報告が、在陣中の七人の軍...小早川秀秋への三成と家康の対応の違い

  • 家康暗殺より大合戦で儀を通そうとする三成の学問好き

    ⑰今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――この日の、前々日のことである。湖岸の佐和山城の奥ノ間で、三成の家老島左近が、三成にしきりと弁じた。「ご決意あそばせ」ということである。家康が東下の旅行を開始している。東海道を用いているため、途中、この近江の南部地方を当然、通過する。「幸い、水口城は、長束大蔵少輔殿の御城でございます。この水口城を利用し、途中、一挙に家康を刺し殺し、天下の乱のモトをお摘みとりなされませ」「大蔵少輔は、気の小さな男だ。はたして加担するかどうかわからぬ。たとえ加担しても小心な者はとかく事をしくじるものだ」「なんの、手前がうまくつかまつる」「さて、のう」三成は、煮えき...家康暗殺より大合戦で儀を通そうとする三成の学問好き

  • 三成には電光石火のすばやさで事務を片づけてゆく能力がある

    ⑯今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――三成には類のない能力がある。いざ挙兵ときまると、電光石火のすばやさでその「事務」を片づけてゆくことだ。稀代の能吏といっていい。それに、計画規模がつねに全国的であるということだった。かれの脳裏には、日本列島の極彩色の地図がつねに存在している点、他の武将には類がない。かれと仲のわるい「野戦派武将」の頭目である加藤清正が、たとえ三成の立場になっても、その挙兵は地方的にとどまっただろう。清正でさえそうである。三成以外、家康をのぞくほかは、日本的規模において計画し、号令し、諸侯をうごかす能力をもった者はだれもいなかった。その点、若いころから秀吉の秘書官...三成には電光石火のすばやさで事務を片づけてゆく能力がある

  • 三成暗殺を止めた家康の度量

    ⑮今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――家康自身のことである。が、家康は、目に涙をうかべてそれをいった。「治部少輔(ちぶのしょう)が、おのおの申されるごとく好戦ならば、それがしも豊臣家の大老職に任じている者でござる。時節到来を待ち、大老の職分上、それがしが討ちます。そのときは、おのおのの御手も拝借しましょう。よろしいか」と、家康はそこで言葉を切り、一同の顔を見わたした。自分の言葉の効果をさぐるためである。一同、ある種の昂揚(こうよう)を感じさせるおももちで家康を見つめている。(これでよし)と、家康はおもった。三成を討つときはこの七人の猛将は、自分を信じ、無邪気についてくるであろう。...三成暗殺を止めた家康の度量

  • 三成の救いがたい観念主義

    ⑭今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――「暗殺」左近は言い、肩を落した。この男は、当節、信州の真田昌幸、上杉家の老臣直江山城守兼続とともに、「天下三兵法」といわれている。大軍を駈けひきさせては及ぶ者のない軍略家とされているのだが、刺客を放っての暗殺は軍略ではない。「好むところではござらぬ。なぜと申せば、当方の非力、智恵のなきを白状するようなもので、そういう法はとりたくない。しかしこのまま、あの男の生命をとめずにいるならば、自然々々に秀頼様の天下はあの男のものになってしまいましょう」「いやだな」「暗殺が、でござるか」「そうだ」三成は、みじかく答えた。「男としてなすべきことではない。ま...三成の救いがたい観念主義

  • 三成は前田利家のような大将の一言がない

    ⑬今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――ところがその日から利家は寝こんでしまい、会議は年を越した。慶長四年正月七日、利家はようやく登城し、相役の大老である徳川家康をはじめ、中老(相談役)、五奉行の登城をもとめ、席上、この老人は無愛想なくらいの簡単な切り口上で、ずけりといった。「上様のおおせ置かれたとおり、秀頼様を奉じ大坂までお供つかまつる。以後、ご本拠は大坂ということになろう」と、それだけであった。奉行の浅野長政がすすみ出、日はいつでござる、と聞くと、「十日」といった。みなそのあわただしさにおどろいた。あと三日しかないではないか。浅野長政は、それは早すぎる、われわれは支度もできぬ、...三成は前田利家のような大将の一言がない

  • 三成は好ききらいが極端にはげしく、好きだとなるとぞっこん打ちこむ

    ⑫今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――余談だが、三成と島津家のつながりは、家康のばあいとくらべものにならぬほど古く、かつ深い。秀吉の島津征伐のとき、いまの竜伯(法号)、そのころの島津義久はついに降伏に決し、頭を剃り墨染(すみぞめ)のころもを着、小童ひとりつれて山路を歩き、秀吉の本陣のある泰平寺の軍門にくだった。秀吉はその降をゆるし、島津家が略取した九州諸地方の新領土はことごとくとりあげ、薩摩、大隅、日向のうちで五十五万九千五百三十三石だけは安堵させることにして、三成にその敗戦処分をまかせ、大坂へひきあげた。三成はこのころ、数えて二十八歳である。秀吉の退陣後、薩摩にのこり、秀吉の命...三成は好ききらいが極端にはげしく、好きだとなるとぞっこん打ちこむ

  • 三成の異常な正義心と弾劾癖

    ⑪今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――清正という人物は、舌戦練磨の将だけに、ひどく「功名上手」なところがある。第一次征韓ノ役のとき、小西行長が第一軍司令官、清正が第二軍司令官としてそれぞれ別路を北上し、「たがいに揉み進みながら、どちらが京城に一番乗りするか」ということで、はげしい競争になった。この競争は、清正が一日負け、かれが大軍をひきいて京城に近づいたときには、城壁の上に小西の旗がひるがえっていた。-おのれ、やりおったか。と、清正は歯噛みしたが、すぐ一計をめぐらし、その場から急使をきし立てて肥前名護屋の大本営にいる秀吉のもとに走らせ、-何月何日、京城に入りました。と、報告した。...三成の異常な正義心と弾劾癖

  • 大坂の繁昌は太閤のおかげでだと独断する三成

    ⑩今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――「島左近こそ、武士の典型だ」とその死後、数百年の徳川時代を通じて武家社会から慕われた。徳川時代にこれほどの人気があるのはよほどのことであった。本来、島左近は、「打倒家康」の作戦本部長なのである。幕府にはばからねばならぬ名前ではないか。おもしろい話がある。秀吉が死んだ直後、ある日、石田三成は家来をつれて、大坂城の天守閣にのぼった。いうまでもなく、日本最大の建造物である。眼の下に大坂の町なみがひろがり、道は四通八達(しつうはったつ:道路が網の目のように四方八方に通じていること)し、ゆききする人の姿が、蟻のように小さい。「この町の繁昌ぶりをみるがよ...大坂の繁昌は太閤のおかげでだと独断する三成

  • 石田三成は島左近を全面的に受け入れたとは思えない

    ⑨今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――「天の時(運)・地の利(条件・状況)・人の和(人間関係)」である。特に最後の人間関係が大きくものをいう。「野の遺賢(民間に残っている賢人)」が、召し出されるのも、「人を見る目」を持ったすぐれたトップリーダーがいなければだめだ。その意味では名軍師も同じだ。軍師が名軍師として活躍できるためには、やはり、この三つが整えられることが必要だ。しかも軍師にとっては、「登用してくれるトップリーダーが、その三条件を揃えてくれる」という″場づくり〃が必要だ。これが「あ・うん(あは吐く息、うんは吸う息)の呼吸がぴつたり合う」ということである。そう考えると、石田三...石田三成は島左近を全面的に受け入れたとは思えない

  • 石田三成にふさわしくないものがふたつある

    ⑧今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――島左近は関ケ原の合戦で、かなり老体でありながら猛列に戦って、壮烈に死んだ。石田三成は、島が生きていたころから、こういう評判を立てられた。「石田三成にふさわしくないものがふたつある。それは佐和山城と、島左近だ」つまり、「トップからもらう給与は、いい部下を養うための費用だ」と考える三成は、人間だけでなく、自分の城も立派につくったからである。つまり、いってみれば〝身分不相応〟の城と部下を持っていたということである。だから、関ケ原の合戦に負けて、徳川方の井伊軍が佐和山城を徹底的に破壊したとき、佐和山城にはなんの財産も残っていなかった。本丸の三成の居室...石田三成にふさわしくないものがふたつある

  • 知将・石田三成が情で失敗した城攻め

    ⑦今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――奇妙なことが起きた原因は、この水攻め工事に、三成が付近から農民を大量に動員したことである。しかも、タダ働きをさせるのではなく、高い日当と米を惜しげもなく与えた。いままでの徴発(ちょうはつ:兵士や農民などを強制的に呼び出すこと)とはちがうので、農民はよろこんで参加した.これをきいて、城の中からたくさんの兵が農民に化けて加わった。そしてその米はそのまま城中の食糧にし、金は米にかえて、これも城に持ちこんだ。三成の部下がこれに気がついた。「城内の敵兵が工事に加わっていますよ」と三成に報告した。三成は笑った。「自分の城を攻める工事を手伝う、というのはお...知将・石田三成が情で失敗した城攻め

  • 秀吉に欺き政治路線を信長公の復活の野望をもった

    ⑥今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――石田三戌は、はじめて野望を持った。それは、「秀吉にもし何かあった後は、秀頼公を擁して、織田信長公の志を継承して実現したい」ということであった。つまり、豊臣政権の継続性は願うが、しかし政治路線としては、「秀吉のそれではなく、信長のそれを復活させる」ということである。石田三成は自ら言い出して、「秀頼公への忠節の誓い」ということを、しきりに口にするようになった。同志を語らって、誓紙を出した。そして、全大名にも、これを強要した。徳川家康は、「石田、いったい何をはじめる気だ?」と眉を寄せた。しかし、この一連の行動に豊臣秀吉は気をよくした。「佐吉の奴は、...秀吉に欺き政治路線を信長公の復活の野望をもった

  • 朝鮮出兵での反感が関ヶ原敗因の遠因

    ⑤今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――この朝鮮出兵で石出三成が担当した仕事は、・基地としての名護屋城の築造・渡鮮する大名軍の渡海業務(そのために、彼は秀吉から命ぜられた十二名の船奉行の筆頭を務めた)・諸武士、武器弾薬などの調達・在鮮軍の監督奉行(これは、大谷吉継、増田長盛と連名で命ぜられた)・京城で諸将を招集し、今後の軍略の評議・明の講和使節との交渉などであった。しかし、文官である彼は、武官連中と意見が合わず、現地ではしばしばトラブルを起こした。特に豊臣系の大名たちの恨みを買った。豊臣系の大名たちは、「石田三成は、ろくに戦争のことを知らないくせに、われわれにいちいち文句をつけたり...朝鮮出兵での反感が関ヶ原敗因の遠因

  • 石田三成は優秀な家臣を養うためには金を惜しまなかった

    ④今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。――――――――――――――――――――――――この話に秀吉も大いに驚き、三成の思いきった提案と手腕を称賛したという。三成は、冷静で合理的な男である。破格の高給で左近を召し抱えたのにも、もちろん確固たる理由と裏づけがあった。「客観的にみで、自分は秀吉さまの家臣の中でもトップクラスの閣僚ではあるが、それはあくまでも事務方としでの能力だ。武将としでは実戦経験も乏しく、その部分を補強する必要がある。であれば、自分に足りない能力を補ってあまりあるような、優秀な参謀役を雇うべきだ」と考えでいた。三成にはふだんから、金の使い方についても、「主人からいただく給与は、己のために貯め込むのではなく、主人のた...石田三成は優秀な家臣を養うためには金を惜しまなかった

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