さて昨日書いたブログ記事で開拓初期札幌での「御用火事」と、その理由になった「草小屋」について。札幌市公文書館に所蔵された歴史学者とおぼしき方の講演記録で話が及んでいて、その説明写真を詳細に観察して「これが草小屋」とされた建物について特定し、その疑問を書きました。そうしたところ、読者のShigeruNarabeさんから「各地に建てられた開拓民の草ぶき屋根の仮小屋でも構造的には拝み小屋と掘っ立て小屋があった。三木さんが示した写真の小屋はログハウスのような構造にも見え小屋と呼ぶにはちょっと大きい印象がある」というご意見をいただきました。こうしたご意見にはわたしもやはり同意できると思います。上に掲載した写真は、北海道建築士会がまとめた写真資料から。これらは「開拓者」として入植した人々の入地当座の仮住まい。テントについて...【稀有な日本国家の新開地・北海道経営の成功】
本日はふたたび「北海道戸建て住宅事始め」テーマ復帰であります。明治初年ですがまだ150年程度なので、先人の残された資料も多いし、なんといっても「写真記録」までもあるので、実相にも迫れる。先日、この明治4年時期、2代目判官・岩村通俊の官制放火について書いた。その放火対象になった「草小屋」住宅というものがどんなものだったか、どうもこれについては確たる写真資料がよくわからない。札幌市公文書館所蔵の資料である歴史学者とおぼしき方の講演記録が残っていてそこでの写真説明で、特定する情報が記載されていて、上のような住宅写真が、草小屋というように把握できます。当時の開拓判官や官吏にはこうした住宅が「憎むべき」と考えられていた。2枚目の写真には「草小屋」の施工途中とおぼしきものがある。それをみると柱梁の構造に野地板が張られた上に...【明治4-5年札幌「草小屋」住宅と家作料補助】
26-27日と仙台で開催された新住協全国総会に参加。北海道内では顕著なのですが、基本的には高断熱高気密住宅運動はいま、世代交代期に差し掛かってきて、どのようにその運動を根付かせて日本の住宅建築風土、構造の中に定着させていくのか、ということが課題なのだと思っています。そのなかで北海道は建築内部の気候環境を制御する技術が特定の作り手だけのものではなく地域全体として共有されつつあり、そのレベルをしっかり維持しつつ、どう社会的に認知を拡大するのか、ということが最大の課題。歴史的に住宅建築に深く関わる地域政府・北海道と地域の工務店+建築家などのシンボリックな新たな「枠組み」が進展しつつある。そういうなかで技術集団として、どのような役割を果たすべきかの模索が続けられてきて、そのなかで世代交代が大きなテーマになっている。わた...【9.26-27新住協総会in仙台に参加】
昨日書いた記事の参考資料として札幌公文書館所蔵のデータに「琴似又市」というアイヌの「乙名」のことが書かれていた。開拓のとき、明治天皇の詔勅を背中にくくりつけたまま、明治2年に海を渡ってきた判官・島義勇は、いったん「銭函」で逗留しそのあと、正式に札幌を開拓のための根拠地・本府と定め、入地したという記録が残されています。このあたりは記述者の立場の違いによって書き方が変わると思います。間違いなく先導して現地札幌に入って準備しているメンバーはいてさらに受け入れのための作業は相当に進んでもいたことでしょう。たぶん記述者は島義勇と同行して、その目線で書いたと思える。国家意志としての「北海道開拓」は天皇の詔をもって創始されるのが建前。維新回天から連続した時間経過、また箱館戦争の戦陣同時進行中、北海道の地はまさに明治国家にとっ...【先住アイヌ社会も協力した札幌都市建設】
さて、北海道の住宅史を歴史に沿って見始めております。北海道での住宅の実像を掘り起こしてみたい。アイヌ地名起源である琴似に屯田兵屋が建てられた官制公営住宅は明治7−8年のことのようですが、それに先だっての、明治4−5年頃の状況を探ってみたい。というのは、きのう書いた「官制放火」のことについて読者の方から、実否定かならずでは、という情報が寄せられたのです。札幌市公文書館所蔵のある「講演会」資料を教えていただいた。この講演者が誰であるのかまだ調査中なのですが、言葉遣いなどを考えると、歴史学者の方のように見られます。文書解釈についての厳密性への言及が多く見られる。ただ、放火ということについて基本的には平和な時代の価値感、解釈に基づいているように思われ、開拓始原期の札幌本府建設の騒然としたこの地の社会状況が見えにくい。こ...【官府札幌始原期の判官命令「御用放火」】
きのうまでは明治初年、屯田兵の住宅を検証してみた。やはり公営住宅としての機能性格が似通っていた江戸末期の下級武家の公営住宅がその原型だったことが浮かび上がってきた。江戸末期の八王子千人同心組頭の家と琴似・屯田兵屋との設計類似は同時代の観察者からも指摘が遺されていました。では、一般の移住者・入植者の状況はどうであったか、こういった建築は保存されることはなく、また写真記録もほとんどない。ただ、司馬遼太郎の北海道歴史紀行文に明治開拓初期、札幌市内に建てられていた移住者の「小屋」を開拓使の官人たちが火を点けて回っていた、という一文が残っている。説明として、当時は北海道移住には「補助金」なども支給し、それなりに官費も使って、北海道の開拓・定住人口の増加を積極振興していたのに、その移住に対しての官給資金をなるべく残しとりあ...【寒冷地の人口定着「住」が北海道最大テーマへ】
きのうの続きです。琴似屯田兵屋の「設計者」は以下だという。村橋久成(1842年〜1892年)幕末薩摩藩士、開拓使官吏。英国留学経験あり。事跡からは特段「建築を学んだ」形跡は見られず、薩摩軍人として明治戊辰の箱館戦争〜慶応4年/明治元年・明治2年(1868年-1869年)で旧幕府・榎本軍と戦い戦功により400両の恩賞を受ける、とある。明治6年(1873年)12月、北海道の七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行う。翌明治7年(1874年)屯田兵創設に伴う札幌周辺の入植地を調査、琴似兵村の区割りを行う。明治8年(1875年)4月、七重開墾場と琴似兵村の立ち上げを終えて東京に戻る。〜ということのようなので、軍人・明治国家の高級官吏として関わったようなのだけれど、建築は専門家とはいえないだろうと思われる。設計者として名前...【明治初年・屯田兵屋「住みごこち」と設計者】
さてきのうは江戸期の中級武家住宅、八王子千人同心組頭の家を記事構成しましたが、ひるがえって北海道での特異な戸建て住宅、札幌市西区・琴似の屯田兵屋について考えてみたいと思います。わたしどもの事務所は、この屯田兵屋(跡)から徒歩7−8分。いまは札幌西区役所周辺のビル群に囲まれるように建っている。それでも上の写真のように、敷地の菜園も含めて1戸が遺されている。敷地の面積は10間×15間の150坪で、住居面積は3.5間×5間弱、平屋の17坪と記されている。このような住宅が写真図のように配置された。配置から考えると、いまの「札幌地下鉄琴似駅」も敷地に含まれていた。近隣には「琴似神社」もあり明治ニッポンの開拓を感じさせる。昨日見た江戸幕府の中級武家住宅は21坪ほどですから特異な「武人」向け住宅として、スタンダードっぽい規格...【江戸由来の武家規格住宅札幌・屯田兵屋】
写真は江戸東京たてもの園の「八王子千人同心組頭の家」。秋田の設計者・西方里見さんから、よく「現代住宅のモデルとして江戸期の中級武家住宅」と言われる。氏と本格的にこのあたりの「どうしてなの?」というところはヒアリングは出来ていません。しかしまぁ、なんとなくこういうイメージなんだろうなぁ、というのは感じている部分はある。それまでの日本では「庶民の都市戸建て住宅」という概念は乏しかった。基本のムラ社会では職住一体機能の「農家住宅」はあった。そのなかでも支配階層の土地持ちの庄屋たちの住宅は大きな家屋敷で、たくさんの小作たちを組織するような階層。それらでは集団的の農事作業の広大なスペースが用意されていたり大人数での「寄り合い」集合も可能な広間などもあったりする。なかばは「半公共」的な家屋敷だったことが見て取れる。実際に年...【現代住宅のルーツ?「江戸期中級武家」屋敷】
魏志倭人伝というのはナゾ多き古代史の白眉。邪馬台国、卑弥呼というフレーズに日本人は揮発性が高い(笑)。わたしは本格的国土になって150年の北海道ネイティブでもありやや引き気味。ただナゾといわれると野次馬的興味は高まるのですが、でも、中国の正史と言ってもそもそも信憑性に疑問は持つ。かの国にしてみれば遠い異国の、情報も乏しい時代での伝聞記録。その片言隻句を日本人が微に入り細に入り論争し合うのはやや滑稽かもと。そんな思いを持っていたら東京外国語大学名誉教授、故・岡田英弘氏は著書「日本の誕生」のなかで1753年に編纂された中国・明の正史である「明史日本伝」を引用。この時代より150年以上前の日本の戦国時代末の歴史を描いた部分を抜粋している。以下。・・・・・日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった...【フェイクも多い中国正史「明史」日本伝】
どうもこういう力感に弱くなってきています(笑)。縦横に丸太が表皮もそのままにあらわされてくっきりと目に見えるかたちで構造美をたたえている。まことにシンプルに「こうできているよ(笑)」と語りかけている。一見「無意匠」というように見えるけれど、こういう素材そのものをデザインとして完結させるのはまことに清々しい「意匠」の根源かもと思う。この建物は北海道のおへそに近い上富良野町郊外にある。「土の館」という名前に引き寄せられるようにカミさんが運転するクルマでたどりついた休日ドライブの訪問先。わたしはその間、まったく気絶して眠っていたのでどうして彼女が引き寄せられたのかはまったく知りません(笑)。気がついたらカミさんがドアを開けてきたのです。寝ぼけながら「土の館」を見学した後、隣接するトラクターの展示館を見ていたら、この光...【豪放磊落丸太木組みの美感】
きのう「過去地形」について触れたら、さまざまな反響、ご意見をいただきました。たいへん貴重な声をいただき、感謝の念に堪えません。わたしの家系は祖父は広島県福山市近郊生まれで北海道に移住し、父も彼の地で生まれましたが、わたしは北海道生まれのネイティブ北海道人。まぁ3代で江戸っ子という言葉を聞くことがありますが、「蝦夷っこ」という言葉はあんまり聞いたことがない(笑)。でもそろそろこの地に深い愛情を持って来し方行く末をと考える世代。しかし、なかなか過去歴史の少なさに心許なさも感じている(泣)。それでも考古的な発見とか探究が進められていて大いに勇気づけられます。そういった学究にも知人がおります。上の図はそうした学究の一人である右代氏が関わった北海道博物館の展示。<ブログ過去記事【北海道の「過去地形」を見る】を参照ください...【過去地形から歴史を見つめ直す】
人間は無意識のうちに、見えていることだけにとらわれやすい。しかし、見えていることも常に変転することの方がはるかに多い。地球規模の気候変動などの要因で海陸が変化するというのは、比較的にわかりやすいことだと言えますが、それでも実感として常に把握するのはむずかしい。一番上の図は、きのうもご紹介した2番目の写真、釧路湿原展望台に向かう道の途中の「高台」にある北斗遺跡周辺の歴史年代での海岸線変遷の様子。写真では広大な釧路湿原が見晴らせる高台ですが、この遺跡は重複遺跡で、旧石器時代から縄文・続縄文・擦文時代までの合わせて300以上もの竪穴痕跡があり長い歴史が刻まれている。現在は釧路湿原を望む標高20mに位置していますが、遺跡に人間が住んでいた当時ここは海岸にごくほど近かった。擦文時代はいまから直近1,000年程度の過去にな...【歴史年代で陸と海がまったく違うニッポン】
先日、このブログで【核家族から大家族へ社会復元は可能か?】っていう記事を書きました。それがけっこうロングセラーな反響(笑)をいただいています。要旨としては現代の趨勢である「核家族」が生み出した人間の生き方をよりバラバラにしての資本主義的発展の結果である人間疎外的な現実に対して「大家族」という、より生きやすい環境を再度、復権させる方向を考えられないか、ということでした。その意見に対して、けっこう多くの方から大家族の再構築というのはムリではないか、それよりも町内会的な地域的結びつきとか、あらたな趣向興味的な人間の「共同体」が現実的ではないかというご意見。わたしの年代は大家族的な生き方の残滓を濃厚に保持していると勝手に思い込んでいたので、同年代とおぼしき方からそうではないのでは、というご意見を聞いて意外だった。もちろ...【ムラ社会を超える人間共同体は可能か?】
きのう、奈良時代の陸奧産金と万葉集編纂のことを書きました。最近、この万葉集のことが令和の命名のことがあって話題になっていろいろ勉強してきていたこともあります。で、万葉集のころの日本語表現「万葉かな」のことに触れたのですが、わたしのブログを応援してくれているShigeruNarabeさんからこの「万葉かな」についてコメントがありまして〜万葉仮名のまとまった使用は古事記や万葉集あたりからですが、鉄剣の金象嵌などでは5世紀からすでにあったようです。今では羊蹄山と呼ばれるシリベシ山も「後方(シリヘ)羊蹄(シ)という万葉仮名です」〜というご指摘。おおお、であります。実はわたし、この「後方羊蹄」という地名漢字がなぜこう付けられたか、長年疑問には感じていながら探究していなかったのです。こういうご指摘を受けて、とっさに「阿倍比...【北海道「後方羊蹄」をなぜ「シリベシ」と読むか?】
ここのところの韓国との関係の騒々しさはすごかったですね。<本日は久しぶりの時事ネタであります、ご容赦を>もうそろそろ、感情的なレベルでのことからは離れてかの国の政治の混乱に巻き込まれないように日本自身の冷静な国家戦略を国民レベルで論議できる方向に舵を切っていくべきではないかと思っています。どうしても生々しい隣国関係なので、近視眼的な見方が強まってしまう。朝鮮半島国家の盛衰史は、歴史的にも「半島国家」であり、大き過ぎる「大陸国家」中国やさらに軍事国家ロシアといった他国への関与動機の強い国家群からのさまざまな影響が国内情勢に敏感に反映する地政学的な位置にあることが大きい。一方で日本は「海洋国家」であり、今日の世界秩序の中では主流である米英型の志向性と共通価値感を共有できる国なのだと思います。世界貿易志向の強い資本主...【アジアの希少な「海洋国家」日本の生存戦略】
いろいろな時期に北海道からそれ以外の、とくに関東以南に移動すると花の違いに癒されたり、驚かされたり知りたい欲求が盛り上がったりする。今回もセントレア空港を往復したけれど、この写真の花がそれこそ行く先々で目を楽しませてくれていた。ちょっと前のハナミズキにも色合いが似ているけれど花の様子、枝振りがまったく違う印象。で、そういうときの「この花の名は?」系のアプリで写真をアップすると親切な人たちから教えていただける。以前にも札幌市内でまったく見たことのない花を見つけて教えていただいた。こちらは「アスチルベ」という花だそうで、名前もまったく聞いたことがなかったヤツでした。今回出会った花も、なんとなく似た花の色合いではあるけれど枝振りとか、大きさとかまったく違う。ただ、わたし的にはこういった色合いの花には強く惹かれるのか?...【北海道では咲かない花がある・・・】
きのうは国の住宅施策についての会議に参加して参りました。年間3回計画されていて、最初は東京、続いて今回、岐阜で開催して最後12月に札幌で開催の予定ということ。会議については、継続中のことなのでまたあらためての機会に。会議がなんと朝10時からということで前泊して参加。岐阜で宿泊するというのははじめて。これまではだいたい、名古屋からどこかに行くときの「経由都市」。岐阜と言えば稲葉山に築かれた岐阜城であります。この城のある稲葉山は周囲が長良川に囲まれて、城下町からは急峻な山。信長は何回か、この城下町までは侵攻できたけれど、山上から攻められて敗戦を繰り返していたとされる。しかし、岐阜はまさに交通の要衝で、美濃平野から伊勢湾に下るまさに「要衝地」にあることが目にも明らかであります。この長良川は東海最大の穀倉地帯・美濃の交...【城と町、交通の相関in岐阜】
あるデータを見ていて興味深いことを発見。わたしは昭和27年生まれですが、どうもこの時期に日本社会は「郡部」から「都市」に大きく構造変化している。平成22年国勢調査では、都市人口は1億1615万7千人と総人口の90.7%を占め,一方,郡部人口は1190万1千人(9.3%)というデータがある。この約60年前の「逆転」からずっと人口重心移動が継続しているのでしょう。で、わたしの兄弟というのはむしろ「郡部」が人口の多数派だった時代を経験し、その「常識」感を共通言語として持っている。わが家は昭和30年に北海道岩見沢市近郊地帯の農家を離農して札幌に移住して、食品製造業に生きる道を求めたのですが、それ以前の郡部でのくらしのありようを話して盛り上がっている。3歳までの実感しか持たないわたしとしては、ついて行けない(笑)。「そう...【都市集中と未来の「住み方」変化】
きのうブログ記事の流れで触れた「韓国慶州・仏国寺」。もう3年前の訪問でしたが、これまで写真整理をあんまりやっていなかった。たしか忙しい時期に知人たちに誘われての旅でした。帰国してからもトンボ帰りで秋田でテレビ出演したりして、整理する余裕を持てなかったようです。まぁ、取材している写真類はとにかく膨大なので、ある機会の写真整理を始めるとそれだけでも根がつながってどんどんとテーマが膨らんで行かざるを得ない。で、本日は狛犬、じゃなかった「仁王像」であります。宗教建築では日本の場合には定番・付き物として結界の門付近にこういった存在が鎮座している。東大寺にもきちんと仁王さまがおりますが、しかし記憶では法隆寺「南大門」周辺にはなかったように思います。なにか、一定の法則性があるのかどうか、知らない。日本は地勢的に東アジア世界と...【韓国仏国寺結界でギター奏でる「仁王さん」4体】
さて、きのうは法隆寺建築工事のことを書いたので隣国・韓国の同年代、751年創建という世界遺産・仏国寺のこと、以前2016年3月13日にもアップしましたが、写真をチェックしてもう一度、ふり返って見たいと思います。このお寺、創建時は法隆寺のような「国家建築」ではなかったようで、〜新羅景徳王の時代の751年(景徳王10年)宰相・金大城(キムデソン)により建立がはじまる。『三国遺事』には金大城が現世での父母のために建立した。李氏朝鮮の太宗1407年(太宗7年)の儒教国教化での仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に名前がなく、既に荒廃し廃寺になったようである。その後1424年の弾圧時に存続を許された36寺院の中にも名前がなく、引き続き廃寺のままだったようだ〜とWikipediaには記述されている。日本では仏教が一時的...【韓国慶州・仏国寺取材写真再チェック】
きのうは今日の「高断熱高気密技術」についての技術をより高めて継承していくには、目的的な行動が必要というそういうテーマで書きましたが、いろいろ反応が寄せられました。高断熱高気密についての「民族史」的な意義ということも念頭に北総研さんに資料などの提供を求めて、快諾いただけましたので、基礎資料として参考にさせていただきながら、「記憶の継承・発展」の一端に取り組んでいければと念願しています。わたしどもができることと言ってもなにもできないとは思いますがなにかの痕跡、きっかけになれればと思っています。そんなことを考え始めているとわたしたち民族には偉大な先人たちと、その事業痕跡がすばらしく遺っているそういうことに深く思いが至ります。写真は法隆寺2016夏の様子でありますが、あわせて、竹中大工道具館展示で示されていた「法隆寺で...【1400年前「法隆寺」国家事業建設】
昨日は北海道建設部の住宅施策諮問会議参加。座長を鈴木大隆さんが務める北海道住宅の方向性検討会議です。わたしはメディアを発行してユーザーの「取材」を業としている立場でそういった意見を述べさせていただく次第。いろいろな立場のみなさんからのご意見を拝聴できる貴重な機会でもあります。昨日もある現場実務者の方から、設計者の集まりなどで、断熱技術の地域認証資格であるBIS資格について、若い年代の人たちの認識がやや希薄という問題提起がされていました。北海道では、主にエネルギー削減を狙った国の「省エネ」施策としての住宅断熱推進とはややスタンスの異なる、より生活実感に即した住宅性能技術向上の地域的努力がそれこそ明治初年以来、継続的に取り組まれてきています。それは「あたたかい家」という共同テーマが無条件の前提にあったことで「なんと...【高断熱高気密技術をどう継承するか?】
出版の世界は大きな激動期・変革期。わたしどもは「雑誌」から電子メディア系がメインの領域ですが、一方で「書籍」という領域も業界構造としては大きい。というか、雑誌的コンテンツから容易に書籍化という流れがある。よく言われるように、マンガ雑誌で「連載」して好評だった作品は即座に「単行本化」されて、そちらの売上げ規模が大きくなるという意味で相互補完的な関係で成り立ってきたと言えるでしょう。下のグラフは、書籍の紙と電子形態の販売割合。昨年2018年度では、電子書籍は書籍全般のなかで16%に上ってきた。徐々に趨勢が伸張してきているのがわかる。わたし自身も、書籍については紙の本よりも電子書籍の方が非常に便利だと思っています。雑誌については、写真表現とその「切り取り方」レイアウトがかなり決定的な印象領域を占めるので、紙の方がとも...【電子書籍縦書きか、横書きか?】
写真はちょっと前から気になっている埴輪であります。埴輪といえば、最近は「元祖ゆるキャラ」と言われるようにある種、キッチュな日本の文化伝統の創始にかかわっている部分がある。たぶん、古墳の周囲に立て並べて祀るという目的から下部が安定感のある作りになっていて、表現としてのリアリズムよりも直立安定性重視であることが、その形象から見て取れる。それがゆるキャラのイメージとの近似感につながっているのかも。この写真の埴輪からはしかし、古代史のキーワードとしての「秦氏」という存在が気になってくる。平安京の建設の中心的勢力・古代史の有力勢力としてよく名前が出てくる。この埴輪は、その秦氏が入植したとされる千葉県芝山で発見されたもの。埴輪というのは死者の古墳に随伴させて死後も仕えるというような意味合いなんだろうと言われていますが、この...【古代のナゾ写実的な埴輪と「秦氏」の関係】
自分はどんなことをしてきたのかなと、ふと考える。いずれにしても人間として大したことは出来ていないのは確かですが、そういう才能のない人間は、努力するしかない。継続は力、と信じて日記的にブログを書いてきています。ずいぶん長く書いてきてはいる。そろそろそういう活動をきちんと整理整頓しておかなければならない。ということで、見返し始めております。始めた動機は、たしかスタッフから自社HPのコンテンツとして書いてください、というようなことでした。2005年8月9日から開始しております。ちょうど開催されていた「愛・地球博」に、学校が夏休みになった息子と同道して見学して来た見学体験から書き始めております。それ以来、いまは15年目に入ってきています。この間で数日はズル休み(笑)しているけれど、たぶん10日未満のハズですので、総数は...【15年間5000本以上のブログ記事(笑)】
歴史的なことを考えるときには、当時の人口を考えながらなるべくリアリティを持って社会の様子を想像するようにしています。ライフワークの建築テーマでも、その考えを踏まえて想像している。建築の技術発展と建築需要把握についての決定的な「補助線」。そういうことでいつも参考にさせていただいているのが上智大学の鬼頭宏先生の研究「日本列島の地域別人口歴史」です。平安末期から425年前の奈良時代725年には451万人なので、この間は1.6倍という人口増加。平安末期1150年段階の総人口が724万人に対して武士の支配する時代の開始を経た1600年の関ヶ原の頃が1389万人。450年間に人口は1.9倍とほぼ倍増している。さらに、1600年から246年後の幕末1846年には約3300万人。2.37倍と人口は急増しているのですね。歴史とと...【歴史人口増加と建築の進化発展】
って、北海道外の方から言われました。う〜む・・・。そうなんだろうか、言われるまでまったく考えたこともなかった(笑)。郷土愛的には褒めていただいてすごくうれしいけれど、ホント、考えたことがなかったので面食らう。で、そんなことがホントに一般的に言われているのか、知りたいとWEBでググってみたら、北海道の形が美しいから日本が美しい!その形のバランスの良さが際立つ!というページがトップで表示されました。「その形のバランスの良さが際立つ!見た瞬間その良さが分かります。それが北海道の形にある!」「北海道の地図を見れば見るほど、魅力に満ちた素晴らしい形をしています。形のバランスの良さが—–抜群に美しい」と感嘆してくれております。著者は1981年に日本の建築家名鑑/新建築社から日本の建築家500人に選ばれた堀江武之さんという方...【北海道は地形の「カタチ」が美しい?】
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