霊山寺から川を挟んで北東直線500m程の奈良市富雄中町にある。大和国鹿島香取本宮は「鹿島の神人達が正義を護り不正を正し、外敵から護るため自然の要塞を利用し、神の聖地を維持するため陣屋を固めたのであります。国土開発に大功を建て給うた鹿島・香取の大神をお祀りしたのが始まりであると言われています。」とHPにある。郡山城の鎮守として祀られていたが、住宅開発に伴い今の場所、人斬山頂上に遷されたようだ。地域の氏神様ではなく「単立の神社」として機能しているなど市内ではやや異色の存在となっており、参拝時には飼育されている「神馬」が見られることもある。富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」
古くから行基開基と伝えられ、富雄最大の寺院(富雄町史より)。寺の西側の奈良街道に接する所には昭和初期には南大門があったとされている土塀の一部が残されている。橿原考古学研究所の奈良県遺跡地図によると、霊山寺と葛上神社の境内辺りには「円墳」」として登録されているが、「日本のお城」によると「城跡・角山城」ともされている。富雄川流域探索「霊山寺2」
霊山寺((りょうぜんじ)。奈良最大規模のバラ園として有名。葛上神社の南にある鎌倉時代建立の本堂(国宝)、三重塔(重文)などの建物が建つ。伝承によれば「小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居して登美仙人あるいは鼻高仙人(びこうせんにん)と称したという。鼻高仙人となった小野富人は、登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けたとある。富雄川流域探索「霊山寺1」
杣川は今の学園前「こうの上池・下池」から南に流れ、富雄南小学校と砂茶屋の中間あたり「第二船場橋」で富雄川に合流する。杣木谷はその昔、大木の茂る山で杣師が管理し、神社などに使う木材の切り出しに従事していた場所でもあるらしい。切り出した用材は杣川へ流し富雄川へ、そして木嶋(木嶋神社あたり)で集積をし大和川へと運んだ。木材を切り出した杣木谷には「水神」として祭られていた神社があったといい、明治初期に葛上神社に合祀され、学園中、南(旧杣木谷)には葛上神社の氏子さんが現在もおられる。吉崎宮司(令和2年帰幽)さんのお話によると「天智天皇近江へ遷都したのをきっかけに、近江へ移りその後、平城京遷都に伴いこの位置に再び造営された。しかし度重なる火災のため今、伝記、資料となるものは残っていない」とのこと。「第二船場橋」があるので「...富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)2」
葛上神社の略歴に書かれている「…杣木谷に渡来した…後に本所に合祀…」とあるが、杣木谷はどの辺りなのか?」。富雄川沿いには「杣木谷」或いは「杣木」と云う地名が見当たらないが、大正元年10月25日大日本帝国陸地測量部発行の地図には「杣木谷」の地名と小集落が記されている。今の地図と照らし合わせてみる。近鉄学園前駅南東は丘陵となっており、頂きに学校が建っている。その丘陵から西に向って斜面となっていて下り、谷川を挟んでまた西には丘陵があり、住宅地が広がっている。学園前駅から西約150m線路脇あたりの小集落が杣木谷だったことが分る。谷川周辺はいま奈良市学園中と学園南に挟まれている。地元の人によると、かつては「杣川」呼ばれていて地名も杣木谷だったとのこと。富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)1」
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