富雄駅西出口北側に煉瓦造りの建物がある。創業時代の施設として最古の煉瓦造りの「旧大阪電気軌道富雄変電所」。配電用・電鉄用変電所として建造された唯一残っている歴史的建造物。東西の側壁面上部には変電所として使用されたことを示す配線孔跡が残っている。昭和44(1969)年変電所として役目を終え、周辺道路の拡張工事に伴って取り壊しの話が持ち上がった。これに「待った」をかけたのが近鉄・OBの今津勉氏。10年に及ぶ運動によりにより保存が決まった。その後ホームセンターや飲食店などに利用されてきたが、現在では利用されていない。建築者は不明だが、建築年が同じであり、様式が東京駅とよく似ていることから「辰野金吾の設計か」とも。(参考・とみお公民館だより)富雄川流域探索「変電所」
春のような温かい日が続いていたのに、今朝の気温-2℃。古民家の庭では厚さ2㎝の氷が張っていた。この寒さで思い出した。10年前に訪れた北海道・母子里町地元の方の話。「昭和53(1978)年2月17日に北大演習林で戦後国内最低気温-41.2℃と言っているが、実際には44.8℃だったのを気象庁が温度計が故障していたので訂正された」と不満げに言っておられたのが可笑しかった。「この時期、車庫に入れた車も、エンジンルームに毛布を掛けておかないと、朝、エンジンが掛からない」と。また、この辺りの言い伝えでは「白樺の葉が落ちると雪が降る」と言うらしい。日本最寒の地・北海道母子里町
富雄駅は建設計画の当時、富雄村の中心地でもあった国道308号線と富雄川が交差する「砂茶屋」付近に計画されていた。しかし土地買収などの理由から現在の「三碓」に変更された。大正3(1914)年4月30日、大阪電気軌道・上本町から奈良間の開通時に富雄駅として開業し、東生駒駅、学園前駅、あやめ池駅は設けられなかった。昭和16(1941)年、駅名を「鵄邑駅」と改称。昭和19(1944)年、近畿日本鉄道の駅となり、昭和28(1953)年、再び「富雄駅」になる。現・駅西側のコンクリート製の橋は、昭和40(1965)年の駅改良工事以前は鋼鉄トラスト橋だった。(画像は昭和8年の富雄駅水野俊一氏提供)富雄川流域探索「近鉄・富雄駅」
2月6日、109mと日本最大の円墳、富雄丸山古墳の第4次調査報告が現地であった。天気も良く大勢の見学者でにぎわっていた。「…今回は特に造り出し南東側も三段構造であることを確認。また、一段目平坦面に巡る円筒埴輪列が造り出しへ向かって、屈曲することから墳丘一段目平坦面と下段平坦面が接続することも分かりました。埴輪列は造り出しへ向かって屈曲しますが途中で途切れると想定皿ます…」と。また、「発掘調査は奈良大学、東京・筑波・法政大学で古墳研究を専攻する大学院生と協力して発掘調査を実施しました…」。日々の調査状況を埋蔵公式Twitter(@naracity_maibun)で発信しています」とも。(パンフより抜粋)富雄丸山古墳
地蔵山(辻地蔵)は学園前駅の北北西約250mにある。標高145mほどの頂上に石燈籠、地蔵などの石仏がある。1647(正保4)年の地蔵や1759(宝暦9)年の西国三十三所順礼碑もある。1716(享保元)年の地蔵には「二名村住人」が発願したことが刻まれている。「この地は富雄駅北側を中心とした近世の二名村の一部だった。昭和30年代初めの住宅開発で周囲は一変したが、もとから住んでいた学園新田町の人々は地蔵講を作り、今も祀り続けている(2017/8/30毎日新聞より抜粋)」とのこと。この先一条街道は、あやめ池から西大寺方面と三条通り方面に分かれる。今回は富川流域探索から離れるので機会が有れば探索することにし、一条街道はここで終わることにする。富雄川流域探索「一条街道・地蔵山」
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