伊弉諾神社は長弓寺境内にあり、本堂へ向かう東側にある。長弓寺と同じく、聖武天皇の勅願によって、長弓寺の守護神として建てられた。神職は長弓寺の僧の中の第一﨟の人が継承されていると言う。かつては仏教が主で、神道が従であった時代があった。平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛し、明治維新に伴う神仏分離令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いてたと云う。今日の暦:(1718)年、徳川吉宗が重ねて中国船との密貿易を厳禁する。富雄川流域探索「そんな時代があった神仏習合」
真弓橋東詰め信号の東側に「真弓山長弓寺」の石柱がある。その向こうには大きな石の鳥居があり、参道が東へと向かっている。真弓寺の石柱より伊弉諾神社の鳥居が大きいので、躊躇するが、鳥居をくぐって進むと山門があり、長弓寺境内だ。長弓寺は、聖武天皇がまだ若かりし頃、豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)とその子であった長麿(ながまろ)とが、狩りに出かけたが、長麿が誤って父・長弓を射殺してしまった。聖武天皇はこのことを深く悲しみ、僧・行基に命じてお堂を建て十一面観音を祀り長弓を弔った」と云う一寸悲しい話がある長弓寺である。今日の暦:明治15(1882)年、日本初の鉄道馬車が、新橋-日本橋間に開通する。富雄川流域探索「山門はどこっ」
富雄川沿い東側の高台にある「融通念仏正覚山安養寺」。石段を登り三門入り口わきに大きな地蔵が西向きに立っている。反対側には「不許酒肉五辛入門内」の石柱。本堂軒丸瓦には「徳川立葵」の彫刻。本堂は新しく地下室がある。境内には鐘楼があり天明4(1784)年7月と新しい石柱があり、また、敷地内には地蔵が多く集められ供養されている。今日の暦:文化1(1804)年、出羽の大地震で名勝・象潟(ひさがた)が隆起し、陸地となる。富雄川流域探索「西日を向く地蔵さん」
「くろんど池」を源とし、大和川に合流するまで約23㎞を生駒市、奈良市、大和郡山市、斑鳩町、安堵町と流れる富雄川に架かる橋は手持ちの資料には93橋とあったが、歩行者専用の橋であったり、橋名のプレートのない橋を含めて84橋が確認できた。今日の暦:(1582)年、豊臣秀吉が毛利氏と講和し明智光秀討伐(中国多返し)に出向かう。富雄川流域探索「流域に架かる橋」
法楽寺。「奈良時代、東大寺大仏殿建立にあたり西北にあたる当地に王城守護のために聖武天皇が僧・行基によって開創させたと伝えられています。永禄10年(1567)松永氏によって大仏殿が焼き討ちされた際、当寺も消失しましたが、鷹山氏により再興されたと伝えられています。薬師堂は棟札銘から寛文3年(1663)に再建されたことがわかります」と生駒市デジタルミュージアムにある。境内には康永4(1345)年銘の十三重塔がある。また、小絵馬が奉納されており、拝み絵馬、子供の育成、安眠、乳搾りなどの絵馬があるが、これらは「保存のため現在は公開していない」との事。今日の暦:明治21(1888)年、東京天文台(気象庁の前身)がおかれる。富雄川流域探索「願うは子供の成長」
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