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  • 駅の真ん前にある明石城跡「剣豪が設計した庭園」

    「剣豪宮本武蔵(1584-1645)の出生地についてはこれまで諸説がありましたが、最近では現在の高砂市米田であると認知されています。武蔵は生涯特定の藩に所属せず全国を旅しながら剣の道を究めたのですが、特に出生地である播磨地域には多くの足跡を残しました。ここ明石においても、1617年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ、明石の町割りや城内樹木屋敷の設営にかかわりました(公益財団法人兵庫県園芸・公園協会HPより)」と。今日の暦:(1946)年、旧円と新円の交換が始まる。駅の真ん前にある明石城跡「剣豪が設計した庭園」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「目の前なのに…」

    薔薇園の近くに「武蔵の庭園」がある。近くまで来たのだが、どれがその庭園なのかわからず、近くのカフェの人に尋ねてみたが、お忙しいのか「知らない、隣の管理所で訪ねて」と。庭園は目の前の園児を連れた若いお母さん方の駐輪している池の左側だった。駅の真ん前にある明石城跡「目の前なのに…」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「多門塀の復元?」

    巽櫓へ向かう、なが~く続く石段。左側(南)には石垣に向かって雁木が不整備のままあり、多門塀が復元されるのだろうか。駅の真ん前にある明石城跡「多門塀の復元?」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「リサイクルされた櫓」

    本丸に御殿は築かれたが、天守は建てられず四隅に三重の櫓を築いた。それらの建物の用材は幕府の一国一城令により、廃城となった伏見城や三木城などの廃材が用いられ、福山城とよく似た伏見城からの移設。今残る、巽櫓、坤櫓は国の重要文化財に指定され、日本に12基しか現存しない貴重な三重櫓。今日の暦:寛永10(1633)年、将軍家光、奉書船以外の海外渡航と外国在住5年以上の日本人の帰国を禁止する。駅の真ん前にある明石城跡「リサイクルされた櫓」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「排水溝から流れ出た水は…」

    天守台四隅に建てられた櫓の一つ「坤(ひつじさる)櫓」西側の石垣には、「稲荷曲輪」へ向けて、大きな排水口が2個見えるが、その後の処理はどうなっていたのだろう。本丸の西側に位置し、東西56m、南北122mの規模の曲輪で、築城時は「西の丸」と呼ばれていた。また「稲荷曲輪」の名は北端に稲荷の祠があったことから名付けられたとされているらしい。今日の暦:慶長8(1603)年、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府が開かれる。駅の真ん前にある明石城跡「排水溝から流れ出た水は…」

  • 古民家だより「氷」

    今冬は暖冬とかで、12月は氷点下の日はなく1月22日に氷点下0.2度となった。その後1月28日の最低気温が8.3度にまで上がり、3月中旬の気温だったとかで、古民家の庭にはまだ氷が見られなかった。しかし、今朝(2月7日)の最低気温は氷点下1.1度となり、「待望」の厚さ約8㎜の氷が張った。冬の風物としては、あと「雪」だっ。今日の暦:明治6(1873)年、日本古来の習慣「仇討ち」が禁止された。古民家だより「氷」

  • 駅の真ん前にある明石城跡「ここも天守は建てられなかった」

    天守台は台石まで積まれ、東西25㍍、南北20㍍で約152坪には天守は建てられなかったが、五重の天守が乗る規模で熊本城の天守と同規模とのこと。今日の暦:元禄17(1703)年、大石内蔵助ら赤穂浪士46人が切腹。駅の真ん前にある明石城跡「ここも天守は建てられなかった」

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