時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。
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11:むかしの「松本」?「松本」学、あるいは「松本」考:911:むかしの「松本」?:11-2:千鹿頭神社・・・創建については詳らかではありません。古代からの洩矢(もれや)の神の系譜で「千鹿頭大神」を祀り、諏訪信仰と深いつながりのある神社と言われています。特徴は全てダブル。・・・鳥居、参道、神殿、拝殿、社務所などの施設が仲良く二つずつあり、「御柱祭」の行事がダブルで実施されるという二倍の魅力ある神社です。・・・ダブルとなった理由は、元和4年(1618年)千鹿頭山の稜線を境として西側の東五千石が高島藩領(神田)となり、東側が松本藩領(林・大嵩崎)に分割されたことから二社分離となりました。今でも「御柱祭」は同日に双方の氏子により盛大に行われます。千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)は長野県を初め、東日本(甲...11:むかしの「松本」?:11-2:千鹿頭神社・・・
11:むかしの「松本」?「松本」学、あるいは「松本」考:911:むかしの「松本」?:11-1:茶屋明延?・・・没年:天正19.5.25(1591.7.15)生年:生年不詳戦国時代の武士,豪商。信濃守護小笠原長時の家臣中島宗延の子。通称は四郎左衛門尉。明延もはじめ武士で小笠原長時に仕えていたが負傷して武士をやめ,天文(1532~55)末年ごろから京都に住んで商人になった。茶屋は屋号。ただし茶を商っていたわけではなく,呉服商であった。茶屋を称するようになった由来は,旧主小笠原長時が武田信玄に信濃を逐われ,一時,上杉謙信の保護を受けたあと,三好長慶を頼って京都に逃れ,将軍足利義輝の弓馬の師範となったことと密接に関係する。そのころ,明延は自分の屋敷に茶屋を作り,茶の湯三昧の生活を楽しんでいたが,長時に伴われた義輝...11:むかしの「松本」?:11-1:茶屋明延?
10:むかしの「松本」?:10-2:会田、会田宿、交通の要所?:会田、会田宿?・会田は、交通の要所である。・会田は、「四つの峠」に囲まれている。・「四つの峠」・・「青木峠」、「保福寺峠」、「立峠」、「刈谷原峠」「青木峠」、「保福寺峠」を下ると青木村。ここは上田藩領域だが、青木峠の先は「上田」、保福寺峠の先は佐久である。・会田は宿場町でもあった。「会田宿」。--この宿場町を「柘植義春」(=漫画家)が愛した。善光寺街道正式には、北国西脇往還という。現在、国土交通省では北国西往還とされている。善光寺街道、善光寺西街道などの別名を持つ。また善光寺とは逆方向に進み、中山道から西の伊勢や京に行く用途(伊勢参りなど)では西京街道の名が使われ、稲荷山宿にその名が刻まれた道標が残されている。洗馬で中山道と分かれた後、松本城...10-2:会田、会田宿、交通の要所?
10:むかしの「松本」?:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?・松本から北方、会田という所がある。街道筋は、古い町並みが残る。・・1955年4月1日-嶺間4箇村と呼ばれた錦部村・中川村・五常村・会田村が合併して発足。・・2005年4月1日-松本市に編入。同日四賀村廃止。保福寺峠長野県松本市と上田市の境にある、松本盆地と上田盆地を隔てる峠。律令時代の東山道が通る、重要な交通ポイントであった。なお、近隣の地籍である保福寺は「ほふくじ」と読むが、峠の名前は「ほうふくじとうげ」であり、誤って「ほふくじとうげ」と読まれることが多い。峠の南東側の小丘には、「ウォルターウェストン日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。つまり・・飛騨山脈を「北アルプス」と命名した「言われ」の場所なのだ。お陰で、「アルプス」的でない...:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?
「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・・
「松本」学、あるいは「松本」考:99:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?:9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・・井深氏・・・『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。』上の文章は、松本市の公式な見解の記述であるのだが・・・なんか変である。普通、戦に負けて降参すると、領土を保全されて安堵され、「先方衆」として勝者の軍に配されるのが、戦国時代の一般的な習いである。なのに、以後に「井深氏=(後丁氏)」の名前は当時の府中から消えているのだ。「謎」を深堀してみると、「信府統記」という古書があり。ここに「赤沢氏」の記述がある。・信府統記・赤沢氏・『後ニ井深ノ城主後庁大蔵ヲ攻落シ、彼領地ヲ以テ是ヲ武...「松本」学、あるいは「松本」考:9:9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・・
「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-2:「信玄」の松本支配まで
「松本」学、あるいは「松本」考:99:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?:9-2:「信玄」の松本支配まで信玄は、「塩嶺峠」で「小笠原」を破り、松本平を支配するに至った。支配すり拠点は、小笠原家の陣屋のある「井川」も「林城」でもなく。支城の一つであった「深志」城であった。松本平は、盆地である。三才山を発祥とする「女鳥羽川」は、まず「田川」と合流し、次いで、木曽を源流とする「奈良井川」と合流する。美ヶ原を源流とする「薄川」も「奈良井川」と落合する。その「奈良井川」は飛騨山系を下流とする「梓川」と合流して、「犀川」を名前を変え善光寺平と繋ぎ、千曲川と合流して、「信濃川」という大河に変わる。この奈良井川と梓川の合流地点は、昔は「深瀬」と呼ばれる湿地地帯であった。「深瀬」は、いつの間にか、なまりで「深志」...「松本」学、あるいは「松本」考:9:9-2:「信玄」の松本支配まで
9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか? :9-1:府中消滅の因
「松本」学、あるいは「松本」考:99:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?:9-1:府中消滅の因『仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。』-----国府の役割は?-----奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)。時がたち、甲斐の信玄が、膨張政策を極めてくると、当然に府中・小笠原家と衝突するようになる。『天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、高遠城を陥落させ、福与城の頼親を、龍ヶ崎城を陥落させる。武田勢は伊那を制圧すると、小笠原長時は村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻するが、塩尻峠で武田...9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?:9-1:府中消滅の因
「松本」学、あるいは「松本」考:9何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?松本に関わったものは、「何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?」と疑問に思うことが多い。殊更に、「長野市」と対抗意識が強いわけでもなく、不満不平があるという訳でもないのだが・・・人口の規模」、歴史的背景」、県内のほぼ中央という地理的条件」など、「県庁所在地」たるに足る条件をそろえているように思えるのだが・・・なぜなのだろうか?疑問である。歴史を振り返ってみよう・・・『1871年(明治4年)、廃藩置県により松本藩は松本県になった。その後、松本を県庁所在地とする筑摩県が成立。1876年(明治9年)には、筑摩県庁の焼失により、長野県に編入された。』なんか、成行ですね。歴史は繰り返すというか!、過去にはこんなことがありました。--...何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?
「松本」学、あるいは「松本」考:88再開に向かってひとりごと・・
「松本」学、あるいは「松本」考:77:トピックス2古(いにしえ)は神社由来より・・・浅間温泉の温泉街の上の方に神社がある。国道254号線の三才山トンネルの手前にも神社がある。また、美鈴湖を少し上った、美ヶ原の高原の中にも神社はある。御射神社という、・・らしい。名前が「みさじんじゃ」といい、祭祀の様式が、キリスト教の「ミサ」に似ていることから、一説に「大陸高原の遊牧民」からの伝承の神社という説も、秘かに受け継がれているが・・・確証に乏しい。正式名称を見てみよう。浅間温泉の上にある神社は、「御射神社春宮」、三才山トンネル近くの神社は、「御謝神社秋宮」、美鈴湖上の美ヶ原にあるのは「御謝神社奥宮」と呼ぶらしい。松本・岡田の地方誌の電によれば、鎌倉初期に、浅間郷の地頭であった「赤沢氏(=小笠原氏の傍流)」が稲倉城に...「松本」学、あるいは「松本」考:7トピックス2
「松本」学、あるいは「松本」考:66:山家」の読み方山家」の読み方---・三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり---・上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言いますと、先に書いた。この「山家」は、「やまや」と読むとばかりに思っていた。里山辺を散歩中に、地元の人との会話で、この城跡は「やまべ=山家・城」だと知った。散歩中に、この会話がなければ知りえなかったことである。山家城跡:写真「山家」を「やまべ」とは、難読の極みである。松本が、城下町の体裁を整えて、人口を増やしてきた折、新参者は「山家」を「やまや」と読みえず、呼び名は習わしであることから、当て字の方を「山辺」と変えたのであろう。そして「山家城」の主の統治の領域は、里山辺、入山辺、三才山辺りであったのではなか...「松本」学、あるいは「松本」考:6山家」の読み方
「松本」学、あるいは「松本」考:55:裏庭・美ヶ原裏庭・美ヶ原ルート:2・・・、三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。美ヶ原温泉郷から、細い道を縫っていくと、美鈴湖に合流する脇道もある。ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、バスでも良し、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言います。入山辺のブドウ園:写真さらに上ると、「三城牧場」に着きます。近くに、扉鉱泉」もあります。---・なにせ・・五十年プラス前のことゆえ、いまだに牧場をやっているのか、鉱泉が名前をかえたのか、そこらへんはご容赦を・・・「三城牧場」は、大学の「オリエンテーリング」の時のハイキン...「松本」学、あるいは「松本」考:5
「松本」学、あるいは「松本」考:44:裏庭・美ヶ原裏庭・美ヶ原母校(信大)の脇を通って橋を渡ると「浅間温泉にでる。橋を渡った直ぐには、「川島芳子」が住んだ家がある。(----戦中に、渾名男装の麗人、東洋のマタ・ハリとも呼ばれた人、機械があれば深追いするが・・・)温泉旅館、温泉ホテルを突き抜けてそのまま上ってゆくと、・・・、三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、バスでも良し、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、・・・、美鈴湖の手前で合流する。美鈴湖と言えば、50年目r当時、「浅間温泉国際スケートセンター」があった。---・油氷とか言って、好記録続出の「アウトドア・スケート...「松本」学、あるいは「松本」考:4
「松本」学、あるいは「松本」考:33:松本市の由来そもそも、松本は、城の改名からきている。それまでの城の名称は、「深志城」であった。・・・松本市の由来松本市の名前の由来は、天正10年(1582年)に小笠原貞慶が深志城を「松本城」と改称したことが要因。「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」との懐述「待つ(松)本懐」から「松本」になったと言われている。また、佳字を用いた瑞祥地名とする説もある。・・・写真:松本城理由は上記のとうりであるが、読んでのように、全く後で無理やり付けた理由のようで、納得が行くようなものではない。小笠原貞慶」が出てきたので、中世・府中の領主の名前を、歴史的に振り返ってみよう。建武の新制の時、足利高氏は、六波羅探題で、信濃武士を束ねて京都警備をしたことがある小笠原宗長に同志を依頼したことに始まり、...「松本」学、あるいは「松本」考:3
「松本」学、あるいは「松本」考:22:「松本」より前に、「府中」って呼んだ?松本市は、松本って地名の前には、府中と呼んだらしい。府中・・・古代に中央官庁から送られた税務や警察機能などの役人を「国衙」といい、その役所を「国庁」、その存在する場所を「国府」と呼んだ。府中は、その国府が存在する地方のことで・・・では、松本の前の国府のあった場所はどこか?が、覚束ない。このような類の歴史的な由来は、たいがい市の広報に案内があるものだが、不案内である。では、どこかに詳らかにされていないかと調べてみると、「松本の歴史-岡田地区編」というのが「フェースブック」に載っており、若干詳しいが、断定に足る資料であるかどうか」は不安定に思える。つまり、「府中」という名称は、長らく呼びなれてきたがゆえに、客観性があり、存在を傍証的に...「松本」学、あるいは「松本」考:2
「松本」学、あるいは「松本」考はじめに、松本には四年住んだことある。一年は、蟻ケ崎は住宅街だが、寮があって、三年は、里山辺に、住宅街の端っこで、そこより背後は、緩やかな裾野で、デラウェアのブドウ園が延々と広がる。そこでの四年間の記憶が、この頃どうも少しずつ薄くなっているように思う。そこで思い立つのだが、・・・キーボードを打つ手が、最近んとみにしんどい。胸骨の手術以降、右手が肩よりり上に上がらなくなっているのに加え、副作用でか、しびれまで加わっている所為・・・下降としている内容は、記憶の中のこと。五十年以上前のことになるので、精度が甚だ不安だが、そこはご容赦を!1:旭町松本に「旭町」という町名がある。昔、一年だけ通った母校の所在地だ。どうもここは、旧来の地名ではなさそうで、戦後に出来た地名のように思える。調...「松本」学、あるいは「松本」考
「どん」が何を意味するのか?「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!1:高麗川と寺院仏閣「高麗神社」写真:トーテンポール?トーテムポールのような標柱。「将軍標」という朝鮮半島で使われる魔除けの境界標一風変わっています。高麗神社由緒---・「当社は、高句麗からの渡来人高麗王若光を主祭神として祀る社です。他に、導きの神猿田彦命、長寿にして長く朝廷に仕えた竹内宿祢が祀られています」*高麗王若光;高麗(こま)の王(こき;古代朝鮮語)し若光(じゃっこう)---・どうやら、主祭神は「朝鮮半島」からの「亡命者」の類であろうか。後先の時系列から言うと、新羅という外敵から攻められて、支援を求めて「大和朝廷」に来たのだが、最中に・・高句麗が新羅に攻め落とされて帰るところを失ったとの筋書...1:高麗川と寺院仏閣
「どん」が何を意味するのか?「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!越辺川と高麗川:◇:越辺川と高麗川高麗川は正丸峠辺りを源流とする。高麗川と名栗川を挟んだ山岳は有数の杉の美林・・。高麗川に沿って走る西武鉄道が秩父まで繋ぐ。高麗川の周辺には、趣のある神社仏閣があるが、・・高麗神社、竹寺、能仁寺、子の権現などなど・・このうち、高麗神社、竹寺は、後で詳細する・・巾着田は、高麗川の一部で、「がま口」のように蛇行して流れ、時期には、曼殊沙華の群生が埋め尽くす。巾着田に隣接する「宮沢湖」は、最近人気の「ムーミンバレーパーク」というテーマパーク・・高麗川は、流れて坂戸と鳩山の境あたりで、越辺川に合流する。ムーミンバレーパーク写真飯能市宮沢:郊外型レジャー施設。ムーミンテーマパー...越辺川と高麗川
「どん」が何を意味するのか?「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!慈光寺、都幾川:2:慈光寺、都幾川--・戦国の僧兵たち&番匠、湯葉など都幾川--・ときがわ町(玉川村と都幾川村が合併してできた町名)、因は、町を貫流する都幾川。その都幾川は、慈光寺の山号「都幾山」を由来とする。慈光寺のホームページの紹介の項に、「戦国の時世では、当山も僧兵を傭し、近隣の城主との抗争に明け暮れましたが、それも太田道灌らによって焼き討ちの憂き目にあい、栄華を誇った寺院も衰運をたどること・・」という文面がある。その慈光寺・・時がたち・・嘗ての慈光寺が如何なるものであったか?」は、「web」を巡ることである程度把握は出来そうであるが、本来の規模や勢力の実感は、--・つまり筋肉質や血の実感まで...2:慈光寺、都幾川
「どん」が何を意味するのか?「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!槻川:1:槻川--・武蔵嵐山ミカンの北限・・大内沢・風布「槻川」は堂平山・北川(=大野峠あたり)を源流として流下し、大内沢川と合流して、東秩父村(埼玉県内唯一の村)、小川町へと流れる。「大内沢川」の東側山麓はミカンの北限であり、山を越えた荒川側にも「風布」というミカンの畑が散在する。大内沢川と荒川の川霧は、どうも気温を上げるらしく、川べりの標高の低いところより標高を高くしたところの方が気温が高いらしい。その「メカニズム」の理屈は読んでみたがよくわからなった。「ミカン」の由来は、近くの寄居の「鉢形城」の小田原の後北条の北条氏邦によって、氏邦の出身の伊豆から運ばれたものらしい。この城は、武蔵と上野、下野...1:槻川--・武蔵嵐山
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