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Kekkokamen
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2015/08/02

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  • 『老子』(朝日文庫 福永光司著 )の第五章

    『老子』(朝日文庫 福永光司著 )の第五章 『老子』(朝日文庫 福永光司著 )の第五章は、私にはなかなか示唆に富んでいると思えるのだが、普通の人にはなんだと反発を食らう可能性が非常に高いことも予想される。 天地不仁。以万物為芻狗。聖人不仁。以百姓為芻狗。天地之間。其猶橐籥乎。虚而不屈。動而愈出。多言数窮。不如守中。 天地は不仁。万物を以て芻狗と為す。聖人は不仁。百姓を以て芻狗と為す。天地の間(かん)は、其(そ)れ猶(な)お橐籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つき)ず。動きて愈(いよ)いよ出(い)ず。多言なれば数(しば)しば窮す。中を守るにしかず。 天地は無慈悲で、万物を藁の犬ころあつかい。 聖人は無慈悲で、万民を藁の犬ころあつかい。 天と地の間は鞴のようなものであろうか。 なかはからっぽで無尽蔵の力を秘め、動けば動くほど万物が限りなく現象してくる。 お..

  • マルセル・デュシャンの墓碑銘

    マルセル・デュシャンの墓碑銘 フランス生まれの画家マルセル・デュシャンの墓碑銘には、「さりながら死ぬのはいつも他人ばかり」(私は、フランス語は全然分からないが、原文は次のとおり。)”D’ailleurs,c’est toujours les autres qui meurent.”と刻まれているそうだ。 寺山修司はこの言葉が好きだったというが、別に同じ言葉が寺山自身の墓碑銘に使われているわけではないらしい。寺山は『地獄編』の中でこう書いているという。 「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって他人なんです」 寺山は、至極当然のことを書いたに過ぎない。自分の死を認識できる人間などいはしないし、病床にある自分が生きているのか死んでいるのかを決定するのは、自分自身ではなく医師たちである。「生きるか死ぬかという態度については自分で決定で..

  • 命ということ

    命ということ 広い意味での命があるのは、動植物である。この中には、当然各種の菌や微生物も含む。一般的には、植物と動物を分けるのは移動の機能である。植物はどんなに頑張っても、生まれ落ちた場所から移動することはできない。しかし、その子孫は風に乗って運ばれたり、実を啄んだ動物の糞の中に未消化物として残ることで遠くまで運ばれたりする。あるいは、美味しい蜜を提供することで、花粉を動物の身に付けさせて、動物とともに移動することで存在に適切な場所を選ぶ。実に様々な戦略を持っているし、その戦略は試行錯誤を繰り返しながら、自分たちの種にとって最適なものを選んだのだろう。 そもそも命とは何なのだろうか。それは具体的な種の形として表現される。松の木は松の木特有の形状をしており、松の木が生きられる場所でしか生存できない。水中では育たないし、杉のような真っ直ぐな形をしていない。人間は人間に特有の形状をし..

  • 八風の戒め

    八風の戒め 世の中にはいろいろな教えがある。 私は無知なので最近まで知らなかったのだが、『八風』の戒めというものがある。 「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽」 「利」(うるおい)・・・目先の利欲にとらわれる姿 「衰」(おとろえ)・・・老衰や生活に破れた姿 「毀」(やぶれ)・・・・他人に批判されて自己の信念を変えてしまう姿。 「誉」(ほまれ)・・・・名聞名利にとらわれ、我を忘れた姿。 「称」(たたえ)・・・・賞賛されて増上漫になり、自分を見失うことをいう。 「譏」(そしり)・・・・他人からそしられ、自分を見失うことをいう。 「苦」(くるしみ)・・・人生の苦境に負けてしまった姿。 「楽」(たのしみ)・・・享楽に負けてしまった姿。 日蓮が四条頼基(金吾)という有力な檀家に手紙を書いたそうだ。 「賢人は、八風という人の心を煽り立てる八つの風におかされるこ..

  • 六中観

    六中観 安岡正篤 『百朝集』から。 ⇒の部分はいろいろなところを参考にして、自分なりに解釈したもの。 「 」の中の言葉はプレジデント社の人間学講話シリーズ、『運命を創る』の一節からの引用。 死中有活。苦中有楽。忙中有閑。壺中有天。意中有人。腹中有書。 忙中閑あり⇒ 忙中に掴んだ閑こそ本当の閑である。忙しい人こそ読書量も多いし、人生を楽しむ。 「ただの閑は退屈して精神が散じてしまう。忙中に掴んだ閑こそ本当の閑でありまして、激しい空襲の中でも十分、二十分の短い閑に悠々と一座禅、一提唱ができましたが、こういうのが忙中の閑であります。」 苦中薬あり⇒ 苦中の楽こそ本当の楽である。 「楽ばかりでは人を頽廃させるだけです。甘味も苦味の中の甘味が真の甘味であるわけで、これは茶人のよく知るところで、化学者がお茶のタンニンの中にカテキンという甘味を発見しております。 人間も甘..

  • 人生の避けられない数字

    人生の避けられない数字 長いようでもあるし、短いようでもあるこの人生には、どうしても避けては通れない、いくつかの難関がある。 それは七つの大洋に喩えられる。人は誰しもこの七つの大洋をうまく乗り切る必要がある。では七つの大洋とは何だろうか。 それは、二つのカンジョウ、二つのジリツ、三つのクイである。 もうすぐ還暦を迎える、あるいは疾うに還暦を過ぎたという人々、そしてこれから先も人生を楽しみたいという人たちには、この日記の題名のことを考えておくことが必要だと思う。まだ春秋に富んだ人たちには、そのようなことを考える必要はないが。 まず、二つのカンジョウとは何か。人生を生き抜くには、どうしても金銭が必要である。つまり、損得「勘定」という名の「カンジョウ」がその一つだ。 人間は誰しも、いつでも自分のことしか考えていないので、どうすれば自分のためになるのか、どうするほうが自分に得にな..

  • 二つの生き方

    二つの生き方 心理学者のエーリッヒ・フロムが説いた「二つの生き方」という考えがある。 一つは、“To have”の生き方である。この生き方は「持つこと」、つまり、いかに多くの金、権力、肩書き、快楽を「持つ」ことができるかを指向する存在様式である。 二つ目は、“To be”の生き方である。こちらは「あること」、つまり、いかに自分自身で「あり」うるか」、あるいは「どれだけ自分らしく自分自身を生きられるか」を指向する存在様式である。 現代に生きる多くの人は「持つ様式」を人生における当然の価値観として共有している。その目標は「いかに多くの富を築けるか」、「いかに権力を手にすることができるか」ということであ。金銭、地位、肩書き、権力を必死になって追い求める生き方をしている。 なぜ人はこれほどまで貪欲に富や権力を「持つ」ことを強く求めるのか。 人が富や権力を求めるのは「本当..

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