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自獄論者の酔生夢死
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https://lasciatesperanza.blog.ss-blog.jp/
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酔生夢死の世の中を渡るには、それなりの覚悟と知恵がいる。そんな覚悟も知恵もなく歩んできた人生。
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149回 / 316日(平均3.3回/週)

ブログ村参加:2015/08/02

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Kekkokamenさんの新着記事

1件〜30件

  • 『菜根譚』前集第百八十七項から

    『菜根譚』前集第百八十七項から    縦欲之病可医、而執理之病難医。  事物之障可除、而義理之障難除。  欲を縦(ほしいまま)にする病(やまい)いは医(いや)すべくも、而(しか)して理(り)に執(とら)わるるの病(やまい)は医(いや)し難(がた)し。事物(じぶつ)の障(すわ)りは除(のぞ)くべくも、而(しか)して義理(ぎり)の障(すわり)は除(のぞ)き難(がた)し。  欲望に取り付かれた病は治せるが、理屈に拘る事は救い難い。  物事に纏わる障害は排除できるが、道理に纏わる事は除き難い。        つまり、欲望に絡む問題は解決可能だが、信念に絡む問題は解決し難いということ。だから、他人の価値観や宗教には安易に口出しをしない方が良い。そういうものに口出しすれば、延々と反論を聞かされる。  他人が口出しをしてきたら、「余計なお節介だ」と一言言えば良い。それで仲が悪くなるよう..

  • 将進酒 李白

    将進酒 李白 君不見黄河之水天上來 奔流到海不復回 君不見高堂明鏡悲白髮 朝如青絲暮成雪 人生得意須盡歡 莫使金尊空對月 天生我材必有用 千金散盡還復來 烹羊宰牛且爲樂 會須一飮三百杯 将進酒 李白 君見ずや黄河の水 天上より來たるを 奔流海に到りて 復た回らず 君見ずや高堂の明鏡 白髮を悲しむを 朝には青絲の如きも 暮には雪と成る 人生意を得ば 須らく歡を盡くすべし 金尊をして空しく月に對せしむる莫れ 天 我が材を生ずる必ず用有り 千金散じ盡くせば還た復た來たらん 羊を烹(に)牛を 宰(ほふ)りて且らく 樂しみを爲さん 會(かなら)ず須(すべか)らく一飮三百杯なるべし 現代語訳 君よ見たまえ、黄河の水が天上から注ぐのを。 激しい流れが海に流れ込むと、二度と戻ってこないのだ。 君よ見たまえ、ご立派なお屋敷に住んではいるが..

  • 少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る 若山牧水

    少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る 若山牧水  少年はすぐに大人にはならない。少年は青年になり青年は中年になるが、真の大人になるのは結婚してからである。結婚に必要なのは、信頼と自我の抑制と忍耐である。結婚すれば独身時代のように、自分の好きなように生きるわけにはいかない。お互いに相手に対する責任が生まれるし、お互いの主張をぶつけながら、落としどころを見つけねばならない。相手を束縛しないように気を付けながら、自分も相手に束縛されないように振る舞わねばならない。  信頼できない人間とずっと一緒に生活することなど不可能である。自分の主張ばかり声高に言いつのる人間と一つ屋根の下で暮らすのは苦痛である。忍耐強くない相手を伴侶にするのは、何の力もないスピッツのような犬が、大人しいが強い大型犬に向かって吠えるようなもので、無意味で馬鹿らしい。つまり、大人になるということは自分の..

  • 素直なる心守りてありし日のわが悲しみにあふよしもがな 前田夕暮

     素直なる心守りてありし日のわが悲しみにあふよしもがな 前田夕暮  少年時代あるいは少女時代は、誰にでもある。そして、その頃は何もかも素直に信じることができただろう。長ずるにつれ、世の中は矛盾や不条理に満ちていることが分かる。善悪という基準から判断すれば、悪人としか言いようがない人たちが栄えていて、善人が辛い目に遭って損をしている事がいかに多いかを目の当たりにする。     年老いて少年あるいは少女だった日々を振り返れば、あの頃は素直で可愛かった自分が、すっか  り捻くれてしまったことがよく分かる。  そして、少年・少女時代に抱いていた悲しみが何であったかも、すっかり忘れてしまっているのが普通だろう。真に、忘却こそは見返り阿弥陀のように、救われずにいる人をも救う。  それなのに、この歌人は在りし日の悲しみに会いたいというのである。私はあの頃の悲しみが何であったのかは、も..

  • 台所から

    台所から 台所から 朝餉の匂いがかすかにしてくる トントンと軽快な音を立てて 妻が野菜を刻む音が聞こえてくる そして時々 包丁の音ではない不思議な音がする 僕は寝床の中で一度だけ 思いきり大きく背伸びをする そして いつものように  数々の儀礼の後で 親子四人で仲良く朝餉を摂る そして かつては母が 幼い私のために食事を作ってくれた 食事の好き嫌いを言って困らせた頃を 懐かしく思い出す あの頃も 包丁の音ではない不思議な音が 時々台所から聞こえてきた 妻のこさえた朝餉のおかげで 僕の体内にはエネルギーが充満しているが 通勤電車の中だけでも半分は消費される 机の前に座り 朝食の残りのエネルギーで仕事に取りかかる 毎日味わう成し遂げる喜びと 生み出す苦痛 新しく生まれてくる仕事 ふいに消えていく仕事 老残の姿にまみれた仕..

  • 吉野弘詩集から「初めての児に」      

    吉野弘詩集から「初めての児に」            お前がうまれて間もない日。  禿鷹のように  そのひとたちはやってきて  黒い皮鞄のふたを  あけたりしめたりした。  生命保険の勧誘員だった。  (ずいぶん  お耳がはやい)  私が驚いてみせると  その人たちは笑って答えた。   (匂いが届きますから)  顔の貌(かたち)さえさだまらぬ  やわらかなお前の身体の  どこに  私は小さな死を  わけあたえたのだろう。  もう  かんばしい匂いを  ただよわせていた というではないか。                                         以 上  この詩を読む度に、私は塚本邦雄のある短歌を思い出す。  「はつなつのゆうべひたいを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる」  死は人生の最終..

  • 『八風』の戒め

    『八風』の戒め  世の中にはいろいろな教えがある。  私は無知なので最近まで知らなかったのだが、『八風』の戒めというものがある。 「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽」 「利」(うるおい)・・・目先の利欲にとらわれる姿 「衰」(おとろえ)・・・老衰や生活に破れた姿 「毀」(やぶれ)・・・・他人に批判されて自己の信念を変えてしまう姿。 「誉」(ほまれ)・・・・名聞名利にとらわれ、我を忘れた姿。 「称」(たたえ)・・・・賞賛されて増上漫になり、自分を見失うことをいう。 「譏」(そしり)・・・・他人からそしられ、自分を見失うことをいう。 「苦」(くるしみ)・・・人生の苦境に負けてしまった姿。 「楽」(たのしみ)・・・享楽に負けてしまった姿。  日蓮が四条頼基(金吾)という有力な檀家に手紙を書いたそうだ。 「賢人は、八風という人の心を煽り立てる八つの風にお..

  • 克伐怨欲

    克伐怨欲  克伐怨欲とは、孔子が戒めた四つの悪徳のことである。 『論語』憲問第十四より  克伐怨欲不行焉。可以爲仁矣。子曰。可以爲難矣。仁則吾不知也。  克・伐・怨・欲、行なわれざるは、もって仁となすべきか。子曰く、もって難しとなすべし。仁はすなわちわれ知らざるなり。  いくつかの例を挙げながら、これらのことを考えていきたい。  まず、「克」とは勝つことを好むことである。項羽と劉邦の項羽を取り上げよう。 司馬遷の史記によれば、秦の始皇帝が会稽郡を巡行して浙江を渡ったとき、まだ少年時代の項羽が、この行列を見物した際につぎのような言葉を吐いたそうだ。 「彼、取ってかわるべきなり。」つまり、あのやろうに取って代わってやるというわけだ。  一方の劉邦は、咸陽の地で始皇帝の行列を見たときに、次のように言った 「ああ、大丈夫かくのごとくなるべきなり。」つまり、男ならああ..

  • ゆがめられた考え方

    ゆがめられた考え方    人間は非常に愚かなので、自分の脳内で次々に不幸の種を播く。以下は、高田和明 『ストレスから自分を守る脳のメカニズム』より抜粋した、歪められた考え方の典型例である。  他の心理学者の本などを読んでも似たようなことが書かれている。  こういう考え方をやめないと鬱病などにもなるのだろう。  A) 白黒の考え方 (心理学では『二分割思考』ともいう)    成功か失敗か。勝ちか負けか。成功しなければ自分の人生はもうない、という考え方。  B) 単純化    一度あるいは数度失敗すると、もう何をやっても何度やっても自分は失敗するという考え   方。  C) 知的フィルター   自分人生や仕事の悪い部分のみを考える。自分がどれくらい他の面で恵まれているかに気が  つこうとしない考え方。  D) 肯定的なことを無視する    全てを悪い方にしか考え..

  • なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け

    西郷千重子 なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け 会津藩の西郷頼母の妻である千重子の辞世である。 女竹、細竹は、風に任せているように見え、私も今の時代に身を任せているが、竹にも折れないための節があるように、女性にも貞節があることを知っていてほしい。 この時、千重子は34歳であったと言う。

  • をみなにて又も来む世も生まれまし 花もなつかし月もなつかし  

    山川登美子  をみなにて又も来む世も生まれまし 花もなつかし月もなつかし    私は門外漢なので、山川登美子のことは何も知らない。知っていることと言えば、明治時代の歌人であることと、与謝野鉄幹主催の明星で活躍した人であること、そして師でもある与謝野鉄幹に思慕の念を抱いていたことぐらいのものだ。  しかし、私にはこの辞世は、なんとも切なく聞こえる。師鉄幹への思慕の念が、埋み火のように結婚後もずっと続いていたのだろう。最後の最後まで女であることを止められなかった哀しい女の辞世だと思うが、本人はそんなことは無いと言いたいのかもしれない。

  • 音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけり 源重之

    蛍  音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけり 源重之  もう一つ、今度は『閑吟集』から。 我が恋は 水に燃え立つ蛍 蛍 物言はで 笑止(せうし)の蛍   和泉式部にもは、以下のような有名な歌があると言う。 「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出(い)づる魂(たま)かとぞ見る」     大岡信の解説に拠れば、ホタルの火を「思ひ」の「ひ=火」と見立てる気持ちがあり、この作もそうであると言う。  さて、「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」という都都逸がある。「ひ=火」であるから、ホタルが己の火によって身を焦がしてしまうのは不思議ではない。だが、そのような情熱など欠片もなくなってしまった老残の身には、鳴く気力も身を焦がす気力もない。  あるのは、確かに人を愛したという記憶と、身を焦がすほどに恋い焦がれた若い日々があったという記憶だけである。もは..

  • ももづたふ磐余の行けに鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ 

    大津皇子  ももづたふ磐余の行けに鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ   権力闘争に敗れた側は、勝利者によって処刑される。それは近代までの鉄則だった。能力や人望がいかに優れていても、有力な後ろ盾がない限り、勝利を収めるのは大変難しいことだった。  大津皇子が生きていた時代は、天皇家の血筋同士の争いがあったし、平安時代、南北朝時代になっても同様だった。江戸時代になってからは、徳川家以外の者が将軍になることはなかった。  大津皇子は非常に優れた能力の持ち主だったが、持統天皇によって処刑された。  せっかく能力を生かすこともなく、若い身空で死んでいかねばならなかった悔しさ、苦悩をどうすることもできなかったのだ。

  • 世の中の人はなにとも言はば言へ我がなすことは我のみぞ知る 

    坂本龍馬  世の中の人はなにとも言はば言へ我がなすことは我のみぞ知る   歴史上の人物には様々な人が居る。善人も悪人もいるし、どうしてこのような人間が出現した のかと言いたくなるような人もいる。坂本龍馬という人は、歴史が必要とした時期に必要な期間 だけ生かされたという印象が強い人だ。強烈な使命と使命を果たした後の潔い散り方故に、いつ までも大勢のファンがいる。  龍馬の死は決して横死などではなく、必然だったのではないかと思う。天がいつまでも龍馬フ ァンが彼の死を惜しむように、一番よいところで彼の命を召し上げたのだと思う。短命故に惜し まれる生と長命故に嫌がられる生と、どちらがよいかなどというのは人間の勝手な思い込みだ。 龍馬のごとき偉人にあらざる我ら凡人は、静かに順番を待つしかない。

  • われは鶴を君は孔雀(くじゃく)を愛すれどわかものなりしきのふはあらぬ

    相違  われは鶴を君は孔雀(くじゃく)を愛すれどわかものなりしきのふはあらぬ  伊藤一彦  鶴や孔雀は、比喩だと読める。そうだとすれば、鶴が雀であっても、孔雀が鷲や鷹であっても良いわけだ。要は、若者だった二人が愛したものは、それぞれに別の物だったということだろう。だが、そこには優劣の比較はない。  二人が異性であれば、愛憎のあり方が違ったのだろうかとも思えるし、同性だったとすれば、私はショパンを愛したのに、君はベートーベンを愛していたね、というようなことだったのだろうと思える。  そして、あの頃はお互いに若者だったな。今は感性の欠片もなくなった中年になってしまったな。そういう思いが胸中を過ぎったのだろうか。若さをなくした中年の痛みがこの歌にはあるようだ。

  • 生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も

    生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も  この世にひとたび生を受けたら、いかなる生物もその生老病死からは逃れられない。生老病死という枷は何処までもついて回る。人間の不幸は、生きている間に己の「死」について考える事が出来る唯一の動物であることだ。他の動物はそんなことは考えない。屠殺される直前に牛や豚は屠殺されることを感じ取って実に哀しげに鳴くそうだが、それは考えているのとは違う。  私などは、少しでもお腹が痛かったりすると、「俺はこのまま死ぬのか」などと考えてしまう。余計な考えであることは頭では理解していても、心はそういうわけにはいかないので、ついついそう考えてしまう。  人間というのはなんとも弱い生き物なのである。だから、仏像を見たり、般若心経を読んだりして心を落ち着かせる。

  • 魂がないと此世(このよ)は面白い 武玉川

    魂がないと此世(このよ)は面白い 武玉川  なまじ魂などと言うものがあるから、人は反省したり、後悔したりする。そんなものがなければ、毎日面白おかしく生きられるだろうと思うのは無理もない。  しかし、自分が好き勝手にすると、当然迷惑の掛かる周囲の人も出てくるので、そういう人は怒る。また、他の人も自分の好き勝手にするので、自分が多大なる迷惑を被ることになる。そういうことが高じると、復讐の連続に繋がるので、殺し合いが始まる。そして、結局は誰も長く生きられない。  

  • 朝さめてこの世に老いし人ひとりにれ噛むごとく夢をはかなむ

    朝さめてこの世に老いし人ひとりにれ噛むごとく夢をはかなむ 佐藤佐太郎 「にれ噛む」は正しくは「齝(にれか)む」だということだ。牛などの反芻類が反芻することを指す。老い先があまり長くないと感じだしたら、人は何を反芻するのだろうか。後悔や絶望は反芻したくないし、叶わなかった夢を反芻するのも賢明とは言えまい。  一番良いのは過去のことなど反芻せずに、日向で居眠りをする年老いた猫のように何もしないでいることだろう。

  • 炎天や死ねば離るる影法師 西島麦南(ばくなん)

    影  炎天や死ねば離るる影法師 西島麦南(ばくなん)  幼い頃に影踏みで遊んだという記憶はあるが、具体的にどんな遊びだったかは、思い出せない。だが、太陽が出ていれば自分の影は何処までも付きまとう。離れることはない。  自分に一生涯付き合ってくれはするが、影はものを言わず、影が何を欲しがっているのかは、分からない。私が美味しい寿司を食べたいと思っていても、影がそんなことを思うはずもない。また、影が私に立腹して襲ってくることもない。  それでも私が死んだら、影は私から離れていく。それだけは、確かな事実である。そう思うと、何かしら影が大変愛しいものに思えてくるから不思議だ。

  • 明日は今日よりも良いか

    明日は今日よりも良いか  僕たちが育ち盛りの頃は、明日は今日よりもよくなるという漠然とした安心感があったものだ。だから、大量に物品を生産して大量に消費していけばいくほど、みんなが豊かになると思っていた。  しかし、気が付くと地球の温暖化や資源枯渇などの問題で、このままでは大変なことになる環境だということが認識された。  政官業の癒着により、膨大な国債残債が残されている。我々は子孫にその負担を押しつけてはならないという議論がようやく始められた。  そして、東北大震災や数年連続する自然災害を通じて、自然災害の恐怖いかに怖いかということが分かった。  私たちは、自儘な過去の足し算の生活が成り立たないという大量かつ明白な証拠と、過去からの請求書を突きつけられている。まだこのまま足し算の生活を続けるのか、それとも引き算の生活を開始して、請求書の総額を減少させるのかが問われている。 ..

  • 無礼する 人は人にて 人ならず 人と思いて 咎めばしすな

    無礼する 人は人にて 人ならず 人と思いて 咎めばしすな  人に対して無礼を働く人は、人でなしと思えば良いだけで、一々無礼を咎めることはしなくても良い。確かに、日本の周辺の死那狂惨党や南北朝鮮は無礼ばかり働いているので、彼らは人間ではないので一々腹を立てないでいよう。

  • 下町の太陽 桜貝の歌

     下町の太陽 桜貝の歌    吉永小百合と好対照なのが倍賞千恵子だ。  私はこの倍賞千恵子が大好きである。  寅さんの妹役としての倍賞千恵子よりも、歌手として好きだ。  なんとも澄んだ美しい声の持ち主であると感嘆する。  明るくて、夫を陰で支えて、またよく働いて家の中を切り盛りして家族のみんなに愛を注ぐ。  昔の母親像はそのようだったし、今も理想の母親像であり、妻の形だと思う。  そして、昭和の東京の下町にはこんな妻や母がたくさんいたのだ。  現在ではキャリア志向や上昇志向の強い女性が登場し、このような妻、母のような生き方はつまらないと考える女性が多いのかもしれない。  その証拠に、私の嫌いな勝間和代みたいなのが若い女性の間で、まるで神様のように崇められている。  男性は正規社員になるのが難しくなったし、賃金も上がらなくなったので、女性としても必死でお金を稼げる女にな..

  • 過去は運にけふは枯れ野に躓けり

    鈴木真砂女  過去は運にけふは枯れ野に躓けり  真砂女の人となりや来歴については余り知らないけれど、不羈奔放な人だったようだ。この人の生き方を見ていると、数奇な運命に翻弄されているようでもあり、自由闊達に何物にも囚われることなく生きたようでもある。  私達が躓くのは運命になどではない。自分の思い込み、感情、欲望、情熱、夢、希望、考え方、思考、能力などに躓くのである。起伏のある人生には蹉跌はいくつもあるのが普通だ。蹉跌も後悔もない人生などあるはずもない。宮本武蔵が「我事に於いて後悔せず」と言ったのは、後悔しても仕方が無いから、過去は振り返らないのだという意味で言ったのだと思う。普通の人はそこまでの覚悟はないので、悔いだらけの人生になってしまう。ただ、何時までも悔いを引きずっていると前に進めないのも事実である。

  • 糞ころがしと生まれ 糞押すほかはなし 

    加藤楸邨  糞ころがしと生まれ 糞押すほかはなし   動物の糞は、その動物が利用できないものを排出したものだが、他の動物には利用可能な栄養を含み、また消化の過程で追加される成分もある。そのため、動物の糞には、昆虫を含む多くの小型動物が集まる。ただし一般に糞虫と言われるのは、コウチュウ目の中で、コガネムシ科とその近縁なグループに属するものである。その大部分は、哺乳類、特に草食動物の糞を食べる。  また、スカラベは、糞から適当な大きさの塊を切り取り、丸めると足で転がして運び去ることからフンコロガシ(糞転がし)、またはタマオシコガネ(玉押し黄金)とも呼ばれる。このとき、頭を下にして、逆立ちをするような姿勢を取り、後ろ足で糞塊を押し、前足で地面を押す。古代エジプトではその姿を太陽に見立て、神聖視していたという。日本ではこの仲間は存在しない。  生態系は、生産者、消費者、分解者と区分..

  • 巻貝死す数多の夢を巻き残し

     三橋鷹女  巻貝死す数多の夢を巻き残し  人はみな成長するにつれて多くの夢、目標、希望を抱くようになり、様々な蹉跌や諦観に足を掬われて、夢、目標、希望をなくしてしまう。  幼い頃にはヒーローになりたいという夢を抱く。僕の憧れはスーパーマンだよ、あるいは憧れのサッカー選手メッシみたいな選手になりたいというような具合に。しかし、成長するにつれ、自分の限界に気が付く。体力、運動能力、学力、知力など様々な事柄について現実の厳しい評価を目の前に突きつけられる。そうすると、エベレストほどの高望みは、自分には実現できそうにないので少しレベルを落とそうと思うようになる。思春期にはそういう悩みと異性への興味が綯い交ぜになり、重くのしかかる。  中学、高校、大学と進んで行くにつれ、目の前の志望校突破という目標をひとつずつ果たさなければならない。  人間には様々な天賦の才能が与えられてい..

  • ぶら下げている?

    ぶら下げている?   これは、かなり前にテレビで流れていた「タンスにゴン」という商品の宣伝の文句である。  私たちはぶら下げなくもよいものをいつくもぶら下げながら生きている。懐かしい故郷の想い出、青春時代の甘酸っぱい記憶、学生の頃の部活の想い出、失敗したことや成功したこと、過去の栄光、家柄の良さ、一族の歴史、学歴、プライド等々、この世の中にはそういうものはうんざりするほどある。個人でさえもそうなのだから、部族や民族の中にもあるし、国単位でのこともある。  栄枯盛衰、生住異滅を繰り返す無常の世界にあって、そんなものは何ほどの意味もない。ぶら下げているままにするのなら、取り外した方がよほど楽に生きられる。  しかし、ぶら下げていないと個人、部族、民族、国家の核が崩壊してしまうものもあるのだ。それは千差万別のものであるに違いない。  私たち日本人は、天皇家を第一に取り上げる。天皇家..

  • 「夕方の三十分」

    黒田三郎 詩集『小さなユリと』から     「夕方の三十分」より  コンロから御飯をおろす  卵を割ってかきまぜる  合間にウイスキーをひと口飲む  折り紙で赤い鶴を折る  ネギを切る  一畳に足りない台所につっ立ったままで  夕方の三十分  僕は腕のいいコックで  酒飲みで  オトーチャマ  小さなユリのご機嫌とりまでいっぺんにやらなきゃならん  半日他人の家で暮らしたので小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う 「ホンヨンデェ オトーチャマ」「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」 「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」  卵焼きをかえそうと 一心不乱のところに  あわててユリが駈けこんでくる 「オッシッコデルノー オトーチャマ」  だんだん僕は不機嫌になってくる  化学調味料をひとさじ  フライパンをひとゆすり  ウイスキーをがぶ..

  • 掃けば散り 払えばまたも ちりつもる 人の心も 庭の落ち葉も

    掃けば散り 払えばまたも ちりつもる 人の心も 庭の落ち葉も  私たちの心には毎日塵芥が降り積もる。あれが欲しい、これが欲しいという気持ちや、あいつがけしからんだの、俺の方が正しいだの、様々な感情が沸き立って、それが積もっていく。積もるのであれば、そういうものを掃けばいいだけの話である。私の家には庭がないが、自分の家の庭はきれいに掃除をするのに、どうして心の庭に降り積もった塵芥を掃き捨ててしまわないのか。

  • しんみりと

    しんみりと 「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら、そして、なにげなく選んだ道をサバとともに散歩できたなら……」1958年、すなわちサバがなくなった翌年に、評論家のジャコモ・デベネッデッティは書いている。  須賀敦子全集第五巻 ウンベルト・サバの冒頭部分より。  トリエステというのは、イタリアの最も東側にある港町で、スロベニアはすぐそこというくらいに近い。オーストリアのハプスブルグ家の影響を強く受けた街である。第二次大戦後はイタリアとユーゴスラビアの間で、その帰属を巡る争いがあったらしい。そこにこの須賀敦子さんも住んでいる。  私はそこに行ったことがないが、陽光溢れる港町として描かれていることが多い。  さて、歴史にはIfは禁物であるが、その禁物を無視して、ジャコモ・デベネッデッティのような空想を巡らすとすれば、あなたは誰を訪ね、その人と何を語り..

  • 愚痴短気悋気怒りの胸の火をなだめ沈むる堪忍の徳

    愚痴短気悋気怒りの胸の火をなだめ沈むる堪忍の徳  悋気とは物惜しみということである。愚痴・短気・悋気・怒り・などの、胸の中で火のように激しく燃える感情を沈めてくれるのは、堪忍という徳である。

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