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2015/08/02

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  • 動詞による人生論 その9 奪う

    動詞による人生論 その9 奪う 一般的に「奪う」という行為は許されない。人の命や財産を奪うのは、法律的にも道徳的にも、そして何よりも人として絶対に許容される行為ではない。世界のどこに行っても、宗教上あるいは法律上で、「奪う」行為が許容されることはないだろう。よほど特殊な条件が揃えば別だろうけれど。そのひとつが正当防衛である。また、戦争の最中では、一人でも多くの敵の命を奪った人間が英雄になる。これもまた非常に特殊なケースである。 しかし職業上、動物や植物の命を奪わねばならない場合もある。漁師、猟師、屠殺、屠畜、農業、林業などなど多岐に亘る。このような場合には奪うのも仕事の内であり、何よりも私達一般人も、この人達のおかけで食料を口にすることができる。其れを非難することは論理上無理である。 何が言いたいのかというと、一般的には「奪う」という行為は許容されないが、場合に..

  • 動詞による人生論 その7 捨てると拾う

    動詞による人生論 その7 捨てると拾う 人生はなんとも皮肉で奇妙なものだ。 まず、生まれたときからひたすら歩んでいかねばならならいが、終着駅は「死」という名前の寒々しい駅である。ただし、人がそれぞれに選ぶ終着駅は目的地ではない。自己で選んだ目的地もまた通過駅のひとつにすぎないのだ。 そして、生まれたときからある集団、民族、団体、国家に属するので、そういう塊の規則を守らないことには生きていけない。自分が属する塊の規則や倫理、法律などを学ばないことには生きていけないのだ。 生きていくのは勉強の連続である。学校で学ぶことだけが勉強ではないのだ。学校に入れば集団の中で、どのように人間関係に折り合いを付けるのかということも学ぶ必要がある。会社に入れば、上下関係、同僚との連携や競合関係の中で自分を切磋琢磨しなければならない。 恋愛や結婚もまた学ぶ事だらけである。愚かな我が儘に振..

  • 動詞による人生論 その6 感じる

    動詞による人生論 その6 感じる 私達は体の器官を通じて様々な感覚を知覚する。口は味覚を司り、耳は聴覚を、鼻は嗅覚を、手足や全身は触覚を、目は視覚をというようにそれぞれに役割分担がある。しかし、食事の際には、ただ味覚だけを働かせているのではなく、視覚、嗅覚などを総動員して料理を味わう。 『般若心経』の一節には「色即是空、空即是色」という言葉がある。難しい話はさておいて、「色」とは人間の視覚で感じ取れる物質、現象、事象を指す。「空」とは実体がないことを指す。つまり、一切の感覚もまた実体がないと言うのである。 「無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法」 簡単なたとえ話をしよう。 私は若い男性で、素敵な恋人がいると仮定する。在る日、私はその恋人が若い男といっしょに歩いているのを見たとする。 「受」とは一口で言えば感覚である。だから、「見た」のは「受」である..

  • 動詞による人生論 その5 働く

    動詞による人生論 その5 働く 人は良くこんな馬鹿げた事を言う。「働く」という言葉は、「傍(の人)を楽」にする為なのだと。 人が働くのは自分のためである。決して人のためではない。ただし、結果的には他の人を楽にするということはあるが、それ自体は目的ではない。 最初に浮かぶ答は、「食べていくため」であろう。貪欲な人は、今よりもさらに良い生活のために働くと答えるかもしれない。あるいは、楽しい老後のために今から必死で働くと言う人もいる。本当は働きたくないのだが、世間体のためという回答をする人もいるだろう。さらには、自己実現のためという人もいるだろう。たとえば演劇が大好きなので、一流の役者になるために働くという人もいる。芸術関係にはそういう人が多い。単純に仕事が楽しいから働くという人もいる。その他にも、暇だからとか、社会と繋がっていたいためとか、働かないと罪悪感に苛まされ..

  • 動詞による人生論 その5 休む

    動詞による人生論 その5 休む 休むには様々な意味があるが、ここでは「動作を中止して、身体を楽にする。休息する」ことに絞り込んで考える。 私が大好きな一休宗純の有名な歌に、こんなものがある。この歌が、一休という名前の由来だとも言われている。 有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け 有漏路というのは、迷い(煩悩)の世界のことであり、無漏路とは悟り(仏)の世界のことである。人間とは、悟り(仏)の世界に帰るほんの短い間、迷い(煩悩)の世界であるこの世にいる、仮の存在である。すべては空であると一休は考えたのであろうと思う。仮の世で一休みしている存在、それが一休宗純そのものなのであり、人間そのものなのだと考えたのだろう。 人間というものは自分に悪いことが起これば、それを出し切れば良いのだ。自分で出来る努力をして対応しながら、その流れ..

  • 動詞による人生論 その4 息をする

    動詞による人生論 その4 息をする 息とは呼吸のことである。吸う息で酸素を体内に取り込み、吐く息で二酸化炭素を排出する。 この呼吸が止まってしまうと動物は命が絶える。つまり、私達は呼吸を生きているとも言える。つまり、「い」と「き」の間を行き来しているのだ。 ラテン語の諺にこんな言葉がある。 Dum spiro, spero. 読み方は、「ドゥム・スピーロー・スペーロー」である。dumは「~の間」という意味の接続詞であり、spiroは「息をする」という意味である。spero は「希望を持つ」という意味だ。 発音すると音の響き(s,p の連続)が美しく聞こえる。 「私は息をする間、希望を持つ」、つまり「生きる限り、希望をもつことができる。」(=死んだら希望などもてない。)という意味である。「手を止めて深呼吸せよ。希望がわくだろう。」と意訳することもでき..

  • 動詞による人生論 その3 歩く

    動詞による人生論 その3 歩く 「歩く」と「歩む」は似ているが決定的な違いがある。 「歩く」は足を使って前に進む事を意味するが、「歩む」は物事が進行する様を表していて、抽象的な意味に使われることが多い。「堂々と歩む」とか「長い道のりを歩んできた」とは言うけれど、「本を持ち歩む」とは言わないし、町中を「歩む」とも言わない。 『老子』第二十四章 企者不立 企(つまだ)つ者は立たず 跨者不行 跨(また)ぐ者は行かず 自見者不明 自ら見(しめ)す者は明らかならず 自是者不彰 自ら是とする者は彰(あらわ)れず 自伐者無功 自ら伐(ほこ)る者は功なし 自矜者不長 自ら矜(ほこ)る者は長ぜず 其在道也 其の道に有るや、 曰余食贅行 余食贅行(よしぜいこう)という 物或悪之 物これを悪(にく)む..

  • 動詞による人生論 その2 嫌う

    動詞による人生論 その2 嫌う 人が何かを嫌うには様々な原因があるはずだが、なんとなく嫌いだということが多いのではないだろうか。 自分の期待に応えてくれないからという理由だとすれば、それはあなたが身勝手すぎるというものだ。 自分に危害を加える可能性があるからという理由であるとすれば、その人とは付き合わないで済むように工夫する必要がある。 嫉妬から相手を嫌う場合は、嫉むのではなく、相手を羨ましいとおもうことから始めれば良い。羨ましいという気持ちは、自分もそうなりたいという積極的な気持ちであるが、ねたましいと思うのは、相手を貶めよう党悪感情なので、そういうねたみは抑制することがたいせつである。 軽蔑が相手を嫌う理由である場合は、自分だってそれほど立派な人間ではないことを思い起こせ。それでも相手を許せないのであれば相手と距離を置け。 相手から軽蔑されていると感じる..

  • 動詞による人生論 その1 愛する

    動詞による人生論 その1 愛する 愛する対象は様々である。人であったり、動物であったり、草花であったり、あるいは詩歌、音楽、絵画、書、骨董、美術品などであったりと真に幅が広い。 人の場合は、親、兄弟、子供など自分の家族が対象であったり、特定の異性のことであったりと、これもまた多種多様である。最近では、恋人は異性に限定されない場合もある。 名詞の「愛」には仏教用語として「執着する心」という意味もあるが、動詞の場合にはそんなことはない。 また、物事の価値観としての大切に思うということも、「愛する」を使う。例えば、「私の父が愛した街は、京都とローマの二都市だった。なぜなら、父はいつも、そこには伝統を大切にする気風があるからだと言っていた。」というように使う。 さて、私をこよなく愛してくれた両親はもう手の届かない処に行ってしまった。私の両親が私を愛してくれたよ..

  • この町に片恋に似し人住みきやや肥えて罪深き妻となりゐむ 大野誠夫

    この町に片恋に似し人住みきやや肥えて罪深き妻となりゐむ 大野誠夫 純粋だった中学生の頃は、映画に出てくるような綺麗な女優さんは、みんな上品で賢く、おしっこもウンコもしないと思っていた。家の母親や姉みたいにがさつでおしゃべりが大好きな、どうしようもない女などではないだろうと思っていた。 大学生になった頃は、綺麗な女性は自分の手には届かない憧れの対象だと思っていた。憧れはやがて恋として認識され、手の届かない恋に悩む日々があった。 社会人になったら、女はたとえ美人であっても、口うるさくて小言が多いと知った。計算高くて物質欲の強い、まるで家の母親や親戚のおばさんと大して変わらないものだと認識を新たにした。 妻を持ったら、それでも女は愛おしい存在だと思った。そして、その愛おしい一人の女を大切にしていくのは、男の責任だと思った。子供が生まれたら、女房がいなくては子供を育てられないと..

  • 易について

    易について 易は難しい。占いの易も難しいし、思想としての易も難しい。唯明快なのは、易とは「変化」の思想だということだ。陰と陽の組み合わせで次々と変化する。陰ばかりが重なるのも陽ばかりが重なるのも良くない。しかし、考えてみると、無常もまた変化の思想である。赤ちゃんが誕生するのも無常であり、老人が息絶えるのも無常である。世の中には何一つとして永遠に続くものないので無常である。永遠にありそうな山々ダつて、いつかは崩壊し、岩と土になっていく。 易には占いが付き物だが、無常観あるいは無常感には占いなどない。そこが、シナ大陸の思想とインド大陸の発想の違いなのであろうか。日本人には無常観よりも無常感のほうがぴったりと合う。ブルース・リーの言葉ではないが、「考えるな。感じろ」という方が日本人に合うのだろう。

  • 文化の違い

    文化の違い ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、あるいは儒教などでは、「何であるか」ということが大切な要素のひとつではないかと思う。人は他の動物よりも偉い。そして、その位置は絶対不変である。どうもそのような考えが根底にはある。 ある外国人のキリスト教徒と話をしているとき、「牛は神様がくださった食べ物だから食べても良いのだ」という言葉を聞いた。そのとき私はただ絶句するしかなかった。何故なら私は若い頃には、自分の命を繋ぐために他の動植物の命を奪わねばならない、という至極当たり前のことに酷く悩んだ経験があったからだ。 そのとき話していたのが男だったのか女だったのか忘れたけれども、ここでは男だったことにしておく。彼のような発想をしたことがない私には、彼が「牛は人間に食べられるために生きている」と言っているように聞こえたのだ。 それ以来、先に挙げた宗教を信じている人には「何である..

  • 人間は、しょせん一本の管である

    人間は、しょせん一本の管である 山口瞳が「人間は、しょせん一本の管である」と書いたのは、『週刊文春』に連載していた「山口瞳のマジメ相談室」1967年7月10日号のであった。 読者の相談に山口瞳が答えます。25歳の奥様からの相談。 「結婚して二年、文句のつけようのない夫ですが、ただ一つだけ、二人でいるときに平気でおならをするのが困ります。やられるたびにむしゃくしゃします。ついでに書きますが、パンツを汚すのも困ります。平気な顔をしてパンツを洗濯籠にほうりこんでいきます。まるで子供のようで、なさけなくなります。つくづく、男性は横暴な動物だと思い、腹が立ちます。どうしたらいいでしょうか」 山口瞳の回答が傑作である。 「人間は、しょせん一本の管です。食べて排泄する管を持つ動物です。管の片端が汚れるのも致しかたのないことでしょう。そう思ったら、汚れたパンツを洗うのは割合..

  • Chi vano piano, va sano e lontano.

    イタリア語にこんな諺がある。 Chi va piano, va sano e lontano. 意味は、ゆっくり歩く者が安全にかつ遠くまで行くということだ。 全く同じというわけではないが、『老子』にも似たような言葉がある。 企者不立。跨者不行。自見者不明。自是者不彰。自伐者無功。自衿者不長。其在道也。曰餘者贅行。物或悪之。故有道者不處。 爪立つ者は立てない。踏みはだかる者は歩けない。己を誇示すれば、その存在も明らかではなくなる。己を是(よ)しとすれば、その善も彰(あらわ)れなくなる。己の功を自慢すれば、その功も台無しになる。己に自惚れれば、行き詰まる。このような不自然な行為をこそ、無為の大道においては、食い残しの飯、無用の振る舞いと言うのだ。だれもが常に厭がって見向きもしないから、有道者はそこに身を置かない。

  • 世の中の娘が嫁と花咲いて嬶としぼんで婆と散りゆく 一休宗純

    世の中 世の中の娘が嫁と花咲いて嬶としぼんで婆と散りゆく 一休宗純 女性の一生で一番良い時は、娘時代である。したがって、娘という字は女偏に良いと書く。 娘が結婚して家に入ると、嫁になる。 嫁が子供を産むと嬶と言われる。 「女は弱し、されど母は強し」と言われるように、新婚当時はおしとやかでも、お母さんになると鼻高く、どっしりするので女偏に鼻と書く。 嬶の次には婆になる。額に波がよって来るので、女の上に波と書く。 女の一生はこうであるが、男だって同じコースを辿る。 何十億の人がいても、例外はない。人種が違っても例外はない。 女はいつまでも娘ではいられないし、婆さんが娘に戻ることはできない。 この間まで自分は娘だと思っていたのに、もう息子が嫁をもらって孫ができた。 いやあ、月日のたつのは早いなあと言っているように、女は、娘から嫁、嫁から嬶、嬶か..

  • <つもり違い四十箇条>

    <つもり違い四十箇条> 高いつもりで低いのが教養 低いつもりで高いのが気位 深いつもりで浅いのが知恵 浅いつもりで深いのが欲望 厚いつもりで薄いのが人情 薄いつもりで厚いのが面皮 強いつもりで弱いのが根性 弱いつもりで強いのが自我 多いつもりで少ないのが分別 少ないつもりで多いのが無駄 広いつもりで狭いのが見識 狭いつもりで広いのが人脈 大きいつもりで小さいのが目標 小さいつもりで大きいのが損失 明るいつもりで暗いのが指針 暗いつもりで明るいのが不正 重いつもりで軽いのが責任 軽いつもりで重いのが権限 早いつもりで遅いのが報告 遅いつもりで早いのが噂話 長いつもりで短いのが人生 短いつもりで長いのが青春 遠いつもりで近いのが因縁 近いつもりで遠いのが血縁 固いつもりで軟らかいの..

  • 災難について

    災難について 良寛は、山田杜皐(やまだとこう)という俳人と親友であった。良寛が71才の時、三条市を中心に大地震が起こった。良寛は、杜皐さんへ見舞の手紙を送った。。 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。 「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、これが災難にあわない秘訣です」ということである。 「大変でしょうが、頑張ってください」とは誰でも言える。しかし、言われた方は「すでに頑張って生きているのに、何をこれ以上頑張れというのか」と思うだろう。 良寛のこの手紙を受け取った山田杜皐は、「この災難の中で生き抜いていこう」と思ったことだろう。

  • 山本五十六

    山本五十六 山本五十六という人はいろいろな名言を吐いた。 やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。 男の修行 苦しいこともあるだろう。云い度いこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣き度いこともあるだろう。これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。 しかし、彼の発言には首を傾げるようなものもある。 「博打をしないような男はろくなものじゃない。」 これは、発言の中身がおかしいと言うよりも、事態にそぐわなくなってきたのである。 ある意味では理解できるのだが、賛同はしない。軍人やスポーツマンのように戦うことを職業としている人には、闘争心が必要だし、それを博..

  • 愚人の見るは恐ろし

    愚人の見るは恐ろし おのれに利欲あれば、人もその心を以て見るなり。深きは色を以て見るなり - 至道無難 愚かな人間は、自分が卑しければ他人もみなそうだと決めつけ、淫欲が強ければみなも淫乱だと判断する。愚人とは、このように視野の狭い人間をいうのだろう。 人の価値観は人それぞれである。金儲けを最優先で考える人には、純粋に趣味に全力投球する人の気持ちが理解出来ないだろう。中には趣味を活かしながら金儲けをする人も居るが、その場合は金儲けが最優先ではない。金よりも異性に興味が集中する人は、年がら年中異性のことを考える。異性のことには全く興味を示さないが、食べることが大好きという人もいるだろう。 そして、人の能力またそうだ。計算に強い人、運動神経が抜群な人、語学が上手な人、写真の上手な人、それぞれだ。中には何でも器用にこなす器用貧乏も居る。 道具だってそうだ。体重を量るのに物差しは使..

  • 耶律楚材

    耶律楚材 出自は契丹人である。家柄がよく長身長髭で態度が堂々としており、中国の天文と卜占に通じていた。ジンギス・カンの目に止まり、召し出されて中国語担当の書記官(ビチクチ)となり、カンの側近くに仕えることになった。1219年からの中央アジア遠征でもチンギスの本隊に随行してもっぱらカン側近の占星術師として働いた。カンはそんな耶律楚材を愛し、自分の死に際して息子のオゴタイに、「今後、国政は耶律楚材に任せよ」との遺言を残したと言われている。 さて、その耶律楚材が残した言葉にこんな言葉がある。 興一利不若除一害 一利を興すは一害を除くにしかず。 生一事不若減一事 一事を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず これは史上稀有の大宰相・遼の王族耶律楚材の名言である。彼はジンギス・カンが満洲を攻めて遼の王国を亡ぼした時、二十六歳の青年であつた。カンに一見して惚..

  • 掘り起こし共鳴現象

    掘り起こし共鳴現象 山本七平が『人望の研究』という著書の中で、掘り起こし共鳴現象という文化現象について触れている。「掘り起こし共鳴現象」とは、矢野暢教授が唱えた概念であるが、山本七平によれば以下の通りだ。 「われわれは意識しなくても、さまざまな文化的蓄積を持っている。そして、外国から新しい思想やイデオロギーが来ると、文化的蓄積の中でそれと似たものを掘り起こして共鳴する。」 別の言葉で言い換えれば、外来の強烈な普遍主義的思想を受け入れると、それは一見そのまま受け入れられたように見えながら、実は、その国もしくは民族の文化的蓄積の中から、その普遍的思想と似たものを掘り起こして共鳴する、そしてその共鳴を外来思想として受け取る、ということだ。 例えばそれは、明治期に流入してきた西欧民主主義にも当てはまる。現在の日本の民主主義と西欧のそれが違うのはそういう理由であり、「既に日本..

  • ヤリハシハチドリとトケイソウ

    ヤリハシハチドリとトケイソウ 「過剰適応」という経験則がある。生物がある環境に適応しすぎると、深刻な問題が発生する現象である。例としてよく知られているのが「ヤリハシハチドリ」という小鳥と、「トケイソウ」という植物の関係である。 ヤリハシハチドリは体長10センチ程度の小鳥だが、体長とおなじくらい細長いクチバシを持っている。トケイソウの花は細長いラッパのような形で、その付け根に密がある。ヤリハシハチドリは、普通の鳥に比べてトケイソウの蜜吸うのには格段に有利だ。トケイソウは、ヤリハシハチドリが蜜を吸うことで、受粉を確実なものにしてくれるという恩恵がある。つまり、相互関係だ。何事も起きねば、天国、極楽の状態である。 だが、もし火山が爆発して離、気候の変化によってトケイソウが壊滅状態になれば、どのようになるのか。ヤリハシハチドリは独占状態だった食料を失い、普通の形状を下花が蜜を吸うとなる..

  • 孟子の言葉

    孟子の言葉 (原文) 故天將降大任於是人也 必先苦其心志 勞其筋骨 餓其體膚 空乏其身行 拂亂其所爲 所以動心忍性 曾増其所不能 人恒過 然後能改 困於心 衡於慮 而後作 徴於色 發於聲 而後喩 入則無法家拂士 出則無敵國外患者 國恒亡 然後知生於憂患而死於安樂也 故に天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚(たいひ)を餓やし、その身を空乏し、行ひその為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり。人は恒(つね)に過ち、 しかる後に能く改む。心に困しみ、慮に衡(はか)りて、しかる後に作(おこ)る。色に徴(あら)はし、声に発し、しかる後に喩(さと)る。 入りては則ち法家、払士(ひっし)無く、出でては則ち敵国、外患無くば国は恒(つひ)に亡ぶ。然る後に憂患に生き、安楽に死する..

  • 孟子の言葉

    孟子の言葉 (原文) 故天將降大任於是人也 必先苦其心志 勞其筋骨 餓其體膚 空乏其身行 拂亂其所爲 所以動心忍性 曾増其所不能 人恒過 然後能改 困於心 衡於慮 而後作 徴於色 發於聲 而後喩 入則無法家拂士 出則無敵國外患者 國恒亡 然後知生於憂患而死於安樂也 故に天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚(たいひ)を餓やし、その身を空乏し、行ひその為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり。人は恒(つね)に過ち、 しかる後に能く改む。心に困しみ、慮に衡(はか)りて、しかる後に作(おこ)る。色に徴(あら)はし、声に発し、しかる後に喩(さと)る。 入りては則ち法家、払士(ひっし)無く、出でては則ち敵国、外患無くば国は恒(つひ)に亡ぶ。然る後に憂患に生き、安楽に死するを知る..

  • 克伐怨欲

    克伐怨欲 克伐怨欲とは、孔子が戒めた四つの悪徳のことである。『論語』憲問第十四より 克伐怨欲不行焉。可以爲仁矣。子曰。可以爲難矣。仁則吾不知也。 克・伐・怨・欲、行なわれざるは、もって仁となすべきか。子曰く、もって難しとなすべし。仁はすなわちわれ知らざるなり。 いくつかの例を挙げながら、これらのことを考えていきたい。 「克」とは勝つことを好むことである。項羽と劉邦の項羽を取り上げよう。 司馬遷の史記によれば、秦の始皇帝が会稽郡を巡行して浙江を渡ったとき、まだ少年時代の項羽が、この行列を見物した際につぎのような言葉を吐いたそうだ。 「彼、取ってかわるべきなり。」つまり、あのやろうに取って代わってやるというわけだ。 一方の劉邦は、咸陽の地で始皇帝の行列を見たときに、次のように言った 「ああ、大丈夫かくのごとくなるべきなり。」つまり、男ならああいう人間..

  • 人生の重力

    人生の重力 ヒッグス粒子というものが発見されたという。宇宙の生成に際して水飴状のものが物質に降りかかり、それによって物質が質量を持つようになったという話だが、私には難しすぎてよく理解できない。ともかく、物質に重力を与えたのが、このヒッグス粒子らしい。 地球に重力があることは小学生でも知っている。重力があるからこそ、地球が自転していようとも我々は地球から放り出されずに、この地上で生きていけることは言うまでもない。 地上の重力と同じように、人はだれも何らかの重力に引っ張られているからこそ生きていけるのだと思う。もちろん、幼い頃はその重力の持つ意味などに気付くはずもない。だが、思春期になると様々な重力に引っ張られていることに気がつき始める。その重力を桎梏と感じ始めたら、思春期の子どもたちは暴走するしかない。だからこそ、大人は子どもたちに教えなければならないのだ。人生の重力とは桎梏..

  • 水戸黄門と鬼平

    水戸黄門と鬼平 最近は日本人が大好きな時代劇をテレビで見ることができなくなった。私は、昔から水戸黄門が大嫌いで鬼平が大好きだ。 私が水戸黄門を嫌う理由にはいくつかある。 まず、水戸黄門は古典的な勧善懲悪型の番組の典型である。これは、今の時代にはいささか古すぎる。もちろん、善を懲らしめ悪を勧めるというわけではないが、善悪というのはさほど単純明快なものではないからだ。その裏返しということで、鬼平が好きだ。このことについてはまた後で述べよう。 それから、日本国民がよく一斉に見るような番組が嫌いである。だから、NHKの朝のドラマや大型ドラマは一切見ない。そして、紅白歌合戦も嫌いである。 何も、これらの番組の善し悪しや優劣を論じているのではなく、私は個人的に嫌いだから見ないと言っているのだ。いつも言うが、人の価値観はそれぞれであり、好きな人は見れば良い。私には、それを見るなと..

  • 「私の人生のテーマ」

    「私の人生のテーマ」 私の人生のテーマは、生死に関する事柄である。私たちはどこから来て、どこへ行くのかということである。また、人が生きる目的や意味は何なのかということである。 私は学生時代から詩歌を作り続けてきたが、詩歌を作る目的は一貫して「生死」を問い続けることであった。「生死」を問い続けることによってしか、私の思いは表現できないことが分かっていたからである。 このテーマは古今東西多数の人が考えてきたが、普遍的な答えなどあるはずもない。普遍的な答えがないということは、自分で答えを出してもいっこうにかまわないということでもある。 大雑把な分類をすると、「生死」に対する態度には四つほどあるようだ。 一つ目は、人間が生きることには何の意味も無いというものである。生まれたから、生きるのだという態度がこの考えの基本的態度である。 二つ目は、人間は修行をするために生まれてくるのだと考..

  • 吾唯知足

    吾唯知足 竜安寺の「知足のつくばい」と呼ばれるものをご存じだろうか。 真ん中には大きな「口」がある。時計の十二時時の処には、「五」の文字がある。そして、三時の方角には「唯」の字から口偏を除いた文字がある。さら、六時の処には「足」の字の足偏だけがある。最後に、九時の処には「知る」というの矢偏だけが書いてある。 これを良く見ると次のようになる。 水を溜めておくための中央の四角い穴、つまり口の文字が全部の文字に共通である。だから、十二時の処から、吾、唯、足、知、となり「吾唯知足」と読むことができる。 吾唯知足には『われ、ただ足るを知る』という意味が込められているのだ。 つまり、「不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めの意味が込められているのである。 竜安寺の石庭には大小併せて15個の石が設置されているが、どこから見ても1個は見..

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