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一日一日大切に生きること https://blog.goo.ne.jp/fiji-island-nadi

毎日を楽しく生きるために、人間について、この世の中の諸問題について一生懸命に考えてみたいと思います。

一日一日大切に生きること
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2015/06/25

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  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(18)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(18)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部2.の(3)~(5)の前置き〉(3)津軽氷橋論を考える1)昔は兎も角、現在では第四紀学会に所属の専門家の先生方の多くは最終氷期(始まりは7万年前)の最盛期(最寒冷期)を2万1000年前頃と考えているようです。また、海洋全体で海水準の最低位水準は、専門家の間では120~130mと推測しているように思われます。ただし、対馬、津軽両海峡鞍部の低位水準は135m前後と推測されています。最近の第四紀学会の中には、最終氷期の最盛期(最寒冷期)にあっても大陸と日本列島が陸地で繋がったことはなかったとする見解があるようです。その中でも1988年の大場忠道の「海水準に関するコメント」は、大変意義深い論稿だと思います。かく...絶滅したナウマンゾウのはなし(18)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(17)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島(17)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部2.の(1)と(2)の前置き〉前回の前置きでも津軽海峡にほんの少し触れましたが、今回はその二話として述べて見ます。日本列島が現在に形に近づいてくるのは、古地理を調べて見ますと実は更新世前期の200万年前から80万年前頃からのことなのですが、この時代は現在の北海道が渡島半島と北海道本島の部分が分離していました。それだけではありません。更新世前期の日本列島の西は大陸とも陸続きでしたからゾウなど南方系の大型動物も日本列島に渡って来ることが出来たと考えられています。つまり本州の津軽と渡島半島そして北海道本島とが分かれていたのです。渡島半島と北海道本島の間に海峡があったのです。しかし、第四紀・更新世後期(15万年前...絶滅したナウマンゾウのはなし(17)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(16)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1.の(4)と(5)の前置き〉ゾウは南方系の動物といわれています。ゾウと言えば南方の暑い地域を想像しますが、ナウマンゾウは北海道の幕別町忠類地区晩成から,およそ12万年前の化石が出たことが知られています。現在でも、忠類に近隣の冬は極寒の地帯広動物園や札幌円山公園の動物園にもアジアゾウが飼育されています。ナウマンゾウもアジアゾウ属ですから縁があります。ゾウは体が大きいですし、皮下脂肪もあります。そして現在のゾウにくらべますと体毛多かったことからも、かなりの寒さにも耐えられたようです。現在の寒冷地の動物園では、冬季の寒さ対策にしっかり工夫を凝らしているようです。南方系のナウマンゾウが温かい本州から、寒冷の北...絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(16)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1.の(4)と(5)の前置き〉ゾウは南方系の動物といわれています。ゾウと言えば南方の暑い地域を想像しますが、ナウマンゾウは北海道の幕別町忠類地区晩成からおよそ12万年前の化石が出たことが知られています。現在でも、忠類に近隣の冬は極寒の地帯広動物園、札幌円山公園の動物園にもアジアゾウが飼育されています。ナウマンゾウもアジアゾウ属ですから縁があります。ゾウは体が大きいですし、皮下脂肪もありますから、かなりの寒さに耐えられようです。現在の寒冷地の動物園では、冬季の寒さ対策にしっかり工夫を凝らしているようです。南方系のナウマンゾウが温かい本州から、寒冷の北海道忠類にどのように渡ったかは専門家の間でも議論のあると...絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(15)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(15)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1.の(2)と(3)の前置き〉少しばかり日本列島の内陸部から見つかったマンモスの化石について少しばかり言及しておきます。マンモスは「マンモスゾウ」と呼ばわれるようにゾウの仲間と考えられますが、全く同種ではありません。例えば、マンモスの分類学上の目は、ゾウ目(Proboscidea)です。科は、ゾウ科(Elephantidae)です。また亜科でもゾウ亜科(Elephantinae)ですが、族ではアジアゾウ族(Elephantini)に分類されます。しかし次に属はどうかを見ますと、マンモス属(Mammuthus)に分類されます。次に、マンモスの化石が日本列島の内陸部で発見されたのは、本当なのかと言う問題です...絶滅したナウマンゾウのはなし(15)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(14)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(14)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1,の前置き〉ナウマンゾウとマンモスの違いについて聞かれることがあるのですが、どちらもゾウであることには違いありませんが、敢えて違いと言えば一つは「頭の形」、二つに「切歯(牙)の形」と言えると思います。ナウマンゾウの頭の形はよく言われることですが、ベレー帽を被ったような形をしているのに対して、マンモスは頭の上におおきな瘤があるような形をしていると言われています。二つ目は、ナウマンゾウの切歯が左右長く伸びているのに対して、マンモスの切歯は左右が内側に彎曲しているところです。もう一つの特徴としてよく指摘されていることが、北方系か南方系という見方です。確かに、諸説あるのですが、北方系の大型獣にはマンモスやヘラ...絶滅したナウマンゾウのはなし(14)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(13)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(13)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山〈(3)の前置き〉横須賀製鉄所建設の総責任者レオンス・ヴェルニーは、総責任者を引き受けるに際して、リュドヴィク・サヴァティエ医師(軍医で植物学者)の協力が必要なので、製鉄所で彼を雇って欲しい旨、幕府に要請していたと言われています。なお、サヴァティエは、サヴァチエとも書くことがあります。ヴェルニーが香港から来日したのは1865年2月だったが、同時に日本側は横須賀製鉄所建設の建設機械や資材を買い付けるため、またフランス人技師等の人材を得るために、幕末の幕臣で外国奉行支配組頭の柴田日向守剛中(しばたひゅうがのかみたけなか:1823ー1877)を使節団の特別理事官とする渡仏使節団10人をフランス國パリに派遣使途...絶滅したナウマンゾウのはなし(13)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(12)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島-(12)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山(2)因果な二つの論文1)ナウマンの「江戸平野について」(1879)は、前節でも触れましたが、ドイツの出版社『ぺーターマン地理学報告書(誌)』第25巻第4号(同巻は第12号まで刊行)に掲載されました。ナウマンは、この論文(1879)の中で、横須賀は「マンモス」生息の地としては最も南に位置しており、今(1870年代)より寒い寒冷地の気候であった、と述べています。この誤りを認め、訂正するためにも「先史時代の日本の象について」(1881)は、ナウマンにとって、書く必然性があったのではないか、という見方が素人目にはできるのです。前回(11)で述べた(1)の4)では、ナウマンの1879年の論文の中からほんの一部分...絶滅したナウマンゾウのはなし(12)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(11)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島(11)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山2.ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山〈2-(1)のまえおき〉前回も〈まえおき〉で触れたのですが、1864(元治元)年に、幕府が横須賀製鉄所の建設に当たってフランスの駐日公使レオン・ロッシュに依頼して建設技師ヴェルニーを招いたのですが、ヴェルニーに12,000ドル、現在の金額にしますとおよそ1億2,000万円と相当高額だったのですが、ナウマン共住の場合は、1876(明治9)開成学校の教授に就任したとき、月給300円だったそうです。年俸にして約3,000~3,500万円位でしょうか。なお、ナウマン教授は鉱物研究者として招かれたのですが、地質学一般、古生物学、化学なども教授したようです。(1)ナウマンが研究した...絶滅したナウマンゾウのはなし(11)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(10)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(10)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地横須賀白仙山〈(4)、(5)のまえおき〉本当は、前回の(3)で述べるべきでしたが、準備不足でした。横須賀製鉄所が建造されますとき、幕府とフランス政府との間で、『横須賀製鉄所約定書」が取り交わされていました。その一部分を『横須賀海軍船廠史」(大正4年、1915年)から引用した文献がありますので、参考にして見ます。孫引きです。それによりますと、約定書の中に、「製鉄所一箇所修船場大小二箇所造船場三箇所武器蔵及び役人職人共に四箇年にして落成の事」、もう一つは製鉄修船造船の三局取建諸入用総計凡嵩一箇年六十萬ドル都合四箇年二百四十萬ドルにて落成の事」、と言う条項がありました。幕末頃1864(元冶元)年の1両は約1ドルと言いますか...絶滅したナウマンゾウのはなし(10)

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