1960年代、ビートルズと同時代に活躍したフォーク・シンガーと言えば、アコースティックギター一本で歌うボブ・ディランが思い浮かぶ。実際、ジョンはディランを意識してというか良いとこどりをしたと言おうか、ギター一本でも十分歌える楽曲を作ってしまった。ミドル
ビートルズが大好きなオヤジです。定年を迎えて、あらためてビートルズの魅力に触れたいと思います。
ビートルズ・ストーリー 527 ジョンがボブ・ディランを意識して曲作り
1960年代、ビートルズと同時代に活躍したフォーク・シンガーと言えば、アコースティックギター一本で歌うボブ・ディランが思い浮かぶ。実際、ジョンはディランを意識してというか良いとこどりをしたと言おうか、ギター一本でも十分歌える楽曲を作ってしまった。ミドル
ビートルズ・ストーリー 526 ジョンのギターとジョージのシタールの競演、「ノルウェーの森」
ビートルズの楽曲にはアコースティックギターを駆使して演奏された名曲が多数存在する。「イエスタデイ」や「ブラック・バード」は、ポールがツー・フィンガー奏法でアコギを演奏し歌っている楽曲だが、ジョンも負けてはいない。 「ノルウェーの森」はストロークにピッキ
ビートルズ・ストーリー 525 ポール、ツー・フィンガー奏法の名曲「ブラック・バード」を奏でる
「イエスタデイ」同様、ポールがツー・フィンガー奏法でアコギを演奏し歌っている楽曲で代表的なのは何といっても「ブラック・バード」であろう。ホワイト・アルバムに収録されたこの楽曲は、ポールがマーティンD-28を駆使して演奏しているシンプルな曲である。1フレット
ビートルズ・ストーリー 524 気持ち良い。ポールの奏法でイエスタデイを奏でる
イエスタデイはGコードから始まっている。ただ一般的にチューニングされたギター(1弦E、2弦B、3弦G、4弦D、5弦A、6弦E)でGコードを奏でると「あれ!」と感じる。レコードで聴く音より高いのである。しばらくするとそのからくりが分かった。ポールはチュー
ビートルズ・ストーリー 523 独り暮らしの寂しさをギターで癒す
本当のフォークギターを買ったのは、大学生になってからだ。四国の田舎町から汽車と船を乗り継いで瀬戸内海を渡り、人口100万を越す政令指定都市に引っ越して、初めて一人暮らしを始めた。一人暮らしの寂しさを紛らわせるためもありギターを買ったのだと思う。人口数千
ビートルズ・ストーリー 522 カラオケがない時代の歌伴奏が居場所になった
クラシックギターのナイロン弦の代わりにスティール弦を張った、背徳感に満ちたハイブリッドギターは、持ち運びが容易で電源もいらないことから、歌の伴奏機器として意外にも様々な場面で活躍した。当時同好会に毛が生えたような映画研究会というサ-クルに入っていた。主
スティール弦の響きに魅せられて、クラシックギターのナイロン弦をスティール弦に替えたことは、かなり後ろめたい気分だった。だがスティール弦をピックでかき鳴らすことは、快感に変わって行った。ラジオやテレビから流れてくる歌謡曲や洋楽が、「明星」などの芸能雑誌に
洋楽に初めて触れたのは、中学に入って初めて習う英語の授業だった。先生は、新中学生がおそらく人生で初めて触れる英語に少しでも親しんでもらおうと思ったのだろう。授業中に、当時ヒットしていたであろう、英語の歌を録音したテープを再生して聴かせてくれた。テープは
ビートルズ・ストーリー 519 洋楽はもっぱらFMで聴いて録音していた
昭和40年代の音楽は、ラジオ、レコード、カセットテープ、テレビから入手することがほとんどだった。その中でも経済的なFM放送は音質が良く、ラジカセを持っていれば、カセットテープに録音して何回も聴けるので、高価なレコードを買う代わりをしてくれる存在だった。
ビートルズ・ストーリー 518 私のビートルズとは言い過ぎですか
昭和30年代の田舎町には、必ずと言って良いほどの芝居小屋や映画館が街道筋に点在して娯楽の殿堂を代表する存在だった。私の家から自転車で30分のこの田舎町にも、黒壁の重厚な芝居小屋や映画館が軒をつらね、入り口付近に掲示された上演される作品のポスターの主人公
ビートルズ・ストーリー 517 ジョンは妹にコンタクト・レンズをプレゼント
ジョンの近眼への対応策はガンジー風の眼鏡を採用することだったが、妹ジュリアも近眼に苦しんでいた。ジュリアは一般的に女性が好むコンタクトレンズを着用しようと思った。そこでジョンにコンタクトレンズを買ってくれるよう頼んだ。ところが眼鏡屋に行ってみると、若す
ビートルズ・ストーリー 516 近視のジョン・レノンはガンジー風の眼鏡がお気に入り
ビートルズのフィンズベリー・パークで行われたコンサートで1曲目に歌ったのが「シー・ラブズ・ユー」だったが、歌い出すや否や劇場全体が超常現象的な不協和音に包まれた。『シー・ラブズ・ユー』観客はこの曲を一度も聴いていなかったのだ。ジョンは大声を張り上げ
ビートルズ・ストーリー 515 ビートルズはローリング・ストーンズと楽屋を共にした
ジョンの異父妹であるジュリアは、超有名になった兄ジョン・レノンとは気楽に会っていた。後にジョージ・ハリスンの妻となるパティ・ボイドは、驚いたことにジョンと妻シンシアと一緒に住んでいた。そんなことからジュリアはジョージ・ハリスンに会いにも行けたのだった。
ビートルズ・ストーリー 514 ジョンのロンドンの新居を妹たちが訪問
ジョン・レノンは家族を大事にする普通の感覚を持った若者である。実際ジョンの家族に対するふるまいは、異父妹だったジュリア・ベアードにより、親しみを込めて「IMAGINE THIS」の中で紹介されている。 妹ジュリアがその妹と共にロンドンの新居(通称、ケン
ビートルズ・ストーリー 513 映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の上映にジョンの親族も感激
映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の公開に先立ち、英王室のマーガレット王女たちを招いてロンドン中心部のドーチェスター・ホテルでレセプションが行なわれた。ジョンの親族は参加しなかったが、リバプールでのプレミア上映会にはこぞって参加した。リバプールでは、1
ビートルズ・ストーリー 512 六本木アビイロードのジョン記念ライブに行った
12月8日はジョン・レノンの命日であることは周知の事実。この日、東京・六本木のライブハウス「アビイロード」で開催されたジョン・レノン記念ライブに行ってきた。12月に入って一段と寒さに拍車がかかり、厚手のコートやヒートテックが手放せない。日曜日の夜、明日
ビートルズ・ストーリー 511 ジョンが妹たちに服、レノン・ハット、ラジオをプレゼント
ジョンは美術学校時代の友人ヘレン・アンダーソンが経営する店舗で妹たちにコートを作ってやったが、もう一つのサプライズも用意していた。後に「レノン・ハット」と呼ばれるようになる帽子を付けたことだ。ジョンはもはや世界的なスターだったが、家族にとっては昔からの
ビートルズ・ストーリー 510 ジョンが妹たちに服を作ってプレゼント
アメリカツアーを成功させ、世界的なロックバンドになったビートルズだったが、リバプールに帰って家族に会う時のジョンは普通の兄貴だった。ジョンを身近で見ていた異父妹ジュリアによれば、ジョンの名声は突然起こったものではなく、少しずつエスカレートしていった感じ
ビートルズ・ストーリー 509 ビートルズ、アメリカから故郷を思う
ビートルズが活動の拠点をリバプールからロンドンに移し、ビートルズがどんどん有名になるにつれて、リバプールに残された異父妹たち(ジュリアとジャッキー)は兄ジョンにいつ会えるだろうか?と寂しい日々を送っていた。 ビートルズがロンドンに移ってからすぐに、「抱
ビートルズ・ストーリー 508 お騒がせなビートルマニアの誕生
ビートルズの代表作の一つ「シー・ラブズ・ユー」が1963年8月末に発売されるや、人々は何かをする際のBGMにして生きているような感じだった。発売後すぐにロンドン・パラディウムで演奏した時、劇場周辺の通りはヒステリックなファンで占拠されたようになった。マ
ビートルズ・ストーリー 507 罪深いビートルズ、若者を狂わせた
ビートルズのデビュー当時のすさまじさを目の前で見た異父妹ジュリアはこう表現している。 「リバプールのエンパイア劇場で、楽屋に行き兄ジョンに会った。そこはたくさんの電球に囲まれ、鏡が眩しく、顔につけるパウダーなどが入った化粧箱や妹たちのためにコカ・コーラ
ビートルズ・ストーリー 506 ジョンの家族から見たビートルズ
ビートルズがデビューしてスターの階段を登り始めた頃の家族の立ち位置が、とても気になる。ジョンの異父妹ジュリアから見たビートルズはご贔屓のバンドであり、ボーカルのジョンは当然、応援の対象であった。リバプールでビートルズがよく出演していたコンサート会場はエ
ビートルズ・ストーリー 505 ジョンとエプスタインのホモ疑惑?!
「プリーズ・プリーズ・ミー」に続いて1963年4月に、これもまたナンバー1ヒットとなる「フロム・ミー・トゥ・ユー」がリリースされた。『フロム・ミー・トゥ・ユー』 ビートルズは毎週、イギリスBBCが放送するラジオ番組「サタディ・クラブ」に出演し
ビートルズ・ストーリー 504 第2シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」でNo.1に
ビートルズのデビュー・シングル「ラブ・ミー・ドゥ」はヒットしたに違いないが、イギリスで17位と衝撃的なインパクトを世の中に与えたとは言い難かった。突っ走るためにも次のシングルはインパクトが強いものが求められていた。そこで、1963年1月に発売された第2
ビートルズ・ストーリー 503 ジョンとシンシアはミミ伯母さんの家で新婚生活を始めたが・・・
ビートルズのデビュー・シングル「ラブ・ミー・ドゥ」について、身近で見ていたジョンの異父妹ジュリア・ベアードにとってはあまり好きになれなかった。しかし、さすがに待望のデビュー・レコードをリリースするめどがついて、喜んでいるジョンを前にして忖度し、「すごい
ビートルズ・ストーリー 502 ジョンとシンシアの結婚ドタバタと並行してファースト・シングルを録音
1962年8月に、ビートルズのメンバーの顔触れがそろった。ジョン、ポール、ジョージそしてリンゴである。レコード会社も決まり、さあいよいよ最初のレコーディングだと意気揚々のメンバーたち。しかし問題が勃発した。ジョンとシンシアがデキ婚をしたことだ。しかもシ
ビートルズ・ストーリー 501 ブライアンが泥をかぶって、ピートをクビにした
ビートルズのマネージャーになったブライアン・エプスタインが頭を悩ませていたことの1つが、ジョンの親代わりをしていて、厳格な性格を持つミミ伯母さん(彼女は夫を亡くして後に、下宿していた息子ほども年の違う学生と愛人関係にあったのだが・・・)に、ジョンがプロ
ビートルズ・ストーリー 500 ビートルズとブライアン・エプスタインとの出会いは、ささいなことがきっかけだった
リバプールのレコード・ショップ「NEMS」(ノースエンド・ミュージック・ストア)のマネージャーだった、ブライアン・エプスタインがキャバーン・クラブに出演しているビートルズを観に来たきっかけは、極ささいなものだった。それは1961年10月28日午後3時頃
ビートルズ・ストーリー 499 キャバーン・クラブのビートルズはパンク・ロック・バンドだった
キャバーン・クラブは、リバプールの古い倉庫の地下深く(実際に行った感覚では、地下2階ぐらい)、街の中心部マシュー・ストリートにある。その位置はセントラル駅からジェームス・ストリート駅まで地下を走る列車がマージー川の底を通るトンネルを渡る手前にあったため
ビートルズ・ストーリー 498 有名人ジョンの兄弟たちに、さまざまな影響が
このブログ記事の元となっている「IMAGINE THIS」は、ジョンの異父妹のジュリア・ベアードが書いたものだが、超有名人を兄に持つ者の戸惑いや葛藤が赤裸々に述べられている。その中で印象深いのが、兄弟の中で抜きん出て成功を納めているジョンの家族への世間の目である。
ビートルズ・ストーリー 497 ビートルズ、ハンブルクでトニー・シェルダンと共演
ビートルズがハンブルクのトップ・テン・クラブで演奏していた時、同じくハンブルクで演奏していたイギリスの歌手トニー・シェルダンを知った。そしてビートルズはトニーのバックバンドを務める間柄になっていた。トニーとビートルズが共作したレコードも発売されている。
ビートルズ・ストーリー 496 ハンブルク・ツアーでジョージ国外追放
たこ部屋生活を強いられたハンブルク時代があったことで、ビートルズは一段と飛躍した。ポールが「800時間のリハーサル」と表現した地獄のような演奏スケジュールは、彼らに睡眠も食事も十分に与えなかった。そんな中、メンバーはいかがわしい店にも出入りした。ジョン
ビートルズ・ストーリー 495 母の死がジョン、ポール、ボビーを結び付けた
ジョンがスチュ(ジョンの親友スチュアート・サトクリフ)のアパートに移住したと同時に、そこは恋人シンシアと愛を育み、欲望を抱く場所でもあった。ジョンはそこから離れた場所に住んでいた異父妹ジュリアを心配し、会いに行っていた。そこで兄妹は少し遊んで、食事も一
ビートルズ・ストーリー 494 ジョンはスチュの芸術的才能に惚れこみビートルズに誘ったが・・・
ジョンは1959年に、ミミ伯母さんと住むメンディップスの家を出て、英国国教会大聖堂(リバプール大聖堂)を見下ろす学生街ガンビアテラスにあるスチュアート・サトクリフ(通称:スチュ)のアパートに引っ越した。この目的は交際していたシンシアとの密会のため、自由
ビートルズ・ストーリー 493 ジョンは同じ美大生のシンシアにぞっこんだった
ジョンが母ジュリアの死から立ち直る、リハビリに重要な役割を果たした人物が2人居た。ジョンの美術大学時代のクラスメートだったシンシア・パウエルと芸術的な才能が豊かなスチュアート・サトクリフ(通称:シュツ)だった。 シンシアは、母ジュリアが亡くなった3カ月
ビートルズ・ストーリー 492 母の死は、ジョンの創作意欲を高めた
ジョンの小学校時代からの友人デイビッド・アシュトンはジョンの家庭生活について詳しく知っている一人だ。彼によれば、ジョンは母親をすごく愛していたが、母親と別々にミミ伯母さんのところで暮らしていたので、良くミミのところを一緒に抜け出して母の居るスプリングウ
ビートルズ・ストーリー 491 ジョンは母の死を共有した友人に会ったが・・・
クリオーメンのドラマーだったコリン・ハントンは、ジョンと母ジュリアの様子を身近で見ていたため、突然のジュリアの死を簡単には受け入れられなかった。そして思い出深く、こう述懐している。 「ジョンの母親、ジュリアに初めて会ったのは、ジョンに会いにメンディップ
ビートルズ・ストーリー 490 母の死は、ジョンとポールの絆を深めた
母ジュリアを失った3人の子供はジョン18才、その異父妹のジュリア11才とジャッキー8才であった。この子供たちは完全にうちのめされたが、父親不在の中、それぞれが対処していかなければならなかった。妹たちは学校を中心に組織化された規則正しい生活を送り、放課後
ビートルズ・ストーリー 489 悲しみに暮れるジョンと異父妹たち
ジョンは母が亡くなってしばらく、ミミ伯母さんの妹ハリーに預けられた異父妹たちと以前のように会うことはなくなった。ただまったく会うことがなくなったということではなく、異父妹のジュリアたちが、同じリバプールに住むようになったので、ジョンがミミ伯母さんと一緒
ビートルズ・ストーリー 488 ジョンの異父妹たちに救いの手はあるか
母ジュリアが亡くなって後、ジョンとその異父妹たちの生活は一変した。 ジョンは、元々一緒に住んでいたミミ伯母さんのところに帰れば良かったが、妹たちは簡単には身の振り方が決まらなかった。彼女たちが、母ジュリアが未婚で生んだ子供だったことが、大きく影響したの
ビートルズ・ストーリー 487 ジョンの異父妹たちの悲惨な運命
ジョンは、母ジュリアのパートナーのボビーとタクシーを飛ばしてセフトン総合病院に行き、死んで横たわっている母と対面した。ジョンは母を見ることに耐えられなかった。数分の面会後、病院のロビーで、ボブはジョンの腕の中で泣き崩れた。ジョンは心が凍り付いていたのだ
ビートルズ・ストーリー 486 ジョンに母ジュリアの死が突然やってきた
ジョンにとって、人生に多大な影響を及ぼした事件が1958年7月15日に起こった。ジョンはそれを振り返り、こう言った。「俺は母を2度亡くした。5才の時と17才の時にね。そのせいで心がとても苦しくなった。母が殺されたとき、俺は母との関係を築き始めたところだ
ビートルズ・ストーリー 485 ジョン・ポール・ジョージのクオリー・メンがロックンロール・バンドに進化
1958年2月までに、クオリー・メンはジョンとポールがシンガー兼ギタリスト、ギターのエリック、ドラムのコリン、茶箱ベースのレンという構成になった。ところがレンは髄膜炎を患い、数カ月間入院したため、グループを脱退することになった。マネージャーのナイジェル
ビートルズ・ストーリー 484 クオリー・メンにジョージも加入
ジョンの母ジュリアと異父妹たちが住む、スプリングウッドの家に来るミュージシャンたちに、ポールが加わり、リハーサルはさらに熱を帯びて行った。キッチンは、小さなクラブやタレント・コンテストに向けての練習場になっていた。 ポールの母親が、前年にガンで亡くなっ
ビートルズ・ストーリー 483 作詞・作曲コンビ「レノン/マッカートニー」の誕生
ジョンはクオリー・メンに加入した最年少のポールが自分の地位を脅かすのではと危惧していた。第一ポールは、ジョンよりギターを上手く弾くことができたし、風貌がジョンの好きなエルビス・プレスリーに似ていることで、焦りに拍車をかけたのだった。ポールのメンバーへの
ビートルズ・ストーリー 482 素行の悪いジョンが、美大生になれたのは?
ジョンをリーダーとするクオリー・メンの活動は、経済的に満足の行くものではなかった。16才になったジョンはタバコを吸っていた(当時イギリスでは、喫煙の年齢制限が無く16才のジョンは喫煙できた)ので出費も多く、お金はまさに燃えるごとく消えていた。ライブはも
ビートルズ・ストーリー 481 ポールが正式にクオリー・メンに加入する
ジョンは当初、ポールについて二つの異なる見解を持っていた。ジョンはポールは年下にもかかわらず社交的で、その性格に脅威を感じたことが1つ。そして異父妹のジュリアの感想では、ジョンは、もしポールが加入したならば、ポールにグループのリーダーとしての地位を奪わ
ビートルズ・ストーリー 480 ジョンとポールが初めて出会う
1957年7月6日土曜日は、見事に晴れた日だった。その日、リバプールのウールトン地区で開催されていたウールトン祭の公開イベントが、セント・ピータース教会の庭園で行われ、クオリー・メンも出演していた。人々の衣装もそうだが、花飾りを着けた車両の装飾も見事な
ビートルズ・ストーリー 479 クオリー・メンの演奏を初めて家族が観る
ジョンの母ジュリアがクオリー・メンの演奏を観る機会は限られていた。一般に母と息子がべたべたするのは、はばかれるものだ。ジョンもジュリアもそうだった。ジュリアは息子の活動に協力的だったし、音楽好きだったことも幸いして、ジョンの音楽活動を陰に日向に応援して
ビートルズ・ストーリー 478 クオリー・メンがステージ衣装にこだわる
世界で最も成功したロックバンドとされているビートルズにも、普通のバンドと同様、最初は成功を夢見る若者たち、誰もが経験する下積み時代があった。ビートルズの前身、「クオリーメン」がリバプールのライブスポットの1つ「キャバーン・クラブ」に初めて出演したのは、
ミミ伯母さんの秘密は、ジョンにも母ジュリアにも気づかれないまま、母ジュリアはスプリングウッドやメンディップスでジョンと一緒にいられる時間に、ただ喜びを感じていた。制約があるゆえにその喜びはとても大きかったと想像できる。ただ、ジュリアが帰宅した後、下宿学
ビートルズ・ストーリー 476 ミミ伯母さんは、自らを「悪女」と呼んだ
後年死の床で、ミミは自分のことを「悪女」と呼んだ。ミミがジョンと母ジュリアとの普通の親子関係をさせなかったこと、その悪魔のような態度の裏で、26才年下の下宿生マイケルと不倫関係を続けていたからだ。さらにマイケルからジョンの異父妹のジュリア・ベアードへの
人には、表面的にはうかがい知れない内面の秘密があるものだ。しかし、その人からは思いもよらない、意外な側面が明るみになったら、身近な人間は、どのように対処すれば良いのだろう。ジョンにとっての重要な人物、ミミ伯母さんは厳格な人物として、ジョンと母ジュリアの
ビートルズ・ストーリー 474 ジョンは異父兄妹たちは仲良く遊んだし、彼女もできた
ジョンと異父兄妹ジュリアたちは、母のパートナー(ボビー)とよく遊んだ。その中でも、振り回す遊びは乱暴そのものだった。また飛行機遊びというのもやった。それはジョンがボビーの真似をして、妹を空中に浮かせて飛行機が飛ぶような恰好をしていた。しかしジョンは手を
ビートルズ・ストーリー 473 ジョンはエルビスに夢中になり、テディ・ボーイを気取っていた
ジョンは妹たちを連れて、エルビス・プレスリーの映画「ラブ・ミー・テンダー」や「監獄ロック」を観に行った。そのころ野良猫を飼いだしたが、母ジュリアは名前を「エルビス」と付けた。当時避妊処置が普及していなかったのか、この猫は6匹の子猫を生んだ。この時期は、
ビートルズ・ストーリー 472 クオリーメン時代にジョンが好んで歌った「ノーバディズ・チャイルド」
クオリーメンのレパートリーは、スキッフルとロックが中心だった。バンジョー担当のロッド・デイビスによれば、ジョンが好んで歌ったのは「ノーバディズ・チャイルド」だったと証言している。原曲の『ノーバディズ・チャイルド』ハンク・スノウ(1949年録音) 『ノ
ビートルズ・ストーリー 471 ジョンのバンド活動に、母ジュリアもミミ伯母さんも応援した
ジョンが初めて作ったグループ・クオリーメンのメンバーは、ジョン(バンジョー/ギター)、ピート・ショットン(ウォッシュボード)、エリック・グリフィス(ギター)、ビル・スミス(茶箱ベース)、ロッド・デイビス(バンジョー)、コリン・ハントン(ドラムス)でビル
ビートルズ・ストーリー 470 ジョンの最初のグループ・メンバーは、ジョンと母ジュリアだった
ジョンが初めて作ったグループは、母ジュリアとジョンで構成されていた。つまり音楽あるいは楽器演奏の先生と生徒だった。母ジュリアにとって、ジョンはアーティスト兼息子といったところだった。新しい音楽に対するジョンの情熱が増すにつれ、練習に費やす時間も増えて行
ビートルズ・ストーリー 469 ジョンやポールはスキッフルの虜になった
ジョンやポールが夢中になった音楽は、アメリカ音楽にルーツを持つ「スキッフル」という音楽だった。その代表的な楽曲が、アメリカで1954年春に発売されたビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だった。『ロック・アラウンド・ザ・クロック』(by ビ
ビートルズ・ストーリー 468 ジョンの音楽の源は、母ジュリアやジョージおじさんにあり
ジョンと楽器との出会いに欠かせないのは、母ジュリアが楽器を奏でることが大好きだったことだ。ジョンが母からバンジョーの奏法を習ったことは前回紹介した。母はピアノ式アコーディオンも演奏した。母は長い指を、その楽器の茶色のボタンの上を飛び跳ねさせながら、さま
ビートルズ・ストーリー 467 ジョンは母ジュリアから音楽の手ほどきを受けた
ジョンの異父兄妹ジュリアによれば、ジョンはクリケットなどのスポーツが得意で、作文は彼独特のものを書いていたし頭も良かった。ただ学校の勉強は好きではなく成績はビリだった。というのはジョンは単に面倒くさかったからというが、彼はその膨大な能力を自分が好きで楽
ビートルズ・ストーリー 466 ジョンがエルビス・プレスリーのロックンロールに感化される
ジョンがロックンロールに目覚めたきっかけは、皮肉にもミミ伯母さんがジョンと住むメンディップスと母ジュリアが新しいパートナー・ボビーと異父兄妹の住むスプリングウッドを行き来するパートタイマーのように制約を受けている時期だった。 スプリングウッドには針を
ビートルズ・ストーリー 465 ジョン悲しいかな、優しいジョージ伯父さんを亡くす
ジョンは一般的に言って異常な家庭に育った。母親がすぐ近くに住んでいるにもかかわらず、フルタイムで一緒に暮らせないからだ。パートタイムで母親と暮らしている状態だった。大人ではない友人たちは良く言ったものだ。 「母親がすぐ近くに住んでいるのになぜ伯母さんと
ビートルズ・ストーリー 464 ジョンはメンディップスで妹とよく遊んだ
ジョンがミミの許可の有無にかかわらずスプリングウッドによく来るようになった頃、反対にメンディップスのミミとジョンはスプリングウッドから異父妹の訪問を受けた。その時ジョンは妹を外に連れ出して遊んだりして優しい兄貴ぶりを発揮した。遊び場は二つあった。 一つ
ビートルズ・ストーリー 463 ジョンの母ジュリアとミミ伯母さんの冷戦が終わる
1954年、ジョンは13才になっていた。ジョンが母親と引き離されて別に生活するのは無理があった。ジョンが母ジュリアが生活するスプリングウッドの家を訪ねることをミミ伯母さんは止めることができなかった。ただ頻繁にジョンが母に会いに行くことでミミと母ジュリア
ビートルズ・ストーリー 462 ジョンはミミ叔母さんに内緒で母ジュリアに会っていた
私の妄想の世界の話で、だいそれたことではあるが「イマジン」それは今文章を書いている私に向けられたジョンからのメッセージと思える。ジョンにとっての異父兄弟ジュリア・ベアードの手記からはジョンの幼少期のことが事細かに書かれている。妹の身近に見るジョンは生み
ビートルズ・ストーリー 461 ジョンはスタンレーのおかげで母に会えた
ジョンと母ジュリアを繋げた、いとこのスタンレーはジョンにとっての頼みの綱だった。ジョンと母ジュリアが会った後でスタンレーはジョンをメンディップス(ミミ叔母さんの家)に連れて帰る際に「ミミにはこのことを言うなよ」と繰り返すのだった。 ジョンはスタンレーに
ビートルズ・ストーリー 460 ジョンは母ジュリアと何とか会っていた
ジョンの母ジュリアは招かれざる客としてミミの元に居るジョンに会いに行った。ミミはジュリアがドアをノックしても中に入れなかった(それでも何回かに一度は会えたらしいが)。ジュリアは仕方なくスプリングウッドの家に帰った。そしてジョンに会えない悲しさや情けなさ
ビートルズ・ストーリー 459 ジョンは母ジュリアと離れたくなかった
ジョンの母ジュリア、パートナーのボビーそしてその間に生まれたジョンとは異父兄妹であるジュリア(母と同じ名)がペニー・レインの家からアラートンのスプリングウッドの公営住宅に引越して約3か月後、新たにジョンの異父兄妹に当たるジャクリーン(通称ジャッキー)が
ビートルズ・ストーリー 458 ジョンの母ジュリアはペニー・レインの家から引っ越す
ペニー・レインに住んでいるジョンの祖父、母ジュリアそしてそのパートナーのボビーとジョンとの交流が頻繁に行われた背景にはジョンの祖父の存在があった。祖父は娘であるジョンの母ジュリアがお気に入りであり、かつジョンの福祉に関しては支配的であった。ミミ叔母さん
ビートルズ・ストーリー 457 ジョン、母ジュリアと定期的に会う
ミミ叔母さん夫婦と暮らすことになったジョンだが、本当は母ジュリアと暮らしたかった。当然だろう。ジョンはジュリアが「私のジョン、あなたはかけがいのない存在」という歌を歌っているのを聴いている。ジュリアは息子ジョンと一緒に住めないことを悔やんで歌にしていた
ビートルズ・ストーリー 456 ジョン、母親から離れてミミ叔母さんと暮らす
ミミ叔母さんはジョンを執拗にジュリアとボビーから離れさせようとした。それはミミがジョンの幸せを考えての行動だった。ミミは人一倍ジョンにとって一番良い方法を模索して、結局住環境が良いメンディップスにあるミミ叔母さん夫婦の家に引き取ることを主張した。ミミ夫
ビートルズ・ストーリー 455 ジョンは父アルフより母ジュリアを選んだ。母は強し。
ジョンの父アルフは、妻ジュリアとジョンとの三人生活を望んでいたが、ジュリアが許さなかった。アルフが何年も音信不通だったため、ジュリアには既にボビーというパートナーが居た。5才であるジョンの心は揺れ動いた。アルフはジョンに言った。「ニュージーランドに行き
ビートルズ・ストーリー 454 留守にしていたジョンの父親が突然現る
ジョンをミミ叔母さんのところへ預けたジュリア(正確には、ジュリアに新しいパートナーができたためジョンへの悪影響を考えたミミ叔母さんの判断により引き取ったのだが)、そのジュリアに驚くべき事態が発生した。 船乗りとして長いこと家を留守にし、行方が分からなく
ビートルズ・ストーリー 453 ジョンがミミ叔母さんに引き取られる
ジョンが母ジュリアから完全にミミ叔母さんに引き取られた経緯はジュリアの奔放な性格が寄与しているようだ。 1945年の秋、ジョンはモスピック・レーン小学校の幼児クラスに入学した。ジュリアはその小学校の近くにあるカフェでウェイトレスのアルバイトをしてジョン
ビートルズ・ストーリー 452 ミミ叔母さん宅は不法占拠のたまもの
ジョンがミミ叔母さんのメンディップスの自宅に泊まるようになったのは、母ジュリアが妊娠して体調を崩していたため休息する必要があり、幼いジョンの世話が満足にできなかったからである。この時ジョンは4才。ミミ叔母さんの夫ジョージはジョンをとてもかわいがった。こ
ビートルズ・ストーリー 451 ジョンがミミ叔母さん宅に連れていかれた理由
ジョンが母ジュリアの姉ミミ叔母さんのところで生活をするようになった経緯は複雑だった。 ジュリアの夫アルフは船の給仕として働くため長く海に出る期間がどうしても発生した。その期間はジュリアとジョン二人きりの生活になった上に生活費はアルフからほとんど入ってこ
ジョンは生前、自分は母ジュリアを2度亡くしたと言っていた。5才と17才の時だ。5才の時はジョンの叔母ミミに預けられたこと、17才の時はジュリアが交通事故で亡くなったことである。 ミミ叔母さんに預けられた時は幼かったため「なぜ」に対する答えは理解できなっ
ビートルズ・ストーリー 449 ジョンの異父兄妹ジュリア・ベアード
ストロベリー・フィールズを公園として整備するに尽力したのがジョン・レノンの異父兄妹のジュリア・ベアードだ。彼女はジョンの母ジュリア(ホワイト・アルバムの中にある「ジュリア」のモデル)とジョンの父(アルフレッド・レノン)とは異なる父(ジョン・ダイキンズ)
ビートルズ・ストーリー 448 リバプールの「ストロベリー・フィールズ」に行きたい!
ビートルズが生まれ育った町、リバプール。そこにはビートルズゆかりのの場所が目白押し。 日本から一度は行ってリバプールの空気を吸ってみたいと思い、まだコロナ禍が始まる前の2015年4月に成田→ドバイ→マンチェスター→リバプールと旅した。 あれから8年、
ビートルズ・ストーリー 447 最後のシングルは捧腹絶倒のお遊びソング
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の15曲目は「ユー・ノウ・マイ・ネーム」。 シングル「レット・イット・ビー」のB面に収録。捧腹絶倒、お遊びソングだが妙に魅力的なのはなぜか。それは楽しんでいることにつきます。楽屋裏を生々しく見せていて、もっとも
ビートルズ・ストーリー 446電話の保留音になったスタンダード・ナンバー
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の14曲目は「レット・イット・ビー」。 ポールが作った曲。今やスタンダードとして君臨する名曲。例えば電話の保留音として広く使われていますね。 この曲はシングル・バージョンとアルバム・バージョンで違いが大きい。こ
ビートルズ・ストーリー 445 素人の女の子を雇って作ったジョンの名曲
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の13曲目は「アクロス・ザ・ユニバース」。 ジョンが作った曲。優しいジョンのボーカルとアコースティック・ギターの音色がたまりません。 良く聴くと女性コーラスも入っている。彼女らはたまたまスタジオの前でたむろし
ビートルズ・ストーリー 444 ジョージの職人技ありサウンド
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の12曲目は「オールド・ブラウン・シュー」。 シングル「ジョンとヨーコのバラード」のB面として発表された。 バックに流れるハモンド・オルガンはジョージが担当。 疾走感溢れるサウンドは、ポールでもジョンでもない
ビートルズ・ストーリー 443 ジョンとヨーコのバラードにポールが加勢
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の11曲目は「ジョンとヨーコのバラード」。 言わずと知れたジョンとヨーコのハネムーンの顛末を歌ったリアルで私小説的な1曲。 内容は英国領ジブラルタルでの結婚式、反戦を訴えたベッド・イン、偏見を批難したバッグ・
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の10曲目は「ドント・レット・ミー・ダウン」。 「ゲット・バック」のB面を飾りジョンが作った。この曲はジョンがヨーコに励ましの意味を込めて捧げたもの。アップル・ビルの屋上ライブ(1969年1月30日)でも演奏されてい
ビートルズ・ストーリー 441 ポールがジョンに叫んだ「帰って来い!」と
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の9曲目は「ゲット・バック」。 ポールがジョンに向けて「ヨーコにお熱を上げずに、バンドに帰って来いよ!」と訴えるために作った。曲のエンディングに屋上ライブ(ルーフ・トップ・コンサート/1969年1月30日)の時に発し
ビートルズ・ストーリー 440 B面だけど存在感抜群のサウンド「レボリューション」
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の8曲目は「レボリューション」。 シングル「ヘイ・ジュード」のB面になった曲。ジョンが作った。サウンドは革命(レボリューション)を連想させる激しい攻撃的なファズ・ギターと割れ気味の音を奏でる電子ピアノが印象的だ
ビートルズ・ストーリー 439 ポールがジョンの息子を励ました
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の7曲目は「ヘイ・ジュード」。 ポールがジョンの息子ジュリアン・レノンを励まそうと作った。それというのもジュリアンはジョンと妻シンシアが離婚騒動真っ最中で不安定な立場に置かれていたため。ジョンは離婚後オノ・ヨー
ビートルズ・ストーリー 438 ジョージのインド風の曲は評判良かった!?
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の6曲目は「ジ・インナー・ライト」。 ジョージのいわゆるインド風味の曲。ボーカルはジョージだがバックはインド人が担当。他のメンバーはちょっとついてゆけないというのが本音か。でもメロディはいいねとの評価だったよう
ビートルズ・ストーリー 437 世の中のお母さまがたに捧げる歌
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の5曲目は「レディ・マドンナ」。 ポールの作品で子供を大勢かかえながら家計のやりくりに奮闘するマドンナ夫人を描いている。イギリスの労働者階級のお母さん方への応援歌にして母性賛歌となっている。 ポールお気に入り
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の4曲目は「レイン」。 ジョンの作品で「ペイパーバック・ライター」のB面になったが、最高のB面曲と言われておりドラムが引っ張て曲が進行して行く過程が何とも印象的ですね。 それとこの曲のプロモーション・ビデオポ
ビートルズ・ストーリー 435 ポールは今朝読んだ新聞からヒントを得た
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の3曲目は「ペイパーバック・ライター」。 ポールが主に書きジョンが歌詞の一部を手伝ったと言われている。 サウンド的にはギターにディストーションを掛けて重量感を演出している。 なんでもポールはジョンの家に向かう
ビートルズ・ストーリー 434 ポールとジョンの才能が融合した傑作
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の2曲目は「ウイ・キャン・ウォーク・イット・アウト(恋を抱きしめよう)」。 ポールとジョンの共作曲で、二人の才能が融合したビートルズならではの傑作が生まれました。中間部のマイナー調からジョンが入って歌い、独特の
ビートルズ・ストーリー 433 ジョンはトリップしてノリの良いリフを作った
アルバム『パスト・マスターズ Vol.2』の1曲目は「デイ・トリッパー」。 主にジョンが書きポールが一部手伝った曲。 男をじらす女のことなど、性的なニュアンスをほのめかす表現が織り込まれています。 ”トリップ”とあるようにドラッグ・ソングであるとジョ
アルバム『パスト・マスターズ Vol.1』の18曲目は「アイム・ダウン」。 ポールが作った曲。この曲でジョージは三味線(高橋竹山)風のリードギターを、ジョンはオルガンを、リンゴはボンゴをそれぞれ演奏してポールのボーカルに花をそえました。 それにしても
アルバム『パスト・マスターズ Vol.1』の17曲目は「イエス・イット・イズ」。 ジョンが作った曲。ジョンのボーカルもさることながら、ジョンとポールの間にジョージが入ることで一段と複雑で素敵なコーラスが演出されていて聴くものをうっとりさせます。 でも
ビートルズ・ストーリー 430 ジョン、「バッド・ボーイ」をカバー
アルバム『パスト・マスターズ Vol.1』の16曲目は「バッド・ボーイ」。 ラリー・ウィリアムズの曲をカバーした。 ボーカルはジョンが担当。 曲のテーマは学校をさぼって、ロックンロールに夢中になっている少年を描いている。これってロックン・ロールが大好
ビートルズ・ストーリー 429 B面曲だがポールお気に入りの一曲
アルバム『パスト・マスターズ Vol.1』には15曲目は「シーズ・ア・ウーマン」。 シングル盤「アイ・フィール・ファイン」のB面に収録されたがポールは大のお気に入り。 1966年の日本来日公演やイギリスBBC放送などいたるところで歌っていることからもお気
アルバム『パスト・マスターズ Vol.1』には14曲目は「アイ・フィール・ファイン」。 8枚目のシングル、歌の初めのフィードバックのノイズは一見電気系統のトラブルの様だが、その雑音をレコードにする独創性に驚かされる。 この音を使ったジョンは、アイデア
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1960年代、ビートルズと同時代に活躍したフォーク・シンガーと言えば、アコースティックギター一本で歌うボブ・ディランが思い浮かぶ。実際、ジョンはディランを意識してというか良いとこどりをしたと言おうか、ギター一本でも十分歌える楽曲を作ってしまった。ミドル
ビートルズの楽曲にはアコースティックギターを駆使して演奏された名曲が多数存在する。「イエスタデイ」や「ブラック・バード」は、ポールがツー・フィンガー奏法でアコギを演奏し歌っている楽曲だが、ジョンも負けてはいない。 「ノルウェーの森」はストロークにピッキ
「イエスタデイ」同様、ポールがツー・フィンガー奏法でアコギを演奏し歌っている楽曲で代表的なのは何といっても「ブラック・バード」であろう。ホワイト・アルバムに収録されたこの楽曲は、ポールがマーティンD-28を駆使して演奏しているシンプルな曲である。1フレット
イエスタデイはGコードから始まっている。ただ一般的にチューニングされたギター(1弦E、2弦B、3弦G、4弦D、5弦A、6弦E)でGコードを奏でると「あれ!」と感じる。レコードで聴く音より高いのである。しばらくするとそのからくりが分かった。ポールはチュー
本当のフォークギターを買ったのは、大学生になってからだ。四国の田舎町から汽車と船を乗り継いで瀬戸内海を渡り、人口100万を越す政令指定都市に引っ越して、初めて一人暮らしを始めた。一人暮らしの寂しさを紛らわせるためもありギターを買ったのだと思う。人口数千
クラシックギターのナイロン弦の代わりにスティール弦を張った、背徳感に満ちたハイブリッドギターは、持ち運びが容易で電源もいらないことから、歌の伴奏機器として意外にも様々な場面で活躍した。当時同好会に毛が生えたような映画研究会というサ-クルに入っていた。主
スティール弦の響きに魅せられて、クラシックギターのナイロン弦をスティール弦に替えたことは、かなり後ろめたい気分だった。だがスティール弦をピックでかき鳴らすことは、快感に変わって行った。ラジオやテレビから流れてくる歌謡曲や洋楽が、「明星」などの芸能雑誌に
洋楽に初めて触れたのは、中学に入って初めて習う英語の授業だった。先生は、新中学生がおそらく人生で初めて触れる英語に少しでも親しんでもらおうと思ったのだろう。授業中に、当時ヒットしていたであろう、英語の歌を録音したテープを再生して聴かせてくれた。テープは
昭和40年代の音楽は、ラジオ、レコード、カセットテープ、テレビから入手することがほとんどだった。その中でも経済的なFM放送は音質が良く、ラジカセを持っていれば、カセットテープに録音して何回も聴けるので、高価なレコードを買う代わりをしてくれる存在だった。
昭和30年代の田舎町には、必ずと言って良いほどの芝居小屋や映画館が街道筋に点在して娯楽の殿堂を代表する存在だった。私の家から自転車で30分のこの田舎町にも、黒壁の重厚な芝居小屋や映画館が軒をつらね、入り口付近に掲示された上演される作品のポスターの主人公
ジョンの近眼への対応策はガンジー風の眼鏡を採用することだったが、妹ジュリアも近眼に苦しんでいた。ジュリアは一般的に女性が好むコンタクトレンズを着用しようと思った。そこでジョンにコンタクトレンズを買ってくれるよう頼んだ。ところが眼鏡屋に行ってみると、若す
ビートルズのフィンズベリー・パークで行われたコンサートで1曲目に歌ったのが「シー・ラブズ・ユー」だったが、歌い出すや否や劇場全体が超常現象的な不協和音に包まれた。『シー・ラブズ・ユー』観客はこの曲を一度も聴いていなかったのだ。ジョンは大声を張り上げ
ジョンの異父妹であるジュリアは、超有名になった兄ジョン・レノンとは気楽に会っていた。後にジョージ・ハリスンの妻となるパティ・ボイドは、驚いたことにジョンと妻シンシアと一緒に住んでいた。そんなことからジュリアはジョージ・ハリスンに会いにも行けたのだった。
ジョン・レノンは家族を大事にする普通の感覚を持った若者である。実際ジョンの家族に対するふるまいは、異父妹だったジュリア・ベアードにより、親しみを込めて「IMAGINE THIS」の中で紹介されている。 妹ジュリアがその妹と共にロンドンの新居(通称、ケン
映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の公開に先立ち、英王室のマーガレット王女たちを招いてロンドン中心部のドーチェスター・ホテルでレセプションが行なわれた。ジョンの親族は参加しなかったが、リバプールでのプレミア上映会にはこぞって参加した。リバプールでは、1
12月8日はジョン・レノンの命日であることは周知の事実。この日、東京・六本木のライブハウス「アビイロード」で開催されたジョン・レノン記念ライブに行ってきた。12月に入って一段と寒さに拍車がかかり、厚手のコートやヒートテックが手放せない。日曜日の夜、明日
ジョンは美術学校時代の友人ヘレン・アンダーソンが経営する店舗で妹たちにコートを作ってやったが、もう一つのサプライズも用意していた。後に「レノン・ハット」と呼ばれるようになる帽子を付けたことだ。ジョンはもはや世界的なスターだったが、家族にとっては昔からの
アメリカツアーを成功させ、世界的なロックバンドになったビートルズだったが、リバプールに帰って家族に会う時のジョンは普通の兄貴だった。ジョンを身近で見ていた異父妹ジュリアによれば、ジョンの名声は突然起こったものではなく、少しずつエスカレートしていった感じ
ビートルズが活動の拠点をリバプールからロンドンに移し、ビートルズがどんどん有名になるにつれて、リバプールに残された異父妹たち(ジュリアとジャッキー)は兄ジョンにいつ会えるだろうか?と寂しい日々を送っていた。 ビートルズがロンドンに移ってからすぐに、「抱
ビートルズの代表作の一つ「シー・ラブズ・ユー」が1963年8月末に発売されるや、人々は何かをする際のBGMにして生きているような感じだった。発売後すぐにロンドン・パラディウムで演奏した時、劇場周辺の通りはヒステリックなファンで占拠されたようになった。マ
たこ部屋生活を強いられたハンブルク時代があったことで、ビートルズは一段と飛躍した。ポールが「800時間のリハーサル」と表現した地獄のような演奏スケジュールは、彼らに睡眠も食事も十分に与えなかった。そんな中、メンバーはいかがわしい店にも出入りした。ジョン
ジョンがスチュ(ジョンの親友スチュアート・サトクリフ)のアパートに移住したと同時に、そこは恋人シンシアと愛を育み、欲望を抱く場所でもあった。ジョンはそこから離れた場所に住んでいた異父妹ジュリアを心配し、会いに行っていた。そこで兄妹は少し遊んで、食事も一
ジョンは1959年に、ミミ伯母さんと住むメンディップスの家を出て、英国国教会大聖堂(リバプール大聖堂)を見下ろす学生街ガンビアテラスにあるスチュアート・サトクリフ(通称:スチュ)のアパートに引っ越した。この目的は交際していたシンシアとの密会のため、自由
ジョンが母ジュリアの死から立ち直る、リハビリに重要な役割を果たした人物が2人居た。ジョンの美術大学時代のクラスメートだったシンシア・パウエルと芸術的な才能が豊かなスチュアート・サトクリフ(通称:シュツ)だった。 シンシアは、母ジュリアが亡くなった3カ月
ジョンの小学校時代からの友人デイビッド・アシュトンはジョンの家庭生活について詳しく知っている一人だ。彼によれば、ジョンは母親をすごく愛していたが、母親と別々にミミ伯母さんのところで暮らしていたので、良くミミのところを一緒に抜け出して母の居るスプリングウ
クリオーメンのドラマーだったコリン・ハントンは、ジョンと母ジュリアの様子を身近で見ていたため、突然のジュリアの死を簡単には受け入れられなかった。そして思い出深く、こう述懐している。 「ジョンの母親、ジュリアに初めて会ったのは、ジョンに会いにメンディップ
母ジュリアを失った3人の子供はジョン18才、その異父妹のジュリア11才とジャッキー8才であった。この子供たちは完全にうちのめされたが、父親不在の中、それぞれが対処していかなければならなかった。妹たちは学校を中心に組織化された規則正しい生活を送り、放課後
ジョンは母が亡くなってしばらく、ミミ伯母さんの妹ハリーに預けられた異父妹たちと以前のように会うことはなくなった。ただまったく会うことがなくなったということではなく、異父妹のジュリアたちが、同じリバプールに住むようになったので、ジョンがミミ伯母さんと一緒
母ジュリアが亡くなって後、ジョンとその異父妹たちの生活は一変した。 ジョンは、元々一緒に住んでいたミミ伯母さんのところに帰れば良かったが、妹たちは簡単には身の振り方が決まらなかった。彼女たちが、母ジュリアが未婚で生んだ子供だったことが、大きく影響したの
ジョンは、母ジュリアのパートナーのボビーとタクシーを飛ばしてセフトン総合病院に行き、死んで横たわっている母と対面した。ジョンは母を見ることに耐えられなかった。数分の面会後、病院のロビーで、ボブはジョンの腕の中で泣き崩れた。ジョンは心が凍り付いていたのだ
ジョンにとって、人生に多大な影響を及ぼした事件が1958年7月15日に起こった。ジョンはそれを振り返り、こう言った。「俺は母を2度亡くした。5才の時と17才の時にね。そのせいで心がとても苦しくなった。母が殺されたとき、俺は母との関係を築き始めたところだ
1958年2月までに、クオリー・メンはジョンとポールがシンガー兼ギタリスト、ギターのエリック、ドラムのコリン、茶箱ベースのレンという構成になった。ところがレンは髄膜炎を患い、数カ月間入院したため、グループを脱退することになった。マネージャーのナイジェル
ジョンの母ジュリアと異父妹たちが住む、スプリングウッドの家に来るミュージシャンたちに、ポールが加わり、リハーサルはさらに熱を帯びて行った。キッチンは、小さなクラブやタレント・コンテストに向けての練習場になっていた。 ポールの母親が、前年にガンで亡くなっ
ジョンはクオリー・メンに加入した最年少のポールが自分の地位を脅かすのではと危惧していた。第一ポールは、ジョンよりギターを上手く弾くことができたし、風貌がジョンの好きなエルビス・プレスリーに似ていることで、焦りに拍車をかけたのだった。ポールのメンバーへの
ジョンをリーダーとするクオリー・メンの活動は、経済的に満足の行くものではなかった。16才になったジョンはタバコを吸っていた(当時イギリスでは、喫煙の年齢制限が無く16才のジョンは喫煙できた)ので出費も多く、お金はまさに燃えるごとく消えていた。ライブはも
ジョンは当初、ポールについて二つの異なる見解を持っていた。ジョンはポールは年下にもかかわらず社交的で、その性格に脅威を感じたことが1つ。そして異父妹のジュリアの感想では、ジョンは、もしポールが加入したならば、ポールにグループのリーダーとしての地位を奪わ
1957年7月6日土曜日は、見事に晴れた日だった。その日、リバプールのウールトン地区で開催されていたウールトン祭の公開イベントが、セント・ピータース教会の庭園で行われ、クオリー・メンも出演していた。人々の衣装もそうだが、花飾りを着けた車両の装飾も見事な
ジョンの母ジュリアがクオリー・メンの演奏を観る機会は限られていた。一般に母と息子がべたべたするのは、はばかれるものだ。ジョンもジュリアもそうだった。ジュリアは息子の活動に協力的だったし、音楽好きだったことも幸いして、ジョンの音楽活動を陰に日向に応援して