1960年代、ビートルズと同時代に活躍したフォーク・シンガーと言えば、アコースティックギター一本で歌うボブ・ディランが思い浮かぶ。実際、ジョンはディランを意識してというか良いとこどりをしたと言おうか、ギター一本でも十分歌える楽曲を作ってしまった。ミドル
ビートルズが大好きなオヤジです。定年を迎えて、あらためてビートルズの魅力に触れたいと思います。
ビートルズ・ストーリー 498 有名人ジョンの兄弟たちに、さまざまな影響が
このブログ記事の元となっている「IMAGINE THIS」は、ジョンの異父妹のジュリア・ベアードが書いたものだが、超有名人を兄に持つ者の戸惑いや葛藤が赤裸々に述べられている。その中で印象深いのが、兄弟の中で抜きん出て成功を納めているジョンの家族への世間の目である。
ビートルズ・ストーリー 497 ビートルズ、ハンブルクでトニー・シェルダンと共演
ビートルズがハンブルクのトップ・テン・クラブで演奏していた時、同じくハンブルクで演奏していたイギリスの歌手トニー・シェルダンを知った。そしてビートルズはトニーのバックバンドを務める間柄になっていた。トニーとビートルズが共作したレコードも発売されている。
「ブログリーダー」を活用して、Taboさんをフォローしませんか?
1960年代、ビートルズと同時代に活躍したフォーク・シンガーと言えば、アコースティックギター一本で歌うボブ・ディランが思い浮かぶ。実際、ジョンはディランを意識してというか良いとこどりをしたと言おうか、ギター一本でも十分歌える楽曲を作ってしまった。ミドル
ビートルズの楽曲にはアコースティックギターを駆使して演奏された名曲が多数存在する。「イエスタデイ」や「ブラック・バード」は、ポールがツー・フィンガー奏法でアコギを演奏し歌っている楽曲だが、ジョンも負けてはいない。 「ノルウェーの森」はストロークにピッキ
「イエスタデイ」同様、ポールがツー・フィンガー奏法でアコギを演奏し歌っている楽曲で代表的なのは何といっても「ブラック・バード」であろう。ホワイト・アルバムに収録されたこの楽曲は、ポールがマーティンD-28を駆使して演奏しているシンプルな曲である。1フレット
イエスタデイはGコードから始まっている。ただ一般的にチューニングされたギター(1弦E、2弦B、3弦G、4弦D、5弦A、6弦E)でGコードを奏でると「あれ!」と感じる。レコードで聴く音より高いのである。しばらくするとそのからくりが分かった。ポールはチュー
本当のフォークギターを買ったのは、大学生になってからだ。四国の田舎町から汽車と船を乗り継いで瀬戸内海を渡り、人口100万を越す政令指定都市に引っ越して、初めて一人暮らしを始めた。一人暮らしの寂しさを紛らわせるためもありギターを買ったのだと思う。人口数千
クラシックギターのナイロン弦の代わりにスティール弦を張った、背徳感に満ちたハイブリッドギターは、持ち運びが容易で電源もいらないことから、歌の伴奏機器として意外にも様々な場面で活躍した。当時同好会に毛が生えたような映画研究会というサ-クルに入っていた。主
スティール弦の響きに魅せられて、クラシックギターのナイロン弦をスティール弦に替えたことは、かなり後ろめたい気分だった。だがスティール弦をピックでかき鳴らすことは、快感に変わって行った。ラジオやテレビから流れてくる歌謡曲や洋楽が、「明星」などの芸能雑誌に
洋楽に初めて触れたのは、中学に入って初めて習う英語の授業だった。先生は、新中学生がおそらく人生で初めて触れる英語に少しでも親しんでもらおうと思ったのだろう。授業中に、当時ヒットしていたであろう、英語の歌を録音したテープを再生して聴かせてくれた。テープは
昭和40年代の音楽は、ラジオ、レコード、カセットテープ、テレビから入手することがほとんどだった。その中でも経済的なFM放送は音質が良く、ラジカセを持っていれば、カセットテープに録音して何回も聴けるので、高価なレコードを買う代わりをしてくれる存在だった。
昭和30年代の田舎町には、必ずと言って良いほどの芝居小屋や映画館が街道筋に点在して娯楽の殿堂を代表する存在だった。私の家から自転車で30分のこの田舎町にも、黒壁の重厚な芝居小屋や映画館が軒をつらね、入り口付近に掲示された上演される作品のポスターの主人公
ジョンの近眼への対応策はガンジー風の眼鏡を採用することだったが、妹ジュリアも近眼に苦しんでいた。ジュリアは一般的に女性が好むコンタクトレンズを着用しようと思った。そこでジョンにコンタクトレンズを買ってくれるよう頼んだ。ところが眼鏡屋に行ってみると、若す
ビートルズのフィンズベリー・パークで行われたコンサートで1曲目に歌ったのが「シー・ラブズ・ユー」だったが、歌い出すや否や劇場全体が超常現象的な不協和音に包まれた。『シー・ラブズ・ユー』観客はこの曲を一度も聴いていなかったのだ。ジョンは大声を張り上げ
ジョンの異父妹であるジュリアは、超有名になった兄ジョン・レノンとは気楽に会っていた。後にジョージ・ハリスンの妻となるパティ・ボイドは、驚いたことにジョンと妻シンシアと一緒に住んでいた。そんなことからジュリアはジョージ・ハリスンに会いにも行けたのだった。
ジョン・レノンは家族を大事にする普通の感覚を持った若者である。実際ジョンの家族に対するふるまいは、異父妹だったジュリア・ベアードにより、親しみを込めて「IMAGINE THIS」の中で紹介されている。 妹ジュリアがその妹と共にロンドンの新居(通称、ケン
映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の公開に先立ち、英王室のマーガレット王女たちを招いてロンドン中心部のドーチェスター・ホテルでレセプションが行なわれた。ジョンの親族は参加しなかったが、リバプールでのプレミア上映会にはこぞって参加した。リバプールでは、1
12月8日はジョン・レノンの命日であることは周知の事実。この日、東京・六本木のライブハウス「アビイロード」で開催されたジョン・レノン記念ライブに行ってきた。12月に入って一段と寒さに拍車がかかり、厚手のコートやヒートテックが手放せない。日曜日の夜、明日
ジョンは美術学校時代の友人ヘレン・アンダーソンが経営する店舗で妹たちにコートを作ってやったが、もう一つのサプライズも用意していた。後に「レノン・ハット」と呼ばれるようになる帽子を付けたことだ。ジョンはもはや世界的なスターだったが、家族にとっては昔からの
アメリカツアーを成功させ、世界的なロックバンドになったビートルズだったが、リバプールに帰って家族に会う時のジョンは普通の兄貴だった。ジョンを身近で見ていた異父妹ジュリアによれば、ジョンの名声は突然起こったものではなく、少しずつエスカレートしていった感じ
ビートルズが活動の拠点をリバプールからロンドンに移し、ビートルズがどんどん有名になるにつれて、リバプールに残された異父妹たち(ジュリアとジャッキー)は兄ジョンにいつ会えるだろうか?と寂しい日々を送っていた。 ビートルズがロンドンに移ってからすぐに、「抱
ビートルズの代表作の一つ「シー・ラブズ・ユー」が1963年8月末に発売されるや、人々は何かをする際のBGMにして生きているような感じだった。発売後すぐにロンドン・パラディウムで演奏した時、劇場周辺の通りはヒステリックなファンで占拠されたようになった。マ
たこ部屋生活を強いられたハンブルク時代があったことで、ビートルズは一段と飛躍した。ポールが「800時間のリハーサル」と表現した地獄のような演奏スケジュールは、彼らに睡眠も食事も十分に与えなかった。そんな中、メンバーはいかがわしい店にも出入りした。ジョン
ジョンがスチュ(ジョンの親友スチュアート・サトクリフ)のアパートに移住したと同時に、そこは恋人シンシアと愛を育み、欲望を抱く場所でもあった。ジョンはそこから離れた場所に住んでいた異父妹ジュリアを心配し、会いに行っていた。そこで兄妹は少し遊んで、食事も一
ジョンは1959年に、ミミ伯母さんと住むメンディップスの家を出て、英国国教会大聖堂(リバプール大聖堂)を見下ろす学生街ガンビアテラスにあるスチュアート・サトクリフ(通称:スチュ)のアパートに引っ越した。この目的は交際していたシンシアとの密会のため、自由
ジョンが母ジュリアの死から立ち直る、リハビリに重要な役割を果たした人物が2人居た。ジョンの美術大学時代のクラスメートだったシンシア・パウエルと芸術的な才能が豊かなスチュアート・サトクリフ(通称:シュツ)だった。 シンシアは、母ジュリアが亡くなった3カ月
ジョンの小学校時代からの友人デイビッド・アシュトンはジョンの家庭生活について詳しく知っている一人だ。彼によれば、ジョンは母親をすごく愛していたが、母親と別々にミミ伯母さんのところで暮らしていたので、良くミミのところを一緒に抜け出して母の居るスプリングウ
クリオーメンのドラマーだったコリン・ハントンは、ジョンと母ジュリアの様子を身近で見ていたため、突然のジュリアの死を簡単には受け入れられなかった。そして思い出深く、こう述懐している。 「ジョンの母親、ジュリアに初めて会ったのは、ジョンに会いにメンディップ
母ジュリアを失った3人の子供はジョン18才、その異父妹のジュリア11才とジャッキー8才であった。この子供たちは完全にうちのめされたが、父親不在の中、それぞれが対処していかなければならなかった。妹たちは学校を中心に組織化された規則正しい生活を送り、放課後
ジョンは母が亡くなってしばらく、ミミ伯母さんの妹ハリーに預けられた異父妹たちと以前のように会うことはなくなった。ただまったく会うことがなくなったということではなく、異父妹のジュリアたちが、同じリバプールに住むようになったので、ジョンがミミ伯母さんと一緒
母ジュリアが亡くなって後、ジョンとその異父妹たちの生活は一変した。 ジョンは、元々一緒に住んでいたミミ伯母さんのところに帰れば良かったが、妹たちは簡単には身の振り方が決まらなかった。彼女たちが、母ジュリアが未婚で生んだ子供だったことが、大きく影響したの
ジョンは、母ジュリアのパートナーのボビーとタクシーを飛ばしてセフトン総合病院に行き、死んで横たわっている母と対面した。ジョンは母を見ることに耐えられなかった。数分の面会後、病院のロビーで、ボブはジョンの腕の中で泣き崩れた。ジョンは心が凍り付いていたのだ
ジョンにとって、人生に多大な影響を及ぼした事件が1958年7月15日に起こった。ジョンはそれを振り返り、こう言った。「俺は母を2度亡くした。5才の時と17才の時にね。そのせいで心がとても苦しくなった。母が殺されたとき、俺は母との関係を築き始めたところだ
1958年2月までに、クオリー・メンはジョンとポールがシンガー兼ギタリスト、ギターのエリック、ドラムのコリン、茶箱ベースのレンという構成になった。ところがレンは髄膜炎を患い、数カ月間入院したため、グループを脱退することになった。マネージャーのナイジェル
ジョンの母ジュリアと異父妹たちが住む、スプリングウッドの家に来るミュージシャンたちに、ポールが加わり、リハーサルはさらに熱を帯びて行った。キッチンは、小さなクラブやタレント・コンテストに向けての練習場になっていた。 ポールの母親が、前年にガンで亡くなっ
ジョンはクオリー・メンに加入した最年少のポールが自分の地位を脅かすのではと危惧していた。第一ポールは、ジョンよりギターを上手く弾くことができたし、風貌がジョンの好きなエルビス・プレスリーに似ていることで、焦りに拍車をかけたのだった。ポールのメンバーへの
ジョンをリーダーとするクオリー・メンの活動は、経済的に満足の行くものではなかった。16才になったジョンはタバコを吸っていた(当時イギリスでは、喫煙の年齢制限が無く16才のジョンは喫煙できた)ので出費も多く、お金はまさに燃えるごとく消えていた。ライブはも
ジョンは当初、ポールについて二つの異なる見解を持っていた。ジョンはポールは年下にもかかわらず社交的で、その性格に脅威を感じたことが1つ。そして異父妹のジュリアの感想では、ジョンは、もしポールが加入したならば、ポールにグループのリーダーとしての地位を奪わ
1957年7月6日土曜日は、見事に晴れた日だった。その日、リバプールのウールトン地区で開催されていたウールトン祭の公開イベントが、セント・ピータース教会の庭園で行われ、クオリー・メンも出演していた。人々の衣装もそうだが、花飾りを着けた車両の装飾も見事な
ジョンの母ジュリアがクオリー・メンの演奏を観る機会は限られていた。一般に母と息子がべたべたするのは、はばかれるものだ。ジョンもジュリアもそうだった。ジュリアは息子の活動に協力的だったし、音楽好きだったことも幸いして、ジョンの音楽活動を陰に日向に応援して