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  • お知らせ/藍を育て、染めるワークショップ ~藍の種まき・移植から収穫、 すくも作り・灰汁(アク)による発酵建てにより染めるまで~

    藍を育て、染めるワークショップ~藍の種まき・移植から収穫、すくも作り・灰汁(アク)による発酵建てにより染めるまで~20234月~2024年秋頃まで、1年半をかけて藍染めのすべてを学び、記録します。昨年度の第一期は木城町石河内地区の畑を借りて実施しましたが、今季は石井記念友愛社の森にある畑を提供していただき、実行できることになりました。[行程]◇4月14日と19日種まき。「友愛の森」にて。「森の空想ミュージアム」に午後1時までに集合し、始めます。◇5月~6月田起こしと草取り*石灰、有機肥料を撒きます。草取りは藍の苗の成長に欠かせない作業です。◇6月以降藍草の刈り取り(一番刈り)→生葉染め*刈り取った生葉で染め、追肥し、葉の余った分を乾燥させて保管します。◇7月末~8月初め刈り取り(二番刈り)→*刈り取った生...お知らせ/藍を育て、染めるワークショップ~藍の種まき・移植から収穫、すくも作り・灰汁(アク)による発酵建てにより染めるまで~

  • 逢賊/盗人に入られた草庵 【良寛詩集現代語訳<7>】

    [逢賊]昨夜わたしの草庵を訪れた盗人君は何も盗るものがないとみてわたしの布団をはがしにかかったわたしは気づかぬふりをして客人(まろうど)が持ち去るにまかせた彼が去ったあと窓辺に座っていると雨が降り始めたそして雨が止むと静かな月が出た*現代語訳と書は高見乾司<原詩>逢賊禅版蒲団把将去賊打草堂誰敢禁終宵孤座幽窓下疎雨蕭蕭苦竹林☆質素な良寛の生活とその人柄を表す、良く知られたエピソード。ある夜、良寛の草庵に盗賊が入ったが、何も盗んで行くものがない。意を決して良寛の着ている布団を剥しにかかった。良寛は気づかぬふりをして持ち去るにまかせたのである。盗人が去った後に、雨が降り出した。草庵の主も盗賊も、互いに貧しい境涯。だが、この風景の背後に漂うあたたかな交情。日本人の心のどこかにまだ生き続けている美意識がこのような美...逢賊/盗人に入られた草庵【良寛詩集現代語訳<7>】

  • 太平の春/子供たちと遊ぶ一日 【良寛詩集現代語訳<6>】

    日々、また日々今日もまた子どもたちと遊びながら一日が暮れてゆくわたしの袖の中には手まりが三つ、二つ太平の春を酔うて過ごそうよ*現代語訳と書は高見乾司<原詩>日日日日又日日閒兒童送此身袖裏毬子兩三箇無能飽醉太平春☆良寛が村を歩くと、たちまち子供たちが集まってきた。良寛は終日、子どもたちと手毬をついて遊ぶのである。ある日、良寛と子供たちはかくれんぼをした。良寛は藁こづみの影に隠れたのだが、子供たちは見つけることができずに、日暮れとともに帰ってしまった。翌朝、農夫が良寛和尚を見つけて声をかけると、「だれだ、子どもが見つけるに」と叱ったという。良く知られた悠悠たる良寛の晩年の一日。20年の修行・漂泊の年月を重ねた後、故郷に帰り、穏やかな日々を過ごしたのである。良寛という人の天性の資質もあるが、やはり諸国を巡った厳...太平の春/子供たちと遊ぶ一日【良寛詩集現代語訳<6>】

  • 下手に徹すること 【良寛詩集・現代語訳<番外③>】

    *本文は作業中。下手に徹すること【良寛詩集・現代語訳<番外③>】

  • 閑なとき 【良寛詩集・現代語訳<番外②>】

    何が閑中の友と云って書物こそが一番又閑居の身に求むる何物もなく高臥一睡こそが最も安らかである劔掃夢汸庵拓本頭の古書店「後藤書店」発行の栞より転載☆良寛の書を複写した絵葉書と一緒に、この栞(しおり)が出てきた。どの本を買った時に買った時にはさまれていたものか、それがいつだったか、思い出すことができない。それでも捨てずに大切に、良寛の筆跡や琳派の作家たちの書、平安貴族の書体などと一緒持ち続けていたのは、この書に捨てがたい味というか、「書」の持つ本来の核があると思えたからにほかならない。詩も良い。「劔掃」という人が漢詩人なのか、唐詩人なのか、あるいは本朝の古人なのかはまったくわからないが、「夢を紡ぐ庵」というその書屋の名に親しみ、詩句をたどるだけで良い。焦ることはない、人生は短いが、暇に見える時間に書物を取り出...閑なとき【良寛詩集・現代語訳<番外②>】

  • 上手を求めない 【良寛詩集・現代語訳<番外>】

    15年ほども前のことになるが、東京青山の根津美術館で日本美術の優品を観たあと、帰りに、館の出口近くにあるミュージアムショップでポストカードを数葉、買った。絵ハガキを集めることを趣味の一つにしていた少年の頃以来だったから、数十年ぶりの衝動だった。その、何気なく買った数枚のうちの二枚が、あとで見ると良寛の書だった。一緒に買ったもののなかに、光琳・光悦の書があったから、その日は琳派の展覧会を観に行ったのだったと思う。その絢爛たる琳派の作品群を見た後、買ったのが良寛だった(当日は良寛の作品の展示はなかった)。私は、琳派は文句なしに好きだし、世界の美術史のなかでも燦然と輝く一群の美術だと思うが、一方で、良寛の書を無意識に、道端で熟れている野苺の実に手を伸ばすような自然さで選ぶ自分もいるのに気づくのである。*続きは作...上手を求めない【良寛詩集・現代語訳<番外>】

  • 遊行するクリエーターたち/―自然治療研究室から― 【かさこそ森の物語<13>】

    ケイタ(落合圭太)君が旅立って行った。1か月ほどの滞在だった。ふらりと立ち寄ったケイタ君は、当初、「かさこそ森」オープンの仕事を手伝ったり、手入れが遅れている「友愛の森生活学校」の前の広場の草刈りをしたり、「森のマドゥパン」の販売助手をしたりして過ごしていた。館の空き部屋に寝起きしていた彼が、ある日、――「自然治療研究室」で「整体」の治療を始めていいですか?と言ってきた。彼はプロの治療師だったのだ。スタッフと情報を共有し、告知をした後、「旅の整体師」の看板が上がった。まだ周知が徹底していないこの研究室は、客は少ないが、施術を受けた人たちは、「彼は本物の治療師です」と、満足の表情を浮かべた。ケイタ君と同時期に静岡の山間部の村で「チャイ屋ハチドリ」を運営するスミエさんも立ち寄り、仲間たちと交流して沖縄方面へ向...遊行するクリエーターたち/―自然治療研究室から―【かさこそ森の物語<13>】

  • 園庭をアートな客席に変えてゆく/―かさこそ森珈琲店― 【かさこそ森の物語<12>】

    滑り台の小舎を客席にした。それから切り捨てられていた桜の大木の根っこの部分を運びだし、コンクリートのテーブルの上に置いたら、その時点で、テーブルにも椅子にもなる一個のオブジェとなった。「かさこそ森」はもと「のゆり保育園」だから、園児たちが使っていた遊具やタイルに絵付けをして張り付けられたベンチなどがそのままに残っている。それに少し手をくわえるだけで、そこは楽しいアート空間になり、散策したり、子どもたちが走り回ったり、パンと珈琲を持ち出して食べたりできる素敵なART空間となるのだ。これを現代美術の用語に当てはめると「インスタレーション」となる。がらんとしてた東屋に建物の横に放置されていた棚を持ち出し、天地をさかさまにして置き、洪水で流された石を拾ってきたり、古木を組み合わせたりすると、これも「展示」となる。...園庭をアートな客席に変えてゆく/―かさこそ森珈琲店―【かさこそ森の物語<12>】

  • 天然酵母パンとブラック珈琲/―かさこそ森珈琲店― 【かさこそ森の物語<11>】

    「森のマドゥパン」は金曜と土曜だけの開店だが、午後1時頃には完売する。そして火曜日からは、仕込みに入っている。丹念に天然酵母を発酵させ、パン粉には菜の花やふきのとうなど季節の野菜や山菜を練り込んだものもある。そのパンと、丹念に淹れたブラックコーヒーとが、絶妙にハーモニーを奏でる。自家宣伝はこの程度にしておこう。今日(日曜)も「かさこそ森珈琲館」は開店します。当初、「かさこそ森珈琲店」で出発したのだが、ネット上ではいつの間にか「かさこそ森珈琲館」に変わっていた。誰が買えたか分からないが、このほうがいいなあ。これにしよう。森に点在する古民家を改装して、本とコーヒーだけの館が出来た時には、この名称のほうが似合うだろう。その日がくることを念じて、いまはこの名前だけを一人歩きさせておこう。現在の「かさこそ森文庫」で...天然酵母パンとブラック珈琲/―かさこそ森珈琲店―【かさこそ森の物語<11>】

  • [古寺にて]」 【良寛詩集・現代語訳<5>】

    「古寺にて」古い寺に宿を借り終夜窓辺に座っていた厳しい寒さに夢を見ることもできぬ夜明けの鐘はまだか良寛詩/高見乾司訳・書 良寛は、18歳の時、禅寺(光照寺)に入り厳しい修行を経たのち、33歳の時、師(国仙和尚)より印可の偈を受け、諸方を巡る旅に出る。この間の消息は、わずかの短歌と詩によってたどるほかは資料が遺されていないが、四国を遊歴していたころの挿話が廻国の国学者(修験の道者と思われる)によって記されている。それによれば、ある雨の日、行者は土佐の城下の外れの草庵で、宿を乞うと、そこにいた乞食僧が迎え入れてくれた。痩せて顔色も青ざめたその僧は、穏やかな表情ではあったが終始無口で、二人は炉を挟んで手枕で寝る。その沈黙は痴者かと思われるほどであった。次の日も雨。やむなく二日目を草庵で過ごすことになるが、食は麦...[古寺にて]」【良寛詩集・現代語訳<5>】

  • 「遊侠の頃」 【良寛詩集・現代語訳<4>】

    良寛の生家は、橘屋といい、橘諸兄を始祖とする伝承を持ち、この地域の名主と隣接する神社の神主を兼ねる名家であった。その家の長男として生まれた良寛は、遊里にも通う遊侠の青年期を持った。しかしながら、当時は信濃川の洪水や旱魃、冷害などが相次いで起こり、幼い女の子を売る貧しい家があり、各地で餓死者が出るほど困窮をきわめた。そのような時代、名主の昼行灯と揶揄されることもあった正直一途な良寛は、代官と漁民の調停はうまく勤まらず、遊里の女子とのトラブルも噂されるなど失敗や挫折を繰り返し、ついには罪人の処刑に立ち会ったその日のうちに名主見習いの役を捨て、出家してしまうのである。文人を輩出した生家の没落も始まっていた。痛恨の青年時代といえよう。その後、禅寺での厳しい修行の日々が続く。「遊侠の頃」【良寛詩集・現代語訳<4>】

  • 良寛詩集・現代語訳③「青春無頼」/かさこそ森文庫より(3)【かさこそ森の物語<13>】

    村の子どもたちと手毬をついて遊んだり、かくれんぼうをしたり、托鉢の途中で菫を摘み、大事な鉢の子(托鉢用の木の鉢)を忘れて帰ったりと、穏やかでのどかなお坊さんというイメージが定着してい良寛だが、無頼の日々を送った青年期もある。[青春無頼」麗しき美少年といわれた日々もあったよ玉をちりばめた鞭を手に柳の下の道を馬を馳せた美少女は窓辺で音楽を奏でわたしを待つ馬よいそげ―良寛詩/高見乾司訳・書―晩年の回想である。寒山誌に同様の詩篇があるから、それが下敷きになっていることはあきらかだが、当人の体験が投影されていることはあきらか。良寛詩集・現代語訳③「青春無頼」/かさこそ森文庫より(3)【かさこそ森の物語<13>】

  • 良寛詩集・現代語訳②「優游」/かさこそ森文庫より(2)【かさこそ森の物語<12>】

    「優游」わたしは若いころ学問の道を断ち仏道に入った一鉢と一瓶を友に行脚の旅を重ねて故郷へ帰り寒巌の下の草堂に身を置いた鳥の歌を最上の音楽と聴き空行く雲を眺めて一日が過ぎる崖の下に泉がある毎日そこへ下りて洗濯をするある日は山へ行き松や柏の木を切り担い出して薪とするいまはこの優游たる日々が長く続くことを願うばかり良寛の詩/高見乾司訳・書写真撮影が拙劣で全体像が把握できにくいが、これは14㌢×100㌢の横長の作品。あとで画帳形式に仕上げる予定。この詩は、良寛が40年の漂泊・放浪の生活を終えて故郷へ帰り、定住した頃の作。懐旧の想いと、安堵の心境が記されている。私も、開館直後の「小鹿田焼ミュージアム渓声館」に寝泊まりしていた頃は、渓流に下りて洗濯をした。渓谷の真上は大きな崖で、崖そのものが巨岩で出来ていた。その大岩...良寛詩集・現代語訳②「優游」/かさこそ森文庫より(2)【かさこそ森の物語<12>】

  • 良寛詩集・現代語訳/かさこそ森文庫より(1)【かさこそ森の物語<11>】

    良寛の詩を、ひたすら書写していた時期がある。30歳代のことだから、かれこれ40年ほど前のことである。当時、私は由布院の町で小さな骨董屋を開いていた。5年にわたる闘病生活の後、由布院の町に縁を得て、独立したのであった。だが、店には客がめったに来なかったから、私は二階の自室にこもり、本を読む日々を過ごしていたのである。その頃出会った本が「渡辺秀英編I9る「良寛詩集」であった。漢詩は読めなかったが、訳が付いていたので、それを手掛かりに書いてみたのである。巻頭から順に巻紙に書いていったが、内容を理解するには至らなかった。それから30年余りの歳月が流れ、申請の変転も経験して、故郷の町・大分県日田市に小鹿田焼ミュージアム「渓声館」を開館することが出来た。旧・由布院空想の森美術館(1986-2001)の収蔵品であった小...良寛詩集・現代語訳/かさこそ森文庫より(1)【かさこそ森の物語<11>】

  • 「神々の風姿」―高見乾司の近作による/由布院空想の森美術館:別館林檎蔵ギャラリーにて【空想の森から<155>】始まっています

    表記の企画は第一期(2022年12月末まで)を終え、第二期(2023年2月10日―3月31日まで)が始まりました。高見乾司の神楽取材による近作と古神像、狛犬、最近の収蔵による佐土原人形古作などをコラボレーションした企画です。山中の古い祠などに祀られ、風化にさらされ、時の造形を経た古神像などと、神楽の現場で描いた作品が響き合うような展示が出来れば本望、と思い続けてきましたが、どうやら近接する領域にまでは近づいてきたようです。今季の冬神楽は終わり、宮崎の神楽は農耕儀礼を主体とする「春神楽」のシーズンに入ります。今季の取材による作品の仕上がりや春神楽での収穫などを随時追加しながら進行してゆく展覧会です。同館は当分「金曜・土曜・日曜」のみの開館となっていますが、常駐する高見剛(090-5940-0062)に電話予...「神々の風姿」―高見乾司の近作による/由布院空想の森美術館:別館林檎蔵ギャラリーにて【空想の森から<155>】始まっています

  • 由布の朝焼け 【空想の森から<154>】

    由布院の朝。寒い。宮崎から来ると、セーター一枚分、気温が低い。由布院の盆地は、昨日は一日中雨にけぶっていたが、今朝は、すっきりと晴れて、由布岳の朝焼けが美しい。刻々と変わりゆく由布の山容を眺めながら珈琲を淹れる。極上のひととき。由布の朝焼け【空想の森から<154>】

  • 本日、由布院へ 【空想の森から<153>】

    本日(2月10日)、由布院に行きます。まだ雨が強く降っているけれど、お昼前には上がるという予報。現地も雨だという。雪や凍結の心配はないので、雨が小やみになるのを待って出かけます。11日は1日、空想の森美術館にいます。近作(神楽紀行シリーズ)の整理や空想の森別館:林檎蔵ギャラリーの一部展示替えなどをします。お近くの方、由布院付近をお通りの方など、お立ち寄り下さい。12日の午後2時頃出発して宮崎へ。11日と12日の「かさこそ森珈琲店」はカワトモ君が代理をつとめます。珈琲(練習中)と朝どりの野草茶はドネーション(投げ銭)形式で提供します。おつきあいのほど、よろしくお願いします。本日、由布院へ【空想の森から<153>】

  • 「空間」や「場」がアートの現場となること――「インスタレーション」という手法 【友愛の森ARTプロジェクト<23-2>】

    森へ行く。修復中の古民家周辺の立木や竹を伐り払うためだ。ひと月ほど前からこの地に滞在している落合圭太君が参加してくれて、作業がはかどり始めた。不登校の中一・カワトモ君の実力も急上昇中である。この建物は、石井記念友愛社の先代理事長・児島虓一郎氏が、太平洋戦争後、戦地から帰還して建設し、親や家庭に恵まれない子どもたちが暮らした家だ。ベトナム難民の人たちの受け入れ施設となっていた時期もある。戦後の福祉の歴史の一ページを刻んできたこの家も近年は空家になり、廃墟化寸前となっていた。半年前から、この家の修復に取り組んでいるのが「友愛の森ARTプロジェクト」である。このプロジェクトは、石井十次たちが開拓した34ヘクタールの森の内、20ヘクタールほどの里山の森を再整備し、その森に点在する空家などの関連施設を修復し、再利用...「空間」や「場」がアートの現場となること――「インスタレーション」という手法【友愛の森ARTプロジェクト<23-2>】

  • 森へ行き、大木を伐り倒す 【森へ行く道<114>】

    寒さが和らいできた。森へ行く。3年前の台風で傷ついて立ち枯れになっていた杉の木を伐り倒す。倒れたままの巨木も小切りにして運び出す。*続きは作業中。森へ行き、大木を伐り倒す【森へ行く道<114>】

  • 冬の森に流れて過ぎた時間<25年前の記録から(2)>―かさこそ森珈琲店― 【かさこそ森の物語<10>】

    *昨日の続き。1998年、再びかさこそ森を訪ねると、のゆり保育園の石川さんに連れられた子どもたちが私のまわりを取り巻き、少し淋しそうな顔をして、「森の木が切られてしまったの」と言う。現場に行ってみると、のゆり保育園とかさこそ広場に暗い影を落としていたかさこそ森の杉の木は切り払われて、そこはからりと明るいただの空き地になっていた。小さな森の大きな杉の木は、ことごとく伐られて「友愛社」の新しい園舎の骨組みになったのだという。私はそのことは友愛社理事長の児島草次郎さんから聞いていたので、子供たちに向かって「大きな杉の木は、この土地を拓いた石井十次先生や仙台理事長の児島虓一郎先生たちが、植えて下さったものなのだ。そしてその木は、最初の目的通りに使われて、いまはたくさんのお兄さんやお姉さんたちが生活する園舎も完成し...冬の森に流れて過ぎた時間<25年前の記録から(2)>―かさこそ森珈琲店―【かさこそ森の物語<10>】

  • 「かさこそ森美術館」<25年前の記録から>―かさこそ森珈琲店― 【かさこそ森の物語<9>】

    このシリーズは、少し前に書いた文を加筆し、新しい情報を加えながら再構成しています。その過程で、25年ほど前に記録し、「空想の森の旅人」(鉱脈社/2005)に収録された文が見つかったので、少し長くなるが再録しておきます、「かさこそ森美術館」(2005年)かさこそ森という小さな小さな森がある。その森の所在を、私はだれにも語らずにきたが、今回、珍しい草花の咲く場所を親しい友人だけに打ち明ける時のような気持で、公開しようと思う。*続きは作業中。「かさこそ森美術館」<25年前の記録から>―かさこそ森珈琲店―【かさこそ森の物語<9>】

  • 陽だまりで本を読む午後 ―かさこそ森珈琲店― 【かさこそ森の物語<8>】

    テラス席に本を持ち出して読む。「男の詩集」だと。寺山修二編集だと。男が詩を書く時、どのような心意であるのか。戦争に負けた時、廃墟の町で絶望している時、勇ましく歩き出した時、故郷を捨てて町へ出た幾春秋、街路を歩きながらなんだか泣きたくなる時、小さな女の子と過ごしているひととき、どこからか聞こえてくるふるさとの川の水音母の歌声。誌など不要である、と思ったり、誌があったから生きられたと慨嘆したり、憤慨した時に吐き出す言葉を書きつけたり、社会の不条理に怒り、無限の宇宙と自身に与えられた一瞬の生命を比べたり。「かさこそ森」の午後には穏やかな春の陽射しが降り注いでいる。庭先でふきのとうを見つけた。詩集を閉じて眼を瞑ると、木立ちの上から幾筋もの光の条(すじ)が落ちてきて、サーフボードを転用したテーブルの上を、ゆらゆらと...陽だまりで本を読む午後―かさこそ森珈琲店―【かさこそ森の物語<8>】

  • 瑠璃の器が映すもの 【かさこそ森の物語<7>】

    古伊万里「瑠璃」の器は、時折見かける。初期伊万里の瓶子を私は長年愛蔵していたことがある。食器類は幕末から明治へかけて製造されたものが多く、瑠璃の器肌の上に金で絵付けがしてある。当時としてはゴージャスなデザインとしてもてはやされたものだろう。掲示のそば猪口は、外側が瑠璃だけのきわめて単純な意匠のものである。これがよろしい。 内側は白磁で、縁にひとすじ、更紗文様が染め付けられている。その頃合が、絶妙である。私の骨董買いは明治印版手のそば猪口から始まり、遍歴を重ねながら、今もコーヒーや日本茶を飲んだり、時には酒杯として使ったり、日々愛用しているが、近ごろは、この瑠璃のそば猪口を使うことが多い。そば猪口道もこの一点によってある到達点に達したといってもよかろう。ある年の夏、行きつけのギャラリーショップの店頭で、特別...瑠璃の器が映すもの【かさこそ森の物語<7>】

  • 胸中山水――かさこそ森珈琲店―― 【かさこそ森の物語<6>】

    染付け山水のそば猪口を愛好している。白地に藍で描かれた山水の染付けは、古伊万里の器にはもっとも好まれた図柄で、製作された数量も多く、ことさら珍しい文様と言うわけにはいかない。骨董の世界では、希少・珍奇をもって価値観の上位となすものであるから、染付け山水のそば猪口ごときを所蔵しているからといって、大して自慢にはならない。が、毎朝、一杯のコーヒーを喫むために用いる器として、あくまでこの山水のそば猪口を重用することについては、いくつかの自分史的理由がある。その一、私の部屋の片隅に、古い桐箪笥が置かれている。明治期の大川箪笥である。祖母が嫁入りの時に持ってきたものと同じ様式のものである。私は子供の頃、その祖母の嫁入り箪笥のすべての引き出しを順番に開け、引き出しの一段一段を踏み段にして最上部まで登り、一番上の引き戸...胸中山水――かさこそ森珈琲店――【かさこそ森の物語<6>】

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