三国志 黄巾賊への反撃 皇甫嵩は曹操の援軍を得ると、各地で黄巾賊を破る
当時、こうした目利きによる人材評価は人材登用に絶大な影響を持っており、月旦評で称賛されたら出世は間違いないと言われるほどでした。 曹操は許劭から半ば無理やり「君は治世の能臣、乱世の姦雄だ」(三国志の注はそう記しますが、後漢書には「清平の姦賊、乱世の英雄」と記されます)との評価をもらい、哄笑したそうです。 評価の内容もさることながら、許劭に評価されたことはそれ自身が価値を持ちます。『
三国志 橋玄と曹操 出ては将、入りては相という文武両道のお手本のような橋玄の存在と曹操 許劭が許靖と共に行っていた人物評の月旦評
周景は橋玄の行動を良しとし、橋玄を望み通りに陳の従事とします。橋玄は勇躍陳に向かうと、羊昌の賓客をことごとく逮捕して厳しく取り調べ、遂に羊昌を収監して洛陽へ送りました。この間、梁冀は親交のある羊昌を守ろうと橋玄を召喚しようとしてましたが、橋玄は梁冀の意向を無視して見せたのです。 後に孝廉に挙げられ、上谷太守や漢陽太守を歴任しています。漢陽太守時代には上?県令の皇甫禎を収賄の罪で髪剃りと鞭打…
三国志 橋玄 曹操を若い頃から認めていた橋玄は、家ぐるみで曹操一族と付き合っていた
しかし、この評価は少々差っ引いて考えなければならないでしょう。 橋玄は曹操の祖父の曹騰の人脈に連なります。橋玄を抜擢したのは种�ロです。 种�ロについては、曹騰を訴えながら公平な扱いを受けたことでその恩に感謝していたことを述べましたね。侍御史としての种�ロは不正や汚職を容赦なく取り締まり、刺史や太守でも汚職の激しいものの免官を求めたように、厳しく対処しました。後には皇帝すら脅かした「跋扈…
三国志 曹操のエピソード 曹操と袁紹の花嫁誘拐 名士橋玄は曹操を「よく乱世を鎮められるのは、君であろうか」と高く評価
ところが、逃亡中に袁紹がいばらの茂みはまって動けなくなってしまいます。このままでは捕まるばかりです。曹操は「ここに泥棒がいるぞ!」と叫んだので、袁紹は慌てて茂みから飛び出し、事なきを得たそうです。 実際には、袁紹は曹操よりも10歳も年上ですから、実話ではなく、曹操と袁紹のキャラクターを面白おかしく表現したものでしょう。 また、曹操は若い頃に遊び呆けていて、何度も叔父が父の曹嵩に曹操の振る…
三国志 若き曹操 曹騰-曹嵩と続く資産家・政府高官の地位から多くの知識人の集うサロンで育ち、出ては将、入りては相となり得た時代の寵児
曹嵩は字を巨高といい、『曹瞞伝』によれば元は夏侯氏の生まれです。後の時代には異姓の養子が禁じられていましたので、曹嵩が異姓の夏侯氏の出身であることをことさら強調するのは、曹操を非難する意図があったのかもしれません。曹嵩の甥に当たるのが夏侯惇なので、夏侯惇と曹操は従兄弟に当たります。 曹嵩はまじめで慎み深く、常に忠孝の念を忘れませんでした。司隷校尉、大司農、大鴻臚を経て、売官制度を利用して1…
三国志 曹操の祖父曹騰 自分を弾劾しようとした者も公平に扱い、事務仕事ではミスのない曹騰 養子の曹嵩は売官で太尉にのぼる
こうした出自を考えれば、既に名門とは言い難かった曹一族から後宮に送り込まれたのが曹騰だったのでしょう。 曹騰は桓帝擁立にも加わって皇帝の絶大な信頼を得ただけではなく、事務処理でも生涯に渡って過誤がなかったという完璧ぶり、更には涼州3明の1人である張奐をはじめ6人の士人を推挙しています。 曹騰は有能な人物で、なんと30年の勤務の中で一度も落ち度がなかったと伝えられます。そしてまた、彼は能力の…
三国志 曹操の一族 皇甫嵩のもとへ曹操が援軍として送られる 寛大なことで知られた曹操の曽祖父曹萌と息子たちについて
黄巾賊を逐った皇甫嵩のもとへ、朝廷から援軍が送られてきます。その援軍を率いていたのが、30歳の若き指揮官、大宦官曹騰の孫で曹嵩の子、騎都尉の曹操です。 せっかくなので、ここで曹操とその一族について触れておきましょう。 曹操の祖父、曹騰の家系は前漢建国の功臣曹参にまで遡ると伝えられます。曹騰の父は曹萌(武帝紀では曹節とされますが、三国志武帝紀集解によれば曹節は誤りで曹萌が正しいとのことです…
三国志 漢軍の苦戦 盧植に代わって黄巾賊本隊と対峙した董卓は勝つことができずに免職となり、別働隊だった皇甫嵩が後任となる
郡の役人となったある日、胡族が侵入し、住民を拉致する事件が起こります。董卓は騎兵を率いて胡を討つことを命じられると、胡族相手に4桁の首を獲る大勝利をあげます。董卓は并州刺史の段?により中央に推薦され、その縁で司徒袁隗の下で働くことになります。そして桓帝の末年に羽林郎となります。 董卓は并州刺史の張奐に従って胡を討ち、1万以上を斬る勝利大勝利を挙げました。この功績で郎中となり、絹9000疋を与えら…
三国志 盧植 黄巾賊本隊に対峙したのは盧植だが、様子を見に来た宦官からの賄賂要求を拒むと中傷を受けて檻車で洛陽に戻される
朱儁が孫堅を招いた頃、孫堅は下邳の丞でした。孫堅が朱儁のもとへ向かうと、孫堅と同郷で彼に従って下邳に来ていた若者たちも揃って従軍を希望します。その中に程普や黄蓋ら、後の呉を軍事的に支えていく若者たちが含まれています。孫堅は淮水や泗水のあたりで千人ほどの兵士を集めて朱儁に合流しました。 討伐軍が組織される間にも、南陽の黄巾賊は郡守を攻撃して殺害し、4月には朱儁が黄巾賊の渠師の波才に敗れ、汝…
三国志 孫堅 朱儁は孫堅を部下に望み、認められる 若き孫堅のエピソードである盗賊退治について
朱儁は交阯に向かうと、僅かな期間で梁龍を斬り、都亭侯1500戸に封じられ、黄金50斤を賜り、中央に召されて諫議大夫となっていました。 黄巾の乱が起こると、この朱儁が皇甫嵩らと並んで討伐の司令官に任じられたのでした。朱儁は上書して呉郡は富春出身の孫堅、字は文台なる者を佐軍司馬に求め、認められます。 ここで孫堅についても触れておきましょう。 三国志呉書は孫堅をおそらく孫武(伍子胥とともに呉王…
三国志 朱儁 朝廷は何進を大将軍に任じて洛陽郊外に駐屯させ、盧植、皇甫嵩、朱儁を反乱鎮圧に派遣する 右中郎将朱儁の為人
政治的な処置を終えると、後漢朝廷は何皇太后の兄で河南尹の何進を大将軍とし、洛陽近郊の都亭に駐屯させ、さらに函谷関を始めとする8つの関に都尉を配置して交通の要衝を押さえさせます。 こうして守りを固めると、黄巾賊が東部の州を中心にしていることから、北中郎将の廬植を張角の本拠地に向かわせ、左中郎将の皇甫嵩と右中郎将の朱儁に潁川の黄巾賊を討たせます。 朱儁は字を公偉といい、会稽出身です。若くし…
三国志 「蒼天」 蒼天が儒教を意味するのであれば、皇甫嵩が懸念した知識人の黄巾賊への流入は正しいと推測できる
上掲書の指摘を受けて考えると、「黄天」が「蒼天」に取って代わるとのスローガンも納得の行くものになりますね。「黄天」なのは、世俗権力である漢王朝の赤に取って代わるとの意味でしょうから、世俗権力も思想も自分たちの理想を広めようとしたと考えると、単なる軍事反乱に留まるようなものではなく、実に気宇壮大な試みであったと言えるでしょう。 そしてまた、「蒼天 已に死す、黄天 当に立つべし」 との言葉に込…
三国志 党錮の禁の終わり 党錮の禁で弾圧された知識人が黄巾賊に合流することを恐れた皇甫嵩の提言により、党錮の禁は解かれる
反乱の規模の大きさを見た皇甫嵩は、党錮の禁によって出仕を禁じられた知識人たちが黄巾賊と結びつく可能性があると指摘し、ようやく党錮の禁は解除されることになりました。 皇甫嵩は安定の出身で字を義真といい、度遼将軍として西方での多くの軍事活動に参加した。「涼州3明」の1人である皇甫規の兄の子に当たります。父の皇甫節は雁門の太守だったとのことですので、皇甫一族が西方を基盤とし、活躍の場も西方だったこ…
三国志 蜂起 反乱計画に恐れをなした唐周が洛陽で反乱計画を暴露、工作員として送り込まれた馬元義が捕えられて処刑され、張角は鄴で蜂起
暖かければ農地も広げられますし、北方の異民族もより北に移動しますから居住地も広がります。ところが、寒冷化に転じると、その影響は高緯度ほど大きくなります。必然的に北方異民族は南下します。あるいは、後漢時代に西域が失われたのも、気温低下が背景だったのかもしれません。 寒冷化が起こると、農耕に適した土地が減少します。寒冷期の前の温暖期には、国家の安定もあって人口が急激に増加していましたから、寒冷…
三国志 寒冷化 黄巾の乱を始めとする後漢末の混乱を生んだ寒冷化
太平道は10年あまりの内に密かに勢力を広げ、184年の時点では、後漢が設置した13のうち、関東を中心に8つの州に数十万の信者を抱えるほどに成長していました。1万ごとに1つの「方」という組織をおいたところ、方の数は36にも及んだそうなので、数十万は誇張ではないのでしょう。 いつしか、太平道の人々は漢に代わる、新たな国家の建設を目指すようになっていきました。 その1つの要因に、無能な皇帝が相次いで即位…
三国志 黄巾の乱 何皇后の冊立と、2人の皇子劉辯、劉協の誕生 首都洛陽に朝廷に太平道の信者の唐周なる者が反乱計画を暴露する
こうした知識人弾圧の歴史を理解しなければ、黄巾の乱も正しく理解することはできません。ただ、黄巾の乱に移る前に後宮の事情について見ておきましょう。 180年に南陽の屠者出身の何皇后が冊立されます。後漢書には「諱は某」とあるので、伝わっておりません。人口調査の際に係の者に金品を贈って後宮に入ったと史書は伝えています。この何皇后は霊帝の寵愛を受けて皇子の辯を生みます。 その翌年の181年、王美人が…
三国志 第2次党錮の禁 宦官側は霊帝に李膺ら清流派知識人を讒言、弾圧を開始する 陳球らは中常侍の王甫を殺すも、宦官の勢力は揺るがない
侯覧は後漢書の宦者列伝に「佞猾(口先達者で悪賢い)を以て」昇進したと書かれるような類の人物です。彼はこの下僕を動かして「太僕の杜密、長楽少府李膺ら鉤党を捕えるべし」との上書をさせます。曹節は事情を理解していない皇帝を丸め込んで党人の逮捕を認めさせてしまったのです。 宦官が敵とみなす知識人たちが次々と逮捕されます。李膺は逃亡を勧められましたが、「君主に仕えれば難を避けず、罪を得ては刑を逃れな…
三国志 竇武たちの失敗 桓帝が死に霊帝が即位すると、外戚となった竇武は陳藩と結んで宦官誅滅を図るも、露見して自殺に追い込まれる
桓帝は政治上も問題がありましたが、世継ぎを遺さずに死んだことも問題でした。竇皇后は父の竇武と善後策を図り、章帝の玄孫で12歳の劉宏(りゅうこう)を擁立しました。これが霊帝です。 竇武は建国の功臣竇融の玄孫という出自で、若い頃から学問に励み、功績もあげていました。165年に娘の妙が後宮に入ったため、そこからわずか3年で皇帝の持つ巨大な権力を代わりに用いることができる立場に置かれたのでした。ただ、竇…
三国志 第1次党錮の禁 李膺ら清流派の知識人たちは宦官(濁流派)と激しく対立、宦官は皇帝を動かして知識人を弾圧する
朝廷において激しく宦官を攻撃したのが李膺です。李膺はそれ以前に河南の長官だった際、宦官の張譲の弟の張朔を張譲の邸宅から引きずり出して拷問を加えて自供を引き出し、直ちに処刑したこともある硬骨漢です。宦官は李膺を恐れて外出すら憚るようになったと伝えられます。 李膺の下には多くの知識人が詣で、面会の叶った者は「龍門に登った」(登龍門の語源)と言われるほどでした。 165年には、梁冀誅殺に功績の…
三国志 宦官専横の源流 桓帝は権力を壟断する「跋扈将軍」梁冀を誅滅するため宦官を利用し、誅滅を達成した宦官が重用されるようになる
梁冀は人事も握っていましたから、朝廷の高官にも梁冀の息がかかった者が大勢います。その数少ない例外として李固がいましたが、彼は桓帝即位からまもなく、梁冀に誅殺されてしまいます。 桓帝は梁冀の専横の下、何の自由もなく暮らしていました。しかし、皇帝には梁冀と言えども手が出せない聖域があります。それこそが後宮です。 後宮には大勢の女性がいるのは勿論、女性たちを世話するために大勢の宦官もいました…
三国志 三国志前夜 外戚と宦官の争いが後漢を徐々に衰えさせていったことに鑑み、党錮の禁から流れを追う
黄巾の乱に始まり、天下が再び統一されるまでの流れは、基本的には歴史をなぞっています。しかし、物語化する中で、多くのシーンが姿を変えます。それは、基本的にこの物語が講談として、聴衆相手に語りかけられるだったことと無関係ではありません。豪傑同士の一騎打ちも、諸葛亮の冴え渡る計略も、聴衆を喜ばせるためにアレンジされたものです。無名だったり劉備と絡まないところで現れた見どころのあるシーンは著名な部将の…
外戚が力を持ったことで、皇帝が外戚を排除するためには宦官に頼るしかありません。なにせ、彼らは後宮にも自由に出入りができますから、外戚も官僚も入ることができません。宦官の権力の淵源は皇帝であって3公や外戚にはありませんから、宦官は飛ぶ鳥を落とす勢いの外戚ではなく、皇帝に従うのが彼ら自身のためにもなります。 こうして、無能な皇帝が即位し、権力は己の利益しか考えない外戚か宦官に握られたのです。後…
後漢 後漢滅亡 劉備が蜀に拠り、漢中も制圧して3国の国境がほぼ固まる 220年、献帝は曹丕に禅譲して後漢が滅亡し、魏が成立する
この間、劉備は火事場泥棒的に荊州南部を掠め取ります。更に214年5月には劉備は劉璋を降伏させて、益州に拠るようになります。 214年11月、伏皇后の父伏完らによる曹操暗殺計画が発覚します。曹操は伏皇后、伏完や皇子2人を殺し、翌215年に貴人だった娘の曹節を皇后としました。こうして曹操は外戚ともなったのでした。 216年4月、曹操は魏王となります。 これに対し、219年5月に劉備は兵を発して漢中へ向かい…
後漢 魏公曹操 河北を制圧した曹操、自ら丞相となって南下を開始、荊州を降伏させて呉に向かうが、孫権・劉備連合軍に敗れる
黒山の賊というのは、185年に張牛角を始めとする指導者起こした反乱で、その兵は100万を号するほどに膨れ上がりました。張牛角の死後は褚燕なる者が反乱を引き継いでいました。褚燕は張牛角の後継者となったことからその姓も継いで、張燕と名前をかえていました。この大勢力が曹操軍団に加わったことで、曹操の力は更に増します。 206年には曹操は旧袁紹勢力の最後の残存戦力である高幹を并州に破り、翌年には遼東の公…
後漢 河北統一 献帝を迎えた曹操、官渡の戦いで袁紹を破り、続いて袁紹の息子3人を各個撃破して河北を統一する
それは則ち、軍のほとんど全てを敵に回すことを意味していました。王允が董卓の娘婿の牛輔を処刑しようとしたことから、董卓に重用されていた李?や郭��といった人々は、生きるためには王允たちと戦うしかなくなったのです。 李傕や郭��らは行く先々で軍を集め、10万もの軍勢となって長安に押し寄せました。長安城は10日で破られ、呂布は敗北して逃走します。『三国志1』はその際の惨状について、「李傕らは兵を放っ…
後漢 董卓暗殺 司徒の王允、尚書僕射の士孫瑞、呂布が中心となって董卓とその一族を皆殺し、新政権のトップには王允が就任する
董卓は根拠地の郿に堅城を築き、大量の財宝や30年分の食料を溜め込み、「天下を保てなくともここに入ればなんでもできよう」などと嘯く有様でした。 192年もまた波乱の幕開けでした。正月、袁術の命で襄陽の劉表を攻撃していた孫堅が戦死したのです。孫堅は黄巾の乱鎮圧や涼州の反乱対応で大きな力を発揮した人物ですから、袁術陣営は大きなダメージを受けることになりました。孫堅の長子の孫策は一族を率いて袁術の下…
後漢 洛陽破壊 董卓軍が孫堅に敗れたことを受け、董卓は洛陽を焼いて長安へ逃げ戻る 連合軍内では劉虞擁立を巡って対立が深まる
191年2月、反董卓連合軍側が動きます。すなわち、袁術の支援を受ける孫堅が梁県の陽人に駐屯したのです。 董卓は大督護の胡軫や騎督の呂布を派遣しました。胡軫と呂布は不仲で、呂布に騙された胡軫は突出したところを孫堅に破れます。孫堅はその後も董卓との戦いを優位に進め、孫堅の進撃に脅威を感じた董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退しました。孫堅は廃墟となった洛陽に入り、皇帝たちの陵墓を修復しました。 三…
後漢 董卓の貨幣改革 董卓は銅銭と銅像を鋳潰して、肉や孔および輪郭も定かでない、また研磨もしていないきわめて粗悪な銭を大量生産する
6月、董卓は5銖銭を毀ち、小銭を鋳します。5銖銭とともに銅人を鋳潰して、従来よりも小さな小銭を大量に作りました。董卓小銭と呼ばれるこの貨幣について、『貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 山田 勝芳』はこう記します。 この小銭は、通常の鋳銭で使われる正・裏の2つからな…
後漢 少帝辯の死 劉辯は自殺を強いられ、妻の唐姫や宮人に別れを告げて毒を飲む 董卓は都を洛陽から長安に移し、太師を自称する
劉辯は妻の唐姫と宮人を集め、最後の酒宴を開きました。酒が巡ると、劉辯は「天の道は易きも、私の道はなんと苦難に満ちていいることか。天子を廃され王となり、藩を守るも悪逆な臣下に迫られて生き延びることすら許されぬ。お前のもとをさり、冥界へ行こう」と嘆き、妻を立たせて舞わせました。 唐姫は「皇天は崩れ、后土は頽(くず)れ、身は天子となられても命はくじかれました。死と生は異なるものなるも寄り従うとは…
後漢 反董卓連合軍結成 190年正月、東郡太守の橋瑁が3公の文書を偽造して各地に反董卓の檄文を送ったことを機に、連合軍が結成される
189年10月、何皇后を葬ると、翌11月に董卓は自ら相国となります。 政治のトップは3公、則ち太尉、司徒、司空でしたね。そのいずれでもない相国という称号は、前漢の建国の功臣の中でも序列ナンバー1とされた蕭何が任命された職位でした。蕭何の後は曹参、そして呂氏が力を握った際に呂后の甥の呂産が就任して以来、誰もその地位に就くことができなかった地位です。なにせ、暗に蕭何、曹参と同じ功績がある者しか就けない…
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