大正6年1月建立寺院前回の記事⇒寺院北0715霊源寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます社号標北0716松ヶ﨑大黒天寺号標
寺院前回の記事⇒寺院北0714涌泉寺日蓮宗石仏慰霊碑洛陽6檀林下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院北0715霊源寺
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景北0396回松ケ崎小付近蔵のある風景北0397回松ケ崎小学校付近
関連記事⇒まとめ052関連0009手押し井戸ポンプ下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます井戸ポンプ北019松ケ崎小学校の敷地に
都道府県65歳以上75歳以上(%)秋田34.718.8高知33.617.6島根33.117.9山口32.816.7徳島31.816.4和歌山31.616.1山形31.517.2愛媛31.416.1大分31.216.2富山31.115.5岩手31.116.7青森3115.8長野30.716.1香川30.615.3新潟30.616長崎30.516鳥取30.416.1宮崎30.315.9鹿児島30.116.4北海道29.914.8奈良29.614.1福島29.515.3熊本29.515.7岡山29.314.8福井29.315山梨29.114.9岐阜28.814.1静岡28.514三重28.514.2佐賀28.514.8石川28.413.7群馬28.313.7広島28.213.7京都28.113.5兵庫27.813.3...ニュース017都道府県別高齢者人口比率
生師廟は、本涌寺の鼻祖である日生上人の廟堂として建てられたもので、享保13年(1728)の建立である。湧泉寺日蓮宗の寺院であり、日像上人を開山とする。大正7年(1918)妙泉寺と本涌寺が合併して涌泉寺と改名した。妙泉寺は、はじめ天台宗に属して歓喜寺という名の寺院であったが、永仁年間(1295頃)日像上人が京の都を中心に日蓮宗を広めた際、当時の妙泉寺住職実眼をはじめ村人が熱心に信仰するようになり、村民は説教に感激してお題目を唱えながら踊ったとされている。その踊りは「松ケ崎題目踊り」の名で有名となり、江戸時代の初めには後水尾上皇も見物に御幸されたことがあったという。題目を基調にしたもので法華経の功徳を歌詞に折り込みながら踊り明かす法華信仰の姿そのものであり、現在は毎年8月15日と16日の夜、当寺境内で行われ、重要民...寺院北0714涌泉寺日蓮宗石仏慰霊碑洛陽6檀林
日輪・月輪の滝滝の高さは約10m、山中から流れる水を、浅い滝つぼに水垢離ができるようになっている。寺伝によると、日像上人がこの滝の水を以て曼陀羅を書いたといわれ、妙泉寺の名もこれによるという。傍らに天正4年(1576)日諦上人が勧請した七面社がある。神社前回の記事⇒神社北0226新宮神社紀念碑京都市・松ケ崎下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社北0227七面大天女宮
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景北0395回松ケ崎近辺蔵のある風景北0396回松ケ崎小付近
京都市山科区の川崎泰市さんは回想する「子供のころから母親らに『お前の大ばあちゃんは島原の勤王芸者やったんやで』とよく聞かされた」という。1980年(昭和55年)、小川煙村という新聞記者が著した『勤王芸者』(初版・明治43年)を見た。本は、明治政府の高官木戸孝允(桂小五郎)の妻となった京都・三本木の幾松(松子)ら幕末の志士を支えた京都の芸妓の裏話を、元勤王芸者から取材して執筆したというものです。その中に長州の吉田松陰門下の久坂玄瑞が登場するが、その恋人が芸妓の桔梗屋辰路(ききょうやたつじ)だ。川崎さんは、曾祖母タツと辰路が同一人物と考え始めた。その辰路ことお辰は1910年(明治43)まで生きていて、煙村はその本人にもインタビューして本を書いており、興味をもった川崎さんは、辰路と玄瑞が初めて会ったという島原の揚屋・...人物047桔梗屋辰路幕末の志士との悲恋
地蔵尊前回の記事⇒地蔵尊北063深泥池地蔵尊下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊北064地蔵尊家と同化しています
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景井手0394回JR奈良線玉水駅付近蔵のある風景北0395回松ケ崎近辺
紀念碑明治27,8年戦役明治37,8年戦役従軍者、応召者、戦死者新宮神社猿田彦神を主神とする旧松ケ崎村(西部)の産土神で、社伝によれば、もと大比叡大明神と称したが、徳治2年(1307)一村改宗のとき、新宮大明神を勧請し、日像上人の書いた法華経と曼陀羅を合祀し、妙泉寺によって祭祀されていたという。明治初年の廃仏毀釈に際して白髭神社と称し、明治20年(1887)新宮神社と改めた。境内には本殿・拝殿・末社二宇の建物がある。因みに毎年10月23日に行われる当社の祭礼には、神輿の巡幸は行われない。その理由はの一村改宗のとき、旧来用いてきたものを背後の山中に埋めたからといわれ、その埋めたところを神輿塚・経塚・珠数塚と称している。関連記事⇒まとめ053関連0011慰霊碑戦没碑神社前回の記事⇒神社北0225末刀岩上神社下の地図...神社北0226新宮神社紀念碑京都市・松ケ崎
まち歩き前回の記事⇒まち歩き北1170桜井の水下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き北1171小川きれいな水だ
清少納言桜井白河天皇皇子桜井僧正(行慶)後鳥羽天皇皇子覚仁法親王まち歩き前回の記事⇒まち歩き北1169少年野球の像下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き北1170桜井の水
式内末刀岩上神社大正2年4月建立巨大な自然石を神体とされています口碑によれば、この岩はむかし兵庫の海中から得たものといわれ、岩上大明神と号し、牛馬漁労の神として崇敬されているという。一時、式内末刀(まとう)神社を併称したことがあったが、近年旧名になった。神社前回の記事⇒神社北0224貴舩神社下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社北0225末刀岩上神社
左松ケ崎下鴨方面右岩倉鞍馬左深泥池京都市観光課道標前回の記事⇒道標北0292下鴨、宝ヶ池方面京都市観光課下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標北0293岩倉深泥池京都市観光課
大正4年第1回全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)において京都二中が見事優勝を飾り、京都の少年たちの間に一気に野球熱が高まった。少年たちがより安全かつ安価に野球を楽しめるように京都市の小学校の教員が中心になり「京都少年野球研究会」が結成され京都文具商業組合長の鈴鹿栄氏(平成15年野球殿堂入り)が中心になって野球用のゴムボールの開発が行われた。ボールは大正7年に完成し、翌年には京都第二小学校(元成徳中学校)において、軟式野球大会を開催したのが軟式野球の普及の始まりです。関連記事⇒石碑下0021軟式野球発祥の地京都だったまち歩き前回の記事⇒まち歩き北1168大文字送り火妙まち歩き北1169少年野球の像
東比叡山方面を見る右下鴨方面左宝ヶ池岩倉方面京都市観光課右松ヶ崎山端方面左下鴨植物園方面道標前回の記事⇒道標八幡0291石清水八幡宮表参道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標北0292下鴨、宝ヶ池方面京都市観光課
まち歩き前回の記事⇒まち歩き北1167貴舩神社大祭幟まち歩き北1168大文字送り火妙
深泥池地蔵の由来京の六地蔵の1つが深泥池地蔵である。「源平盛衰記」巻6によれば、保元年間(1156~59)西光法師が都街道の入り口に、六体の地蔵尊を安置し、廻り地蔵と名付けた。すなわち四宮河原(東海道)、木幡の里(奈良街道)、造道(鳥羽街道)、西七条(山陰街道)、蓮台野(周山街道)とともに深泥池(鞍馬街道)がえらばれたとのことである。近世は六地蔵めぐりの定着により、その霊場の1つとなってからは、朝野の信仰を集めるに至った。八尺ほどある地蔵菩薩立像で、平安期の小野篁公作と伝えられたものであったが、明治初年(1869)の廃仏毀釈のため法難にあい、賀茂の神領外へ追放され、今の寺町頭の上善寺(現鞍馬口地蔵)に祀られている。時を同じくして宝池寺(現浄福寺の前身)も廃寺となり、山を越えて幡枝の浄念寺に預けられた。明治以降、...地蔵尊北063深泥池地蔵尊
関連記事⇒人物検索一覧ゆかりの地1寺院上0252浄光寺浄土宗池大雅の墓所2地蔵尊下010真町の地蔵尊涙の地蔵3生誕の地貴舩神社神社北0224人物044池大雅・画家
ニュース016 大相撲の 「明け荷」 の製作は 全国で唯一京都で
明荷(あけに)とは、大相撲において十両以上の関取力士や行司が持つ行李のこと。中には化粧廻し、締め込み、浴衣(以上、力士の場合)、小物類、雑品(テーピングテープ)といった身の回りの品が入っている。陥落した者を含む幕下以下には、たとえ持っていても使用は許されない。厳しい。作っているのはここ☟渡邉商店京都市東山区東大路五条下ル東入ル関連記事⇒今日のニュース・昔のニュースニュース016大相撲の「明け荷」の製作は全国で唯一京都で
ちから石文政8年4月(1825年)深泥池貴舩神社の由来深泥池の旧鞍馬街道には保元2年(1157)に、京の六地蔵の1つ、御菩薩池(みどろいけ)地蔵(現鞍馬口地蔵)が祀られ室町時代には関所が置かれていた。当神社の御祭神は高龗神(たかおかみかみ)と申し上げ、雨水を司る龍神で古くから鞍馬山麓の貴船に鎮座せられる貴船神社の分社として、深泥池の農民によって、勧請したものである。貴布禰総本宮貴船神社は平安遷都より、皇居の御用水と人々の生活用水や農業用水である賀茂川の水源にあたる所から川上神(弥都波能売神(みずはのめのかみ))と水を司る高龗神が御祭神として朝野の尊崇が篤く、洛中からの参詣が絶えなかった。しかし、本宮への参詣に遠くて大変だったので、寛文年間(1660~70)の10月23日に、御分霊が行われ、街道筋の当地に鎮座され...神社北0224貴舩神社
関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠北092深泥池
まち歩き前回の記事⇒まち歩き北1116北山大橋賀茂川下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き北1167貴舩神社大祭幟
寺院前回の記事⇒寺院右0712宝樹寺西山浄土宗三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院北0713浄福寺
まち歩き前回の記事⇒まち歩き北1165北山モザイクアート下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き北1116北山大橋賀茂川
2019年12月15日ポスター前回の記事⇒ポスター0111地下鉄に乗るっ京都市地下鉄ポスター0112京都高雄マウンテンマラソン
モデルは伊藤若冲の作品に出てくる象だ蕪まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1164お助け傘地下鉄・北山駅下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き北1165北山モザイクアート
まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1163石清水八幡宮胸像ボーイスカウト下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1164お助け傘地下鉄・北山駅
史跡石清水八幡宮境内八角堂石清水八幡宮境内は、古代以来の神社境内の趣を今に伝える空間であり、また、境内の地下には、石清水八幡宮が神仏習合の宮寺であったことを示す坊舎跡などの遺構も良好に保存されていることから、我が国の宗教史を理解する上で重要であるため、平成24年に国指定史跡となりました。八角堂は、かつて石清水八幡宮境内にあり、現在まで残った唯一の仏堂で、神仏習合の宮寺を理解する上で重要であるため、明治期に当堂が移築されたこの地も、境内の一部として国指定史跡となりました。八角堂の概要八角堂は、男山丘陵の東裾にある古墳時代前期(4世紀頃)の前方後円墳、西車塚古墳の後円部墳頂に建っています。本尊は、阿弥陀如来で、石清水八幡宮検校の善法寺祐清により建保年中(1213~1219)に、男山山頂の石清水八幡宮境内西谷に建立さ...史跡八幡081八角堂重要文化財三宅石碑
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