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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

アートプラス京めぐり
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2015/02/19

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  • 寺院左0678 念佛寺 天台宗

    寺院前回の記事⇒寺院左0677摂取院蛇寺浄土宗鎮西派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0678念佛寺天台宗

  • まち歩き左1104 茅葺の家 築200年

    茅葺の家大原の里は、かつては茅葺の里でした。夕方ともなると破風(はふう大屋根の三角の換気孔)から夕餉の煙の立つ様はのどかそのものでした。今では、年々減少して残り少なくなってしまいました。この田中家は、築200年経ってはおりますが、保存もゆき届いてその優美な姿では屈指のものですまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1103大原の風景下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1104茅葺の家築200年

  • 愛宕灯籠左087 大原

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左087大原

  • まち歩き左1103 大原の風景

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1102大原三千院参道の紅葉まち歩き左1103大原の風景

  • 神社左0204 出世稲荷神社

    出世稲荷神社天正15年(1587)に関白太政大臣、豊臣秀吉公が聚楽第を造営するに際し邸内に日頃より信仰していた稲荷神社を勧請しました。翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けたという。聚楽第取り壊しの後も元の場所に鎮座していたが、寛文3年(1663)に二条城西方の千本通沿い(千本旧二条付近、京都市上京区千本通竹屋町下ル)に遷座しました。開運出世の神として大名・公家から庶民までの崇敬を受けた。江戸時代後期には庶民が寄進した三百本を超える鳥居が立ち並んでいたという。近代に入ると千本通界隈が映画興行の街として繁栄したため、牧野省三や尾上松之助が鳥居を寄進した。2012年(平成24年)6月に京都市上京区より左京区大原に移転した。御神徳1開運出世の福2衣食...神社左0204出世稲荷神社

  • 愛宕灯籠左086 大原 大長瀬町

    愛宕大神と記されています関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左086大原大長瀬町

  • まち歩き左1102 大原三千院参道の紅葉

    平成30年11月27日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1101ちょっと変わった葉大原で下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1102大原三千院参道の紅葉

  • 石碑左0210 南無阿弥陀仏 とだけ 書かれている

    石碑前回の記事⇒神社左0203梅之宮神社石碑左0209大原小学校創立跡下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0210南無阿弥陀仏とだけ書かれている

  • 道標左0268 第二十壱番札所 勝林院

    右證拠阿弥陀如来円光大師二十五霊場第二十壱番札所勝林院左古知谷道わかさ大坂巡拝講建立明和五戌子年九月講元浄正道為(1768年)道標前回の記事⇒道標左0267魚山敦賀街道関連記事⇒まとめ043大阪皇陵巡拝会の道標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0268第二十壱番札所勝林院

  • 愛宕灯籠左085 大原

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左085大原

  • 道標左0267 魚山 敦賀街道

    右魚山是より六丁明治43年6月京都中井三郎兵衛建之左敦賀街道寂光院関連記事中井三郎兵衛⇒石碑東0114将軍塚付近井上道標東0106地主神社前にある道標道標前回の記事⇒道標左0266横川元三大師道三千院道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0267魚山敦賀街道

  • まち歩き左1101 ちょっと変わった葉 大原で

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1100昔の旅館「ますや」下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1101ちょっと変わった葉大原で

  • まち歩き左1100 昔の旅館 「ますや」

    土田麦僊高浜虚子が宿泊まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1099大原風景関連記事⇒石碑山0060元祖走井餅本家下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1100昔の旅館「ますや」

  • まち歩き左1099 大原 風景

    平成30年11月27日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1098大原香水下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1099大原風景

  • 寺院左0677 摂取院 蛇寺 浄土宗鎮西派

    摂取院(蛇寺)竜女山と号する浄土宗鎮西派の尼寺。俗に蛇道心寺ともいう。寺伝によると、当寺の開基浄往法師は在家の頃、妻の妹と密通し、妻はこれを苦にして悶え死んだ。その怨霊が小蛇となって男の首にまいつき、はなれようとしない。男は前非を悔いて出家し、この地に草庵をむすんで亡妻の冥福を祈ったところ、晩年になってようやくその蛇はその首からはなれたという。それより村人はこの法師を蛇道心とよび、寺を蛇寺とも蛇道心寺とも呼ぶようになったと伝える。因みに女に祟られるものが参詣すれば、厄をまぬがれるとつたえる。寺院前回の記事⇒寺院木津川0676妙楽寺顕本法華宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0677摂取院蛇寺浄土宗鎮西派

  • 道標左0266 横川元三大師道 三千院道

    左横川元三大師道右三千院道道標前回の記事⇒道標左0265横川元三大師道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0266横川元三大師道三千院道

  • まち歩き左1098 大原 香水

    大原上野町の久保家の庭内にある井泉。天長年間(824~34)弘法大師の霊感により、その高弟真済僧正が悪疫をはらい除くために掘りだしたものといい、以来井泉の傍らに一宇を建て、瑠璃光薬師如来を安置するに至ったという。この井泉はふだんは水が湧かず、毎年1回、旧暦の6月16日だけ湧出する。しかも早暁から湧き出し、午後になって止む。俗に「せんき」の水と称し、この水を飲むと疝気・癪気に霊験があるといわれ、当日は井戸よりくみ上げた水を、薬師瑠璃光仏を安置した座敷の前庭へ竹桶にて流し、一般参詣者に授与される。因みにこの井泉は、むかし久保家の先祖が白狐の危難を救った報恩に、白狐がこの奇瑞をあらわしたのだとつたえる。同家にはまた惟喬親王とつたえる僧形坐像を安置する。関連記事⇒陵墓左026惟喬親王陵墓人物017惟喬親王まち歩き前回の...まち歩き左1098大原香水

  • 石仏左038 大原 摂取院 近く

    石仏前回の記事⇒石仏左037鎌倉時代の石仏下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左038大原摂取院近く

  • 道標左0265 横川 元三大師道

    元三大師道比叡山元三大師堂への参道。かつて、誕生会(9月3日)に大原の里人は、この参道を登って、近江の人達と御堂で盆踊りを奉納した。赤いたすきのあでやかな大原女姿はひときわ目を引いたようです。道標前回の記事⇒道標木津川0264何が書かれているか不明下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0265横川元三大師道

  • ポスター0109 三千院

    平成30年のボスターですポスター前回の記事⇒ポスター0108大原宝泉院ポスター0109三千院

  • 寺院中0699 革堂 (こうどう)

    令和1年11月25日画像追加大きな提灯が目に入ってきます1004年の創建です西国33ケ所第19番目の霊場行円上人・革聖とも呼ばれた鎮宅霊符神、加茂大明神塔、寿老人神、幽霊絵馬が知られています本堂遠くからでもよく見えます香炉沢山の人に触れられたのか光っています奉納額天道大日如来と延命地蔵菩薩手水舎円行上人の石碑車石車石関連記事➡京博野外展示愛染堂寿老人堂書院庫裏右・鎮宅霊符神鐘楼右・百体地蔵尊鐘楼の脇に置かれている地蔵関連記事➡国立京都博物館野外展示加茂大明神形式が珍しいとのこと京都七福神の1つですここは、寿老人神更新時にアジサイが咲いていました平成27年6月17日撮影車石⇒まとめ005車石のあるところ寺院中0699革堂(こうどう)

  • まち歩き左1097 大原 案内板

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き木津川1096大仏鉄道開業120周年下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1097大原案内板

  • ポスター0108 大原 宝泉院

    平成30年のポスターですポスター前回の記事⇒ポスター0107石座神社(いわくら)のお祭りポスター0108大原宝泉院

  • 史跡木津川052 木津川の歴史 飛鳥・奈良時代

    史跡前回の記事⇒史跡左051一言神社旧跡史跡木津川052木津川の歴史飛鳥・奈良時代

  • 神社左0203 梅之宮神社 石碑左0209 大原小学校創立跡

    梅之宮神社大原八箇町の産土神である江文神社(左京区大原野村町)の境外摂社で、祭神は木花咲耶姫、江文神社の妻女を祀ったと伝わることから、姫宮とも呼ばれている。毎年5月5日に行われる大長瀬祭は当社の例祭で、大原八箇町の輪番によって、太鼓を伴った神輿一基が、素襖で正装した氏子に担がれ町内に出御する。4日の江文神社例祭(太原祭)に引き続いて催行されるが、昭和30年頃までは15日が大原祭、16日が大長瀬祭であった。延宝4年(1676)の『日次記事』によれば、当時は梅宮祭と称して旧暦3月3日に神輿出御、5日に還幸があった。山中に鎮座する江文神社に対し、里の中に鎮座する当社は、姫宮という性格とあいまって、小社ながら大原の人々に長く親しまれてきた。大原は江文、梅之宮の両社に守られてきた地域と言えるであろう。大原小学校創立跡明治...神社左0203梅之宮神社石碑左0209大原小学校創立跡

  • 寺院木津川0676 妙楽寺 顕本法華宗

    本立山本山は京都妙満寺相楽郡誌によると天和元年(1681)僧日開基創建す、とある本尊釈迦如来立像寺院前回の記事⇒寺院木津川0675西蓮寺西山浄土宗石碑があるのだが下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院木津川0676妙楽寺顕本法華宗

  • 寺院木津川0675 西蓮寺 西山浄土宗 石碑があるのだが

    本尊阿弥陀如来坐像観音菩薩立像勢至菩薩立像石碑内容がよくわからない寺院前回の記事⇒寺院木津川0674信楽寺(しんぎょうじ)浄土真宗本願寺派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院木津川0675西蓮寺西山浄土宗石碑があるのだが

  • 蔵のある風景木津川0392回 木津川市 市役所付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景木津川0391回木津川大龍寺付近蔵のある風景木津川0392回木津川市市役所付近

  • まち歩き木津川1096 大仏鉄道 開業120周年

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き木津川1095木津川観光マップまち歩き木津川1096大仏鉄道開業120周年

  • まち歩き木津川1095 木津川 観光マップ

    まち歩き前回の記事⇒木津川1094まち歩き木津川1095木津川観光マップ

  • まち歩き木津川1094 地名 庄村口

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き木津川1093石仏敷地を削って祀られていますまち歩き木津川1094地名庄村口

  • 神社木津川0202 木津川 天王神社

    社号標天王神社昭和3年10月建立石柱上と下に穴が開いてます国旗を立てていたかもしれない南大路町皇紀2600年建立天王神社当社の創建は應永年中(1394~1428)と伝えられ京都八坂神社を勧請して祭神は牛頭天王(スサノオノミコト)なり、一般にギオンと云われるのは貞観11年下河原に住む僧の円如が播磨の広峰から牛頭天王を勧請し祇園荒町に精舎を建て祇園天神堂と名づけ後ギオン八坂神社と云われるようになった。神話では英雄の神、農業の神、山地の神、勇知にたけた神、悪病払いの神と伝えられ毎年7月の夏祭りには貞観11年都にはやった悪病払いのため宮中神泉苑で御霊会を行われたのが始めと云われ、この祭の形式が中世以降全国各地に祇園会天王祭として流れ行き夏祭りの祇園祭には無病息災、平安祈願、家内安全を祈願のため当社天王神社も近郷より多数...神社木津川0202木津川天王神社

  • 寺院木津川0674 信楽寺(しんぎょうじ) 浄土真宗 本願寺派

    寂正山信楽寺(しんぎょうじ)開基僧智円永禄4年(1561年)浄土真宗本願寺派永禄4年(1561)の創建天台宗から浄土真宗にかわる。浄土真宗として出発した当時は、惣道場であり、寺号を西本願寺から賜わったのは天保2年(1831年)である。本尊は阿弥陀如来立像他に親鸞聖人画像、蓮如上人画像、聖徳太子画像を有する。切支丹宗門御制禁寺請帳がある。安永4年(1775)の寺請帳がこの寺に残っている。これは江戸時代、庶民がキリシタン信徒でないことをその檀那寺に証明させた(寺請制度)江戸幕府は、寛永11年(1634)にキリシタンを禁止するとともに宗門改によって宗徒を探索し改宗帰仏者から請印をとったが後には、この請文が一般化し、庶民は所属寺院を檀那寺としてキリシタンでないことを証明した。庫裡は旧二条家の居宅を移築したものと伝えられ...寺院木津川0674信楽寺(しんぎょうじ)浄土真宗本願寺派

  • まち歩き木津川1093 石仏 敷地を削って祀られています

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1092岩倉道端の石仏下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き木津川1093石仏敷地を削って祀られています

  • 道標木津川0264 何が書かれているか 不明

    道標前回の記事⇒道標左0263岩倉鎮宅妙見道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標木津川0264何が書かれているか不明

  • 蔵のある風景木津川0391回 木津川 大龍寺 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景木津川0390回図書館付近蔵のある風景木津川0391回木津川大龍寺付近

  • 寺院木津川0673 大龍寺 浄土宗 知恩院派

    文禄年間以前は現在地より東北約100mのところにあった庵室を文禄2年(1593年)に現在地に移転したといわれている。高橋山創立嶽誉光春大徳文禄2年(1593)浄土宗知恩院派本尊阿弥陀如来立像観音菩薩立像勢至菩薩立像本堂文化年間(1804年~18年)梵鐘延宝7年(1679年)地蔵尊石仏寺院前回の記事⇒寺院左0672西願寺(さいがんじ)浄土宗鎮西派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院木津川0673大龍寺浄土宗知恩院派

  • 蔵のある風景木津川0390回 図書館 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景左0389回岩倉元八幡宮付近蔵のある風景木津川0390回図書館付近

  • 石碑木津川0209 木津町役場跡

    石碑前回の記事⇒石碑左0208朗詠谷石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑木津川0209木津町役場跡

  • 道標左0263 岩倉 鎮宅妙見道

    右鎮宅妙見道是ヨリ三丁大正13年4月建立修学院有志者発起人石工名力修学院石工小川卯之助道標前回の記事⇒道標八幡0262獅子塚跡碑三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0263岩倉鎮宅妙見道

  • 神社左0201 岩倉 梅ノ宮神社

    梅ノ宮神社中村(現中村)は往古下鴨中村郷にあり村民は下鴨社の神人として仕えてきたが度重なる賀茂川氾濫の被害を受け後水尾天皇の時代(1611~29)禁裏御陵であった現在地に移住してきたと伝えられる。梅ノ宮社は以前東北100mの位置にあったが、明治9年現在地に遷社、大正9年に東向きを南向きに改め昭和53年宗教法人の認可を受け、昭和60年6月社殿を改築現在に至る。梅ノ宮社の由緒等については、不詳であるが中村郷より共に移り来たものと思われる。なお神社は「ながいきの神様」としてあがめられ大祭を5月3日(祝)に執り行われ神前で子供ずもうが奉納される。大正6年の建立神社前回の記事⇒神社左0200岩倉長谷八幡宮下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社左0201岩倉梅ノ宮神社

  • 石碑左0208 朗詠谷 石碑

    朗詠谷石碑飛騨ノ池の入り口に立つ石碑は、藤原公任がここ(朗詠谷)で、漢詩や和歌を集めた詩歌集『和漢朗詠集』を編集したという故事にちなんで、昭和50年に建立された。公任は晩年、世をはかなみ貴族の暮らしを捨て、朗詠谷の山荘で詩歌を友に暮らした。解脱寺で出家後も17年間この地で過ごし、76歳で亡くなった。朗詠谷和漢朗詠集の道御所谷とも云う撰者四条大納言藤原公任隠棲地はこの付近谷風になれすといかゝおもふらん心ははやくすみにしものを公任石碑前回の記事⇒石碑左0207萬里小路藤原公遺髪塔下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0208朗詠谷石碑

  • 愛宕灯籠左084 岩倉 長谷町

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左084岩倉長谷町

  • 愛宕灯籠左083 岩倉 御殿町

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左083岩倉御殿町

  • 愛宕灯籠左082 岩倉 小屋尻で

    愛宕神社関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左082岩倉小屋尻で

  • 愛宕灯籠左081 岩倉 栗栖で

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左081岩倉栗栖で

  • 愛宕灯籠左080 岩倉 長谷八幡宮 一ノ鳥居 付近

    愛宕神社遥拝所関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左080岩倉長谷八幡宮一ノ鳥居付近

  • 寺院左0672 西願寺(さいがんじ) 浄土宗 鎮西派

    西願寺(さいがんじ)浄土宗鎮西派の寺。天正年代創建と伝わり、開山は超蓮社願與宗福和尚。本尊は阿弥陀如来立像(木像)、脇侍は観音菩薩、勢至菩薩。北野天満宮朝日寺から、聖観音菩薩が明治の初めにうつる。毎年8月1日に御開帳があり、だれでもお参りできる。なお西願寺は昭和49年に大和大路三条下ルから当地に移転した。寺院前回の記事⇒寺院左0671西蓮寺浄土宗西山派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0672西願寺(さいがんじ)浄土宗鎮西派

  • 神社左0200 岩倉 長谷八幡宮

    長谷八幡社当神社は惟喬親王の御請願に依り、八幡大神並びに惟仁親王を御歓請し天安元年(857)この洛北の地に御鎮座された古社である。皇位から艮(うしとら)位の方向に当たることから、国家鎮護の神と申し伝えられてきた。山城名跡巡行志には「鳥居は西向、一ノ鳥居は人家の傍に在りの二ノ鳥居は社の前、又花園方に在り、拝殿社南向き、惟仁親王の観請と伝える」とある。元和年中(1615年~1624)社殿大破を憂いられた後水尾天皇の皇女東福門院が御修理再興せられたものが現在の社殿と伝えられている。長谷村、花園村、中村、三宅村の岩倉四ケ村一円に亘る広大な地域の氏神として崇敬されてきた。毎年秋の大祭日に神輿を奉じ氏子区域を巡行し、三宅町の御旅所まで渡御が盛大に行われる。移り変わり激しき世と共に近来人口も増加する中にあって、格式ある社殿及...神社左0200岩倉長谷八幡宮

  • 愛宕灯籠左079 岩倉 得尾町 明治25年

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左079岩倉得尾町明治25年

  • 石鳥居左290 長谷八幡宮

    創建元禄7年3月(1694)昭和55年5月再建石鳥居前回の記事⇒石鳥居左245基江文神社の第1鳥居か下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石鳥居左290長谷八幡宮

  • 寺院左0671 西蓮寺 浄土宗 西山派

    寺院前回の記事⇒寺院左0670正行院石仏と猫下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0671西蓮寺浄土宗西山派

  • 寺院左0670 正行院 石仏と猫

    正行院当院は法然上人を宗祖と仰ぐ浄土宗鎮西派の寺院である。平松信高将軍が裏方の安居地として創営、詳しくは平松念仏寺正行院と号し開山は天正元年(1573)順與誉道傳大徳和尚。本堂には木像阿弥陀如来立像と脇侍に観音菩薩と勢至菩薩が安置されている。昭和9年の室戸台風で倒壊、萱葺から現在の瓦葺きとなる。寺院前回の記事⇒寺院左0669是心寺臨済宗相国寺派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0670正行院石仏と猫

  • 愛宕灯籠左078 岩倉 村松緑地公園

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左078岩倉村松緑地公園

  • 史跡左051 一言神社 旧跡

    一言神社『岩倉村誌』(1905年)によると、祭神は一言主[ひとことぬし]大神。『岩倉村誌』によると「由緒勧請創立年月不詳」ですが、一言主神社の総本社(奈良県御所市)が賀茂氏の本拠地の高嶋神社近くにあるので、賀茂氏の移動に伴い、一言主神をまつる人たちがこの地にやってきて、まつるようになった可能性が高いと思われます。地元では願いを一言だけきいてくれる神として親しまれています。一言神社は今では石座(いわくら)神社境内にありますが、元はここから南東約150mの正水山(しょうずやま)にありました。元の社殿は、後水尾天皇の娘で岩倉の万年岡茶屋に住んでいた女三宮が寛文8年(1668)に再営したものです。明治11年(1878)に石座神社境内へ遷座。その後も正水山にこの石碑が残されていましたが、村松団地の建設に伴い、昭和48年(...史跡左051一言神社旧跡

  • 運動記録 11月分

    11月の運動記録16日ウォーキング22006歩14日階段昇降11㎏100往復月合計300往復12日ウォーキング10353歩11日階段昇降11㎏100往復月合計200往復8日階段昇降11㎏100往復月合計100往復6日ウォーキング25316歩5日ウォーキング19211歩4日ウォーキング24717歩3日ウォーキング26446歩2日ウォーキング13702歩1日ウォーキング22376歩家の階段14段を往復。11㎏リュックを背負う。利点雨の日でも、風の日でも、酷暑のときでも、夜でもいつでもできるどんな服装でもできる暑さ対策、寒さ対策、紫外線対策、雷に対して不安なくできる筋力がつく、体力がつくなにかといいことが多い。このほかにダンベルを使って腕・上半身の筋力アップ・維持を100回。継続するかがポイントテレビをちらちら見なが...運動記録11月分

  • 寺院左0669 是心寺 臨済宗相国寺派

    臨済宗相国寺派の寺。文禄元年(1592)の創建という。本尊は釈迦如来。手入れの行き届いた庭がある禅寺で樹齢数百年の五葉松もある。焔魔堂のなかに、閻魔大王を始めとする十王像、書記役の司令・司禄像と奪衣婆の各乾漆像を安置する。十王像がそろって祀られているのは大変珍しい。またこの像は、もと木野街道の「十王堂橋」の脇にあったものを明治初期に移したという。門の脇の石仏門の脇にある閻魔堂この中に十王像があります関連記事⇒祠北042岩倉川十王堂橋付近の草に覆われた祠寺院前回の記事⇒寺院左0668来迎院浄土宗鎮西派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0669是心寺臨済宗相国寺派

  • 寺院左0668 来迎院 浄土宗鎮西派

    慶長元年(1596)の創建と伝わる寺院前回の記事⇒寺院左0667長源寺浄土宗重要文化財下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0668来迎院浄土宗鎮西派

  • 寺院左0667 長源寺 浄土宗 重要文化財

    浄土宗鎮西派の寺で寛正4年(1463)上長谷に創建されたと伝わる。明治5年(1872)長谷村に5つの寺がまとめられて長源寺となったため、仏像を多く所蔵する。本堂内正面厨子の阿弥陀如来は江戸期、脇侍の11面観世音菩薩は平安時代の作(もと常春庵)。薬師如来(もと恵尊寺)も平安時代の作で、重要文化財に指定されている。更に不動明王、地蔵菩薩も安置されている。風変りな建物は戦後に明徳小学校の旧講堂の建材を再利用したもの。この寺の背後の山を小倉山と呼び、戦国時代の山城の跡が残る。関連記事⇒まとめ045京都府の重要文化財・国宝建物寺院前回の記事⇒寺院左0666浄念寺浄土宗鎮西派石仏と十三重塔下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0667長源寺浄土宗重要文化財

  • 愛宕灯籠左077 岩倉 忠在地町 明治24年

    明治24年3月関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左077岩倉忠在地町明治24年

  • 愛宕灯籠左076 岩倉 中在地町

    後ろの灯籠愛宕の文字が見える関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左076岩倉中在地町

  • 地蔵尊左060 岩倉の町で

    地蔵尊前回の記事⇒地蔵尊左058岩倉延命地蔵尊目無地蔵下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊左060岩倉の町で

  • 蔵のある風景左 岩倉 元八幡宮 付近

    蔵のある風景左岩倉元八幡宮付近

  • 神社左0199 岩倉 元八幡宮

    皇孫御誕生記念と刻されています2019年で94歳誰のことでしょう。大正14年だと思われます幡の文字が難しい神社前回の記事⇒神社八幡0198天満宮鳥居は享保年間の建立下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社左0199岩倉元八幡宮

  • 蔵のある風景左0388回 岩倉 浄念寺 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景八幡0387回八幡戸津地区蔵のある風景左0388回岩倉浄念寺付近

  • まち歩き左1092 岩倉 道端の石仏

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1091岩倉石座神社灯籠皇紀2600年銘下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1092岩倉道端の石仏

  • 寺院左0666 浄念寺 浄土宗 鎮西派 石仏と十三重塔

    慶長2年(1597)の創建と伝わる寺院前回の記事⇒寺院左0665大雲寺天台系下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0666浄念寺浄土宗鎮西派石仏と十三重塔

  • 愛宕灯籠左075 岩倉 村松緑地公園 北辺り

    明治30年9月と記されています関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左075岩倉村松緑地公園北辺り

  • 陵墓左031 実相院宮陵

    実相院宮墓後西天皇皇子義延・伏見宮邦永親王の子義周・慶光天皇皇子健宮を葬る。傍には、大雲寺中興開山義尊僧正や義海上人の墓がある。関連記事⇒まとめ042陵墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます陵墓左031実相院宮陵

  • 墓所左010 智弁僧正の墓

    智弁僧正の墓智弁とは諡号(しごう)で、正しくは余慶という。智証大師(円珍)門下の逸材として、第20代天台座主となり、また冷泉天皇皇后の帰依を得て観音院の開山となった。正暦2年(991)77歳で寂した。前回の記事⇒墓所左009藤原藤房遺髪塔下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます墓所左010智弁僧正の墓

  • 石仏左037 鎌倉時代の石仏

    どれが鎌倉時代の石仏なのか石仏前回の記事⇒石仏左036岩倉台座と屋根があります下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左037鎌倉時代の石仏

  • 祠左053 大雲寺 閼伽井 (観音水)

    閼伽井(観音水)別名「智弁水」と云い、智弁僧正(918~991)が霊水を求めて密教の秘法を修められたとされる伝説と、大雲寺文慶上人(965~1046)の夢に跋難陀龍王が現れて「此の地に名水有り、汝に与うべし」とお告げがあり、早速、左の袂をもって大地を撫するとたちまち霊水が湧出したという故事が残っている。干ばつにも降雨にも増減しない「不増不減の水」と称され古来より霊水として崇められ、心の病・眼の病にことのほか霊験があると平安時代から今日までかわらぬ信仰をあつめている。大雲寺住職道標東赤山北金毘羅祠前回の記事⇒祠北052石仏と不動明王下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠左053大雲寺閼伽井(観音水)

  • 源氏物語遺跡29 大雲寺旧境内 北山の「なにがし寺」候補地

    大雲寺旧境内北山の「なにがし寺」候補地当辺は『源氏物語』「若紫」に登場する北山の「なにがし寺」の候補地の1つとされ、元は大雲寺の境内地(寺は1985年に石座神社東に移転)で、現在は北山病院の敷地となっている。寺は紫式部の母方の曾祖父藤原文範が、出家した娘婿の真覚上人のために建立、円融天皇の御願寺となり、49院の僧院からなる叡山西麓最大の天台寺院で、真覚の師が三井寺(園城寺)の僧であったことから寺門派の一大拠点ともなった。その後、冷泉天皇皇后昌子内親王による堂舎の建立で寺は拡大、岩倉観音院とも称し、この時の法要は盛大で、紫式部の父の藤原為時は何度も話題にしており、紫式部も訪れた可能性がある。ここが「なにがし寺」候補地とされる理由は、都から比較的近い距離にあって高僧が住み、かつて庭に遣水のほか、趣きのある滝があって...源氏物語遺跡29大雲寺旧境内北山の「なにがし寺」候補地

  • 花左036 府立植物園 コスモスの花

    令和元年11月2日撮影花前回の記事⇒花035白い花花左036府立植物園コスモスの花

  • 陵墓左030 冷泉天皇 皇后 岩倉陵

    冷泉天皇皇后岩倉陵昌子内親王は朱雀天皇の皇女であるが、大雲寺の観音を深く信仰され、永観3年(985)この地に金色の六観音を安置した講堂をはじめ、五大堂・灌頂堂・法華堂・阿弥陀堂・真言堂の六堂宇を備えた壮大な観音院を建立された。長保元年(999)12月、55歳で崩御の後は法華堂に埋葬された。因って世に観音院太后と称する。観音院はその後の大雲寺を代表する主要伽藍となったが、中世以降は寺運は衰微し、法華堂跡には新羅明神が祀られるに至った。これがために御陵は久しく不明になっていたが、明治17年(1894)に至って治定された。はじめ観音院陵と称し、のちに西坂本陵と改め、明治27年(1894)さらに現在の陵名に改められた。陵墓前回の記事⇒陵墓右029後嵯峨、亀山、後伏見天皇火葬塚関連記事⇒まとめ042陵墓下の地図のユーザー...陵墓左030冷泉天皇皇后岩倉陵

  • まち歩き左1091 岩倉 石座神社 灯籠 皇紀2600年銘

    出征将兵武運長久皇紀2600年記念関連記事⇒神社左0185石座(いわくら)神社まとめ006紀元2600年石碑・献木・奉納額まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1090地名「蜻蛉尻」下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1091岩倉石座神社灯籠皇紀2600年銘

  • 石碑左0207 萬里小路 藤原公遺髪塔

    関連記事⇒墓所左009藤原藤房遺髪塔石碑前回の記事⇒石碑八幡0205小野篁公作十王像閻魔堂三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0207萬里小路藤原公遺髪塔

  • 寺院左0665 大雲寺 天台系

    大雲寺・遮那林天台系単独寺院岩倉観音・善光寺如来行基菩薩ゆかりの寺天禄2年(971)円融天皇勅願寺として創建された。行基菩薩作11面観音を本尊とし最盛期には数十の堂舎と千有余人の僧を擁し洛北屈指の名刹として智証大師流の天台法門を伝えた。紫式部の「源氏物語」や「太平記」井原西鶴「好色一代女」等に当寺が舞台として登場する。宋に渡った成尋の事も有名である。戦国時代の兵火で多くの建物を失い寛永年間に一部再建されたが昭和60年に「不二坊」の旧地の現在地に移転した。岩倉観音の疾病平癒の霊験は古来有名である。寛政の文字がある1789年~1801年寺院前回の記事⇒寺院八幡0664正光寺浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0665大雲寺天台系

  • 道標八幡0262 獅子塚跡 碑 三宅石碑

    小高い山は石清水八幡宮獅子塚跡下奈良三丁昭和3年春京都三宅安兵衛依遺志建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標道標前回の記事⇒道標八幡0261戸津の道標三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0262獅子塚跡碑三宅石碑

  • 寺院八幡0664 正光寺 浄土宗

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0663八幡阿弥陀寺浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0664正光寺浄土宗

  • 神社八幡0198 天満宮 鳥居は享保年間の建立

    享保(1716~36)の文字が読めます300年前です神社前回の記事⇒神社八幡0197八幡神社戸津村下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社八幡0198天満宮鳥居は享保年間の建立

  • まち歩き八幡1090 地名 「蜻蛉尻」

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1089八幡市内里の集落下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1090地名「蜻蛉尻」

  • 寺院八幡0663 八幡 阿弥陀寺 浄土宗

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0662西光寺真宗本願寺派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0663八幡阿弥陀寺浄土宗

  • 寺院八幡0662 西光寺 真宗本願寺派

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0661浄音寺浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0662西光寺真宗本願寺派

  • 蔵のある風景八幡0387回 八幡 戸津 地区

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景八幡0386回八幡辻垣内付近蔵のある風景八幡0387回八幡戸津地区

  • 道標八幡0261 戸津の道標 三宅石碑

    東内里八丁松井二十丁上奈良八丁岩田渡船所三十丁上津屋十五丁寺田一里余西八幡志水八丁橋本一里八幡宮十六丁京阪電車楠葉乗場一里京阪電車停留所二十丁山崎一里十丁昭和3年春京都三宅安兵衛依遺志建立北下奈良渡船所十丁宇治二里余下津屋十二丁川口渡船所十丁田井十五丁淀一里関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標前回の道標記事⇒道標八幡0260涙川の旧跡円福寺の碑三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0261戸津の道標三宅石碑

  • 寺院八幡0661 浄音寺 浄土宗

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0660阿弥陀寺浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0661浄音寺浄土宗

  • 寺院八幡0660 阿弥陀寺 浄土宗

    寺院前回の記事⇒寺院八幡0659水月菴下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0660阿弥陀寺浄土宗

  • 神社八幡0197 八幡神社 戸津村

    八幡神社慶応3年(1867)12月王政復古の大号令が発せられると、鳥羽・伏見の戦いがおこり、京都方と幕府軍との戦いが始まった。まもなく淀城が京都方に降伏し落城すると政府軍は橋本陣屋に滞在し、この為八幡への砲撃は避けられず、八幡宮を守る事態が生じた。八幡大神は難を避け慶応4年(1868)正月6日辰ノ刻(午前10時頃)に御鳳賛にて社務所司や武装した諸神人に警固され男山を下山し大住村(現綴喜郡田辺町大住)の奥坊拝殿へ奉安された。しかし幕府軍の敗走により八幡・橋本での戦火が鎮まると京都方の長州・因州の兵が大住村奥坊へ赴き翌8日の征討将軍仁和寺宮の八幡宮参拝の旨を告げ7日中に御鳳賛が還行することを命じた。この命に従い早速還幸の準備が進められて大住村を出発した御鳳賛は途中戸津村にて一時の御休憩をとられたこの地は八幡神ととも...神社八幡0197八幡神社戸津村

  • 寺院八幡0659 水月菴

    水月菴当菴は元阿弥陀堂と申し天明初年の頃越前ノ国より霊宗尼が二人の弟子と此の地にこられ其頃円福寺の住職海門禅師に付いて修行され其の後京都の五条坂に金光院の菴主様も当菴にきて霊宗様と共に熱心に修行とれましたので八幡の阿弥陀堂には立派な菴主様が二人も居られると云事が全国に聞伝へられて盛大な時は5・60人もの雲水が集まって暇さえあれば托鉢其の他色々作務を致乍ら熱心に修行して居られたのですが何と云っても円福寺が近いので僧道場にふさわしく無いとの事で只今は京都一乗寺の圓光寺へ道場がうつされたので御座います。そんな厳しい道場ですが其頃京都東園の中姫が皇女和宮の句に上がって居られましたので宮様の生前の悩みをお気のどくに思ひ洛南福禄谷の菴にて黒髪を落とし宗門に入られて宮様の菩提をおとむらいをされたので、その御因縁で明治天皇様の...寺院八幡0659水月菴

  • 道標八幡0260 涙川の旧跡 円福寺の碑 三宅石碑

    向て左寶青庵一丁半昭和2年京都三宅安兵衛遺志建立向て右園福寺五丁半涙川奮跡関連記事⇒三宅安兵衛の道標道標前回の記事⇒道標八幡0259筒井順慶陣所址洞ケ峠下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0260涙川の旧跡円福寺の碑三宅石碑

  • 寺院八幡0658 円福寺 三宅安兵衛 石碑

    円福寺天明年間(1781~88)斯経(しけい)禅師により開創された臨済宗妙心寺末の修行道場である。山門・坐禅堂等を備えた伽藍は、江戸時代末頃より整備され、現在も専門修行道場として、その規模を誇る。当寺所有の達摩大師坐像は、重要文化財に指定され、像高82cm、檜材寄木造り、玉眼嵌入の鎌倉時代の作である。この像は、もと大和国達磨寺から八幡に移り石清水八幡宮社務田中家に秘蔵されていたもので、文化4年(1807)妙心寺海門和尚が譲り受け当寺に安置した。同じく重要文化財の大般若経は、奧書はないが書風より奈良時代前期の写経といわれ、薬師寺の印をもち、もと奈良の薬師寺に伝わったものであった。一部、鎌倉・室町時代の補写がある。三宅安兵衛の道標だ水月庵是より二丁昭和2年10月京都三宅安兵衛建立平成30年11月11日撮影関連記事⇒...寺院八幡0658円福寺三宅安兵衛石碑

  • 道標八幡0259 筒井順慶陣所址 洞ケ峠

    洞ケ峠巷説によれば、天正10年(1582)6月13日、秀吉と光秀とが天王山で戦った時、大和郡山城の筒井順慶はいずれにも加勢せず、洞ケ峠に出陣して両方の合戦ぶりを観望し、秀吉方が有利と見るや峠を下って光秀方を攻撃したという。ときの人は彼を「日和見順慶」とよび、それよりのちは日和見主義を称して、一に洞ケ峠ともいわれた。しかし順慶はそれより早く光秀とは関係を絶っていたといわれる。筒井順慶陣所址右西二子塚三丁左円福寺三丁昭和2年10月京都三宅安兵衛建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標道標前回の記事⇒道標八幡0258八幡市二子塚跡三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0259筒井順慶陣所址洞ケ峠

  • 神社八幡0196 若宮八幡宮

    昭和2年10月文政9年11月(1826年)神社前回の記事⇒神社八幡0195内神社下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社八幡0196若宮八幡宮

  • 道標八幡0258 八幡市 二子塚跡 三宅石碑

    東二子塚史跡公園東二子塚跡左西二子塚一丁昭和2年9月京都三宅安兵衛建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標道標前回の記事⇒八幡0257道標八幡0257右みのやま左なら下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0258八幡市二子塚跡三宅石碑

  • 道標八幡0257 右 みのやま 左 なら

    左なら道標前回の記事⇒道標八幡0256美濃山横穴跡三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0257右みのやま左なら

  • 道標八幡0256 美濃山横穴跡 三宅石碑

    竹林の中を進みますこんなところにありました三宅さんの道標右古寺三丁美濃山横穴跡昭和2年9月京都三宅安兵衛建立竹藪になりこれ以上進めない関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標道標前回の記事⇒道標八幡0255愛宕大神右宇治渡場道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0256美濃山横穴跡三宅石碑

  • 寺院八幡0657 宝壽院 美濃山 浄土宗 三宅石碑がある

    王塚古墳右小塚二丁左宇智王子邸跡八丁浜田青陵書昭和2年9月京都三宅安兵衛建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標寺院前回の記事⇒寺院八幡0656蓮臺寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0657宝壽院美濃山浄土宗三宅石碑がある

  • 寺院八幡0656 蓮臺寺

    阿弥陀如来尊坐像蓮臺寺堂があります寺院前回の記事⇒寺院八幡0655極楽寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0656蓮臺寺

  • 寺院八幡0655 極楽寺

    平成30年11月10日撮影寺院前回の記事⇒寺院八幡0654円覚寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0655極楽寺

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