蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景長岡0385回長岡京市神足神社付近蔵のある風景八幡0386回八幡辻垣内付近
愛宕大神右宇治渡場道道標を兼ねている関連記事⇒愛宕燈籠一覧道標前回の記事⇒八幡0254下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0255愛宕大神右宇治渡場道
寺院前回の記事⇒寺院八幡0650西福寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0651明尊寺
平成30年11月10日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1086ポスト頑張っていますまち歩き八幡1087八幡の農道の花
平成30年11月10日撮影寺院前回の記事⇒寺院八幡0649正覚寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0650西福寺
寺院前回の記事⇒寺院八幡0648西向寺石碑何が書かれているのか下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0649正覚寺
まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1085収穫の跡八幡市岩田地区下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1086ポスト頑張っています
岩田社右岩田渡船場三丁左内里五丁昭和2年京都三宅安兵衛依遺建立道標前回の記事⇒道標八幡0253式内石田神社関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0254岩田社岩田渡船場三丁三宅道標
道標前回の記事⇒道標八幡0252石田神社・御旅所にある道標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0253式内石田神社
神社前回の記事⇒神社八幡0192若宮八幡宮下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社八幡0193石田神社
平成30年11月10日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き北1084彫刻「寒」山崎正義まち歩き八幡1085収穫の跡八幡市岩田地区
何と書いてあるのでしょう寺院前回の記事⇒寺院八幡0647光瀬寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0648西向寺石碑何が書かれているのか
神社前回の記事⇒神社八幡0191石田(いわた)神社御旅所下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社八幡0192若宮八幡宮
読めない寺院前回の記事⇒寺院八幡0646専琳寺浄土真宗本願寺派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0647光瀬寺
寺院前回の記事⇒寺院八幡0645善照寺真宗本願寺派下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0646専琳寺浄土真宗本願寺派
川越東長池宇治堤通南天神森奈良堤内西楠葉枚方堤通北よど八幡文政2年(1819年)施主伊佐氏おとなしい犬だ道標前回の記事⇒道標左0251岩倉観世音天保6年(1835)建立下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0252石田神社・御旅所にある道標
神社前回の記事⇒神社北0190貴船神社関連記事⇒神社八幡0166石田神社十三重石塔算額下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社八幡0191石田(いわた)神社御旅所
文化財八幡007 伊佐家住宅 江戸時代の豪農の家 重要文化財
伊佐家住宅重要文化財伊佐家住宅は、江戸時代中期の山城地方の代表的民家として、昭和50年(1975)に、先ず主屋と棟札が国の重要文化財に指定され、昭和55年(1980)に主屋以外の建物と普請文書、古図、宅地などが追加指定された。伊佐家は代々天領の庄屋を勤めた家で、敷地は約2600㎡あり住宅周囲に石垣を築き、正面の南側道路沿いには濠跡が残っている。屋敷の裏三方は竹藪で囲み、竹藪と屋敷とを区切る堀をめぐらしている。屋敷のほぼ中央に享保19年(1734)に上棟の茅葺主屋があり、表側に長蔵を構え、主屋と長蔵の間に中仕切りの高塀を築き、塀中門がある。主屋の裏側には内蔵が隣接して建ち、さらにその裏に東蔵、木小屋、二階蔵乾蔵が頑丈な石垣の上に建ち並んでいる。特徴しては、主屋の軒の厚い茅葺、玄関から座敷への「桃山」という赤壁、祭...文化財八幡007伊佐家住宅江戸時代の豪農の家重要文化財
皇紀2600年寺院前回の記事⇒寺院八幡0644西雲寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院八幡0645善照寺真宗本願寺派
西雲寺に安置されている薬師如来の由来『薬師如来像』は、およそ平安時代後期以降とされている。より元来、上津屋の石田神社境内にあった真言宗『福泉寺』と申します。その昔、木津川は度重なる河川の決壊や、洪水に見舞われ、村人たちが疫病にかかったり、また木津川は船便としての交通の要所でもあり、人々の生命を守ってくれるのがこの『薬師如来様』です。とのことが書かれた文書が神社に保存されてあります。御本尊は氏神本地仏として神社境内に安置され村民より深く信仰されていたが、明治維新に至り、神仏混交が許されず、政府の達しにより、当時の村史と氏子中が協議の上にて、西雲寺境内に移転されて村民よりあつい信仰をされていたそうです。当時の西雲寺檀信徒総代と神社氏子総代により、共有の薬師如来像であることを認めあったのが明治35年11月8日に氏子総...寺院八幡0644西雲寺
勝竜寺城公園細川ガラシャ(1563~1600)天正6年(1578)、明智光秀の娘・玉は、父の主君・織田信長に勧められ、勝竜寺城主・細川藤孝の長子忠興に嫁ぎます。そして、その後2年間、勝竜寺城で幸福な新婚生活を過ごしたと言われています。しかし、天正10年(1582)、父の光秀が主君・信長を討つという歴史上の大事件(本能寺の変)を起こします。天下人となった光秀は、盟友の細川藤孝・忠興親子に加勢を求めますが、親子はこの誘いをきっぱりと断ります。その後、光秀は羽柴秀吉との戦い(山崎の合戦)に敗れ、居城・近江坂本城に落ち延びる道中で亡くなります。一転「逆臣の娘」となった玉は、以後苦難の生活を強いられることとなりました。光秀の死後、忠興は、玉を丹後の山奥・味土野(現・京都府京丹後市)に隔離・幽閉します。幽閉が解かれ、大阪城...史跡長岡050勝竜寺城跡細川ガラシャが住んでいた
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景左0384回岩倉山住神社付近運動記録10月23日12回目階段昇降14段3m、11キロ重で100往復月合計1200往復蔵のある風景長岡0385回長岡京市神足神社付近
寺院長岡0643 大悲山 観音寺 洛西観音霊場13番 後醍醐天皇ゆかりの寺
関連➔お寺・神社めぐり07洛西33所観音霊場寺院前回の記事⇒寺院北0642正覚寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院長岡0643大悲山観音寺洛西観音霊場13番後醍醐天皇ゆかりの寺
寺院前回の記事⇒寺院北0641西向寺(さいこうじ)浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院北0642正覚寺
史跡前回の記事⇒史跡宇治田原048信西塚平安時代・平清盛方下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます史跡長岡049勝龍寺城土塁・空堀跡長岡京市
西向寺(さいこうじ)幸阿弥谷と号し、浄土宗知恩院派に属する。寛永年間(1624~1644)清誉浄顕(せいよじょうけん)上人が西向庵と称する小草庵をこの地に創建し、念仏弘通(くつう)の道場としたのが当寺の起こりである。現在の堂宇は宝暦2年(1752)、六世俊龍和尚により再建された。明治15年(1882)本山知恩院から寺号を得て、西向寺と名を改め、以後庶民の寺として栄え現在に至っている。本堂には本尊阿弥陀如来25菩薩を祀る。南脇壇に安置する二体の阿弥陀如来像は「二葉の弥陀」と称し、藤原時代中期の作と言われる。この仏像内に納められていた慶安2年(1649)銘の胎内文書・本尊再興奉加帖によれば、上賀茂神社の別所であった上賀茂御堂西念寺のもので、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった際に当寺に安置されたものと推定される。また、...寺院北0641西向寺(さいこうじ)浄土宗
祠前回の記事⇒向日051祠北052石仏と不動明王
常徳寺当寺は明応2年(1493)に知足山とし改号され、寛永5年(1628)日奥(にちおう)上人が金工後藤氏の帰依を得て中興した日蓮宗妙顕寺派の寺で、当時、妙覚寺住職だった日奥は、京都のすべての寺に法要を求めるなど弾圧を強めた豊臣秀吉に反発。寺を追われて常徳寺に身を寄せた。信者以外に施しを受けない「不受不施」の主義を貫き、それがもとで弾圧にあったという。日奥は不受不施派の派祖であり、教えは今も息づいている。本堂には常盤御前が牛若丸の安産を祈願したとつたえる木像・常盤地蔵を安置し、寺の再興には刀装金具の彫刻を職業とする後藤家が財政支援をし、特に後藤演乗が日奥の教えにより真言宗から改宗、寺の基礎が整った。境内墓地には後藤演乗(七代)以下、近世の後藤氏一族の墓があり、また寺宝に後藤長乗夫妻像(江戸時代)を有する。「知足...寺院北0640常徳寺常盤地蔵牛若丸
水徳を司り給う神様で人間の生活は素より動植物宇宙の生きとし生けるもの悉くの生成化育の生命力となって不断に活動されています。本社は鞍馬山麓、貴船神社と共に水難厄除の御神であり家内安全と商売の隆昌を希い願う人達特に多く万民の崇敬をあつめている。尚古来一般の神社に見る建築と異なり珍しい北向きに祀られた御神殿となっており古くから北向きの御神は霊験殊の外あらたかなものがあるごとくはよく衆人の知るところである。この地方は古くから賀茂別雷神社の荘園であった関係上同社の摂社で貴船谷に鎮座せられる延喜式内社たる元官幣中社貴船神社の御祭神を勧請したのである。鎮座年代は明らかでないが、恐らく鎌倉時代の初期ごろの鎮座と思われる。その間、時代の変遷と共に盛衰はまぬがれなかったが氏子との関係は極めて密接なるものがあって現在に及んでいる。神...神社北0190貴船神社
まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1083岩倉石座(いわくら)神社の幟下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます運動記録10月18日11回目階段昇降14段3mを100往復月合計1100往復この日より背負うリュックの重さ⁺2㎏、計11㎏に増量まち歩き北1084彫刻「寒」山崎正義
東坊当寺は蓮蔵院ともいい、親鸞上人の直弟子蓮願坊信光により、寛喜3年(1231)に創建された名刹である。蓮願坊は聖人から59歳時の御自作の御木像を授与せられ近江国長浜に道場を建立し日夜布教した。その後、東坊はなし本願寺御堂衆として、山科石山・鷺森・貝塚・天満の諸地を経て、天正19年(1591)に現在の西本願寺境内地に移った。慶長16年に当寺の本尊阿弥陀如来像を西本願寺へ寄付したが、これが現在の西本願寺(これがね現在の西本願寺阿弥陀堂の御本尊である。西本願寺からは代わりの阿弥陀如来像が下付されたこれが現在までの当寺の御本尊であり、聖人御自作の御木像と共に安置されている)西本願寺の報恩講法要では1月10日は当寺住職が御頭人導師として出仕することが恒例となっている。当寺では明治以降衰退したが昭和17年(1942)当地...寺院北0639東坊浄土真宗本願寺派
石でできたベンチ神社前回の記事⇒神社長岡0188神足(こうたり)神社長岡京市下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社北0189石井神社御土居の跡に建つ
京の通り003 北山通 その3・最終 から 千本北大路まで 東から西へたどる
昭和24年卒業記念現在82歳昭和23年卒業戦争が終わってわずか3年だ現在84歳紫竹西北町待鳳(たいほう)小学校祠不動明王像と石仏がありました小学校常徳寺牛若丸の母常盤御前が牛若丸の安産祈願に訪れた紫竹東栗栖町次の信号大宮通との交差点交通道路案内標識子ども用の運動靴ケニアに届けるそうだここらあたり京都駅が眼下に見える西向寺裏門紫野東蓮台野町西向寺千本通に入る佛教大学府立盲学校幼少中学部佛教大学正覚寺紫野花ノ坊町千本北大路交差点京の通り⇒京の通り・北山通その1白川通から北山大橋まで東から西へ京の通り002北山通その2北山大橋から大徳寺通まで東から西へたどる京の通り003北山通その3・最終から千本北大路まで東から西へたどる
右書き看板前回の記事⇒右書き看板左130月游和菓子下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます右書き看板左131双鳩堂京の生菓子
和菓子店游月(ゆうづき)右書き看板前回の記事⇒右書き看板下129〇丸屋茶道具舗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます右書き看板左130月游和菓子
京の通り002 北山通 その2 北山大橋から 大徳寺通 まで 東から西へたどる
北山大橋橋から北を見る橋から南を見る橋の下南側の川沿い加茂街道橋より北方衣棚通北石井神社北区小山元町北山通西を見る何でも買いますの店浄土真宗顕真学苑親鸞聖人ご御像新町通元町小学校ポスター北山モザイク北山通に面した元町小学校門道路標識堀川北山紫竹下芝本町東坊北山通より南に少し下がる彫刻「寒」北消防署山崎正義北山大宮角の家たばこの看板が残っている電柱に貼られた広告大徳寺通上がる貴船神社ポスター時代まつり今年は10月26日毎年22日だが即位の礼と重なるため26日になる次回続きは北山通3回目・最終前回の北山通⇒京の通り・北山通その1白川通から北山大橋まで東から西へ今回の出発点京の通り002北山通その2北山大橋から大徳寺通まで東から西へたどる
神足神社旧神足村の産土神。式内社で、「延喜式」にのる乙訓19座の1つで「神足神社」とみえる。また、文徳天皇の斉衡元年(854)に国の官社にあげられている。祭神は「舎人親王(天武天皇の子)」であるといわれている。当社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説がのこっている。<田村(神足村の旧名)>の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたという。天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた。>以後、この社は「神足神社」と、田村は「神足村」と呼ばれるようになったといわれる。付近の小畑川の近くには弥生時代から古墳時代におよぶ集落遺跡があって、この地の開発の古さがしのばれる。今は本殿と摂社埜神社があるにすぎない。境内にある凝灰岩と社務所の沓脱石は、ともに付...神社長0188神足(こうたり)神社長岡京市
京の通り・北山通 その1 白川通から北山大橋まで 東から西へ
北山通の東の端白川通北山ここから千本北大路まで続いています修学院離宮・赤山禅院・曼殊院の案内があります修学院鹿ノ下町(かのしたちょう)西を見る修学院離宮赤山禅院曼殊院の位置案内鷺森神社の案内和菓子店游月(ゆうづき)叡山電鉄修学院駅踏切東大路の始まり北の端道標明治24年9月建立道路標識双鳩堂大文字送り火妙法の法の文字妙は草書法は楷書松ヶ崎橋高野川北を見る高野川南をみる以前ホテルが建っていたが玄関この辺り民家の前に石仏があるといわれかなり歩いて探したが見つからなかった令和元年10月6日撮影グランドの境界北山通りから南に少し外れたところ縞模様のある岩石まだ収穫されていない稲大学のグランド塀に食い込んだ街路樹北山通に戻ってきたもちろん西を見ています出発地は下の地図運動記録10月14日10月9回目階段昇降14段3mを10...京の通り・北山通その1白川通から北山大橋まで東から西へ
山住神社には社殿がなくそびえ立つ山を神南備山(かむなびさん)と仰ぐ巨石を、神々の降臨する場「磐座(いわくら)」と崇めた古代信仰の遺跡である。前方の木柵を囲らした、立石の後の高く廣い巨石が神々の座「磐座」である。「三代実録」陽成天皇元慶4年(880)の頃に(山城国正六位石座神授従五位下)と記され、千有余年を経る古社である。天禄弐年(971)この地に鎮座の石座明神は、大雲寺鎮守の神として上蔵町(今の石座神社)に遷座以降この古社は、山住の神と号し、石座神社の御旅所となる。10月23日の石座神社例祭には、早朝神輿の渡御があり、祭典が行われる。神社前回の記事⇒神社左0186一言神社下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社左0187山住神社岩倉
石仏前回の記事⇒石仏左035岩倉三尊石仏大きい鎌倉時代下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左036岩倉台座と屋根があります
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景左0383回岩倉実相院付近蔵のある風景左0384回岩倉山住神社付近
上の方に絵が描かれている岩倉観世音くわんおんミくわんおんミ天保乙未初冬建立道標前回の記事⇒道標左0250岩倉陵実相院宮墓参道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます運動記録10月10日7回目階段昇降14段3mを100往復月合計700往復道標左0251岩倉観世音天保6年(1835)建立
平成30年10月8日撮影左上アサギマダラが飛んでいました愛宕神社遥拝所遥拝所とは珍しい明治かな関連記事➡愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左074岩倉の風景と愛宕灯籠
家の階段14段を往復しています。1リットルの水入りペットボトル9本入りの9㎏リュックをう背負う。利点雨の日でも、風の日でも、酷暑のときでも、夜でもいつでもできるどんな服装でもできる暑さ対策、寒さ対策、紫外線対策、雷に対して不安なくできる筋力がつく、体力がつくなにかといいことが多い。このほかにダンベルを使って腕・上半身の筋力アップ・維持を120回しています。継続するかがポイントテレビをちらちら見ながら、聞きながら、音楽を聴きながら水分補給をしながらします。15往復ぐらいから汗が出てきます。汗をなるべく落とさないようにタオルでぬぐう。時間は後始末まで2時間ほどかかります。今は、夕食後~就寝に実施しています。このやり方になったのは4月から4月の月合計3573往復5月の月合計5055往復このころから軽いリュックを背負う...運動記録足腰の衰えを防止するため
中納言藤原藤房は後醍醐天皇に仕えた建武中興の功臣であるが、建武元年(1334)10月、宮中を出て、出家した。その後諸国修行の旅に出る。この地は大雲寺の掛所不二房の旧址とつたわり、藤房の遺髪塔がつくられた。塔は南北朝時代の典型的な石造宝篋印塔で、相輪が無い。傍らに、寛政2年(1790)に建てた藤房顕彰碑があるとのこと。墓所前回の記事⇒墓所左008源義経供養塔下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます運動記録10月1日開始1回目階段昇降14段3mを100往復10月3日2回目階段昇降14段3mを100往復月合計200往復10月4日3回目階段昇降14段3mを100往復月合計300往復6日4回目階段昇降14段3mを100往復月合計400往復7日5回目階段昇降14段3mを100往復月合計500往復8日...墓所左009藤原藤房遺髪塔
大きい迫力あります高さ1.9m厚さ53cmの巨大な花崗岩の表面に定印の姿のおだやかな阿弥陀座像を厚肉彫にあらわし、右側面に11面観音立像、左側面に地蔵立像を浮き彫りになっている。岩倉に現存する石仏中でもっともすぐれている。11面観音は大雲寺の古くからの本尊である。鎌倉時代。こちらは右側面ほとんど読めない石仏前回の記事⇒石仏右034石仏台座がありますちょっと珍しい下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます運動記録10月1日開始1回目階段昇降14段3mを100往復10月3日2回目階段昇降14段3mを100往復月合計200往復10月4日3回目階段昇降14段3mを100往復月合計300往復6日4回目階段昇降14段3mを100往復月合計400往復7日5回目階段昇降14段3mを100往復月合計500往石仏左035岩倉三尊石仏大きい鎌倉時代
一言神社『岩倉村誌』(1905)によると、祭神は一言主(ひとことぬし)大神です。「由緒勧請創立年月不詳」ですが、一言主神社の総本社(奈良県御所市)が賀茂氏本拠地の高鴨神社近くにあるので、賀茂氏の移動に伴い、一言主神をまつる人たちがやってきてまつるようになった可能性が高いと思われます。地元では願いを一言だけきいてくれる神として親しまれています。元の一言神社は当地から北北東へ約1㎞離れた村にありました。元の社殿は護水尾天皇の娘で岩倉の万年岡茶屋に住んでいた女三宮が寛文8年(1668)に明治11年(1878)に現在地へ遷座。石座神社敷地内に再営したものです。明治11年(1878)に現在地に遷座。石座神社敷地内に鳥居を持つ別の神社があるのはそのためです。10月23日に近い土曜日に行われる祭の時、一言主神をのせた子ども神...神社左0186一言神社
石座神社岩倉町の産土神として崇敬される旧村社。本殿は八所明神社(右側)と十二所明神社(左側)の二社からなっている。社殿は新しいが、勾欄には天正20年(1592)在銘の擬宝珠をはめ、社前の四角形石燈籠には慶長19年(1614)の銘があるので、それ以前の建物をのちに一部補修したものと思われる。境内には猿田彦社・一言主(ひとことぬし)社をはじめ、多くの摂社・末社がある。いずれも付近にあったものを、近世にこの地に集めた。明治以前は大雲寺の鎮守社であったが、後に石座神社と改めた。当社の旧鎮座地は、現在御旅所となっている西河原町の山住神社の地にあたるが、その創祀年代が不明。当社の例祭は毎年10月23日に行われるが、その前夜の松明の神事には、雌雄大蛇の形をした松明を点じ、五穀豊穣の祈願が盛大に行われる。神社前回の記事⇒北01...神社左0185石座(いわくら)神社
岩倉陵実相院宮墓参道昭和4年11月建立大坂皇陵巡拝会道標前回の記事⇒道標右0249如是院・福寿院妙心寺大坂皇陵巡拝会の道標⇒まとめ043大阪皇陵巡拝会の道標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます運動記録10月1日開始1回目階段昇降14段3mを100往復10月3日2回目階段昇降14段3mを100往復月合計200往復10月4日3回目階段昇降14段3mを100往復月合計300往復道標左0250岩倉陵実相院宮墓参道
平成30年10月撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1082宝が池国立京都国際会議場まち歩き左1083岩倉石座(いわくら)神社の幟
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景八幡0382回安居橋付近蔵のある風景左0383回岩倉実相院付近
地蔵尊前回の記事⇒地蔵尊八幡056地蔵尊前に石が祀られている下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊左058岩倉延命地蔵尊
平成30年の案内ポスター前回の記事⇒ポスター0106上京茶会大徳寺塔頭芳春院ポスター0107石座神社(いわくら)のお祭り
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