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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

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2015/02/19

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  • まち歩き左1082 宝が池 国立京都国際会議場

    宝ヶ池公園宝暦13年(1763)に灌漑用水池としてつくられた。池の周囲は1.8キロメートル、はじめ溜池または北浦溜池とよぶ小さな池であったが、その後2回の拡張工事を経て現在の大きさになり、明治の末期ごろに宝ヶ池と名付けられた。松ヶ崎村は水不足と干ばつによる稲作の不作は毎年大きな被害を蒙っていたが、この池の出現は正に宝にひとしい存在であったから、宝ヶ池と呼ばれるようになった。池は昭和6年(1931)松ヶ崎村の京都市編入によって、市の所有になった。終戦の昭和24年池の周辺の風致を生かして多目的の公園を建設することになった。国立京都国際会議場昭和41年(1966)5月に開館されたわが国唯一の国立国際会議場である。地下1階、地上6階、日本古来の合掌造りを取り入れている。同時通訳を完備した会議室が7室。他に大小90室以上...まち歩き左1082宝が池国立京都国際会議場

  • 寺院北0638 浄福寺 西山浄土宗

    寺院前回の記事⇒寺院宇治田原0637大道寺信西入道ゆかりの寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院北0638浄福寺西山浄土宗

  • まち歩き北1081 西村家庭園 上賀茂神社 社家の庭園

    西村家庭園西村家庭園は、上賀茂神社の社家であった錦部(にしごり)家の旧宅の庭園であり、明神川から庭園内に水を導入し再び川に戻すというこの地域の社家庭園特有の水利用形式をとっている。もっとも、他の社家庭園では、導入した水を池とする例がほとんどであるが、この庭園では幅広い二筋の遣水としており、軽快な印象を受ける。また、庭園の一隅にある深さ1メートル余りの円形のくぼみは、水垢離(冷水を浴び身体のけがれを去ること)の場として用いられたものとみられ、この庭園の特色の1つとなっている。更に、上賀茂神社の御神体山である神山(こうやま)の降臨石をかたどったと伝えられる石組みも、社家の庭園らしい。このように、西村家庭園は、上賀茂の社家庭園ならではの意匠を持つ貴重なものである。西村家社家庭園は、上賀茂神社18代目の神主(現在の宮司...まち歩き北1081西村家庭園上賀茂神社社家の庭園

  • 神社北0184 上賀茂神社

    平成30年10月8日撮影上賀茂神社京都市屈指の古社。正しくは賀茂別雷(わけいかづち)神社といい、下鴨にある賀茂御祖(みおや)神社を下鴨神社というのに対し、上賀茂神社という。別雷命を祭神とする賀茂氏の氏神であり、また賀茂郷の産土神で、その創祀はきわめて古い。別雷といい、火雷といい、雷神は農作に必要な水を給与する神として古代農民から崇敬された。この崇敬のこころを神話化したのが「賀茂伝説」である。欽明天皇の御代にきすでに今の葵祭のはじまりである賀茂祭が存したといわれ、奈良時代には取り締まりを必要とするほどに栄えていたようです。平安遷都にあたって王城の守護神とあがめられ、伊勢神宮に次ぐ崇敬を得、嵯峨天皇の御代には、それまで賀茂氏の女が奉祀してきた忌子に代わり、皇女が斎王として奉祀されるなど、国家の祭祀にあづかるに至った...神社北0184上賀茂神社

  • まち歩き久御山1080 燕の巣

    平成30年8月25日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1079通行注意自転車対面通行ダメかも下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き久御山1080燕の巣

  • 神社宇治田原0183 大道神社

    菅原道真を祭神とする大道寺村の産土神で、由緒があきらかでない。藤原時代初期の作と思われる束帯姿の神像一体が安置されている。神社前回の記事⇒神社八幡0182石清水八幡宮男山を離れた仏像と堂塔下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社宇治田原0183大道神社

  • 史跡宇治田原048 信西塚 平安時代・平清盛方

    信西塚塚はふうどの絵に石造宝篋印塔(江戸時代)を安置し、傍らに「信西入道塚」の石碑がある。『平治物語』によれば、少納言信西入道(藤原通憲)は平清盛とむすんで権力をふるったため、これを恨んだ藤原信頼と源義朝は平治元年(1159)12月、清盛一族が熊野参詣の不在中をねらって兵を挙げた。いち早くこのことを知った信西は、京都を逃れて奈良にむかおうとした。宇治から田原の奥、大道寺の所領地に至り、さらに東の信楽に行こうとした。しかし卜占の結果、天皇の危難は自分の身替りによって救われると判断し、死して君恩に報いようとして、ふたたび大道寺に引き返し、従者に命じて掘らせた穴に入り、大きな竹の節を上から差し込み、それを口にあてて死を待った。まもなく追撃してきた源光泰の軍勢に発見され、ついに首をはねられたという。大道寺の領民はこの場...史跡宇治田原048信西塚平安時代・平清盛方

  • 寺院宇治田原0637 大道寺 信西入道ゆかりの寺

    大道寺奈良時代に山岳修験の道場として開かれた金胎寺の北側登山口として、早くから開かれた地に天平勝宝8年(756)大納言三品湯原王(施基皇子の御子)の発願により、鷲峰山中興の越知泰澄大師が開基。大伽藍も配置されていたが、その後衰退していたのを嘉承元年(1106)11月、藤原忠実の帰依により再興し、それより大御堂と称したという。その後にその子頼長に伝領されたが保元の乱後、没宮領として田原庄など諸国の頼長領と共に後院領に入れられた。その後、平治の乱で殺された信西の所領となっていた。大道寺の南端にこの信西を供養した宝篋印塔が立つ。信西は俗名を藤原通憲と称し、「本朝世紀」「法曹類林」などが著した学者であったが、平清盛と結んで権勢を誇った。清盛の熊野参詣中、対立者の源義朝は兵を挙げ、信西は信楽に逃れようとして宇治田原まで来...寺院宇治田原0637大道寺信西入道ゆかりの寺

  • 寺院宇治田原0636 禅定寺 曹洞宗

    昭和2年3月建立浩宮殿下(現天皇陛下)参拝紀念禅定寺曹洞宗の寺で、多くの古文化財を有する当地方屈指の名刹。当寺は正暦2年(991)、奈良東大寺の別当平崇(へいそ)上人が藤原兼家の帰依を得、11面観音像を安置し、補陀落山観音妙智院と号したのが起こりとつたえる。創建当初は本堂をはじめ三昧堂・毘沙門堂・舞殿など、多くの堂塔と寺領を有し、尊信をあつめたが、藤原氏の衰微と中世の兵火に罹災し、寺運は衰えた。延宝7年(1679)加賀国大乗寺の月舟和尚を迎え、加賀藩の家老本田長政の援助によって再興されたのが現在の建物はじめは東大寺末であったが、このとき曹洞宗にあらためたとつたえる。境内は見晴らしがよい。茅葺の本堂は田舎風の素朴な建物であるが、平安時代の多くの古仏を安置する。昭和48年新造の収蔵庫に保管されている。本尊11面観音...寺院宇治田原0636禅定寺曹洞宗

  • 源氏物語遺跡24 斎宮邸跡

    斎宮邸跡平安京右京三条二坊十六町跡斎宮は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の内親王または女王のことで、「いつきのみや」または「大御神(おおみかみ)の御杖代(みつえしろ)」とも呼ばれる。『日本書紀』によると、垂仁(すいにん)天皇の時代が始まりとされ、亀の甲羅を焼いて占う卜定(ぼくじょう)により斎宮が選ばれた。この制度が確立したのは天武朝以降で、南北朝時代の後醍醐朝をもって終わる。2000年に行われた西京高校北側グラウンド発掘調査で、東西約15m、南北約40mの池跡や木枠を組んだ泉跡、池に張り出す建物跡など数多くの遺構が検出され、平安時代中期の邸宅跡と判明した。池跡から「齋宮」「齋雑所」と書かれた墨書土器が出土し、泉跡からは平安京跡出土の人形代(ひとかたしろ)では最大のものが出土した。また、池にたいせきした花粉分...源氏物語遺跡24斎宮邸跡

  • まち歩き右1079 通行注意 自転車対面通行 ダメかも

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1078自転車専用段差解消スロープ通行注意ですまち歩き右1079通行注意自転車対面通行ダメかも

  • まち歩き右1078 自転車専用段差解消スロープ 通行注意です

    バイクで走行している人もありますまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1077ツツジがすばらしい下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1078自転車専用段差解消スロープ通行注意です

  • 石仏右034 石仏 台座があります ちょっと珍しい

    石仏前回の記事⇒石仏八幡033法園寺となりの石仏下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏右034石仏台座がありますちょっと珍しい

  • 寺院右0635 無量寺 浄土宗

    前回の寺院記事⇒寺院右0634福田寺(ふくでんじ)浄土宗寺院右0635無量寺浄土宗

  • まち歩き中1077 ツツジがすばらしい

    平成30年4月29日撮影ずーっと遠くまで咲いていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き右1076道案内まち歩き中1077ツツジがすばらしい

  • ポスター0106 上京茶会 大徳寺塔頭 芳春院

    ポスター前回の記事⇒ポスター0105梅宮大社神幸祭ポスター0106上京茶会大徳寺塔頭芳春院

  • まち歩き右1076 道案内

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1075石標千代の古道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1076道案内

  • ポスター0105 梅宮大社神幸祭

    ポスター前回の記事⇒ポスター0104妙心寺大法院庭園公開ポスター0105梅宮大社神幸祭

  • 寺院右0634 福田寺(ふくでんじ) 浄土宗

    最勝山福田寺(ふくでんじ)最勝山福田寺と号し、浄土宗西山禅林寺派に属するここ高田は「和名抄」にでてくる葛野郡高田郷が村名になったと考えられ日本書紀にもみえる高田首(たかだのおびと)が部民を統率してこの地に移り住んだのが起こりといわれる。中世には荘園となり近世では公家・寺院の荘園領でもあったこの寺の開基とその年代は不詳であるが、正徳年間(1711~1715)乗蓮社運誉上人をもって中興とし以来法灯がつづき300年の歴史がある。その間明治5年の廃仏毀釈により玉伝寺が合祀せられ明治10年には高福寺を合併し今日の福田寺の基礎をなす。寺院建物は本尊阿弥陀如来をまつる本堂と地蔵堂と弁天堂と庫裏とからなる。寺院前回の記事⇒寺院右0633妙心寺大通院内助の功といわれた千代(マツ)寺院右0634福田寺(ふくでんじ)浄土宗

  • まち歩き右1075 石標 千代の古道

    梅津から広沢の池の間に設置されている北から見たところ南から見たところまち歩き前回の記事⇒まち歩き右1074畑のネギ関連記事⇒寺社検索05太秦・嵯峨野下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1075石標千代の古道

  • 寺院右0633 妙心寺 大通院 内助の功といわれた千代(マツ)

    美濃土岐氏の家臣一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が南化和尚を開山とし、天正14年(1586)に建立されたが、のち山内一豊の男、湘南和尚が中興するに至って山内家の菩提寺となった。境内墓地には山内一豊夫妻の廟(桃山時代)がある。2006年大河ドラマNHK功名が辻司馬遼太郎千代仲間由紀恵山内一豊上川隆也大通院開基夫妻御廟旧土佐國藩主山内一豊公慶長10年9月薨去(こうきょ)仝マツ公室(千代)元和3年12月逝去廟屋は今より375年の建築であるがその様式は桃山時代のそれであって稀に見る特異の建造物に属し両夫妻とも僧形のまま石棺の中に埋葬されたと傳えられる昭和37年7月院主敬白寺院前回の記事⇒寺院右0632妙心寺春光院重文関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0633妙心寺大通院内助の功といわれた千代(マツ)

  • まち歩き右1074 畑のネギ

    平成30年4月27日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1073妙心寺北門前石柱・街燈関連記事⇒寺社検索05太秦・嵯峨野下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1074畑のネギ

  • 寺院右0632 妙心寺 春光院 重文

    春光院もとは俊厳院(しゅんがん)と称した。豊臣秀吉の家来で、後に初代松江城主となった堀尾吉晴(ほりおよしはる)が、18歳で戦病死した長男・金助の菩提を弔うため碧潭和尚(へきたん)を開山として、天祥18年(1590)に建立した。堀尾家三代目の忠晴が病死し、間もなくして断絶したが、忠晴の息女が石川家に嫁いでいたことから、石川憲之が代わって壇越となり中興してから寺名も春光院と改めた。本堂には堀尾夫妻と金助の像を安置し、境内墓地には堀尾家一族の墓がある。方丈西庭の常盤の庭は堀尾吉晴の作庭といわれる。また、さざれ石の庭と呼ばれる方丈前庭は、伊勢神宮を表現した枯山水の庭園で、石川氏の伊勢神宮崇拝の厚さをよく表している。方丈には5室にわたって金地著色「芦雁図」を中心とする87面の京狩野派の障壁画がある。狩野永岳の筆とつたえる...寺院右0632妙心寺春光院重文

  • 寺院右0631 妙心寺 天祥院

    天祥院正保2年(1645)の成立で、松平忠弘が成徳院、実相院を創建した父忠明(1644没)の菩提寺として建立したもの。開祖は乳峯義元(にゅうほうぎげん)で、明治11年に慈性院を合併したが、明治19年(1888)2月に土蔵、門を除いて焼失した。明治22年再建に着手、竣工後今日に至る。寺院前回の記事⇒寺院右0630妙心寺徳雲院関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0631妙心寺天祥院

  • 寺院右0630 妙心寺 徳雲院

    永正3年(1506)に大休宗休(1468~1549)が開基となって成立した塔頭。旧跡は霊雲院に対向する大庫司の地であり、大休から譲与された元梁和尚が現在地に移建した。寺院前回の記事⇒寺院右0629妙心寺寿聖院(じゅしょういん)石田三成菩提寺関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0630妙心寺徳雲院

  • 寺院右0629 妙心寺 寿聖院(じゅしょういん) 石田三成 菩提寺

    寿聖院慶長4年(1599)石田三成が父正継の菩提寺として伯蒲(はくほ)和尚を請じて創建した。関ケ原の合戦後、寺運は急速に衰微した。三成の嫡子重家は大阪城より逃れて当院に入寺し、第三世を継いだといわれ、江戸時代には徳川氏の圧迫をうけ、境内も縮小し、往時の書院を本堂にあてられている。寺宝として伯蒲和尚賛「石田正継像」、石田三成の書状境内墓地には石田正継、正澄(三成の弟)等、三成一族の墓がある。寺院前回の記事⇒寺院右0628妙心寺金牛院(きんぎゅういん)関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0629妙心寺寿聖院(じゅしょういん)石田三成菩提寺

  • 寺院右0628 妙心寺 金牛院(きんぎゅういん)

    金牛院(きんぎゅういん)慶安3年(1650)環陵が創建した塔頭。谷口村(右京区谷口)にあったが、明治11年(1878)山内万猷院(まんゆういん)に合併されたとつたえる。近年境内の一隅に印度古代建築様式の聖牛祠堂が建立され、異彩を放っている。寺説によれば、牛は人間とのかかわりが深く、人を導く宇宙神の使者といい、祈願をすれば福運は招来し、万民至福の道をかなえるといわれる。この祠堂は南印度産の石材を用い、古代印度グプタ式窟院をまねたもので、堂内には青銅製の牛像を安置する。寺院前回の記事⇒寺院右0627妙心寺天球院重文関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0628妙心寺金牛院(きんぎゅういん)

  • 寺院右0627 妙心寺 天球院 重文

    天球院寛永8年(1631)岡山藩主池田光政が伯母の天球院殿のため、江山(こうざん)和尚を開山に請じて建立した池田家の菩提寺である。本堂は禅宗方丈建築の典型として貴重なものである。方丈内部の襖絵56面、杉戸絵16枚等併せて152面(重文・桃山時代~江戸時代)は狩野山楽・山雪父子の筆とつたえ、表側の花鳥走獣をした金碧画に対し、奥側の部屋は山水人物画に区切られている。有名です。また、寺宝として藤原宣房(のぶふさ)筆の「法華経陀羅尼品」を所蔵している。寺院前回の記事⇒寺院右0626妙心寺隣華院(りんかいん)重文豊臣棄丸座像関連記事⇒まとめ024妙心寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0627妙心寺天球院重文

  • 寺院右0626 妙心寺 隣華院(りんかいん) 重文 豊臣棄丸座像

    隣華院慶長4年(1599)賤ケ嶽七本槍の一人、脇坂保治が南化和尚を開山として建立した脇坂家の菩提寺で、境内墓地には脇坂安治以下一族の墓がある。方丈の襖絵紙本墨画「山水図」20面(重文・桃山時代)は長谷川等伯の作といわれている。また、狩野永岳の筆になる障壁画が収められている。豊臣棄丸座像重文がある。豊臣棄丸(1589~91)は秀吉と淀君との間に生まれた長子で、秀頼の兄にあたる。別名を鶴松といい、天正19年わずか3歳でこの世を去った。葬儀は妙心寺でとりおこなわれ、玉鳳院の廟所に祀られた。秀吉は50歳を過ぎてはじめて得た愛児の死をいたみ、東山の現在の智積院の地に祥雲寺を建て、この棄丸像をつくって祀ったといわれる。徳川家康が天下の権を執るにおよび、豊臣所蔵の祥雲寺は没収され、寺地は真言宗智積院に与えられた。開山の南化和...寺院右0626妙心寺隣華院(りんかいん)重文豊臣棄丸座像

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