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  • ショェーニンゲン城館

    ショェーニンゲン城館は私の家があるハノーファーから東南東に1時間20分ほど走った、昔の東西ドイツ国境の西ドイツ側にあります。14世紀中頃に狩猟小屋兼国境の要塞として建設されました。その後16世紀から17世紀にかけてルネッサンス様式で改築されて以降、武器庫が取り壊され住居として使用されていました。ところが19世紀前半にこの地方の行政機関がショェーニンゲンから他所に移されて以来、城は荒廃して行ったのです。20世紀の後半になってやっとショェーニンゲン市が城館を復元して一般公開しました。さらにバロック様式の庭園と城の建物に隣接する公園を整備し、現在はホテルレストランを持つ複合施設になっています。城館1&2庭園・中庭裏門・街の様子ショェーニンゲン市は小さいけれどこぎれいで、軽い傾斜のある都市です。城館は街の賑わいの...ショェーニンゲン城館

  • ヴァルベルク城塞

    ヴァルベルク城塞は私の住むハノーファーから東南東に約100km、かつての東西ドイツ国境の西ドイツ側であるニーダーザクセン州東部のエルム山脈の東端に建っています。城と堀の一部1&2この堀のある城は13世紀初頭に某貴族によって設立され、何世紀にもわたって先祖代々の本拠地でした。その後17世紀前半の三十年戦争でひどく損傷しましたが、より要塞化されて再建されました。全体像正面・右斜め城と池何度か所有者が代わった後、20世紀の前半に某学校協会が商業学校を運営するために城の複合施設を買収して大規模に再建しました。第2次世界大戦中は軍病院として、戦後の数年間はヘルムシュテット地区の結核病院として使われた後、20世紀の後半からは農業貿易技術学校の訓練センターとして利用されて来ました。そして今世紀に入って何度か改修工事が行...ヴァルベルク城塞

  • ヴァンツレーベン城塞

    ハノーファーから東南東に走って約2時間、かつての東西ドイツ国境を超えると間もなくヴァンツレーベン町に入ります。この町の北の外れにヴァンツレーベン城塞は建っているのです。城に属する公園はそのまま広大な森につながっています。というか、城とヴァンツレーベンの町が森の中にぽつんとあるのです。城門をくぐると真ん中に塔がある広い中庭で、そのまわりに円を描くように低層の城の建物が並んでいます。原型ではなく新築または修復した建造物ばかりのようです。さて、最初にヴァンツレーベン城塞の存在が述べられているのは10世紀の古文書だそうです。当時二重の溝と城壁を備えた丸い城として建てられ、ヨーロッパ最大の低地に建つ城のひとつです。13世紀に建てられた高さ30メートルを超えるロマネスク様式の天守閣は、今日この地域の象徴(シンボル)に...ヴァンツレーベン城塞

  • アンタルヤ

    クリスマス休暇で、2週間弱をトルコの地中海沿岸の町アンタルヤで過ごしました。30年以上前に来た時は人口数十万の地方観光都市に過ぎませんでしたが、今では人口2百万人を越す大リゾート地に成長しています。イギリス人とドイツ人を筆頭に西ヨーロッパの人々、それに加えてロシアやアジアからの観光客が大勢訪れているのです。観光街を歩くと以前はお土産店やレストランの客引きから「こんにちは!」と声がかかっていたのに、今回は例外なく「ニーハオ!」か「アニョガセヨ!」です。中国語を掲げた店もあります。日本人観光客の影が非常に薄くなっているようです。市域のはずれの公園にある滝・その公園から見た観光船海岸の景色さて、この地域にはコーカサスとメソポタミアから来た人たちが紀元前4500年頃から住んでいました。紀元前9から7世紀にギリシャ...アンタルヤ

  • ベルゲドルフ城館

    ハンブルクに現存する唯一の城はその郊外のベルゲドルフという所にあり、何世紀にもわたって、例えば17世紀初頭、17世紀後半、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてゴシック様式やネオゴシック様式、あるいは地元のスタイルを使って拡張され再建されてきました。城館1&2堀に囲まれたベルゲドルフ城の起源はまだ明確には明らかにされていませんが、「堅固な家」が14世紀に初めて文書に登場しました。ある伯爵が13世紀はじめにビル川を堰き止めて水車小屋を建設したので、その時に最初の保護構造としての城が建設された可能性があります。恐らく二重の堀と跳ね橋を持ち柵で囲まれた複合施設であったでしょう。内部には他のドイツの低地の城と同様に、攻撃を受けた場合の退却場として巨大な塔があり、厩舎と井戸を備えた農場と住宅の建物もありました。...ベルゲドルフ城館

  • 市営墓地 ゼールホルスト

    ハノーファーにある私の自宅のすぐ近くに、数か所にある市営墓地のひとつ、ゼールホルストがあります。ここは1920年に開設され1960年には正門が移設されて、訪問するのに市電を利用しやすくなりました。開設時の旧正門・旧正門を抜けて敷地の中央部に近いところ63ヘクタールの敷地はハノーファー市で最大の墓地で、約3万5千の墓があります。通常の個人の墓の他、ユダヤ人犠牲者の慰霊碑、戦没者やオランダ人徴用労働者の墓が並ぶ場所、そして少ないながらベトナム人や中国人など仏教徒の墓がある所があります。さらに1990年からは立木を墓標にした埋葬箇所もあるのです。墓石と埋葬して間もない墓(ドイツは土葬)・ユダヤ人犠牲者の慰霊碑戦没者のモニュメント・オランダ人徴用労働者の墓仏教徒の墓集団埋葬の場・集団墓木春は桜、夏は並木道の緑のト...市営墓地ゼールホルスト

  • クリスマスマーケット

    ドイツでは各地でクリスマス前の時期にクリスマスマーケットが開かれます。小さな観覧車など子供のための乗り物やコンサートなどもありますが、中小規模の屋台で手工芸品やクリスマスの装飾品、そしてグリューヴァイン(赤ワインに甘味と薬味を入れて熱したもの)に代表される季節の飲み物や食べ物が販売され、みんな立ったままで和気あいあいと談笑します。クリスマスマーケットは中世の時代にミュンヘンで始まり、その後各地に広がったようです。本来は寒い季節に備えて食料や生活用品を買う機会を市民に与える市場でした。そこには子供の玩具、かごやざる、クリスマスのお菓子やその他の甘いもの、そして栗やナッツやアーモンドなどの木の実も売られていたそうです。こんにち各市町村がそれぞれの伝統を生かし、かつ工夫を凝らしてその集客力を競っています。私が暮...クリスマスマーケット

  • 倉庫群 (シュパイヒャーシュタット) にある「水城」

    北ドイツの最重要都市ハンブルクの港湾地域にある倉庫群(シュパイヒャーシュタット)は世界最大の歴史的な倉庫群で、1991年に世界遺産に登録されました。植民地時代の遺産の一部であるこの倉庫群は19世紀後半から20世紀の前半にかけて建設及び拡張されて行きました。1948/49年時の「水城」と運河の様子(パンフレットより)倉庫と運河1&2倉庫と運河3・運河と新旧の建物そのシュパイヒャーシュタットの真ん中、2つの運河に挟まれた半島に、本来の城ではないけれど「水城」と呼ばれる1905年から1907年にかけて建てられた歴史的建造物があります。それは歴史あるシュパイヒャーシュタットで最も美しく、最も写真に撮られている建物のひとつです。この4階建ての建物は昔油圧貯蔵ウインチのメンテナンスと修理を行う港湾労働者の宿泊施設と作...倉庫群(シュパイヒャーシュタット)にある「水城」

  • ホテル イル ・ グラディアトレ

    バイエルン地方の中堅都市アウグスブルクで講演をするのに長距離なので列車で行くのですが、この国の鉄道は運休や遅延がよくあるので一日前に行って駅のすぐ近くのホテルに泊まりました。〈古い公園のそばのホテル〉という名前のホテルです。キリスト教会が運営している施設で、このホテルの他に病院、小さな公園、老人ホームなどがあります。同じくこの施設に属するレストラン・バー・ラウンジで夕食をとりました。モダンで殺風景な建物ですが、優しそうな笑顔が魅力的な若おばさんのサーヴィスで心が和みます。裏の入り口が病院の入り口と向かい合わせになっているので、入院患者らしきお客さんもいます。鼻に管を差して体に袋を下げた人、何らかの器械を体に付けた人、車椅子の老人を囲んだグループ、、、、。宿泊客はここで食事をすると飲み物が一杯無料ということ...ホテルイル・グラディアトレ

  • ヴェンドリングハウゼン城館 & バルントループ城館

    17世紀の前半にヴェーザー・ルネッサンスのスタイルで水城として建造されたヴェンドリングハウゼンという名前の城館および大農園は、ハノーファーから南西に100kmくらい離れたところにあります。当初からある家族が住んでいる個人所有の城館です。今世紀の初めに大々的な修復が行われました。ヴェンドリングハウゼン城館の入り口・城館1城館2&3城館4&5お城に属する広大な小高い山林を歩いていて見つけた看板によると、その山林自体が大きな墓地のようです。火葬した灰を有機質の骨壷に入れて埋め、そばの立ち木にプレートを下げるシステムです。その看板の近くに池があり、そのほとりで妻の手作り弁当を食べました。墓地の看板・池弁当グリーンピースご飯に昆布と黒ゴマが混ざります。おかずは大根と干しイチジクの酢の物、ハム入り卵巻き、シイタケの甘...ヴェンドリングハウゼン城館&バルントループ城館

  • グラフェンスティーン城塞

    ベルギーのフランドル地方にある人口3万5千人程の町イーペルで3年に1度、5月の第2日曜日に開催される1938年から続く「猫祭り」に妻の弟と彼の奥さんが日本から来るというので、ブリュッセル国際空港で落ち合って一緒に行くことにしました。妻の仕事の都合で家を出るのが夕方だったので、ブリュッセルまでの途中で1泊したのです。ビジネスホテルのようなホテルでしたが充実した朝食ビュッフェで、ハム入りオムレツを作ってもらいました。前日に泊まったホテルの朝食ブリュッセルから真西に約140km離れたイーペルへのほぼ道半ばにゲント(ヘント)という古都があり、その中心部にグラフェンスティーン城塞(ドイツ語で「グラフェンシュタイン城塞」)はあります。街の様子と城・塞城と中庭の一部1城と中庭の一部2&3城と中庭の一部4&5城と中庭の一...グラフェンスティーン城塞

  • ヘメルシェンブルク水城館

    私の住むハノーファーから南西に60km離れてヘメルシェンブルク水城館があります。お城に付属する芸術収集品、庭園、水車、農舎、教会を含めて、かつて栄えたヴェーザー・ルネッサンスの代表となる施設です。15世紀の初めごろからこの地には城塞がありましたが、それが壊され、16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて水城である現在のヘメルシェンブルク城館が新しく建造されました。17世紀前半の30年戦争の時幸運にも惨禍を免れ、続いて起こった7年戦争の被害も最小限に抑えられて、お城は今日までほぼ完全な形で残っています。現代人が住むのに適するように19世紀と20世紀に改装が行われましたが、歴史的外観は全く損なわれていないそうです。個人の所有であるお城の一部は50年前から私立博物館として公開されています。そこにはルネッサンスや...ヘメルシェンブルク水城館

  • グランドホテル ハイリゲンダム

    18世紀の終わり頃、ある公爵が主治医に勧められてこの地で泳いだことにより、ドイツで最初の海水浴場が誕生しました。その主治医は海水浴がいろいろな病気を治すことを知っていたのです。なぜハイリゲンダムが海水浴治療に適しているかというと、気候が良いからです。すなわち、埃を含まない湿った空気、小さい寒暖の差、深いブナの森林にかこまれていること、そして潮の干満がないことです。その後19世紀の後半にかけて多くの建物、中でも現在グランドホテルになっている大規模な保養宿泊施設が建てられたのです。ハイリゲンダムはその誕生からドイツで最も洗練された海辺の保養地という名声を博し、1930年まで数多くのヨーロッパやロシアの貴族や著名人が避暑をする地で、死ぬまでに一度はハイリゲンダムに行くべき、とまで言われたそうです。第2次世界大戦...グランドホテルハイリゲンダム

  • シュピッケル城館

    長方形で化粧塗装をほどこしたシュピッケル城館の原型となった城塞は、16世紀に建てられました。その後17世紀の中頃に30年戦争の結果としてこのリューゲン島はスウェーデンの領地となり、スウェーデン人が城塞の所有者になったのです。同時に、もともと防御のための堀に囲まれていた城塞はルネッサンス様式のシュピッケル城館に改造され、スウェーデン特有の赤色に塗られました。4隅にある丸い塔が今だに城塞の印象を与える建造物です。19世紀初頭にリューゲン島がナポレオン軍に占領されたとき一時的にフランス人が住みましたが、数年後に城館はプロイセン王国に属するようになりました。そして第2次世界大戦終了まで、ある侯爵の所有だったのです。お城は終戦後約20年間にわたり荒廃するままにまかされていた後、史跡保護の観点から包括的に修復がなされ...シュピッケル城館

  • ラルスヴィーク城館 & リーツォヴ小城館

    ドイツ北東部のバルト海に突き出たような形のリューゲン島に、6kmほど離れて建つふたつのお城です。そのひとつ、ラルスヴィークという村にある同じ名前の城館は19世紀の終わり頃に新ルネッサンスの様式で建造され、20世紀の前半には厩舎が増築されました。ラルスヴィーク城館1&2ラルスヴィーク城館3・城館の入り口庭1&2ユーゲントスタイルの玄関ホール、階段、板張りの壁、ドアの取っ手、そして窓ガラスの内装は、昔のままの姿だそうです。このお城はある家族の所有でしたが、第二次世界大戦後に国家(東ドイツ)から公用徴収されて老人ホームとして、そしてその後ドイツ赤十字の管理下で身障者のための介護ホームとして利用されました。東西ドイツ統合のあと、ある別の家族が購入してこんにちの姿に改築したのです。玄関と内装は、いかにもお城、と思わ...ラルスヴィーク城館&リーツォヴ小城館

  • 狩猟の館 グラニッツ

    われわれがリューゲン島で滞在しているアパートメントから30分ほど山地トレッキングをすると、狩猟の館グラニッツに着きます。年間25万人以上の訪問客があるという人気のお城で、約1.000ヘクタールもの、前世紀の終わり頃から生物生息圏保護地区に指定されている森の真ん中にあります。山地を走る観光列車この地には18世紀の前半に3階建ての狩猟小屋が建てられ、19世紀の前半に取り壊されました。その後も何回か、建てられて撤去される、ということが繰り返されました。現在の〈狩猟のためのお城グラニッツ〉は19世紀前半に、北イタリアのルネサンス風城館に似せて建造されました。建物の四つ角と真ん中に塔を持つ建造物です。狩猟の館1&2真ん中の塔・壁の装飾このお城は昔からヨーロッパ中の貴族や著名人に愛された旅行先で、1944年まである家...狩猟の館グラニッツ

  • ラインスベルク城館

    宿泊している〈港ホテル〉から歩いて30分くらいのところにラインスベルク城館があります。湖畔のお城です。船上から見た城館・城館の対岸お城見学の前に、すぐ近くのレストランで昼食をとりました。入り口は殺風景ですが中は綺麗にしています。ミシュラン本の2018年版に載っているようで、レベルが高そうです(星は付いていない)。レストランまず、干しトマトとハーブが入ったクヴァルク(凝乳)とジャガイモで作ったパンが出てきました。パンがしっとりしていて、クヴァルクをつけて食べると結構いけます。クヴァルク(凝乳)とパン・カミツレ茶私はノンアルコール・ビールを、妻は昼間なのでさすがにワインではなく、カミツレ茶を注文しました。料理は昼食なので一品だけにしました。妻が食べたのはタラのフィレとルッコラをカボチャリゾットにのせた料理です...ラインスベルク城館

  • 港ホテル ラインスベルク

    ドイツ連邦共和国の首都ベルリンから北西に100km離れた所に、港ホテル・ラインスベルクはあります。ここは湖の多い地方で、そのうちのひとつの湖のほとりに建っているのです。森に囲まれたこの広大な施設は、2007年に開業したホテルと個人所有の別荘群から成っていて、各別荘には駐車場とボートの係留地がついています。ホテルの経営は簡単ではなく、現在3つ目の会社が運営しているそうです。別荘とボートホテルの前から1&2ホテルと別荘とボート左右対称の城館を思わせるホテルは、現代的な構造で広いロビーが印象的です。われわれの部屋はデラックス・ダブルルームです。港が見えるスタジオ風で、下が居間とバスルームで上が寝室。気分は良いけれども階段の上り下りは結構大変です。全部同じ階のほうがいいなー。ベランダもあります。ホテルのロビー私達...港ホテルラインスベルク

  • ガメール城館

    ガメール城館があるのはバルト海沿岸から内陸に少し入った農村地帯にある人口92人の袋小路の村です。ハノーファーから北東方面に約300km離れています。この城館(領主の館)は14世紀の後半からずっと600年以上にわたって恒常的に(この地が東ドイツに属していた時代を除いて)某家族の私有財産で、同時に先祖代々の屋敷なのです。19世紀の初めにいちど改築のために壊されて、同世紀の後半に現在の新ゴシック様式のお城が建てられ、多数の付属建築物をふくむ大農場の中心になっていました。しかし、1945年の終戦後に強制公用徴収されてしまったのです。そして東ドイツ時代は保育園、学校、アパートなどいろいろなことに利用されてきました。今世紀になって早々に元々の所有者の子孫(二人の直系子孫はどちらも法律家で現在ベルリンに住んでいる。)が...ガメール城館

  • 雲仙温泉の旅亭 〈半水盧〉

    島原半島中央に位置する雲仙温泉は日本初の国立公園(雲仙天草国立公園)にある温泉保養地で、雲仙妙見岳の南西、標高700メートルに位置しています。温泉街は噴気帯「雲仙地獄」を囲むように存在し、その地獄内に遊歩道が整備されているのです。30に及ぶ地獄の遊歩道沿いには真知子岩、婆石、鏡石、キリシタン殉教碑、聖火燃ゆ之碑といった奇岩・石碑が点在し、地獄展望台や足湯等も設けられています。雲仙地獄開湯は日本が国号を「日本」とした大宝律令成立の701年、行基によって温泉山満明寺が建立されたことに始まるそうで、温泉地として開発が始まったのは約350年前だとのことです。1653年には初の共同浴場が始まった、と言われています。江戸末期からは西洋人が足繁く通い、避暑地としても発展してきました。幕末には吉田松陰が当地を訪れ、またシ...雲仙温泉の旅亭〈半水盧〉

  • エッテルスブルク城館

    バッハ、ゲーテ、そしてシラーで有名な旧東ドイツの町、ワイマールは古典的な町として20世紀の終わり頃からユネスコの世界文化遺産に登録されています。そのワイマールから北に10km行ったところにある、人もまばらな田舎の村に建っているのがエッテルスブルク城館です。コの字型の旧館と新館が向かい合っています。旧館は18世紀の前半に狩猟のためのお城として建築され、その大広間でヨハン・セバスチアン・バッハが演奏をしたそうです。バロック様式で奇抜なデザインの新館が建造されたのは18世紀の中頃です。ゲーテ、ヘルダー、コロナ・シュロェーテル、ヴィーラントなど、多数の小説家、詩人、音楽家たちがエッテルスブルク城館の客人で、いっしょに演奏したり、読書会をしたり、踊ったり、議論を戦わせたりしました。ゲーテは戯曲である„Jahrmar...エッテルスブルク城館

  • ホーエンベルク城塞

    ドイツの南東部、チェコ共和国との国境であるエーゲル川まで歩いて行けるところに、12世紀後半に建造されたホーエンベルク城塞があります。15世紀前半のフス戦争で荒廃し、16世紀中頃のマルクグレーフラー戦争で部分的に破壊され、その後修復されて水道管の設備が取り付けられましたが、17世紀前半の30年戦争のときにふたたび部分的に破壊されました。そして19世紀初めごろのナポレオンによる数年の統治を経て、バイエルン王国に属するようになったのです。第2次世界大戦の前後20年ほどは学校の合宿所として利用され、戦後10年たった頃城塔を一時的にアメリカ駐留軍に接収されたり、東ヨーロッパからの引き上げドイツ人のための施設として機能したりしました。その後20世紀後半までドイツ-チェコ国境であるエーゲル川の国境監視所でした。そしてま...ホーエンベルク城塞

  • ホテル アンノ1433

    むかし岩塩の採掘と流通で栄えた町リューネブルクに講演に行って、おもしろい名前のホテルに泊まりました。〈ホテルアンノ1433〉というのです。annoとはラテン語で〈・・・年〉という意味なので、〈ホテル1433年〉となります。ホテル1433年12世紀ごろから経済発展を始めたこの町に、14世紀の前半から仕事用に建てられ始めた建物のうちの一軒です。名前からわかるように、この家は1433年に建てられた石材構造建築で、16世紀後半には住居としても使われるようになりました。何度も改築と所有者の交代があり、19世紀の後半にさらなる増改築が行われ、21世紀になってから昔の建築様式がいたる所で認められるように修復されたのです。2階に行くとレセプション-デスク・私の部屋〈ホテルアンノ1433〉は恐ろしくシンプルな内装のホテルで...ホテルアンノ1433

  • ヴェルニゲローデ城館

    ハノーファーから東に120km離れた旧東ドイツのヴェルニゲローデ市にあるヴェルニゲローデ城館は、旧市街を見下ろす100mの高台に建っています。おそらく12世紀の前半に建造され始めたと思われますが、13世紀の前半に初めて古文書に現れるそうです。15世紀と16世紀に断続的に建築が大規模に進められ、何度も所有者が代わり、17世紀にバロック風城館に改築されました。そして19世紀にはその時代を代表する様式に改築され、その特徴の多くはこんにちまで保存されています。20世紀初め頃から当市の侯爵家族が居住するようになり、それと同時に第2次世界大戦終戦までの間、城館施設の一部が一般見学者に公開されていたそうです。戦後侯爵家族の所有であった城館は土地改革によって公用徴収されてしまい、その上歴史的な武器や武装、軍人や勲章の絵画...ヴェルニゲローデ城館

  • 長崎の料亭 〈一力〉

    今年の春、一時帰国した際に長崎を訪れました。私は3回目です。江戸時代から第2次世界大戦終戦までの歴史が詰まっているし、異国情緒豊かな文化もあり、日本で最も興味深い都市の一つだと思います。55年ぶりに訪れた妻も大満足でした。大浦天主堂・グラバー邸出島・ちゃんぽんミュージアム夜景長崎といえばチャンポン、皿うどん、そして何といっても卓袱料理です。どうしても初めての卓袱料理を食したく、自宅のあるドイツから遠距離予約をして出かけました。入口長崎の料亭の中でも最古である200有余年の歴史を誇る〈一力〉という老舗料亭です。〈一力〉の長い物語の始まりは西暦1813年、町人文化が発展した化政文化真っ只中の折だそうです。京都に同じ名前の料亭がありますが、400年もの歴史がある京都の〈一力〉とは格違いだということで遠慮して、自...長崎の料亭〈一力〉

  • ホテル バッハマイル・ヴァイスアハ

    ドロミテから帰宅の中継地として、ミュンヘンの南50km、テーゲルン湖のほとりにある5つ星保養ホテルに一泊しました。若かりし頃はハノーファーまでいっきに走っていたのですが、途中で休むのが習慣になりました。このホテルは20世紀の終わりに、優雅さと心地良さとバイエルン州の田舎風をお客さんに提供しようとして建てられたとのことです。正面入口・ロビー兼図書室高級車が並ぶホテルの正面玄関を入ると、意外と質素なロビー兼図書室に驚きます。広大な庭のまわりにぐるりと客室棟が建ち並ぶ設計で、庭には礼拝堂があり、敷地の真ん中をかなりの水量の小川が流れています。われわれの部屋は思っていたよりシンプルで地味な、落ち着きのあるツインルームで、広さもわりとあるので住環境はたいへん結構です。中庭1&2礼拝堂実際に行くまでまったく知らなかっ...ホテルバッハマイル・ヴァイスアハ

  • シュヴェーデスドルフ城館

    16世紀の末、ニーダーザクセン州の州都であるハノーファーから西南西の方向に45分走った所にシュヴェーデスドルフ城館は建造されました。城は建設されて以来フォン・ミュンヒハウゼン家によって個人所有されていて、EUの資金援助により重要な文化遺産として良好な状態に保たれています。城は母屋とそれに垂直に隣接する建物で構成されています。17世紀初めに六角形の階段塔が増築され、19世紀には木骨造りの上層階が拡張されました。城の西側にはエキゾチックな木々が生い茂る庭園があります。数年前まで、フォン・ミュンヒハウゼン男爵とその夫人が老後を過ごす居城として機能していました。正面から・向かって右から向かって左から・人が住んでいると思われる棟2022年の中頃からシュヴェーデスドルフ城館が建つラウエナウ町では、個人投資家が城と付属...シュヴェーデスドルフ城館

  • ピエトラ城砦

    私たちが8泊したアパートメントは、プリミエロ谷にあるトランサックアという村にあります。ここはドロミテの南の方で、ドロミテ独特の奇岩の山々が見える地域の南端にあたります。トランサックア村は、川を挟んだフィエラという村や同じ川岸側にあるトナディーコおよびシロールの村々と共同体を成しています。奇岩の山々の一部朝・夕方フィエラ村1&2フィエラ村3&4フィエラ村5ピエトラ城砦はトナディーコ村にあるのです。北イタリアの他の地方に同じ名前のもっと立派な城塞がありますが、ここのピエトラ城砦は険しい岩山のてっぺんに築かれていて、今は廃墟なのです。ピエトラ城砦正面から・裏側から山を分け登って近づいて見ると巨大な岩にロッククライミングしている人たちがいます。ロッククライミング場自然の岩を利用した城壁の一部があり、上に登るのに鉄...ピエトラ城砦

  • 貴族の館 エルス・カルデラーズ

    昨年のクリスマスから新年にかけて久し振りにスペインのマヨルカ島で過ごしました。過去に比較的頻繁に行った時期があり、今回は7か8回目ぐらいです。ドイツでフィンカと呼ばれるかつての農家を賃借して10日間過ごしたのです。近くに住む大家の犬と猫がしょっちゅう遊びに来たり隣の農場の羊やロバたちが寄って来たりして、たいへん楽しく過ごしました。フィンカ・フィンカの広大な庭マヨルカ島滞在の主な目的はトレッキングだったのですが、その土地の文化に触れることも忘れませんでした。その一環としてエルス・カルデラーズを訪れたのです。館の外観・その入り口立派な犬小屋外庭・中庭エルス・カルデラーズはマヨルカ島のかつての邸宅で、現在は野外博物館として利用されており、当時の部屋を見学することができます。この邸宅は13世紀の後半にカルデラー家...貴族の館エルス・カルデラーズ

  • マロースティカ城塞

    ヴィツェンツァからドロミテの山間部のアパートメントに居を移す途中で、マロースティカという、人口一万四千人の小さな町を散策しました。旧市街の鳥瞰図見どころは、山頂にある上部城塞と平地にある下部城塞。そしてそれをつなぐ城壁が旧市街を完全に取り囲んでいる景観です。14世紀に築かれた数キロメートルの長さの城壁には、二十数本の防御塔があります。下部城塞(城壁の外から)1&2城壁(外側)教会と上部城塞1&2上部城塞1&2上部城塞3城壁1&2下部城塞(左)と城壁(真中と右)城壁の中には下部城塞の前にチェスボードを模した広場があり、数百年前から2年に一度、偶数年9月の第二週末に人間チェスが行われます。人間が中世の衣装を着てチェスの駒に扮するのです。下部城塞とチェスボード広場(コンサートの準備中)なぜ人間チェスが行われるよ...マロースティカ城塞

  • ローテンブルク・オプ・デア・タウバー

    ノイシュバンシュタイン城やライン河下りと並んで最も知られたドイツ観光のハイライトのひとつが、南ドイツをヴュルツブルクからフュッセンへ縦断するロマンティック街道です。ロマンティック街道にある中世の町の中でも特に有名なのが、ニュルンベルク大都市圏の一部であるローテンブルク・オプ・デア・タウバー。市役所(左の建物)なぜこれほどまでに有名なのでしょうか?歴史的な町の中心部は要塞に囲まれ、タウバー渓谷の手付かずの風景に埋め込まれています。そしてほぼ完全に保存されている中世の旧市街に多くの歴史的建築物や文化財があり、第二次世界大戦による破壊と再建にもかかわらず、現代的な建物がほとんどありません。これがこの町の魅力なのでしょう。さらに、ローテンブルクは中世犯罪博物館など、いくつかの博物館でも知られています。私の姪が訪独...ローテンブルク・オプ・デア・タウバー

  • チッタデッラ と カステルフランコ ・ ヴェーネトの市壁

    ヴィツェンツァの近くのチッタデッラという小さな町を見学しました。歴史的な地域が、ほとんど完全な形で残っている市壁で囲まれている興味深い町です。チッタデッラの中心部チッタデッラは13世紀前半にパドヴァの軍事的前哨地として築かれました。そして13世紀後半から14世紀末にかけて近隣地域での戦略上の重要性を持つようになり、その影響が及ぶ地域が広がっていったのです。現在北イタリアであるこの地方は、18世紀から19世紀にかけてフランスに占領されたりオーストリアの一部になったりした後、19世紀の後半にイタリア王国に属するようになりました。市壁と水掘・出入り口のひとつ(外側から)出入り口のひとつ(門の内部)・出入り口のひとつ(内側から)市壁は直径約450mのほぼ円形で、円周は約1.500mあります。高さは14mから16m...チッタデッラとカステルフランコ・ヴェーネトの市壁

  • マドンナ・ディ・カンピーリョ

    海抜1552mの高さにある人口650人(2022年時点)のマドンナ・ディ・カンピーリョ村は、イタリア・アルプスで比較的大きな都市ボルツァーノの南西に位置しており、約100㎞離れています。同様の都市トレントから見ると北西にあたり、約70㎞の距離です。隣のボルツァーノ自治県にドイツ語話者が多いからでしょうか、この村にはドイツ語の名前もあり、ザンクト・マリア・イム・パインといいます。この場所は13世紀前半の文献に初めて、巡礼者や旅行者のために12世紀後半に建てられていた施設と共に言及されているとのことです。山から見たマドンナ・ディ・カンピーリョ村村の周辺の景色1&2村の周辺の景色3&4この施設が地域の観光の起源となっていて、650人の住民は主に観光業で生活しています。過去にはハプスブルク家のメンバー、特に皇后シ...マドンナ・ディ・カンピーリョ

  • ロミオとジュリエットの城塞

    北イタリアの旅行で次の目的地であるヴィツェンツァに行く途中、モンテッキオ・マッジョーレという町を通りました。そこで偶然に、〈ロミオとジュリエットの城塞〉があることを知ったのです。地元の人によると、シェークスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台になった町はヴェローナではなくてこのモンテッキオ・マッジョーレだ、とのことです。ロミオの城の実際の名前は〈CastellodellaVilla〉で、ジュリエットの城は〈CastellodellaBellaGuardia〉です。ウィキペディアの写真でロミオの城とジュリエットの城の位置関係がわかります。約300メートル離れているのです。二つの城の位置関係(ウィキペディアより)ロミオの城1&2ロミオの城からジュリエットの城を望むジュリエットの城1&2ジュリエットの城から...ロミオとジュリエットの城塞

  • 狩猟の館 〈森の平和〉

    大きな森の真ん中にある〈森の平和〉と名付けられたかつての狩猟の館は、こんにちホテル&レストランになっています。施設の入り口・ホテルホテルの本館1&2ハンブルクのほぼ真北約30㎞の所です。この建物はある船主のスタイリッシュな家屋として20世紀初頭に建てられ、現在でもその元々の小ぢんまり、上質、ロマンチックといった魅力を保持しているのです。最高級ではないが高級ホテルが会員である〈ロマンティック・ホテル〉という組織に属するホテル本館、別館のゲストハウス、庭に点在する催し物を行うコテージから成る施設です。ホテルと庭・庭とコテージ別館のゲストハウス本館はディズニーランドにあるような可愛い建物です。レストランの一角がレセプションになっていて、中年おばさんがテキパキとチェックイン手続きをしてくれます。私の部屋・そのバス...狩猟の館〈森の平和〉

  • ロッカ ・ ディ・リーヴァ水城

    リーヴァ・デル・ガルダという町はマルチェージネとならぶガルダ湖観光の中心です。ガルダ湖の北端にあり、人口約一万六千人。町は1919年までオーストリア・ハンガリーに属していて、第一次世界大戦後イタリアに属するようになったそうです。むかしの町の防御施設の大部分がまだ残っていて、見学できます。町の中央広場・山の中腹の歴史的建造物そのひとつが、港にあるロッカ・ディ・リーヴァ水城です。12世紀に建造され、14世紀に初めて記録に現れるそうです。この手の城の運命なのですが、度重なる戦争により色々な国の軍隊に占領されたり、掠奪されたり、焼き払われたりして来ました。こんにちの姿になったのは19世紀で、第一次大戦後にこの地方の基礎自治体の所有になったとのことです。城塞は水堀とガルダ湖によって周りを水に囲まれています。20世紀...ロッカ・ディ・リーヴァ水城

  • バイヒリンゲン城館

    バイヒリンゲン城館は私の住むハノーファーから南東に230km、旧東ドイツのテューリンゲン州にあります。城館の前庭と駐車場・入城門おそらく渓谷への重要な峠道を守るために建てられたと思われ、ある司教の11世紀初めの著書で初めて城として言及されました。それから数百年の間、武力紛争によって征服されたり破壊されたり再建されたりを繰り返すのみならず、貴族の間で売買されて来たようです。そして16世紀の中頃に、荒れ果てた城の基礎だけを残して利用する形でルネッサンス様式の城館に改築されました。その後も拡張と再建が続けられ、17世紀中頃の30年戦争によって受けた損傷も修復されました。城館がネオルネッサンス様式で根本的に再設計されて建てかえられたのは20世紀の初めです。城館施設内の建造物1城館施設内の建造物2&3第二次世界大戦...バイヒリンゲン城館

  • スカリジェロ城塞

    夏の休暇で山々に囲まれたイタリアで最も大きい湖、ガルダ湖に来ました。湖岸のマルチェージネという町に8泊するのですが、この町は人口約3.700人で、しばしば〈ガルダ湖の真珠〉と呼ばれる、ガルダ湖観光の中心のひとつです。マルチェージネの港・裏の山から城塞とオールドタウン今回紹介するスカリジェロ城塞は湖の交通を管理するのに良い位置、30mの高台にあります。最初の城塞建造は12世紀の前半と記録されているようです。何度も破壊と再建を繰り返してきて、18世紀から19世紀にかけてフランス人が占領したりオーストリア人が取ったり、はたまたイタリア王国に属したりしたのですが、1815年のウィーン会議の後オーストリア帝国に属するようになり、この時代、すなわち19世紀の後半に最後の根本的な改築がなされました。イタリアの独立戦争の...スカリジェロ城塞

  • シュヴァインスブルク城館

    私の住むハノーファーから南東に約350km、メッセで有名なライプツィヒから真南に約75㎞。旧東ドイツのこの位置にシュヴァインスブルク(豚の城)城館はあります。城館ホテルですので、昨年の夏ここに宿泊しました。昔は堀で囲まれていた城の建設は12から13世紀にかけて行われ、早くも13世紀中に城の所有者であり領主の家族は絶えたので、その後何度か所有者が代わりました。城は荘園の行政の中心地として機能し、15世紀後半からシュヴァインスブルクという名前が城に使用されるようになりました。17世紀中頃の30年戦争の際はスウェーデン軍の将軍の住居になったそうです。そして老朽化したシュヴァインスブルク城は18世紀の中頃バロック様式の城館に、さらに20世紀になってすぐの頃にネオ・バロック様式で改築と再建がなされたのです。城の外観...シュヴァインスブルク城館

  • B&B ホテル ベルクユヴェール

    ドイツのバイエルン州から国境を越えてオーストリアのチロル地方に入ると、山の中にフェルンシュタイン城塞があります。この城は13世紀の終わり頃に建造されたようで、おそらく、破壊、修理、再建、拡張などを経て現在に至るのでしょう。城に属するかたちで、美しい静かな湖があります。城はホテルになっているので、いつか宿泊してみたいと思います。フェルンシュタイン城塞・すぐ近くの湖妻と私はさらに南下し、〈ノイシュティフト・イム・シュトゥーバイタル〉という名前の村まで来ました。ノイシュティフトという地名はオーストリアにいくつかあるのでしょう。だから〈シュトゥーバイ谷にあるノイシュティフト〉というのです。この谷のことは妻も私も知らなかったのですが、奥の方に氷河が見える静かな良い谷です。さらに知らなかったことは、この村が草津町の姉...B&Bホテルベルクユヴェール

  • エフェンブルク水城

    昨年の夏は北ドイツに行く機会が多く、その都度古城を見学したのですが、そのひとつがエフェンブルク水城です。北ドイツの都市ハンブルクからほぼ真西に直線距離で約200km、オランダとの国境まで20km弱のところに、庭園に囲まれて建っています。城に続く並木道1&2最初のエヴェンブルク城は17世紀の中頃にバロック様式の水城として建てられました。実に精巧に設計された建物だったようです。ところが城は200年後の19世紀半ばには住民のニーズに対して小さすぎ、時代遅れになっていて、広範囲の修繕が必要でした。そして新しい城は2年間の建設期間で拡張と再建が行われたのです。城の外観1&2城の外観3&4城の外観5その際、新しい城には古い城の周囲の壁、いくつかの仕切り壁、地下室の曲面天井、そして玄関の大理石の床が再利用されました。新...エフェンブルク水城

  • クレメンスヴェルト城館

    昨年の5月、妻と一緒にクレメンスヴェルト城館を訪れました。我々の自宅があるハノーファーから北西の方向に直線距離で200km程、オランダとの国境まで30kmのところにあります。城館とパビリオンの航空写真菩提樹の並木道・中央の城館クレメンスヴェルト城は18世紀前半に建てられた狩猟小屋です。並木道の延長線上にある中央の城館とそれを囲む8棟のパビリオンからなるこの複合施設は、ヴェストファーレン・バロック様式の主要作品の1つとされています。8つのパビリオンのうち7つはゲストハウスと農場の建物として機能していました。20世紀の前半に某私企業の所有となり、主に資材の倉庫として使われていて長い間修復作業はなされていませんでしたが、20世紀の後半になってやっと複合施設の包括的な改修と修復が行われました。城館とパビリオンの一...クレメンスヴェルト城館

  • ヒュンネフェルト城館

    私の住むハノーファーから真西に3時間強走った所にある、北ドイツの平地に建つ水城に来ました。城へと続く道・複合施設の全体像(Wikipediaより)広大な森と草原と畑がある敷地の中、敷地を囲むように水路が走っています。この人家から離れてぽつんと建つ、堀に囲まれた城と農場から成る数棟の建物がヒュンネフェルト城館です。門が固く閉まっており"ビデオ監視"の表示もあり、非友好的な印象を受けます。城館1&2城館3この地に最初に建造された城塞が、12世紀の中頃にヒュンネフェルト領主の先祖代々の本拠地として古文書に言及されています。そして13世紀に2棟からなる堀のある城塞に建て替えられ、14世紀末の頃から16世紀末にかけて数度にわたり所有者がかわりました。農場と堀1&2城塞がヒュンネフェルト城館に改築されたのは17世紀の...ヒュンネフェルト城館

  • 旅館 「ツム・バート」

    「プールへの入り口」という、日本人の感覚では変わった名前の、レストランを併設した宿屋です。休暇で北イタリアに行く途中で一泊した町にある施設で、この町は〈泉と水車の町〉とアピールしています。複数の泉から湧き出る水を集めて流れる小川があり、水車がたくさん回っていて、水泳と水遊び用のプールが充実しているようです。水車妻と私が旅装を解いたのはこの家族経営の旅館なのです。そのレストランは清水がふんだんに湧き出る泉の上に建っていて、10年くらい前からミシュランのひとつ星を持っています。我々の部屋はいたってシンプルですが、必要なものは全部あります。旅館-レストラン・客室レストランでは、泉と小川が見える一番良い席をもらえました。自分の仕事に関して良く勉強していると思われる給仕のお兄さんも他の給仕スタッフも愛想がいいのです...旅館「ツム・バート」

  • ブルク城館

    デュッセルドルフで講演をした帰途に、同市の南東30㎞程の所にある、刃物で世界的に知られたゾーリンゲンの郊外に建つブルク城館に立ち寄りました。それにしてもブルク(城砦)城館とは変な名前です。実は、半年ほど前に訪れた時は大工事中で、ほとんど見学出来なかったのです。今もまだ工事は続いていますが一部は見学可能だし、いくつかあるレストランも屋外休憩所も開いてます。しかしながら、まだ建物内に入ることは出来ないし博物館も閉まっているので、外観だけの見学になってしまいました。観光用にかなり整備しているため、古びた趣はまったくありません。駐車場からの外観1&2さて、この城館の歴史は13世紀まで遡るようです。元々の建物はノイエンブルクという名の城砦でした。が、14から16世紀にかけて戦争技術が変化して来た為、防御機能が不十分...ブルク城館

  • カッツェンシュタイン城塞

    カッツェンシュタイン(猫石)城塞は、11世紀に現在のバーデン・ヴュルテムベルク州に建造された城塞です。私の住むハノーファーから真南に500kmのところにあります。貴族の間で所有者が何度も代わり、17世紀中頃からは30年戦争などの争いに巻き込まれ、スウェーデン人やフランス人に攻略されたり、火災で破壊されたりしました。19世紀の初めから一時的にヴュルテムベルク王国の管理下に置かれ、その後約100年間の空き家状態から再び個人所有の城塞になりました。何度も所有者が代わり、その都度改装がなされ、その間市民に公開されたりされなかったりの繰り返しだったのです。ところが、20世紀の末頃に火災で部分的に破壊された後、閉鎖されました。21世紀になって数年過ぎたころ、ある夫婦が大改築を行い、城の一部を使って飲食店とお土産品売り...カッツェンシュタイン城塞

  • ホー ・ コェーニクスブルク城塞

    フランス中部を流れるロワール川の流域にある古城は40年くらい前にいくつか訪れましたが、このブログを始めてからは初めてフランスのお城を見学しました。アルザス地方にあるホー・コェーニクスブルク城塞です。フランス語ではChâteauduHaut-Kœnigsbourgと書きます。シャトーなんじゃらかんじゃらブールと読むのでしょう。模型・航空写真(ホームページより)ドイツと国境をはさんで接しているアルザス地方にあるホー・コェーニクスブルク城塞は、12世紀に建造されました。標高約800mの高台にあり、この地域の交通の要所であるライン河の流域を見渡すことが出来ます。城塞からの展望城塞は15世紀の中頃に破壊されて半世紀後に再建されたあと、17世紀の前半までその全盛期を謳歌しました。ところが、30年戦争の時、スウェーデン...ホー・コェーニクスブルク城塞

  • ヴァイベルホェフェ城館

    フランクフルトから南東に約50㎞離れた所に、約10ヘクタールもの公園をもつヴァイベルホェフェ城館はあります。13世紀中頃に建造された狩猟用離宮で、16世紀中頃の第二次辺境伯戦争と呼ばれる戦争で破壊され、5年後に再建されました。その後17世紀の後半から1990年まで牧羊農場が営まれていましたが、最後の農場主が亡くなった後、次の所有者が農場の歴史的価値を十分に考慮しながら、ウェルネスに重きを置いたヴァイベルホェフェ城館ホテルに改築したのです。そしてそのホテルのレストランは、ミシュランの2つ星を得たそうです。2016年から2017年にかけて、史跡保護の観点を考慮しながら建物の修復が行われました。母屋・母屋の裏側中庭1&2中庭3名もない(私が知らないだけなのですが)村のはずれに、大農場の面影が残る広大な敷地と建物...ヴァイベルホェフェ城館

  • ライネ城

    ライネ城というのは私の住むハノーファー市にある擬古典主義の城館施設で、1962年からニーダーザクセン州の州議会が入っています。柱廊玄関があるライネ城の前面1&2じつは、ライネ川沿いのこの地には13世紀の末に創設された修道院がありました。その教会財産が16世紀前半に世俗化(国有化)された後に教会だけが残されて、その敷地に城館が新築されたのです。その後修理や改装や建て替えが行われたのですが、19世紀に正面玄関に6本の円柱が建造されて擬古典主義的な建物となりました。第2次世界大戦時の空襲では100発以上の爆弾が城館に命中し、外壁を残して破壊されてしまいました。そして戦後、残った外壁を利用して城館は再建されたのです。21世紀に入って何度か近代化工事が行われました。ライネ城の前面を違う角度から・ライネ城の手前にレス...ライネ城

  • オスナブリュック城館

    ハノーファーから西に160km離れたところにあるバロック風のオスナブリュック城館は、17世紀の後半に建造されました。19世紀の初めから行政官庁の建物として使われ、20世紀前半のナチズムの時代にはナチの秘密国家警察(ゲシュタポ)が城の西の棟に入りました。ゲシュタポは地下に囚人房と拷問部屋をつくり、ユダヤ人のオスナブリュック市民を強制収容所に送るまでの間拘留していたのです。留置場にはその他、外国人の強制労働者と政治犯がいました。第2次世界大戦の時に城は破壊されて外壁だけになってしまいましたが、戦後再建されました。そして20世紀の後半に複数のカレッジが統合されて新しいオスナブリュック大学として開学し、それ以来大学の事務局と一部の学部が城館を使用しています。城館の建物と付属の庭園は史跡保護の対象になっているそうで...オスナブリュック城館

  • ゴーデス城砦 ・ その2

    ミシュラン1つ星のレストラン〈ハルベデルス・ゲストハウス〉も、やはり昔の貴族の別荘でした。レストランの外観とその内部ある種の緊張感をもって行きましたが、温か味のある居心地のいい内装で、どこかの裕福なお宅に招待されているような気持ちになりました。30歳前後の男性と60歳代と思われる女性の給仕スタッフは気さくで、常連客との会話が弾んでいました。私の席落ち着く隅のテーブルでアペリティフの発砲リンゴジュースを飲んでいると、60歳代後半ぐらいのシェフが出てきました。驚いたことに、シェフ自ら手書きのメニューを説明して注文を聞くのです。7品から成る4月のメニューがあり、省く料理があってもいいし一品料理を付け足しても良いとのことでした。それで、私は〈チーズの盛り合わせ〉をパスして6品のメニューにしたのです。ノンアルコール...ゴーデス城砦・その2

  • ゴーデス城砦 ・ その1

    かつて西ドイツの首都であったボンのバード・ゴーデスべルクという市域は、私には、各国大使館員とその家族が大勢住んでいた、という認識のところです。ここの中心部、海抜122mの小さな山にゴーデス城砦の廃墟はあります。町から見あげる城塔・ありし日の城砦の模型ゴーデス城砦の建造は13世紀の初めに始まり、建築と拡張が段階的に14世紀まで続きました。その後、16世紀後半のケルン戦争のとき、30mの高さの城塔だけが破壊されずに残ったのです。そして19世紀の終わり頃に当時の皇帝ウィルヘルムII世がゴーデス城砦の廃墟を当地のコミュニティーに譲渡しました。コミュニティーは20世紀の中頃、その廃墟に広々としたレストランを開いて今日に至っています。最近では4年ほど前に城塔は修復されたそうです。実際に階段と坂の小道を登ってみました。...ゴーデス城砦・その1

  • 下関市

    下関ではまず船で5分の対岸、北九州市門司区に渡りました。門司港レトロという歴史的重みをもつ建造物を残してある観光地域があるので、そこを見学するためです。関門海峡・門司港レトロここで昼食を、と思っていると、いたるところに〈名物〉という焼きカレーを食べさせる店があります。本当にしつこいくらいです。「元祖」、「専門店」、「市公認」、「本家」、「オリジナル」などをレストランの名に付けて権威をもたせようとしています。こんな〈名物もの〉は絶対美味しくないから食べないぞ、と思っていたのですけれども、他にめぼしいものもないし、あのカレーの香りは食欲をそそるんですよね。試しに食べてみました。焼き青カレー妻が頼んだのは〈焼き青カレー〉。生卵を埋め込んだご飯にタイ風味満載の青カレーとたくさんのチーズと色々なナッツ類をかけて、そ...下関市

  • 萩の町

    萩は、良く知られているように、日本の国体を左右した歴史をもっています。断片的にですが、いくつかの印象深い景色を写真に収めました。白壁の塀・夏みかんと桜武家屋敷が連なる地域には白壁の塀が目立ち、武士が栽培して生活費の足しにしたという夏みかんがのぞいています。明倫館かつて日本三大学府の一つと称された長州藩の藩校、明倫館の建物が残っていて、数年前まで小学校として使っていたそうです。毛利氏の廟所市街地のはずれにある東光寺には毛利氏の廟所があります。萩焼萩焼はたいへん有名です。すでにいくつか所有しているのですが、夫婦(めおと)飯茶碗とぐい飲みを買いました。2日目の萩はリゾートホテルを離れて、何だか由緒ありそうな名前の〈萩八景雁嶋別荘〉という料理旅館に宿をとりました。町の中心部に近いけれども、日本海に注ぐ川と江戸時代...萩の町

  • 萩城址

    萩城は、江戸幕府が開かれた翌年、1604年に毛利氏が居城として築いた城。城の建物は今はなく、東萩駅前にその模型があるだけです。萩城址1&2萩城址3・お堀の鯉萩市での一泊目は海岸にある普通のリゾートホテルにして、町の和食店で夕食をとりました。元首相の小泉さんが訪れたことがあるそうです。カウンター席で小さなコース料理を注文して、それに加えて気の向くままに一品料理を頼みました。コースの最初は何であったか忘れましたが、味噌ドレッシングがかかっています。ドレッシングが結構良い味でした。最初の一品・ゴマ豆腐ゴマ豆腐はゴマの風味となめらかなのど越しがいいですね。フグの皮とキュウリの酢の物フグの皮とキュウリの酢の物。私はフグ独特の味というのはよく分かりませんが、まぁ、それなりに美味しくいただきました。イカと甘鯛と、名前は...萩城址

  • 東本願寺

    義母が亡くなって一周忌のこの春、京都の東本願寺に納骨に行きました。東本願寺1&2東本願寺3その時に「お斎」をいただいたのです。「お斎」とは、〈報恩講などの仏事の際に御同胞があい集い、米や野菜などを持ち寄って調理していただいた食事のこと〉だそうです。「お斎」のおかげで観光客は入れない奥の方まで案内され、広い部屋で妻と義弟とその妻の4人で精進料理を食べました。畳敷きの廊下・食事をした部屋部屋の床の間歴史を感じさせる、ふすまの絵柄が印象的です。部屋のふすま1&2脚が無くて畳にベタッと置くお膳だったので自分の脚が痛いし、前かがみになると腹がつかえるし、何とも食べにくい食事でした。お膳の全体像お膳の左半分・お膳の右半分ご飯は豆ご飯でしたが、豆の風味も米の美味しさもあまり感じられなくて残念でした。湯葉と菜の花とキノコ...東本願寺

  • 杵築城

    我が故郷、大分県の北部に建つ杵築城。杵築城1&2武家屋敷がある地域1&2武家屋敷がある地域3ここでとれる「城下カレイ」は食通に良く知れられていますが、近くの宇佐市安心院(あじむ)にも美味しい食材があります。スッポンです。私はスッポンは30年ほど前に大阪で食したのが最初で最後なので、いち時帰郷の折、安心院にある全国的に有名なスッポン料理専門の店に行ってきました。スッポン料理店の入り口雰囲気のいい入り口に球を転がすスッポンの立像がありますが、女将さんによると、この球に歴史的な意味はないそうです。この女将さん、明るくてシャキシャキのやり手でいろいろ説明をしてくれるのはいいけれど、少々差し出がましくて押しが強い性格です。アラカルトで各種のスッポン料理を試してみようと思っていましたが、コースの鍋料理がベースになって...杵築城

  • 城塞広場

    ライン河畔にあるこの広場はデュッセルドルフの旧市街にあります。〈城塞広場〉という名前は昔ここに城塞があったからなのです。13世紀の後半、漁村であったデュッセルドルフが市に昇格した時にライン河を航行する船から税金を徴収するために城塞が築かれました。16世紀後半に城塞は領主の居城としての城館に改装されたのですが、その後領主が引っ越したあと、絵画のギャラリーなどが入居していました。ところが18世紀から19世紀にかけて数多くの火災が度重なって損傷がひどくなったため、19世紀の末頃に城塔だけを残してすべての建物は撤去されたのです。その城塔には現在船舶航行博物館とカフェが入っています。第二次大戦後、破壊された広場の再建とその後の複数回の再開発を経て、こんにちに至っています。城塞広場と城塔・広場にあるモニュメントライン...城塞広場

  • イェーゲルホフ城館

    過去のブログに書きましたが、デュッセルドルフは私にとって特別な都市です。ここで学業を終えて医師免許の取得、病理専門医の資格取得、そして博士号を取得して結婚をしました。私の人生を決めた場所なのです。今回講演の依頼があってこの懐かしい市を訪れました。デュッセルドルフ市役所市街地の中心部から公園を横切って、18世紀の中頃建造されたイェーゲルホフ城館に行きました。城館への道 ・ そこにあるベンチは蛍光灯建造されて約10年後、あのゲーテがデュッセルドルフに来たときに訪れたと思われるそうです。しかしその4年後には革命軍による略奪があり、結局のところまったく住めない状態になりました。そして19世紀の初め頃ナポレオンがこの町を訪れるのを機に修理されたのです。その後貴族が住んでいたり、空き家になったり、その他いろいろなこと...イェーゲルホフ城館

  • ハノーファー市庁舎

    私の住むハノーファーの13世紀前半に建てられた最初の市庁舎が、まだ旧市街の中に旧市庁舎として残っています。現在は建物に飲食店と商店が入っているようです。旧市庁舎(Wikipediaより) 19世紀の末になってハノーファー市が工業化によって次第に広がって来た為大きな市庁舎が必要になり、現在の豪華な城館に似た新市庁舎が、ウィルヘルムII世治下の1901年から12年の歳月をかけて市の中心部の南端に建てられました。高さ97,73メートル、長さ約129メートル、そして幅がおよそ67メートルあるそうです。新市庁舎の航空写真(Wikipediaより) ・ その南側(Wikipediaより) 新市庁舎の北側 ・ 入り口を入って正面階段の上から入り口を見る1階のホールには旧市街がどのように変遷してきたかを示す模型が展示され...ハノーファー市庁舎

  • グルーネヴァルトの城館ホテル

    この城館ホテルは、ドイツの首都ベルリンのグルーネヴァルトと呼ばれる市域にある5つ星のデラックスホテルです。私がこのホテルの存在を知ったのは、2006年にサッカーの世界選手権がドイツで開催され、ドイツチームの宿舎になったときです。「へー、こんなホテルがあるのか。」と思ったのですが、格調が高そうで何となく気がひけて、泊まるのは見合わせていました。そして10年以上経った2018年、私も年をとって厚顔になったのか、その高い敷居をこえてみよう、という気になったのです。ちょうど日独センターで講演をすることになったので、この機会を利用することにしました。さて、グルーネヴァルトの城館ホテルとはどんなホテルなのでしょう。2年間の建築期間を経て1914年に完成したイタリア・ルネサンス風の建築物です。本来の意味での城館ではなく...グルーネヴァルトの城館ホテル

  • ソフィテル ・ アテネエアポート (復)

    11日間のペロポネソス半島旅行を終えて、最後の夜は再びアテネの空港ホテルです。その日のフロント係によるのでしょうか、チェックインのときの勝手が11日前とは少し違います。先回はごく普通だったのですが、今回は宿泊費を全額前払いで帳場を閉めてしまったため、部屋の冷蔵庫のキーをくれないし、(後で知ることになるのですが)レストランでの飲食費の部屋付けも出来ませんでした。客の自由を制限する、まったくもって良くないシステムですね。セットされた晩餐のテーブル・ギリシャらしい船舶の装飾パンとオリーブ油とバターレストランでも今回はシェフの挨拶の突き出しが出てきません。白黒パンとバターとオリーブ油だけです。先回はオリーブ油がなかったような、、、?飲み物はあいも変わらず妻はシャンペンと地元の赤ワインで、私はノンアルコールビール。...ソフィテル・アテネエアポート(復)

  • ミストラ遺跡

    ミストラ遺跡は、ギリシャのペロポネソス半島南東部にあるビザンツ時代の中世城塞都市の遺跡です。ユネスコ世界遺産に登録されています。13世紀の中頃山頂に城塞が築かれ、その後山の中腹に新たに滞在用の居館(のちの宮殿の一部)が建設されました。その結果、ギリシャ人民が安全を求めて城下に集まってくるようになったのです。こうしてこの地が都市として発展する土壌が作られました。発展期を迎えたのは14世紀も半ばのことで、増加しつつあった人口に対応し得る都市作りが開始されました。その発展にはめざましいものがあり、自由な気風に満ち溢れたこの地に於いて、文芸では人文主義、教会美術においては写実的な作風が特徴的である、いわゆる〈パレオロゴス朝ルネサンス〉と呼ばれる文化興隆の一典型が形成されたのです。ミストラ遺跡に車で近づいて行くと山...ミストラ遺跡

  • アンシエント メッシーニ

    アンシエント(古代の)メッシーニとは、ペロポネソス半島南西部のメッシーニ地方にある、紀元前4から3世紀に起源をもつ古代都市の遺跡です。遺跡1&2遺跡3&4遺跡5&6遺跡7&8小高い丘の上に広がっていますが、すぐ近くに大きな泉があり、そこの水がこの古代都市の成立と存続を可能にしたことがよく分かります。泉・古代遺跡に流れ込む水アンシエントメッシーニは広大で、車で数分走ってやっと、当時の都市をとり囲んでいた外壁にたどり着きます。都市をとり囲んでいた石壁1&2私たちはよく休暇用アパートメントを利用しますが、そこでの食事は材料入手の困難と調理用具の不備にもかかわらず、出来るだけ自宅での食事の延長にしたいと思っています。それで妻はちょこちょこといろいろ作ります。たとえば今晩の夕食は7種類の料理です。日常の食事で必ず食...アンシエントメッシーニ

  • ミケーネ古代遺跡

    古代都市「ミケーネ」が栄えたのは、紀元前16世紀から紀元前12世紀にかけてのことだそうです。高度な青銅器文明を持っていたそうで、いくつかの巨大な石造建築物が見られます。たとえば、「アトレウスの宝庫」と呼ばれる建造物は石室式集合墳墓で、中は円錐型に石が積み上げられています。アトレウスの宝庫の入り口と内部獅子門遺跡1&2遺跡3&4この遺跡を訪れる観光客をあてにして、道路の両側におみやげ屋とレストランが数軒ずつ並んでいますが、シーズンオフなのでほとんど営業していません。一軒だけ開いているというレストランを教えてもらいました。いち応メニューはありますが、出来るのはオムレツとサラダだけのようです。メニューにはなくて、「美味しいよ、美味しいよ。」とオーナーが一生懸命勧める料理を注文しました。豆スープ豆スープは熱々でな...ミケーネ古代遺跡

  • カラマタの町

    我々のアパートメントの近くにある比較的大きな町は、人口約70.000人を数える、半島で2番目に大きいカタマラです。海岸近くの比較的新しい町域は、観光客や海水浴客を見込んだお土産品店、レストラン、そしてカフェなどが立ち並んでいます。カラマタの町いくつかあるお城のひとつ・付属の教会郊外の円形競技場オールドタウンは山に向かって2、3km行ったところで、昔ながらの飲食店が並んでいて古き良き時代の雰囲気を感じます。高台にはお城があり、その下にはギリシャ正教の教会があります。ここでは考古学博物館を見学しました。ただ、紀元前10数世紀の石の塊みたいな出土品を見ても、私の西洋史の知識ではそれが今の世界にどう繋がっているのか分かりません。妻は結構楽しんだようです。旧市街の教会・旧市街の泉ギリシャ正教会教会の内部1&2オール...カラマタの町

  • ペロポネソス半島

    「偉大な田舎」とペロポネソス半島は呼ばれているそうです。その「田舎」の海岸沿いにある小さな村で11日間、いつものように休暇用アパートメントを借りて過ごすのです。われわれが住む建物の中にアパートメントは4つあり、そのうちのひとつに大家が平素住んでいて、休暇の客はうちだけです。写真に写っているダイニングキッチンと居間の他に寝室がふたつあり、かなりゆったりとした住居空間なのです。大家は小さな子供が二人いる若い夫婦で、クリスマスと正月にギリシャ人が食べる特別なお菓子をくれるほど、細かい心遣いが出来る人達です。アパートメントクリスマスのお菓子・正月のお菓子この地域は夏休みを過ごす客が多いところのようですが、今はガラガラ。ほとんどの休暇用アパートメントはもちろんのこと、ほとんどのレストランもカフェも冬は営業していませ...ペロポネソス半島

  • ソフィテル ・ アテネエアポート (往)

    2018年の冬の休暇をギリシャで過ごしました。最初の夜はアテネの空港ホテルに宿泊し、翌日にレンタカーを借りてペロポネソス半島のアヴィアというところで11日間過ごしたのです。空港の建物を出てから徒歩2、3分で空港ホテルです。英語が拙いけれども綺麗なお姉さんがフロントにいます。レストランがふたつあるのですが、9階にあるグルメレストランで夕食をとることにしました。ギリシャとフレンチのフュージョン料理を供するそうです。クリスマスの装飾を施してあり、ジャズのBGMが流れる豪華な空間です。空港ホテルレストランの入り口と内部私が注文したギリシャのノンアルコールビールは甘味が少しあり、まあまあの味です。妻はアペリティフとしてシャンペンを、そして食事のときは地元の赤ワインを頼みました。ギリシャワインは有名ではないけれど、結...ソフィテル・アテネエアポート(往)

  • オェールベル城

    12月のドイツは待降節(4週間のクリスマス準備期間)で各地にクリスマス市が立ち、4回目の日曜日が過ぎるとキリスト降誕祭、すなわちクリスマスが来ます。先日の新聞で、ここハノーファーから50㎞ほど離れたオェールベル城に2度の週末に限って大規模なクリスマス市が立つことを知ったので行ってきました。オェールベル城・お城の入り口この地にあった12世紀の水城のお堀が埋められ、城の基礎の上に現在のルネサンス風のお城が築かれたのは16世紀後半で、昔からずっと騎士一族フォン・クラム家の所有だそうです。19世紀に行われたさらなる修理と改装のとき、付属の農場に馬の飼育場が造られました。そして20世紀の前半に、お城はテニススター、ゴットフリート・フォン・クラム男爵の故郷として有名になったのです。彼はデビスカップにドイツチームの一員...オェールベル城

  • パークホテル ・ マクシミリアン

    南ドイツの町レーゲンスブルクは19世紀の初めごろ、ナポレオン軍の攻略により、旧市街が灰燼に帰すまで破壊されました。後にその旧市街と中央駅を結ぶ直線の道路が出来、バイエルンの王様にちなんでマクシミリアン・ストリートと名付けられました。そして19世紀の終わり頃、その通り沿いにこのホテルが建てられたのです。中央駅から歩いて数分、旧市街まで10分というたいへん便利な位置にあリます。建物の基礎の一部はローマ時代の町の外壁で、隣接する公園は当時(外敵に対して防御するための)濠(ほり)だったそうです。建築の依頼主は完成する直前に亡くなり、その未亡人から建物を賃借した事業者がホテル経営を続けてきたのですが、第二次世界大戦後は米軍に押収され、司令部として使われました。約10年後にホテルは再開業したのですが、もはや利益を生み...パークホテル・マクシミリアン

  • ギフホルン城館

    私の住むハノーファーから東に1時間ほど走るとギフホルンという町があります。今回この町には、〈日本人の考え方と感じ方〉についての講演を依頼されたので来ました。講演会場地図を見ると意外にもギフホルンにお城があるのですねー。それで、近い距離にもかかわらず一泊して当ブログのための取材をすることにしました。泊まったのはギフホルンの町はずれにある個人経営の小さなホテルです。実はハノーファーで1週間の農業機械メッセ(見本市)が開催されていて、車で1時間も離れているこの町でさえ、この期間はホテルが特別宿泊料金になります。私が泊まったホテルは通常のほぼ2倍の部屋代です。ハノーファー市内では3倍から4倍になるホテルもありますから、まだマシな方ですね。それにこの田舎では元々の宿泊料金が安いので、まぁ許容範囲です。もちろん今夜は...ギフホルン城館

  • 聖者の谷の水車小屋

    講演の依頼があって、ハノーファーから約130km離れたリューネブルクに行きました。千年以上の歴史をもつリューネブルクは、中世時代に塩の掘削と流通でたいへん栄えたハンザ都市です。ゴシック様式のレンガ建築とロマンティックな切妻造りの建物がこの市のトレードマークなのです。リューネブルクは第2次世界大戦時に破壊されなかったので、古い建築物がたくさん残っています。昔の水塔で、今はイヴェント用の建物(私の講演会場)市役所と市場・旧市街の一角中央広場・今も営業している薬局宿泊したのは、〈聖者の谷〉というありがたい名前の隣村です。〈聖者の谷の水車小屋〉というホテル・レストランですが、名前が示すように、この場所にはすでに14世紀から修道院に住む僧侶が営んだ水車小屋がありました。現在の建物は見た目はかなり古いのですが、20世...聖者の谷の水車小屋

  • アルテナ城塞

    昔私が大学を卒業して仕事を始めたり新婚生活を始めた懐かしい都市、デュッセルドルフからほぼ真東に直線距離で約65㎞離れた所にアルテナ城塞はあります。それは、澄んだ水が大量に流れるレンネ川の畔にある小さなアルテナ町にそびえ立つ城塞です。アルテナ城塞の模型・アルテナ城塞1トンネルとエレベーター・城塞からの景色車でも行けますが、町の中心部から比較的長い、途中に子供が喜びそうな遊び道具や展示がある歩行者専用のトンネルの奥にあるエレベーターで城塞まで登る有料の方法もあります。行ってみると、細長い岩山の頂上に建つ大きな存在感のある城で、両側はかなり急斜面の谷です。アルテナ城塞2&3アルテナ城塞4&5アルテナ城塞6&7伝説によると、このSpornburg(支脈城、半島城)は12世紀の初めに建造されたようです。この地域の重...アルテナ城塞

  • シュヴェリン城

    旧東ドイツの北部にあるシュヴェリンという町の中心部に近いところに、シュヴェリン城は建っています。湖の島に建つ豪華絢爛なお城です。シュヴェリン城とその周り(ウィキぺディアから)城の基礎となる部分は、10世紀の末ごろ湖の岸辺に近い小さな島に築かれた砦の土塁であるそうです。その小さな砦が何世紀にもわたって公爵や大公の居城であった城館になっていく過程は、16世紀の初めごろから書物や絵画で詳細に記録されています。現存するお城は19世紀の中頃に、古い建物を改築して誕生しました。20世紀の初めごろには原因不明の大火災で建物の3分の1が破壊されたそうです。再建のあと国にその所有権が移り、城館博物館、農民博物館、保健博物館、そして考古学的収集品の展示室を設けて一般公開されました。その他ラジオ放送局など色々な事務所や、ヒトラ...シュヴェリン城

  • 湖ホテル フランケンホルスト

    ドイツの北東部は湖の多い地域で、ハイキングやサイクリングでにぎわう観光地です。その湖のうちの一つの湖畔に〈湖ホテル・フランケンホルスト〉はあるのです。この地には18世紀の後半から20世紀の前半まで、いくつかのレンガ製造工場と石灰工場がありました。そこに建てられた〈湖の喜び〉というハイキング客のためのゲストハウスは戦中から戦後の東ドイツ時代に地方の高官やドイツ社会主義統一党の役人の宿泊所として使われ、もちろん旧東ドイツで最後の国家評議会議長および党の書記長であったエーリッヒ・ホーネッカーも滞在したことがあるそうです。そして東西ドイツ再統合の後ゲストハウスは一般人の観光と飲食営業に利用されるようになり、21世紀の初めにこの地域は風景と鳥類を保護する領域と位置付けられました。〈湖ホテル・フランケンホルスト〉はこ...湖ホテルフランケンホルスト

  • ホテル フライホフ ・ アム ・ ローラント

    先日ハンブルクの小さな隣町ヴェーデルにあるトヨタ自動車の販売店で行われた〈日本デー〉という催しで、妻が自作の陶器を展示し、私が〈和陶器〉をテーマに講演をしました。陶器の展示その際に宿泊したホテルが思いのほか面白かったのです。ホテルの名前は〈ローラント像の脇にあるフライホフ〉といいます。まずローラント像。ローラント像この、むき出しの剣を持った騎士の立像は北ドイツや東ドイツの中央広場や市役所の前に比較的頻繁に見られ、都市権(都市およびその市民に与えられる特権)のシンボルです。フライホフというのは中世において貴族または聖職者が所有する中庭のある邸宅で、納税義務やその他の市民としての義務を免除されていました。このホテルの建物はヴェーデルの町で最初にできたフライホフのひとつで、16世紀前半のことだそうです。18世紀...ホテルフライホフ・アム・ローラント

  • ロックム修道院 と 湯治場

    ハノーファーから半日の遠足で行けるところにロックム修道院があります。ここは昔カトリックのシトー会修道士の修道院だったところです。現在残っている後期ロマン派の教会は13世紀に建立されました。この修道院の管轄区域では16世紀半ばから17世紀の半ばまで全部で54の魔女裁判が開かれ、33人が死刑になったとのことです。敷地内の建物はこんにち神学校、会議場、音楽祭の会場、そして図書館などとして利用されているようです。修道院の入り口・聖地巡礼者の宿泊所教会・教会の内部ところで、ロックム修道院の前にある喫茶店でお茶を飲みました。いつものようにアールグレイです。お茶請けはワッフルでした。チョコレートソースが少しかかっていて生クリームとバニラアイスが添えてあります。まぁ、ふつうのそれなりの味でした。アールグレイ・ワッフルその...ロックム修道院と湯治場

  • アルテンハウゼン城

    私の住むハノーファーと首都ベルリンのちょうど中間地点にアルテンハウゼン村があります。旧東ドイツの地域です。その村にあるのがアルテンハウゼン城なのです。城は何度も改増築されたのでルネッサンス、新ゴシック、後期ゴシック、バロック、そして歴史主義の様式が共存していて、まわりは中世の環状壁に囲まれています。こんにち残っている最も古い建物の部分は15世紀と16世紀に建築されたそうです。村から城内には、17世紀後半30年戦争後の再建時に建造されたアレキサンダー門をくぐって入ります。アレキサンダー門さて、アルテンハウゼン城の起源ですが、11または12世紀に造られたニーデルンク城砦がその基になっています。その城砦ももともとそこにあった建物から発したのではないか、と思われています。アルテンハウゼン城が最初に古文書に現れるの...アルテンハウゼン城

  • ヒュルゼデ水城

    ハイデ(Heide)という単語を辞書で引くと、〔平坦で立ち木のない原野や砂地であって、ヒースやネズミが生育していることが多い荒野、荒地〕とあります。ここ北ドイツにリューネブルガー・ハイデという広大な地域があって、ヒースが生えているのです。2週間ほど前、ヒースが満開の時にそこでハイキングをしました。適当な起伏があり、高い地点からの遠景が見事でした。リューネブルガー・ハイデのごく一部・ヒースの花リューネブルガー・ハイデにはハイキングやトレッキングの拠点となる村がいくつもあるのですが、そのうちのひとつで午後のお茶をしました。農家を改造したカフェで、〈地方独特〉と〈有機栽培〉をうたっています。開店時間が短くて、土・日・月の午後2時から6時までしか開いていません。冬などのシーズンオフには完全に閉まっているのだと思い...ヒュルゼデ水城

  • レンツェン城塞

    ハノーファーから北東に進むとエルベ河にぶつかります。そのエルベ河を越えてすぐのところにあるレンツェン村の南端に、この城塞はあります。すでに8世紀には、この地に土砂による防壁が造られました。防壁は数世紀にわたって何度も破壊され、そのつど再造成されたそうです。そして13世紀の初めにやっと、その防壁の中に最初の城塞が建造されたのです。14世紀にいち度破壊されて15世紀に再建されましたが、30年戦争でまたしても損壊しました。20世紀初頭に城塔が見物客に解放されるまで、お城施設では順次、新築、増築、修復、そして造園が行われ、さらなる修理修復が20世紀前半に行われました。レンツェン城塞は第2次世界大戦では破壊をまぬがれ、戦後は出産も可能な病院として使われたのですが、1953年に所有者から没収されて当時の東ドイツ国の財...レンツェン城塞

  • レンツェン村

    レンツェン村は2.200人余りの住民が住む、かつては東ドイツの静かな村です。歴史のある村のようで、昔は結構栄えたと思われます。村役場と警察がはいる建物教会の内部1&2ところが現在は、旧東独の町によくあるように村の中心部を含めていたるところに廃屋が目立ちます。廃屋・エルべ河と渡しフェリーこの村のすぐ近くにあるエルベ河の辺りはかつて東西ドイツの国境でした。その当時の監視塔が河沿いの土手に残されていて見ることが出来ます。河の土手はかなりの距離のサイクリングロードです。監視塔・中は約2畳半この辺は自然環境保全に力を入れている広大な河川景観地域で、ユネスコの〈生物圏保護地区〉に指定されています。レンツェン村から10㎞ほど離れたところにある湿原地帯には、毎年数千羽の鶴が飛来するそうです。湿原地帯の一部・鶴(掲示板より...レンツェン村

  • フェネストレッレ城塞

    イタリア北西部のスーザ渓谷から南の谷に入っていくと、フェネストレッレ城塞があります。この地域の他の城塞と同様に、侵攻して来るフランス軍を押しとどめるために建造された強大な城塞です。この城塞は巨大な多段式の滝のように、約2000メートルの高さから山の尾根づたいに高低差635メートルの位置まで降りている建造物で、実は3つの城塞の集合体なのです。城塞の模型・博物館に掛かっていた航空写真1727年に上の城塞から造られ始め、1837年に下の城塞で建築が終了し、その間全長1500メートルは4000段以上の階段でつながっています。この建造物は19世紀後半に捕虜の兵士と宗教的罪人の強制収容所となり、20世紀の前半頃まで国事犯用監獄と軍用刑務所として役立っていました。その後砲兵隊の宿営地やパルチザンの隠れ家になって絶え間な...フェネストレッレ城塞

  • エジッレス城塞

    エジッレス城塞も、北イタリアに攻め入ろうとするフランス軍に対抗するために建造されたスーザ渓谷にある城塞のひとつです。前からの遠景・後ろからの遠景この城塞は14世紀の前半に初めて歴史書に記され、その後フランス軍に取られたり取り戻したりのせめぎ合いが続きますが、ナポレオンI世の末弟ボナパルトの軍がイタリアを征服した19世紀の初頭に破壊されました。そして比較的早く19世紀前半に再建されたときに原型の建築様式は近代的な軍事理念に沿うようにアップグレードされて第2次世界大戦終了までイタリア軍に属した後、捨て置かれていました。そして20世紀後半に地方自治体が入手して修復のプログラムを始めたのです。西暦2000年から国立山岳博物館として公開されており、時折展覧会も開かれるようです。前方の部分・後方の部分長い登城路の一部...エジッレス城塞

  • スーザ渓谷

    イタリアのトリノから西の山岳地帯にスーザ渓谷があります。ワインで有名なピエモンテ州に属する渓谷です。この谷にも遺跡がたくさんあるのです。妻と私が10日間過ごしたのは、2006年のトリノ冬季オリンピックのときにスキーの会場であったサウゼ・ドゥルクスという町です。ここを基地にトレッキングや遺跡めぐりをしました。さて、スーザ渓谷の中央部に位置するのが人口約6600人のスーザという町です。この町の歴史は古代ローマ以前までさかのぼり、中世に生きたある歴史家は「アルプスで最も古い都市」と記しているそうです。中世から近代にかけて、スーザは南フランスと北イタリアを結ぶ交通路の要衝として重要な役割を担いました。19世紀初頭にナポレオン・ボナパルトはモン・スニ峠(モンチェニージオ峠)越えの交通路を整備し、新たに今日〈ナポレオ...スーザ渓谷

  • バール城塞

    現在バール城塞が立つ位置に5世紀にはもう建造物があったようで、それが10世紀に拡充されて何世紀もの間フランスとイタリアを結ぶ歴史的ルートであるアオスタ渓谷を管理する役目を負ってきました。西暦1800年にイタリア軍がフランスの大軍をこの地で迎え撃ってこの地方とトリノを守ったのですが、バール城塞はその時に大破してしまい、19世紀の前半にこの地域を支配していたサヴォイア家によって再建築されました。その後19世紀末にはその軍事的重要性を失いましたが、引き続きイタリア軍が弾薬庫として使用していました。そして1975年に弾薬庫が閉鎖された後アオスタ渓谷自治区に所有権が移り、1980年代に呼び物として観光客に解放されましたが、建物の損傷がひどいことが明らかになりました。それで1990年代に長期にわたる大規模な修復を施し...バール城塞

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