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  • ヴァルデック城

    ドイツのほぼ真ん中のへッセン州にある国立公園〈エーデル湖〉の湖畔から急坂を登った標高200mのところに、ヴァルデックという小さな町があります。この保養地には湖畔からゴンドラが出ているのですが、これが1961年から動いている二人乗りの年代物なのです。ゴンドラの内部この付近は湖畔と周囲の山にトレッキングコースがたくさんあって、湖には何ヵ所かの湖岸を結ぶ観光船が行きかいます。さらにメルヘン街道の一角を占めている観光地です。この町のはずれの湖を望むところに4星スーパーに格付けされたヴァルデック城ホテルがあります。中庭から湖の方を向いたテラスがあり、景色が抜群。テラスから湖を望む湖から城を望む1&2ホテルの中はきれいに修理修復をしていて、結構新しい様子です。レセプションの素人っぽいお姉さんが外国人客に、自身の英語が...ヴァルデック城

  • 山形旅行

    2016年の秋に一時帰国したときに、今まで行ったことがない山形県を旅しました。まず行ったのは、6世紀の終わりごろから山伏の修験の山として知られている羽黒山です。樹齢300–600年の老杉が生い茂るなかに、2445の石段から成る参道が続いています。参道と途中の祠・社殿の前の鐘つき堂山頂には立派な神社があり、その前に重厚なかやぶきの鐘つき堂(仏教)が建っているのには驚きました。現在は神社として機能していますが、明治に入って神仏分離がなされるまで神仏習合だった名残だそうです。なるほど、参道にはたくさんの神社や祠がありますが、国宝の五重の塔(仏教)が見事です。参道途中の茶屋で飲食すると石段を踏破した認定証が授与されるのは御愛嬌ですね。次に行ったのは立石寺(通称:山寺)。山の斜面にへばりついている、松尾芭蕉があの有...山形旅行

  • リュデルスブルク宮殿

    昔塩の生産で栄えたハンザ都市リュ-ネブルクのすぐ近くにある城館です。ハノーファーの自宅から2時間弱で行けます。リュデルスブルク宮殿(正面と裏側)考古学的には西暦800年頃からこの地に人が住んでいたようですが、リュデルスブルク村と宮殿を含む大農場が古文書に現れるのは13世紀の前半だそうです。農場の所有者は何度も代わり、20世紀の中頃まである家族が住んでいました。現在の宮殿がどのように建てられたのかは、第2次世界大戦の時に古文書保管所が破壊されてしまったのでよく分からないとのことです。住んでいた家族が引っ越した後15年間は全寮制の学校として使われましたが、その後は使用されないままになっていました。1980年代の初めになってやっと建物の腐朽を防ぐ為に大規模な復旧作業が行われ、宮殿と他の2棟の建物はゴルフ客のため...リュデルスブルク宮殿

  • コルムベルク城塞

    アウトバーン7号線をヴュルツブルクの少し南で降りて田舎道を1時間ほど走ると、小高い山の頂上に見えてきました。コルムベルク城塞です。コルムベルク城塞この城塞の歴史は13世紀までさかのぼります。何回か個人所有者が代わったあと、18世紀の末にプロイセン王国の管理下に置かれ、19世紀にはバイエルン王国の役所が置かれました。20世紀の前半には、在日ドイツ大使が所有したこともあるようです。第二次世界大戦の時アメリカ軍に攻撃されましたが被害はたいしたことはなく、そのおかげで今でもオリジナルの城塞の雰囲気が保たれています。終戦後、1964年に城を購入した地元の家族がレストランを併設したホテルに改装して現在まで営業を続けています。人気のある城塞ホテルで、セミナーや学会の他、個人的なお祝いパーティーにも使われるそうです。なる...コルムベルク城塞

  • マウテルンドルフ城塞 と モースハム城館

    オーストリアのルンガウ地方にはここかしこに古城がありますが、そのうちのふたつがマウテルンドルフ城塞とモースハム城館です。ザンクト・ミヒャエルにいる間に遠足に行きました。マウテルンドルフ城塞この13世紀に建造された城塞の中を当時は道路が通っていて、そこを通る人から通行料を徴収していました。15世紀には拡張工事が行われ、こんにちの姿になりました。何人かのカトリック司教の夏の居城にもなりましたが、19世紀初めの教会財産没収により、国の所有となりました。が、その後、住む人が居なくて荒廃して行くにまかせていました。何回か所有者が代わった後、19世紀の末頃にある医師が購入して昔の姿に修復したそうです。そして20世紀の中頃オーストリア共和国が手に入れて、そのすぐ後にザルツブルク州の所有になり、大々的な改装が施されました...マウテルンドルフ城塞とモースハム城館

  • ルンガウ の ザンクト ・ ミヒャエル

    3週間目の滞在地は、オーストリアのザルツブルク州にあるザンクト・ミヒャエルです。世界のあちこちに同じ名前の町があるので、わざわざ〈ルンガウの〉と付けます。ここは多くの谷が合流するところで、それぞれの谷に遊べる所がたくさんあります。ザンクト・ミヒャエル行程の途中の村で昼食を食べました。チーズ・ヌードルというのはこの地方の名物。生チーズにペパーミントなど、いろいろなハーブを混ぜ込んで、餃子よりかなり厚めの皮で包んで茹でている料理です。それが溶かしたバターに浮かんでいます。癖のないチーズ味と薬味が混ざって結構旨いのですが、溶かしたバターがいかにも不健康なのでバターを切って食べたのです。七面鳥入りカレーライスは、辛くはないけれどもしっかりとカレーの味がして美味しい。このほか、野菜のミックスサラダを食しました。村の...ルンガウのザンクト・ミヒャエル

  • アルカディア ・ ホテル

    スロヴァキアのスモコレッチから次の滞在地、オーストリアのザンクト・ミヒャエルまで700kmもあるので、途中、スロヴァキアの首都ブラティスラヴァで一泊しました。ポーランドのワルシャワ、ハンガリーのブダペスト、そしてオーストリアのウィーンに似ていて、古くて由緒ありそうな建物が多く、興味深い町です。中心部・歩行者天国ブラティスラヴァ城塞旧市街のはずれに見事な城塞がありますが博物館になっていて、食事も宿泊もできません。それで、一夜を過ごしたのは旧市街の真ん中に建つ〈アルカディア〉という名前の5つ星ホテルです。正面玄関に車で乗りつけたら、待機していたスタッフが荷物を降ろすのを手伝ってくれて、キーを預けるとガレージに停めに行ってくれました。その間にチェックインを済ませて部屋で待っていると荷物を届けてくれたのです。まさ...アルカディア・ホテル

  • スモコレッチ

    この町の名前はスロヴァキア語でSmokorecと書きます。スモコレッチという読み方は正しくないかも知れません。さて、ポーランドのザコパネで1週間過ごした後、国境を越えてスロヴァキアのこの町に入りました。スロヴァキア語はポーランド語と似ていますね。たとえば、〈こんにちは〉をポーランド語では〈ジンドブレ〉と言いますが、スロヴァキア語では〈ドブリジェン〉です。言葉は似ていますが、国民性は少し違うような気がします。ポーランドと同じようにスロヴァキアもキリスト教の国ですが、道筋にはマリア像もキリストの像も全く見られません。信心深さはなさそうで、ポーランド人に比べて少し雑な感じの人が多い印象を受けました。スロヴァキアにはポーランドよりも英語の片言ができる人が多く、観光客相手の仕事をしている人はドイツ語も少し出来ます。...スモコレッチ

  • ヘッセン城館

    私の住むハノーファーから1時間少々東南東の方向に走ると、魔女が住むというハルツ山地の北にヘッセン城館があります。かつての東ドイツにある城です。この城の前身である堀のある要塞の歴史については、ほとんど知られていません。ただ12世紀前半に、ある貴族が村と城の所有者として文書で最初に言及されていますが、約200年後にその貴族の子孫が途絶えた後、15世紀の初めまで城を含む村の所有者は絶えず変化し、時間の経過とともに荒廃して行ったのです。城はこの地域を通る交易路を守るために役立っていたようです。まだ堀を備えている城館(1650年頃、Wikipediaより)そして16世紀の中頃にルネッサンス様式の城館に改築され、城は16世紀の終わりから17世紀の初めにその全盛期を迎えて、ある公爵の夏の離宮として機能しました。その後、...ヘッセン城館

  • ザコパネ

    今回はお城ではありません。ポーランドの南端、自然国境タトラ山脈でスロヴァキアと接するところにある町ザコパネの話です。我々はここをベースにして、タトラ山脈で1週間の山歩きをします。ザコパネは、昔は羊飼いと牛飼い、農民、そして木こりが住む小さな山間の集落でしたが、19世紀末になると鉄道網が整備され、庶民に旅行を楽しむ習慣ができたために観光客が来るようになり、その後、ポーランドの建築家や芸術家らの注目を集め、この地で活動を行う者が増えたとのことです。現在の人口は3万人弱で、ポーランドではよく知られた避暑地および保養地。冬はスキー場として有名な町です。ザコパネは二つの非公式な名称を持っているとのこと。ひとつは〈タトラ山脈の首都〉、もうひとつは〈ポーランドの冬の首都〉だそうです。毎年約3百万人の訪問客で賑わうようで...ザコパネ

  • ヒュースブルク修道院

    ザクセンアンハルト州のハルバーシュタットという都市近郊の深い森に、木々で覆われた315メートルの小山がそびえ、その頂上に敷地全部が石塀でぐるりと囲まれた建物群がポツンとあります。それがヒュースブルク修道院で、カトリック教会最古の、現代も活動するベネディクト修道会の修道院です。修道院の航空写真(出典:Wikipedia)修道院の起源は8世紀の末頃にまでさかのぼります。この頃、スラブ人の攻撃から地域を守るために丘の上に軍事基地が建設されました。かつての環状石塀の残骸を今でも森の中に見ることができます。入り口へと続く石塀・入り口の門門を入った所・門を中から見る庭園・庭園から見る建物群その敷地内に11世紀の後半、男性の修道院が建てられたのです。そしていくつかの新しい修道院の建物と教会が増築されましたが、その後の数...ヒュースブルク修道院

  • シルダウ宮殿

    ここ数年(2016年時点で)飛行機とレンタカーを使っていましたが、今年は自分の車で夏の休暇に行くことにしました。ザコパネというポーランドの南のはずれにある町で山歩きをします。しかしながら、ハノーファーから950kmも離れていて、いっ気に行くのは無理なので途中で一泊しました。その地に選んだのがイェレニャ・グラという町で、そこにあるのがシルダウ宮殿です。〈シルダウ宮殿〉というのはドイツ語での表記で、ポーランド語では〈ヴォヤノフ宮殿〉といいます。シルダウ宮殿は17世紀初頭に建造されました。もともとはルネッサンス様式の水城だったそうです。そして30年戦争時に破壊された後、25年たって再建されました。18世紀前半から、宮殿を含む農場の所有者は頻繁に代わったのですが、そのうちの一人は宮殿をバロック風に改築させました。...シルダウ宮殿

  • ヴェステルブルク水城 (再訪)

    10年前に一度3泊したヴェステルブルク水城ホテルを再び訪れました。水城を上から見た図(パンフレットより)・登城門途中通過して行く旧東ドイツの小さな町々には未だに荒れ果てた建物が点在していて、旧東ドイツの復興がまだ完璧でないのに驚きます。城のあるヴェステルブルク村の様子もあまり変わっていないようです。城の外観1&2城の外観3初めて訪れた時ホテルは広い範囲で修復と改装の工事中でしたが、現在はもちろん全ての作業は終わっており、城の独特な形状は変わっていないし中庭の真ん中の鳩塔も健在です。ただ濠の水が無くなってしまい、水城とは名ばかりになってしまったのは大変残念です。登城門の下から奥を見る・第2の門の下から中庭を見る中庭で見る城塔と鳩塔・城塔の傍の第2の中庭フロントのスタッフは仕事が完全にルーティーン化しているよ...ヴェステルブルク水城(再訪)

  • カステロ ・ アパートメント

    私の自宅から2時間弱で行けるヴィンゼンという町で講演をするついでに泊まろうと思って、近くの〈お城ホテル〉を探してみると、この〈カステロ・アパートメント〉が見つかりました。カステロ(castello)とはイタリア語でお城という意味なので、ここを予約したのです。ところが、実際は〈お城〉とは関係なく、カスタネア(クリ属)という名前の広大なゴルフリゾートの中にあるクラブハウスで、2階に7戸のアパートメントがあり、少し離れたところにあるホテルに属しています。まあ、建物が城の形をしている、といえば、そんな気もしますが、、、、、。ゴルフリゾート・クラブハウス有名なゴルフリゾートなのでしょうか、かなり遠方からの客もいるようです。クラブハウスに隣接して初心者用のコースがあり、レッスンを受けているグループがいます。私はゴルフ...カステロ・アパートメント

  • アンタルヤ

    アンタルヤは地中海に面したトルコの都市で、古代からパンフィリアと呼ばれてきた小アジア南部の肥沃な海岸平野の首都です。こんにち、この地域は長い砂浜があるのでターキッシュ・リビエラと呼ばれることがよくあります。市の南にある港をほぼ真上から見下ろす崖の上に旧市街があります。港1&2パンフィリアには、おそらく紀元前12世紀に古代ギリシア人の一種族であるミケーネ人が定住したと考えられているそうです。彼らが設立した都市は、紀元前7世紀にやはり古代ギリシア人の別の種族であるイオニア人によって再編成されたようです。そして紀元前334年、これらの都市はアレキサンダー大王によって占領されました。アンタルヤは、紀元前3~2世紀に小アジアの西岸に栄えたヘレニズム諸国のひとつであるペルガモンのアッタロス2世王によって、紀元前160...アンタルヤ

  • マンハイム宮殿

    マンハイム市は、ハイデルベルクを通って流れてくるネッカー川がライン河に注ぐところにあります。地図を見ると左に宮殿があり、その前の旧市街地が正方形に区画されているのがわかります。いわゆる〈マンハイムの正方形〉と呼ばれている市域です。一般に、ドイツのすべての町のすべての道路にはそれぞれ意味のある名前が付いているのですが、この〈マンハイムの正方形〉には、単なる記号と数字だけが付いているのです。たとえば私の泊まったホテルの住所は68161Mannheim,L14,15となっています。旧市街がこのような状態なのは、私の知る限りマンハイムだけです。マンハイムの地図さて、マンハイム宮殿は18世紀中ごろに3段階に分けて建築されました。その約450mの幅と6ヘクタールの面積はヨーロッパで最も大きい宮殿の一つに数えられ、バロ...マンハイム宮殿

  • シメナ城砦

    トルコ共和国の南、地中海沿岸の町カシュから東に車で1時間走った所の話です。この場所で紀元前4世紀にはすでに人々が生活していたことが、いくつかの墓碑文とコインの発見により明らかになっています。現在ここにカレキョイ(「城砦村」という意味)という名前の村があるのですが、この村は古代都市シメナの遺跡に出来たとのことです。古代にシメナはそれほど重要な都市ではありませんでしたが、それなりに栄えていたらしく、浴場の遺跡やたくさんのリュキア様式の石棺が、大部分は海の水の中に沈んでいます。ただ一つだけ石棺が水面から突き出ており、その周りには道路の遺跡が沈んでいるそうです。カレキョイ村(出典:Wikipedia)・水面から出た石棺(パンフレットより)そしてカレキョイ村の上にはシメナ城砦があります。この城は16世紀の中頃までロ...シメナ城砦

  • ヴォールデンベルク城塞

    ハノーファーから南約50㎞のところにある城塞の廃墟です。中には18世紀にバロック様式で建てられたカトリック教会があり、後世に復元された城門もあってカトリックの主任司祭館として使われています。32mの高さがある当時の望楼は、こんにち魅力的な見晴らし台になっているようです。さらに部分的ではありますが、最大2mの厚さがある城壁も残っています。城門とそれに続く道・城門の裏側カトリック教会の内部ヴォールデンベルク城塞は12世紀の中頃に、ある伯爵のために建造されたようです。その後貴族の所有であったりカトリック教会の所有になったりしていましたが、30年戦争の時に破壊され、2年後に復元されました。ところが、19世紀初頭に行われた教会財産の世俗化によって事態が変わっていきます。カトリック教会と望楼を除いた建物は壊され、村人...ヴォールデンベルク城塞

  • 古代都市遺跡 パタラ

    パタラは現在のトルコのリュキア地方の地中海沿岸にある古代都市でした。この地方の最も重要な都市の1つであり、かつ最も重要な港と見なされていました。ガラスケースの中の模型(全敷地の一部)模型に見て取れるように、まわりに3つの丘があるパタラは要塞化されて城壁に囲まれていました。この古代都市遺跡は、私たちが冬休みの後半に1週間弱滞在したカシュという町から西に50分程走った所にあります。発掘により得られた小さな遺物により、この地には銅器の時代から青銅器時代の初期にかけてすでに先史時代の集落があった事が証明されています。集落は本質的に内港の北東にある丘に限定されていて、ここの建築遺跡は紀元前7世紀までさかのぼります。アレキサンダー大王(在位:紀元前336年-‎紀元前323年)以来、パタラはヘレニズム帝国(紀元前323...古代都市遺跡パタラ

  • 水城ホテル ・ クラッフェンバッハ

    旧東ドイツの都市の中で(東)ベルリン、ライプチヒ、ドレスデンぐらいは知られていると思いますが、チェコ共和国との国境近くにあるケムニッツという町はあまり知られていないでしょう。そのケムニッツの郊外に、49の客室をもつ水城ホテル・クラッフェンバッハはあります。小川にかかる橋を渡って城門をくぐると広い中庭に出ます。橋と城門・城門から中庭を望むU字型に水城の周りを取り囲んでいる建物群にはホテル、3軒のレストラン、カフェのほか、ロウソク、銀細工、陶磁器、刺繍などの手芸の工房が入っているのです。中庭の一角にぐるりと掘りに囲まれたルネサンス様式の城があるのですが、中に入ると真ん中に大きなエレベーターがあり全階が商業ベースの展示場になっていて、古い家具も武具もまったくありません。少々拍子抜けしました。この水城ホテルでは演...水城ホテル・クラッフェンバッハ

  • 古代宗教施設遺跡 レトゥーン

    レトゥーンは南トルコのリュキア地方(小アジア)にある古代の宗教施設の遺跡で、近くの都市クサントスをはじめとするリュキア地方の都市の聖域でした。古代末期まで8世紀以上の間、レト(ギリシア神話の女神)、アルテミス(レトの娘)、アポローン(レトの息子)がここで崇拝されていました。寺院やその他の建物の遺跡は、クサントスの遺跡とともに1988年以来ユネスコの世界遺産となっています。ガラスケースの中の模型劇場1&2この地では古くから人の営みがあったらしく、紀元前8世紀の陶器が発見されました。ギリシャ神話の舞台のひとつでもあるこの聖域で、この地方のすべての都市のカルト的お祝い、演劇、競技会がここレトゥーンで行われました。何度か拡張されたストア(多くの市民が集う所に建てられた列柱廊)と劇場がそれを示しています。遺跡1&2...古代宗教施設遺跡レトゥーン

  • シュタットハーゲン宮殿

    私の住むハノーファーから程近いシュタットハーゲンという小さな町にある宮殿は、13世紀に建てられた水城が16世紀にルネサンス様式の宮殿に増改築されたものです。この地方の政府と財政官庁が入っていたり、皇太子の住居として使われたりした後、19世紀に大規模な修復が行われました。第一次大戦の後に当時成立したシャウムブルク・リッペ共和国の所有となり、第二次大戦後にこんにちのニーダーザクセン州が取得しました。そして現在はこの町の税務署の建物です。税務署に申し込めば宮殿の見学が可能だそうです。宮殿1&2宮殿3&4宮殿5宮殿の施設に属する建物がまわりにいくつかありますが、16世紀中頃に建てられた面白い形をした公務小屋が税務署の入り口のすぐ近くにあります。昔は行政と法務にかかわる役人が詰めていましたが、1963年からは郷土博...シュタットハーゲン宮殿

  • 古代都市遺跡 クサントス

    我々が滞在しているカシュから北西に50kmの所にあるクサントスのハイライトは、都市の建物の遺跡に加えて、ユニークなリュキア地方の墓、墓の柱、石棺です。ちなみに、クサントスというギリシャ語の名前は近くを流れるクサントス川に由来しています。都市に入る当時の門この古代都市の歴史は約2000年に及び、古代における自立と独立のための闘争の地であった事がその特徴で、約10km離れた古代沿岸のリュキアの都市パタラを海軍および商業港として使用していました。ローマ帝国が支配していた時代にはクサントスはリュキア同盟の長として特に重要で、ローマとの友好的な関係を維持していました。ローマ内戦の混乱の時にクサントスの町は破壊されましたが、その後再建されてローマ劇場とアゴラ(マーケット広場)を備えていました。遺跡1&2遺跡3&4遺跡...古代都市遺跡クサントス

  • 農園ホテル デュックホフ

    私が昔約10年間生活したデュッセルドルフの隣町であるメアブッシュの農園ホテルに泊まりました。ホテルの入り口(右の方)14世紀末の歴史書に記録されている水城の名残として残っていた城塔に、17世紀中頃、大農園の地主の館が増築されて塔には丸屋根が取り付けられました。この丸屋根は芸術的および技術的にライン河流域地方で最も意匠をこらしたバロック様式の丸屋根だということです。水城の名残の池・城館20世紀の末に大規模な改装を行ってこのホテル・レストランが誕生。中庭のある農園の建物と城館がそれぞれはっきりわかる建物です。開業以来ずっと所有者が家族経営をしているそうです。城館と農家・中庭から城館を望むここでは今や大都会の様相を示すデュッセルドルフの喧騒がみじんも感じられず、すべてが静かで平和的であることに驚きます。ライン河...農園ホテルデュックホフ

  • カシュ

    トルコの地中海沿岸で過ごした2022年の冬休みに、3泊したフィニケから75㎞ほど西に移動して、カシュという町に約1週間滞在しました。我々の部屋のテラスから見た景色・古代劇場から見えるギリシャの島と国境警備の軍艦カシュの海岸のすぐそばには、ギリシャに属する小さなカステロリゾ島(トルコ語:メイス島)があり、当然のことながらギリシャ人が住んでいます。カシュも古代都市で、紀元前4世紀の碑文にアンティフェロスという名前で初めて言及されています。ヘレニズム時代(アレキサンダー大王からローマまでのポストクラシック文化時代)に都市の台頭が始まり、ローマ帝国の支配の時期にアンティフェロスはこの地域で最も重要な都市になりました。中世には、ビザンティン帝国の下でここにカトリックの司教が居ました。その後11世紀から12世紀にかけ...カシュ

  • 城館ホテル ・ ホルツリヒテル

    ヴェストファーレン地方にある川沿いのハーゲンという町から山間の中央線がない狭い道路をどんどん登ると、人里離れた感がある広い丘のてっぺんに、牧場で牛が草を食む小さな村があります。そしてその村のはずれに城館ホテル・ホルツリヒテルはあるのです。お城風の建物には客室とリラクゼーション施設だけがあり、ホテルのレセプションやレストランなどは別棟の低い建物にあります。丘の上の村(右上にホテル)ここで話は100年ほど過去にさかのぼります。19世紀の末頃、この村にあった農家の一角に酒場が開業しました。酒場は繁盛して地域の住民の憩いの場となりました。そして20世紀の第二次大戦に向かう時代には、ドラッグストアや食料品を扱う店を併設して村の中心的役割を担うようになったのですが、だんだんと手狭になって来たので拡張されました。戦後の...城館ホテル・ホルツリヒテル

  • 古代都市遺跡 ミラ

    こんにちデムレと呼ばれる集落にあるミラは、トルコ共和国のアンタルヤ県リュキア地方にある古代都市の遺跡です。ミラはカトリック教会の聖人ニコラオスの出身であるため、(特に正教会の)巡礼地として知られています。ローマ劇場1&2ローマ劇場の一部と墓地1&2ミラは古くから、ある程度は重要な町でしたが、特にヘレニズムの時代からはリュキア地方で6つの大きな都市のひとつでした。(解説:ヘレニズム時代とは、紀元前334~紀元前30の約300年間をさします。ギリシア文明とオリエント文明が融合してヘレニズム文明が生まれました。)そして皇帝テオドシウス2世(西暦408年から450年)の下で、ミラは地方の行政首都および教会の主要都市になって司教が居ました。9世紀の初めに町はアラブ軍によって略奪され、その後その重要性の多くを失ってし...古代都市遺跡ミラ

  • ブラウンシュヴァイガー宮殿

    「ブラウンシュヴァイガー宮殿」という単語は検索すれば出てきますが、その実体はありません。説明しますね。ブラウンシュヴァイガー宮殿は1718年から建て始められ、火災や改築を経て1841年に完成しました。さらに1865年に再び火災で破壊されて、再建されたのは1868年です。第一次世界大戦の後、公爵が退位してからこの建造物は宮殿として使われなくなり、国立劇場、自然歴史博物館、そして図書館や州の税務署として利用されてきました。ナチスの時代にはエリート軍人の教育施設になったようです。第二次大戦終戦間近の1944-1945年には、度重なる空襲によって再建不可能なまでに破壊されてしまいました。それでブラウンシュヴァイク市議会は、市民の反対を押し切って1959年に宮殿の廃墟をすべて片付けて公園にしました。そして時が過ぎ、...ブラウンシュヴァイガー宮殿

  • 古代都市遺跡 リミラ

    リミラはトルコのリュキア地方南部にたくさんある古代都市遺跡のひとつです。地中海沿岸の私たちの宿泊地である小さな町、フィニケの北東約6kmにあります。この地で人が生活していたことは考古学的発見(後期幾何学陶器)により紀元前8世紀後半までさかのぼれますが、この古代都市の歴史についてはほとんど知られていません。町の構造と範囲についても確かなことは分からないのです。しかし、リミラは紀元前5世紀のクサンティア王朝の時代に地域の集落の中で重要な位置を占めていたのではないか、と考えられており、さらに東リュキア王朝期に発展して、紀元後4世紀前半にリュキア地方のすべてと北と東の隣接地域を一時的に支配した可能性がある、とされています。高度な技術を持っていた時代にリミラで包括的な建築プログラムが実行され、その過程で25ヘクター...古代都市遺跡リミラ

  • ベルゲ宮殿

    東西ドイツ統一の前の1949年から1990年まで西ドイツの首都であったボンに行ったついでに、ゲルゼンキルヘンという町にあるベルゲ宮殿に宿泊しました。この宮殿は、もともとは13世紀にこの地方の防衛のために建造された水城でした。今でも建物は堀で囲まれています。その後16世紀に宮殿に改築され、18世紀には再び改築されて、現在は後期バロック様式の領主の館としての姿を保っています。1900年に貴族であった最後の所有者が亡くなった後、地方自治体がまず借り上げ、四半世紀後には買い取りました。そしてそこに国民保養施設が開設されたのです。ナチズムの時代には国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党の正式名称)が建物を利用し、大戦後の1950年代と1970年代に、そして21世紀初頭にも町が大規模な改装を行いました。宮殿の正面・その斜...ベルゲ宮殿

  • 古代都市遺跡 アリキャンダ

    トルコ共和国の南の地中海沿岸地方には大昔の遺跡が沢山あります。そのひとつが、我々の宿があるフィニケから30㎞ほど北にあるアリキャンダです。この古代都市アリキャンダは紀元前6世紀から紀元後の西暦11世紀まで存在していたことが実証されています。現在海抜710〜820メートルの急な斜面にある遺跡は、主にローマ時代からのもので、ここから周囲の山々と渓谷の広い景色を眺めることができます。神殿?1&2幹線道路1&2幹線道路3商店街1&2この地域に人が定住した痕跡は紀元前2000年にさかのぼるとの事ですが、アリキャンダは紀元前6世紀にリュキア人によって設立されました。ヘレニズム(アレキサンダー大王からローマまでのポストクラシック文化時代)の時、都市はすでにギリシャ化されていました。紀元前2世紀からローマ帝国の記録に現れ...古代都市遺跡アリキャンダ

  • ミシュランガイド

    2016年のミシュランガイド東京版で、初めてラーメン屋が星をもらったそうですね。私には個人的に違和感があります。まぁ、それは置いといて、ミシュランに関する私の経験の一部を振り返ってみました。ハノーファーから車で1時間半ぐらいの所に、フォルクスワーゲンがその本社を置くヴォルフスブルクという都市があって、その都市のホテル、ザ・リッツ・カールトンにあるレストラン・アクヴァのスフゥェン・エルフェルフェルトというシェフは、数年前にミシュラン2つ星から3つ星に格上げされた料理人です。3つ星ですのでサーヴィスも料理も完璧に近いのですが、妻と私には料理の味が全部強烈過ぎる気がしました。どぎつい味に慣れているドイツ人には丁度良いのかも知れませんが、、、、。売り出し中だったから強気な味を出したのでしょうか。少なくとも値段はか...ミシュランガイド

  • フィニケ

    私たちは2022年のクリスマスと新年の休暇をトルコの地中海沿岸で過ごしました。まず3泊したのは、この地方最大の都市であるアンタルヤから南西110kmの所にあるフィニケという小さな町です。現代的建物の休暇用賃貸アパートメントなのですが、一階の店舗のようなガラス張りの空間がレセプションになっていて、とてもフレンドリーな女性スタッフが居ました。明るくて友好的なのはたいへん結構なのですが、ドイツ語はもちろん英語もほぼ全く出来ないのに困りました。スマホの自動翻訳機能で何とかしましたが、今回特に困ったのには訳があります。実は我々の2つのスーツケースのうちのひとつがどこかへ行ってしまったらしくて、空港の返却口から出てこないのです。しかるべき手続きをして、見つかったらこの宿に届けてもらうことにしたのですが、そのことを伝え...フィニケ

  • 首里城

    2015年10月の後半に10日間、沖縄県の歴史と文化をじっくり勉強してきました。沖縄県の首里城は14世紀末に創建され、日本文化と中国文化の融合という琉球独特の様式を呈していて、1429年に成立した琉球王国において国王とその家族が住み、政治や外交が行われた城です。守礼門・正殿首里城については簡単に調べられるので、これ以上は書きませんが、ご存じのように、2019年10月31日に1453年、1660年、1709年、1945年に次いで歴史上5度目の火災が発生し、大破しました。原因不明だそうですね。それにより、残念ながら多数の美術工芸品も被害に遭ったそうです。さて、沖縄県には独特の食べ物があります。肉に関しては豚肉が最も頻繁に食されるようで、ひづめと鳴声以外は全部食べるそうです。よく知られたところでは、豚足料理のテ...首里城

  • フィーネンブルク城塞

    私の自宅から車で1時間くらいの所に魔女が住むというハルツ山岳地帯があり、その北の海抜165mの所にフィーネンブルク城塞はあります。フィーネンブルク城塞の航空写真(Wikipediaより)1200頃に建てられたと思われますが、その起源は完全には明らかでなく、最初にこの城に言及しているのは14世紀初めの古文書です。火薬やその他の軍事装備の発明後、この環状城は交易路を守るための要塞や国境城としてのみならず、主に地元住民の保護城として機能したようです。食料や家畜の供給の為に、城の輪壁に沿って厩舎、納屋、設備店、住宅が建てられました。14世紀の半ばから、地方の自治体、司教領、公爵の領地などと目まぐるしくその所属が替わった後、19世紀初頭の世俗化により城塞とその周辺はプロイセン州の領土になりました。そして城石を州の公...フィーネンブルク城塞

  • ウィルヘルムスホェーエ宮殿

    ドイツ連邦共和国のほぼ真ん中に位置するカッセルという都市の一部にバード・ウィルヘルムスホェーエという地域があります。この地の山公園が2013年にユネスコの世界遺産に登録され、公園のハイライトがウィルヘルムスホェーエ宮殿(ウィルヘルムの高台宮殿)です。現在宮殿があるところには12世紀以降修道院がありましたが、17世紀のはじめに狩猟用の大規模な城が築かれて修道院はなくなりました。現存の宮殿は18世紀の末ごろに懐古主義のスタイルで建てられました。余談ですが、19世紀の初めごろ、ナポレオン軍に占領されていた間、この地域はナポレオンスホェーエと改名されていたそうです。19世紀から20世紀にかけて、この宮殿にはウィルヘルム皇帝の家族がいつも夏に滞在していました。英国空軍による第2次大戦終戦間際の爆撃で部分的に破壊され...ウィルヘルムスホェーエ宮殿

  • デュック城館

    北西ドイツのライン河流域にある、沢山の邦人が住むことでも有名なデュッセルドルフから南西に25㎞離れてデュック城館が建っているのですが、これはこの地方で最も重要な堀のある城のひとつです。お城の入り口への道・お城の入り口この要塞に関する記述が初めて現れるのは、11世紀末の古文書だそうです。14世紀の後半に近隣の貴族たちの争いに巻き込まれて破壊されましたが、10年後に再建されました。そして17世紀中頃、要塞が城館風に改築されたのです。それに続いて18世紀にはバロック様式への改築と拡張がなされ、19世紀の末頃には南翼棟が再設計されました。しかし、この南翼棟は1945年に爆弾によって深刻な被害を受けたそうです。そして第二次世界大戦後、デュック城館は1961年に復元されました。その機会に、18世紀に織られた中国の絹の...デュック城館

  • ハーゼンベルク城

    〈ハーゼンベルク〉とは〈ノウサギの山〉という意味ですが、ここラインガウ地方の丘陵地帯にノウサギが多いかどうかわかりません。ラインワインの有名な産地なので、ブドウ畑が多いのは確かです。ブドウハーゼンベルク城は1824年にブドウ畑の中に完成したのですが、1871年までの間に11回も所有者が代わるも全く利用されず、廃墟となっていました。そして12番目の所有者が現在の姿に再建し、1930年まで住んでワイン販売とホテル・レストランを経営しました。その次の所有者も城をそのように利用していましたが、第2次世界大戦後にドイツ国が買い取って防災学校として使い、次に所有したヘッセン州は消防学校にしました。ヘッセン州は2000年に消防学校を閉めて、日本の高校生とほぼ同年代の生徒のための学校を設立すべく大改増築を行い、2003年...ハーゼンベルク城

  • 田舎の農園ホテル・ホェーネ

    数千年前にネアンデルタール人が住んでいたネアンデルタール(ネアンデル谷)にメットマンという小さな町があり、そこに面白いホテルを見つけたので、隣接するデュッセルドルフで講演をするのを機に泊まってみました。「田舎の農園ホテル・ホェーネ」という名前が示すように、原型は18世紀半ばに建てられた農場です。この地域は旅人や商人が行き交う交易路上にあったので、ある時小さな旅館が建てられました。ホテルの外観1&2ホテルの外観3&4その旅館と農場をロイチャー家が1970年に入手して現在まで所有しているのですが、全施設が融合、拡張、そして改装されたのがこんにちの農園ホテルです。建設工事の際は、改築のために壊されたこの地域の古い家屋の壁や塀の石を集めて再利用したそうです。現在3代目の経営陣ファミリーだそうで、その当主の創造的な...田舎の農園ホテル・ホェーネ

  • ヨハンニスベルク城

    フランクフルトアムマインから西に位置する、海抜114mから182mの間に広がるラインガウ地方は、リースリングという種類のブドウだけが栽培され、最も良いラインワインの産地と言われています。だからでしょうか、このあたりにはお城と修道院がたくさんあります。そのうちのひとつであるシュバルツェンシュタイン城については、以前(2021年5月加筆・修正)報告しました。シュバルツェンシュタイン城今回訪れたヨハンニスベルク城はホテルではなくて伝統的なぶどう園です。この地でワインがつくられ始めたのは8世紀の末ごろで、12世紀に修道院が建てられましたが、だんだんと落ちぶれていって16世紀半ばには廃墟になり、17世紀の30年戦争で完全に破壊されました。18世紀の初期にバロック風の城を模した建物が建造され、それがこんにちのヨハンニ...ヨハンニスベルク城

  • ヒルザウ修道院

    秋の休暇2週間目の滞在地であるバート-ヴィルトバートから真東に20km弱離れた小さな町に修道院の廃墟があります。ヒルザウ修道院です。大した期待もなく訪れてその規模に驚きました。修道院の廃墟1&2修道院の廃墟3&4修道院の廃墟5&6ヒルザウ修道院とは通常聖ペテロとパウロの建物を意味しますが、より広い意味では前身である聖アウレリウスの建物も含まれ、ドイツで最も重要な修道院の1つだった時代もあるようです。9世紀の前半に建てられて11世紀初期に荒廃が始まった聖アウレリウスの教会は、簡単なホールのようなものでした。そして同世紀の後半に建造された聖ペテロとパウロの教会は、当時ドイツ語圏で構造的に最大の修道院だったのです。11世紀の終わり頃に修道士たちが聖ペテロ&パウロ修道院に移った後、聖アウレリウスは従属修道院になり...ヒルザウ修道院

  • エーレンブライトシュタイン要塞

    エーレンブライトシュタイン要塞がどこにあるかというと、モーゼル川がライン河に合流するコブレンツです。コブレンツの旧市街からライン河を挟んだ対岸の山の上、エーレンブライトシュタインという市域にあります。私は過去に何回か来たことがありますが、荒れていて人が少なく、ひっそりとしていた印象が残っています。ところが、2011年に隣接する土地で行われたガーデンショーを契機に整備されて、全体が大博物館になりました。ライン河をまたぐゴンドラも出来て、国内外の観光客がたくさん訪れています。明らかにコブレンツ観光の目玉になりました。要塞からの展望が素晴らしいのです。モーゼル川(上)とライン河(下)の合流・DeutscheEcke(ドイツの尖った出っ張り)要塞1&2要塞3&4このような大規模でみごとな要塞が、いつ建てられて何に...エーレンブライトシュタイン要塞

  • ノイエンビュルク城館

    黒い森で2週間目の滞在地バート-ヴィルトバートから谷を北に20分弱走ると、深い森に囲まれた人口約8500人のノイエンビュルクという町があるのですが、この町は小さいながらも大変古いようで、考古学的発掘では2500年前の遺物が数多く出土するそうです。そしてこの町の高台にノイエンビュルク城館が建っているのです。実は城館付属の公園を経由して東に少し歩くと、固有の名前がなくて単に〈背後の城塞〉と呼ばれる14世紀の前半に建造された城の廃墟があります。〈背後の城塞〉1&2〈背後の城塞〉3&4誰が建てたのか、よく分からないそうですが、胸壁(建物で、屋上の周囲、ベランダなどに設けた欄干状の壁)や防御塔や堀を持つ大規模な城塞です。ここには16世紀にノイエンビュルク城館が出来て以後伯爵の副執行官や、後には公爵が住んでいたし、1...ノイエンビュルク城館

  • ラ ・ セウ ・ ドゥルジェルのパラドール

    ピレネー山脈のアパートメント・ホテルからバルセロナまでの途中で泊まったのが、あの山岳国家アンドラの南に位置するLaSeuD’urgellにあるパラドールです。この地方で使われているカタロニア語で、ラ・セウ・ドゥルジェルと発音するそうです。この、すでに紀元前200年にローマ人が基礎を築いた町はそれほど山深くなくて海抜700m。現在の人口は約12.500人。宗教的に重要な町で、6世紀の初めにはすでにカトリックの司教がいました。〈Seu〉というのはカタロニア語で〈司教座所在地〉という意味だとのことです。付近を車で走っているとカヌーが盛んに行われているのに気付きましたが、それもそのはず、ラ・セウ・ドゥルジェルは1992年のバルセロナオリンピックの時にはカヌー・スラロームの会場になったそうです。パラドールの近くの大...ラ・セウ・ドゥルジェルのパラドール

  • ファヴォリーテ城館

    ドイツ南西部〈黒い森〉にある保養地、バーデン-バーデンから北に15分ほど走った所にファヴォリーテ城館はあります。この比較的新しいお城は18世紀の前半に建てられました。施主である某辺境伯婦人は非常に明確なアイデアを持っていた人で、それは、この総合芸術作品はバロック様式で豊かに装飾された内装を備えていなければならない、というものでした。さらに、お城が娯楽、陽気さとゲーム、狩猟、仮面舞踏会、研究と子育てのための田舎の喜びの宮殿として機能することを望んでいたのです。(解説です。「辺境伯」とは、日本では「田舎の貧乏貴族」と勘違いされるケースがありますが、正しくは中央から離れて大きな権限を認められた地方長官です。単なる伯爵より上位で、侯爵に近いそうです。)城館施設への入り口1&2実際に訪れてみると、ファヴォリーテ城館...ファヴォリーテ城館

  • オリテのパラドール

    最初に泊まったパラドールがあるチンチョンからピレネー山脈はまだ遠いので、次の日は人口4.000人ほどのオリテという町のパラドールに旅装を解きました。この地には紀元1世紀にローマ帝国の居住地があって、それがオリテの町の基礎となったようです。12世紀から栄え始め、全盛期の15世紀にはもともと城砦として造られた建造物が宮殿に増改築されました。ところが、19世紀前半の半島戦争(スペイン独立戦争)の際に戦略的理由から放火され、その後半壊のまま捨て置かれました。やっと宮殿の再建が始まったのは20世紀の前半で、30年かかって今の状態にしたそうです。現在、城壁に囲まれた中世の町の真ん中で光彩を放っています。城門から宮殿に続く道宮殿1&2宮殿付属の教会・メルヘンの城を思わせる一角このオリテ宮殿の一部が43の客室をもつパラド...オリテのパラドール

  • ホーエンバーデン城館

    南西ドイツの〈黒い森〉にある保養地として有名なバーデン-バーデンの市街の外れにバーデン-バーデン城館があり、そこから北に向かって30分ほど良く整備された山道を歩いて行くと、大部分が廃墟になっているホーエンバーデン城が建っています。城館への山道・山中から見た城館ホーエンバーデン城館から見たバーデン-バーデン建造時に城砦であったホーエンバーデン城館には、中世の時代にこの地の侯爵家が居住していました。お城の高い所に位置する部分は12世紀初頭に建設が始まったと考えられています。そして15世紀前半にはゴシック様式の下層城の建設により、城館施設は拡張されて全盛期には部屋数が100を数えたそうです。城館1&2城館3&4ところが同世紀の後半、侯爵家がバーデン-バーデン市に新しく建造されたお城に住居を移したため、ホーエンバ...ホーエンバーデン城館

  • チンチョンのパラドール

    2015年の夏休みはスペイン。マラガに飛び、レンタカーを借りて南部のアンダルシア地方の山岳地帯であるシェラ・ネバダに6泊。そしてフランスとの国境にあるピレネー山脈に11泊する山歩きでした。帰りはバルセロナから飛びました。その移動のときに3軒のパラドールに宿泊したのです。パラドールとはスペインのホテルチェ-ンです。株式会社ですが、株はすべて国家の所有になっているので国営のホテルということになり、現在94軒あります。ほとんどのパラドールは歴史的に重要な町の昔の修道院や城塞であることが特徴で、居心地と雰囲気の良い建物に改築していて3星から5星レベルのホテルです。部屋数30室であった最初のパラドールは1910年に開業したのですが、今では全パラドール合わせて10.000床を数えるまでに増えています。このパラドール・...チンチョンのパラドール

  • バーデン-バーデン城館

    南西ドイツの〈黒い森〉にある保養地、バーデン-バーデンの郊外にホーエンバーデン城館が、そして市内にはバーデン-バーデン城館があります。中世の時代にこの地方の侯爵家がまずホーエンバーデン城館に住み、ほどなくバーデン-バーデン城館に転居したそうです。裏山から見たバーデン-バーデン城館・全体像バーデン-バーデン城館は15世紀後半、バーデン-バーデン市の市場広場にあった14世紀のものと思われる古い石壁の所に建造されました。そして中世後期から何度か再建拡張されました。17世紀後半のパラタイン継承戦争の時にはフランス軍によって破壊されましたが、18世紀初頭に再建され、19世紀には大公たちが夏の邸宅として利用しました。代表的な部屋の内装はルネッサンス様式です。20世紀前半の11月革命後に家屋と国有資産が分離されたとき、...バーデン-バーデン城館

  • ホテル アム ・ パウルスボーゲン

    ドイツの南東の端にある人口約50.000人のパッサウ市は、ドナウ河とイン河とイルツ川が合流する位置にある有名な観光地です。ドナウ河を往来する観光船がいつも数隻停泊しています。秋田市と姉妹都市なのですが、関係を締結するにあたり、パッサウは市の規模が違うという理由で固辞したのですが、秋田側がパッサウにぞっこん惚れ込んでどうしてもというので姉妹都市になったそうです。パッサウ独日協会の会長が言うには、交流はそれほど活発ではないとのこと。片思いの恋はむずかしいですね。トンネルの手前左がホテル・旧市街の路地船上から旧市街を望む・大聖堂の天井ハノーファーからドイツ新幹線を乗り継いで正味5時間少々かかる遠方で、日本の新幹線ほど快適ではないのですっかり疲れました。今回この町を訪れたのは、ドナウ河をはさんで旧市街の対岸の丘陵...ホテルアム・パウルスボーゲン

  • バーデン-バーデン

    今年の秋の休暇を、南西ドイツの〈黒い森〉と呼ばれる地域で過ごしました。最初の週の滞在地は温泉保養地として有名なバーデン-バーデンです。この地域を流れるオオス川沿いで、人間の生活の最も初期の痕跡は紀元前1万年くらいまでさかのぼり、中石器時代の石器が出土するそうです。さらに紀元前千年くらいの骨壷畑文化の墓場が発掘されたり、紀元前五百年頃と思われる初期のケルト要塞も発見されているとのことです。この地に温泉が発見されたのは紀元後約1世紀で、ローマ帝国がドイツ南西部を占領する過程でした。ローマ人はここにスパ施設を建設し、今日のバーデン-バーデン市の基礎を造ったのです。その後の長い歴史の中で、バーデン-バーデンを含む〈黒い森〉地域は色々な勢力に支配されてきました。それなりの繁栄を享受した時代も、戦時に焼き払われてしま...バーデン-バーデン

  • ホテル アメシスト

    ハンブルクから南東に35分走ると、昔塩の生産で栄えた中世の町リューネブルクがあります。その郊外、雑木が茂る小さな山の中の高級住宅が建ち並ぶ地域にあるのが、家族経営の〈ホテルアメシスト〉です。レセプションのおじさんが会話の途中で私の名前を口にしてくれます。本当は客である私にとって嬉しいことなのですが、とにかくその回数が多すぎるのです。まるで私の大安売りみたいでした。そう、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」。昔の人は良いことを言いました。33人しか泊まれない小さな、しかし上品なホテルです。ルーム係りが良いのでしょう、こぎれいな清潔に保たれた客室です。窓からは手入れの行き届いた庭が見えます。かなりのレベルの朝食は供されるのですが、残念なことにレストランがありません。さらに、安普請でしょうか、隣の音がよく聞こえます。...ホテルアメシスト

  • ホテル・レストラン リンデンホフ

    ドイツの有名な観光地(保養地)、シュヴァルツヴァルト(黒い森)にあるドナウエッシンゲンという町に「日本への原爆投下」に関する講演をしに行きました。ドナウエッシンゲンは、ドナウ川の源流があったり、わが同胞、斉藤茂吉と何らかの関係があるということで、それなりに有名です。ドナウエッシンゲンの市役所そのときに泊まったホテル・レストランリンデンホフ(菩提樹のある中庭)は、ドナウエッシンゲンから4km離れた、丘の向こうのブロインリンゲンという町の旧市街にあります。ブロインリンゲンは9世紀初期までさかのぼれる古い小さい町で、あちこちに歴史的な建物があるのですが、私が泊まるホテルもそのうちのひとつです。約200年前までたどれる家族が、火災の後に再建したり改築したり拡張したりしながらずっと経営してきた伝統のホテル・レストラ...ホテル・レストランリンデンホフ

  • ドイツでの出来事 ・ その後のその後

    さて、先回〈この話が悪い方向に広がりを見せた〉と書きましたが、私の住むハノーファーの独日協会とハノーファー市の文化課が私のブログに反応したのです。地元で、私が右翼だというデマが広がると困ったことになります。この二つの組織から話し合いに呼び出されました。というのは、それ程の時をおかずにそれぞれの主催で私の〈広島と長崎の原爆〉に関する講演が予定されていたからです。歴史解釈と戦後の政治にかかわるテーマなので、私が極右的発言をするのでは、、、と心配していたようです。まぁ、尋問ですね。その結果、独日協会主催の講演会は予定どうりいつものホテルの会場で開くことになりました。講演の日、開始の5分前に独日協会の会長と市の文化課の人が非常に不機嫌な態度で私のところに来て、次の2つのことを告げました。「あれから数人にブログを見...ドイツでの出来事・その後のその後

  • ドイツでの出来事 ・ その後

    この件に関する先回の記事に興味を持ってくれた人が少なからず居るようなので、続きを書きますね。ボン大学のOX教授が2通の手紙を私の弁護士に送ってきました。そのうちの1通で、私のブログの撤回を要求しています。てっきり、その〈極右的内容?〉が理由だと思いましたが違うのです。彼は2007年から日本の歴史と政治に関するブログ(http://kotoba.japankunde.de)を書いているので、競争相手として、私のブログをなくしてしまいたいそうなのです。そのために、いろいろと私のブログに適当でない難癖をつけていました。私の弁護士はその返事で、「まぁ、ついでに言うと、私の依頼人は貴方の競争相手ではありませんよ。」と、軽くいなしました。この分野の専門家であるOX教授が、ど素人の私を競争相手とみなすなんて情けないです...ドイツでの出来事・その後

  • ドイツでの出来事

    今日の投稿はお城もグルメも関係ありませんが、ドイツに興味がある人には面白い話だと思います。実は私は2008年から、日本の文化についての講演活動をボランティアで行なっています。和陶器、寿司、旅館、祭りetc.と、毎年テーマを決めて、歴史的背景など少しアカデミズムを盛り込んだ形で、全国の独日協会、市民大学、博物館から招待を受けてしゃべります。AKB48の足元にも及びませんが、それなりに結構人気があるのです。この講演活動と直接には関係がないのですが、2015年にドイツ語のブログを始めました。ドイツ人に日本のことを良く知ってもらうのが目的です。いろいろなことを書くので、日本の歴史の中でしばしば話題になる、いわゆる「従軍慰安婦」や「南京事件」についても投稿したのですが、私は政治的な人間ではないので、表現は違いますが...ドイツでの出来事

  • ルートヴィヒスルスト宮殿

    イギリスで群生するヒースと同類の植物で、ドイツではハイデという自生植物が咲き乱れるリューネブルガー・ハイデという地域の中心部にある町、リューネブルクで講演をした翌日、ほぼ真東に90㎞走って旧東ドイツのルートヴィヒスルストという町に来ました。ここに町と同じ名前の宮殿があるのです。ルートヴィヒスルスト宮殿は手入れの行き届いた庭園を備えた古典主義的なお城で、18世紀中頃から100年近くメックレンブルク=シュヴェリーン公爵の邸宅でした。この宮殿はこんにちメックレンブルク・フォアポンメルン州の所有で、中に入っている博物館は近くの比較的大きな町にある州立博物館の別館のひとつです。宮殿1&2宮殿3&4宮殿5ルートヴィヒスルスト宮殿の起源は狩猟用のロッジで、その後公爵の邸宅として14世紀の古文書に記されたときは荘園でした...ルートヴィヒスルスト宮殿

  • ベチョフ城塞/城館

    チェコ共和国の国際的保養地、カルロヴィ・ヴァリからほぼ真南に25㎞離れた山中の小さな町にあるのがベチョフ城塞と城館(ドイツ語ではペッチャウ城塞/城館)です。急傾斜した岩の上に建ち、両側からテプラ川に挟まれたゴシック様式のベチョフ城塞はおそらく13世紀前半に建てられ、当初は道路の交差点で税関として機能していた模様です。城塞1&2城塞3&42、3度所有者が替わった後で、15世紀の初め頃に一度改築されました。そしてさらに数回所有権が移った後の17世紀中頃、30年戦争の最後の年に城塞はスウェーデンの将軍ケーニヒスマルクによって征服され、深刻な被害を受けたのです。18世紀の中頃にすでに人は住んでいなかった城塞を手に入れた人物は、その下に新しい城館をルネッサンス様式で建設しました。そして19世紀の初め頃、ある公爵が城...ベチョフ城塞/城館

  • ソコロフ城館

    チェコ共和国の有名な温泉地であるカルロヴィ・ヴァリから西南西に20㎞離れた所に人口約2万3千人のソコロフという町があり、その町の旧市街の端に古典主義様式のソコロフ城館(ドイツ語ではファルケナウ城館)が建っています。この位置にはすでに13世紀に、防御壁と堀に囲まれた石造りの城砦があり、地方政府の閣僚の家族がこの最初の城の領主だったようです。2、3度所有者が替わった後、15世紀後半に大幅に改築されました。しかしながら城は三十年戦争のときに損傷を受け、その後すぐに焼失してしまったのです。17世紀の中頃を過ぎて、深刻な損傷を受けていた城はルネッサンス様式で復興改装され、その周囲には18世紀前半にフランス様式の庭園が造られました。領主である伯爵は19世紀の初めに城館を徹底的に改装して古典主義的なスタイルに変え、それ...ソコロフ城館

  • ロケト城塞

    ロケト城塞(ドイツ語ではエルボーゲン城塞)は、チェコ共和国にある世界的温泉地のカルロヴィ・ヴァリから西南西に車で15分程走った所にあります。その位置が面白く、エゲル川のほぼ円形を呈するループ内の花崗岩から成る丘の上に建っているのです。ロケトの町と城塞の地図・町のほぼ全体像町に入る橋と城塞・ロケト城塞城塞と教会考古学的発掘では12世紀後半の出土物がありましたが、お城の最も古い部分は13世紀に建造されたようです。その後16世紀前半まで連続して拡張工事が施されたため、ロマネスクとゴシック両方の建築様式が見られます。城塞の様子1&2城塞の様子3・かつての砲弾文書におけるロケト城塞の最初の言及は、前述のように、13世紀前半にさかのぼります。そこには南棟について書かれてあり、北棟をはじめとする住宅と侯爵の家は14世紀...ロケト城塞

  • 私のドイツメルヘン_12 (最終回、 ハノーファー ・ 細胞分子病理学教室)

    西暦2000年に、私より少し年下の遺伝医というか医師免許を持った女性の遺伝学者がモア教授の後任として私の研究室の主任教授になりました。「エッ、病理学の研究所に遺伝学者?」という声が聞こえてきそうですね。事の顛末を書きます。モア教授の後任のポジションに応募した人の中から、まず書類選考で6人が残りました。そしてその6人の口頭によるプレゼンテイション選考で2人が残りました。ひとりは細胞病理を専門とする病理医で、もうひとりが前述の女性遺伝医だったのです。ここで仮定の話ですが、もし細胞病理医が私の上司として来たならば、うまくやって行けたと思います。なぜなら、私はデュッセルドルフ時代に細胞病理医であるピッツァー教授のところで13か月間みっちりしごかれたので、細胞病理は私の得意分野だからです。実は、この両候補者は同レベ...私のドイツメルヘン_12(最終回、ハノーファー・細胞分子病理学教室)

  • 私のドイツメルヘン_11 (ハノーファー ・ 実験病理学教室)

    1990年1月から〈ハノーファー医科大学実験病理学教室〉での勤務が始まりました。大学には歯学部もあるので、日本では〈ハノーファー医科歯科大学〉という表記になるでしょうね。人体病理から実験病理にかわったことによる、ある種のカルチャーショックを初日に味わいました。デュッセルドルフの大学病院もそうであったので業務開始時間は8時であろうと思って、朝のミーティングに間に合うように出勤しました。ところが、扉を開けてくれたのは実験助手の中年女性で、他にはまだ誰も来ていません。実験助手のスタッフを別にして、主任教授のモア氏をはじめとする学術スタッフは遅い時間にバラバラに出勤してくるのでミーティングなんてありません。"適応能力の高い"私はすぐに慣れて、毎朝9時半ごろ出勤するようになりました。化学物質による毒性と発癌の研究を...私のドイツメルヘン_11(ハノーファー・実験病理学教室)

  • 私のドイツメルヘン_10 (ハノーファー ・ 生活)

    ニーダーザクセン州都である人口約50万人のハノーファーにデュッセルドルフから引っ越したのは東西ドイツの壁が開いてすぐ後、1989年の末でした。実はその数ヶ月前にハノーファーに家を探しに来て、北部に位置するボツフェルト市域に一戸建ての家をすでに借りていたのです。地下室のある家具付き2階建で、前後に芝生の庭があり、ガレージの付いた立派な家です。大家の両親が自分で建てて住んでいたので良い建築材料を使っていたし、内装も住みやすく設えてあり、交通の便が良い静かな住宅地の一角でした。それぞれの入り口が隣り合う隣人、二クロヴィッチさんとの関係も良く、すぐ裏に大家のボルトマン氏が住んでいて何かと便利だったのを思い出します。裏の畑の一部を借りて枝豆などの日本の野菜を作っていたのもこの頃です。ボツフェルト市域の賃貸家近所の、...私のドイツメルヘン_10(ハノーファー・生活)

  • 私のドイツメルヘン_9 (デュッセルドルフ ・ 病理学研究所 II)

    デュッセルドルフ時代にはいろいろな人を知り合いました。主任教授のホルト教授はクソ真面目な仕事人間で、牛馬のように働き、すべてがきちんとしていなければ気が済まない人でした。そしてそれを若いスタッフにも要求したのです。自分が家に帰る夜8時半(いつも仕事を持って帰っていた。)より早く医局員が帰宅すると怒っていました。たとえば、勤務時間中に彼の部屋に行きます。「先生、ちょっとお話があるのですが、、、、」「ああ、ООさん。そうですね、、、、今日の午後8時半にまた来て下さい。」ボルヒャルト教授は研究所のナンバー2でしたが、謹厳実直で頭の固いホルト氏とは違って若い医局員に理解を示し、よく指導してくれる人でした。しかしながら言動に癖がある人で、私は好きな人物でしたが、嫌っている人もいたと思います。一度妻と一緒に自宅に招待...私のドイツメルヘン_9(デュッセルドルフ・病理学研究所II)

  • 私のドイツメルヘン_8 (デュッセルドルフ ・ 病理学研究所 I)

    私は1984年の1月にデュッセルドルフ大学医学部病理学研究所で医師としての第一歩を踏み出しました。当時、学生時代からお世話になっていた博士論文の指導教授であるピッツァー氏に病理医を目指したい意向を伝えると、研究費で医局員を一人雇えるので、まず細胞病理から始めることを提案してくれ、彼の教室に有給医局員として入局することになったのですが、これは私にとって最高の状況でした。病理学への足掛かりをつかむことになるし、博士論文の為の実験とデータの整理は終わっていましたが、まだ執筆の途中であったからです。大学病院敷地内の教会ところが、ここで思いがけずドイツの官僚主義に悩まされることになります。1980年代、外国人は医師の資格を取った時点で本国に帰り、自国の医学に貢献することをドイツ政府から期待されていました。もちろん日...私のドイツメルヘン_8(デュッセルドルフ・病理学研究所I)

  • 私のドイツメルヘン_7 (デュッセルドルフ ・ 生活)

    私が学生時代にマールブルク大学からデュッセルドルフ大学に移りたかったのは、当時8千人の邦人がデュッセルドルフ市に日本コミュニティーを造っていて、通訳や子供の家庭教師で収入を得る可能性があったからです。通訳という仕事は高収入ではありましたが、中には通訳を自分の下僕のように扱う人がいて不愉快でした。「金、払うとるんやからな。」というところでしょう。最も印象深かったのは、まだ東西ドイツが分かれていた頃、朝日新聞社の記者が国境地帯を取材するのに同行した仕事です。文脈から誤解のない様に言っておきますが、この年配の記者は紳士で、3日の間私は嫌な思いをしたことはありませんでした。実家からの仕送りのお陰で経済的に困っていたわけではありませんが、定期的にある程度の収入があるのは気分的にいいもので、アメリカンスクールに通う高...私のドイツメルヘン_7(デュッセルドルフ・生活)

  • 私のドイツメルヘン_6 (デュッセルドルフ ・ 学生時代)

    デュッセルドルフには10年ほど住んだので、何回かに分けて話しましょう。デュッセルドルフ大学の正式名は、当地出身の詩人の名をとって、ハインリッヒハイネ大学デュッセルドルフといいます。約100年前に発足した医学校を基礎に他の学部を増やし、今は中規模の総合大学になっています。私はマールブルク大学で医学教育の前半を終えたところで、このデッセルドルフ大学に転校しました。1979年のことでした。この国では、転校したい大学に空いた学籍があれば学業の途中で大学をかわることが出来ます。もちろん同じ学部で、取得した単位も決まった条件を満たしていなければなりません。今は多少変わったかもしれませんが、私の学生時代は医学部に入学後、2年、3年、5年終了時に筆記の国家試験があり、6年目の実習を経て筆記と口頭試問と実技の国家試験が課さ...私のドイツメルヘン_6(デュッセルドルフ・学生時代)

  • 私のドイツメルヘン_5 (マールブルク)

    フランクフルト・アム・マインから約50km真北にギーセン市という中堅の町があります。今となってはその理由は忘れてしまいましたが、1975年に私はギーセン大学に入学願書を出そうとしていました。しかし、列車から見える町並みが何となく薄汚くて、その気持ちが萎えてしまったのです。そのまま列車で20分ほど走ると、山の上に立派な城館が建ち、その下の斜面に古い木組みの家がぎっしり張り付いている小規模な町が近づいてきました。ラーン川の対岸から城館を望む私はひと目でこの町が気に入り、この町の大学に願書を出すことに決めました。それがマールブルク大学です。後で知ることになるのですが、マールブルクは人口6万人ほどの町なのに学生が2万人もいるという典型的な学生町で、大学は1527年にフィリップ方伯によって創立され、正式な名称を〈フ...私のドイツメルヘン_5(マールブルク)

  • 私のドイツメルヘン_4 (フランクフルト) + ホテル ボン・シティー

    ホテルボン・シティー何の変哲もないこのホテルに泊まったのは、同じ建物の一階にある„Miyagi“という店名のスシ・レストランで、近くのジークブルクという町の独日協会が開催するパーティーの際に寿司に関する講演を依頼されたからです。スシ・レストラン1&2スシ・レストラン3レストランは清潔な印象で日本風にセンス良く装飾をしていますが、店主はベトナム人です。ボン市内にある日本人経営のレストランで修行をして、2007年にこの店を持ったそうです。給仕として働く3人の若い女性は皆中国人です。日本人がスタッフに一人もいない日本レストランはドイツでは決して珍しくありません。私の住むハノーファーでも10軒近くのスシ・レストランがありますが、日本人が握っているのは1軒だけです。まぁ、美味しければ誰が握ってもいいのですが、、、、...私のドイツメルヘン_4(フランクフルト)+ホテルボン・シティー

  • 私のドイツメルヘン_3 (ボン) + 江戸城

    1457年に創築された江戸城は、1590年に北条氏が滅亡して徳川家康の居城になりました。その後、家康、秀忠、家光の三代にわたって増設や整備が行われて江戸城の総構が完成したのです。明治維新の後で皇居となり、現在に至っています。桜が満開の今、私が泊まっているホテルは東京駅のすぐそばにありますが、客室の向きが悪くて江戸城は見えません。江戸城の中にはもちろん入れませんので、今日は広大な外苑を散歩しました。ホテルに洋食レストランがあるので昼食を食べてみました。セットしてくれたのは小さなテーブルですが、大きな窓の方を向いていて眼下を一望に見下ろせます。ていねいな対応の早いサーヴィスがいかにも日本らしいと思いました。注文したのは〈スペシャルランチコース〉です。〈アミューズブーシュ〉〈ミル貝のマリネタプナードのクーリりん...私のドイツメルヘン_3(ボン)+江戸城

  • 私のドイツメルヘン_2 (ボッパルト) + 山のホテル コッケルスベルク

    まず始めに先回の続きを書きますね。ボッパルトで列車を降りました。駅前をライン河と平行に走る道路に小さな古い軽食店を見つけて、空腹を感じていた私は足を踏み入れました。が、何を注文していいか分かりません。どんな料理を何という名で供しているのか見当がつかないのです。この国の“生活“を知らなければ日常会話が少々出来たとしても役に立たない、ということを理解しました。じっと立ち尽くす私に店の親父が、「ライス・ミット・フライシュ?」と問いかけました。「ヤー、ビッテ。」„肉ごはん“か、と何となくホッとしたのです。パラパラのライスに、大きいサイコロ大の肉の煮込みをソースと共にかけてくれました。ドイツで初めての暖かい食事は美味しく食べたと思いますが、はっきりとした記憶はありません。後日、邦人3人と町の中央広場にあるモダンな店...私のドイツメルヘン_2(ボッパルト)+山のホテルコッケルスベルク

  • カルロヴィ・ヴァリ

    チェコ共和国西部のヘルスリゾート、カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語ではカールスバート)で1週間弱過ごしました。この約5万人の人口を持つ町は、世界で最も有名で伝統的な健康リゾートのひとつです。そして2021年7月、他の10のスパタウンとともにユネスコ世界遺産(GreatSpasofEurope)に登録されました。町の様子1&2町の様子3&4スパ施設は町の南部の狭い谷に位置していて、まわりの山々には良く整備されたトレッキングコースが縦横に走っています。山中の町を見下ろす場所には、徒歩または鋼索鉄道で到達できる1914年に建造された35mの展望塔が建っています。オーストリア・ハンガリー帝国の時代にカルロヴィ・ヴァリは最も人気のある健康リゾートのひとつになったのです。町の様子5&6ところで、カルロヴィ・ヴァリ温泉の治...カルロヴィ・ヴァリ

  • 私のドイツメルヘン_1 (渡独) + ルーエ河畔のヴィンゼン城

    私の住むハノーファー市があるニーダーザクセン州の北部に、人口33.000の町ヴィンゼンがあります。町の中心部・ツーリストインフォメーションと博物館歯科医院の前こんな小さな町にも700年以上の歴史をもつ古城がのこっています。周りを池に囲まれ、小さいながら水城です。州の所有で、中には小さな博物館があり、一部を地方裁判所が使っています。ヴィンゼン城(側面)・ヴィンゼン城(斜めから)登城門中庭にある1863年製造の大砲ですが、城の防衛には使われたことがなく、1917年に装飾としてそこに置かれたそうです。中庭の大砲・裏門また、城内の昔の礼拝堂ではさまざまな文化的催し物や結婚式が行われるとのことです。今日はその礼拝堂で講演をしました。宗教関係の絵や像は取り払われていましたが、天井画が残っていて、私の声が良く(美しく)...私のドイツメルヘン_1(渡独)+ルーエ河畔のヴィンゼン城

  • ギーヒ城塞

    夏休みの後半を過ごした北イタリアの山岳地方から自宅に帰る途中、ギーヒ城塞を見学しました。ギーヒ城塞の航空写真(ウィキペディアより)ギーヒ城塞は、バイエルン州はバンベルク近郊の小高い丘に建つ城の廃墟で、12世紀前半の古文書に初めてこの城塞に関する記述があるそうです。建造されてから残酷な後継者争いなどがあって所有者が何度か替わった後、その間なおざりにされていたお城はバンベルク司教の庇護の下で15世紀前半に拡張強化されました。その後すぐの農民蜂起の時に占領されて火をつけられましたが、事なきを得たようです。城塞1&2城塞3&4城塞5&6しかし16世紀後半、某侯爵の軍隊による数日間の包囲の後、城は放棄され、略奪され、放火されてしまったのです。そして廃墟となった城塞はある司教の10年間の治世の時にルネッサンス様式に再...ギーヒ城塞

  • モンテ ・ ヴィノ ・ 屋敷

    モンテ・ヴィノとはイタリア語で〈ワインの丘〉なので、モンテ・ヴィノ・屋敷とは〈ワインの丘にある屋敷〉となり、何の趣もない事実を描写しただけの名前を持つホテルです。どこにあるかというと、あの大東亜戦争の末期に米、英、ソ連3カ国の首脳がヨーロッパ戦における戦後処理や日本の降伏条件などを協議したポツダムです。そのポツダム会談の会場になったのが〈宮殿ホテル・ツェツィーリエンホフ〉で、私の以前のブログに出てきますのでご参照ください。実は昨日ベルリンの日独センターで、広島と長崎の原爆投下について講演をしました。いわゆる〈自虐史観〉や〈東京裁判史観〉ではない視点からかなり突っ込んだ話をしたのですが、質疑応答で、興奮して叫び散らした中国人やその他2、3のドイツ人の話を聞くと、大東亜戦争に関しては日本の隣国の一部が長年にわ...モンテ・ヴィノ・屋敷

  • タルヴィージオ

    タルヴィージオ(ドイツ語圏ではタルフィス)はイタリアの最北東部、イタリア・オーストリア・スロベニア3国の国境線が交わるところにあります。カナール渓谷にたたずむ、人口約4200人を抱える小さな町です。私たちはここで夏休みの後半1週間を過ごしました。もちろん山歩きが目的です。近くの山・近くの山とせき止め湖スロベニアから見た山々と城塞の廃墟この町はローマ時代にそのルーツを持ち、11世紀初めから18世紀後半までバンベルク司教区に属していました。19世紀の後半に当時の市場自治体タルヴィージオには3000人弱の人が住んでおり、その93%がドイツ語を、5%がスロベニア語を話していたそうです。20世紀の初めに自治体は町の地位に昇格し、紋章を与えられました。タルヴィージオ町は1914年から1918年にかけて戦われた第一次世...タルヴィージオ

  • 田舎風 ・ ジッキンゲル農場ホテル

    妻とスイスに3週間の山歩きに行った。以前はスイスまで一気に走りぬけたものだが、ここ数年はそれがしんどくて、途中で少なくとも1泊する。ハイデルベルクを過ぎて20分程走ると人口1万8千人ぐらいの町に田舎風の建物があり、付属の棟も入れると結構広い敷地をもっている。これが〈Landhotel=田舎風ホテル〉というカテゴリーに属するジッキンゲル農場ホテルである。この農場は13世紀に初めて騎士領(荘園)として歴史に登場し、14世紀までは城砦があったそうだ。この地方の伯爵の間で何度か所有権が移り、30年戦争と王位継承戦争の際に破壊された後、18世紀に現在のレストランと客室棟がある場所に木組家屋、そして今ビヤガーデンとして使っている中庭が誕生した。その当時は今よりも敷地がかなり広く、納屋や家畜小屋もあったらしい。19世紀...田舎風・ジッキンゲル農場ホテル

  • ゾンメレッグ城塞

    我々が夏の休暇を過ごしたオーストリアのケルンテン州には幾つもの城館や城塞があるのですが、ミルシュタット山脈の中に一風変わったゾンメレッグ城塞があります。この城塞は、南チロル地方の修道院に保管されている古文書によると12世紀の後半に建造され、現在もレストランを営んでいて、この地方の立派な観光資源です。何が一風変わっているのかというと、異端審問の時に使われた拷問の博物館があるのです。遠くから見た城塞・丘の下から見た城塞建造から300年弱の間に6度城主が替わった後、城塞はハンガリー軍に征服されて破壊されました。その再建の時にお城は不規則な間取り及び建築様式となってしまい、丸い塔だけが古いゾンメレッグ城を思い起こさせるそうです。その後も政治と経済の状況により目まぐるしく所有者が替わりました。敷地への入り口・城塞へ...ゾンメレッグ城塞

  • エデスハイム城館

    カールスルーエから郊外電車で北に約1時間走ると、見渡す限りブドウ畑が広がり、ワイン醸造業者の村エデスハイムに着く。この辺りはドイツで一番暖かく、南ワイン街道にあたる地域だ。村にはワイン農家の直売店やワイン酒場が目立つ。村はずれのブドウ畑の中に、今回訪ねる(パンフレットによると)メルヘンの世界から出てきたようなエデスハイム城がある。城としては比較的小さな建物で、床と階段が古くてギシギシ音をたて、もちろんエレベーターは無い。スイートルームだけが入っている雰囲気のいい別棟の建物がある。葡萄畑・葡萄の樹入城門・城館と葡萄の樹ホテルの庭・城館と葡萄畑城館の中庭この城館ホテルの特徴は2m以上の水深があるお濠をうまく利用した素晴らしい野外円形劇場で、1000人の観客を収容できるらしい。この劇場で毎年7月に夏季演劇音楽祭...エデスハイム城館

  • ファルケンシュタイン城砦

    ファルケンシュタインという名前のお城は中部ヨーロッパにたくさんありますが、我々が訪れたファルケンシュタイン城砦は南オーストリアのオーベルフェラハ村に建っています。正確に言うとウンター(下部)ファルケンシュタイン城砦です。というのは、12世紀の中頃に建造された、200m程さらに高い位置にあるオーバー(上部)ファルケンシュタイン城砦が本城で、ウンターファルケンシュタインは14世紀の初め頃に本城の防御塔として建てられました。本城の方は17世紀以来廃墟となっているそうですし、200m登るのがつらいので、私たちはオーバーファルケンシュタインには行きませんでした。遠くから見た城砦1&2少し近づいて見た城砦1&2この防御塔が建てられた頃、それまでの所有者の家系が消滅したので、ファルケンシュタイン城砦は様々な人物に引き継...ファルケンシュタイン城砦

  • トイチェンタル城館

    ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの生誕地である旧東ドイツのハレから東方20㎞くらい離れた田舎にトイチェンタルという集落があり、その南のはずれに城館が建っている。前庭と思われる場所に、実際に使っている立派な納屋が並ぶ。前庭の納屋本館も大きな建物だが、正面から見る限り〈城〉の雰囲気は無い。本館の側面・本館の正面裏の庭園側から見る建物は優雅で華やかであり、その庭園は左右対称で手入れがよく行き届いている。池には蓮の花が咲き、カモの親子が遊ぶ。庭園の周囲は深い森で、その森は小さな集落が点在する丘陵地帯に続く。とにかく静かなところである。本館の裏面1&2庭園1&2庭をよく見ると、噴水には水が出ていないし隣のテニスコートは荒れ果てている。やっぱり旧東ドイツは客が少ないのかな?この地域はすでに9世紀の古文書に記されていて...トイチェンタル城館

  • シュタイン城館

    シュタイン城塞とも呼ばれるこの城館は、その起源を中世に発する良く保存されたお城です。オーストリアのリエンツァードロミテと呼ばれる地域にあるドラウ渓谷の谷底から約200メートル上の急勾配の岩の上に建っています。遠くから見た城館丘の麓の村にある模型1&2城館に行く途中にある礼拝塔シュタイン城館は12世紀の終わり頃に建てられ、この地方の某伯爵の所有でした。13世紀には別の伯爵の手に渡っており、初めて公的記録に記載されたのは15世紀の中頃で、また別の伯爵が所有していた時です。その後相続紛争があったりして何度も所有者が替わり、17世紀の後半にお城を取得した人物の子孫が今日まで所有しており、一般公開はしていません。防衛塔1&2お城の正面に向かって右にある高さ約15メートルの正方形の防衛塔はお城本体とは別に建てられ、も...シュタイン城館

  • ホェフィンゲン城館

    メルセデス・ベンツとポルシェ、そして自動車部品や電動工具を作っているボッシュの本社がある町、シュツットガルトから郊外電車で約30分走り、グレムス谷の底にある駅で降りる。集落は谷の上にあるから登らなければならない。家が建ち並んでいる舗装道路だがきつい。50年ぶりの暑さ、とのことだ。集落の南に位置するホェフィンゲン城は12世紀の城砦の廃墟跡に16世紀に建てられたらしい。城砦の廃墟の絵この非常に小さい城館は城風に建てた少し大きめの個人家屋のようである。3階建ての建物で、石造りの2階に木組みの階がのっている。昔の中庭に面する城塔の中は螺旋階段である。この地域の貴族の間で数回所有者がかわった後、1970年から家族経営でホテル&レストランを営業しているらしい。ホテル業というより古風レストランで客を泊める部屋もある、と...ホェフィンゲン城館

  • ブルック城

    オーストリアはケルンテン地方の西端、リエンツァードロミテと呼ばれる地域にあるオーベルドラウブルクから西に約20㎞離れた、この地域の首都であるリエンツの丘にブルック城はあります。ゴリツィアという名前の伯爵によって13世紀の中頃から後半にかけて建てられ、16世紀の初頭ぐらいまで彼の子孫の住居でした。その最後の子孫であるレオンハルト伯爵が子供のいないまま亡くなったとき、ブルック城を含む彼の全財産は後に皇帝となるマクシミリアン1世に渡され、チロル伯領と統合されたのです。その後お城はすぐに某男爵に売却され、その男爵の家族が約100年間住んだ後、別の家族がその後の約200年間住居として利用しました。そして18世紀の末にリエンツがフランス共和国軍によって占領されるまで、ブルック城は兵舎として使用されました。その後は個人...ブルック城

  • エリンゲルフェルト城館

    先月宿泊したフェレン城から東南東に約130㎞行ったところにあるエリンゲルフェルト城は、古い城砦と付属の農場が焼け落ちた跡地に、17世紀半ばから世紀末にかけてこの地域の貴族の居城として建造されたバロック城館である。民族社会主義(ナチズム)の時代にはオランダ人宣教師の住居になり、戦後は空き家となって腐朽するにまかされた。その後短期間カトリックのイエズス会士が城内に修練院を維持していたが、1964年にキルヒネル家が城を購入して大々的な修理と改装を行った。それから約20年にわたって城館とその周りの増築された建物はその当時ドイツで最大といわれた全寮制学校であった。学校の経営が終了してから再び復旧工事が施され、庭園は原型に戻されて1985年に城館でホテル経営が始まったのである。今世紀初めの5年間は、城内にある当時の寄...エリンゲルフェルト城館

  • ホーエン城塞

    私たちは夏の休暇の前半1週間をオーストリアのケルンテン地方の西端、リエンツァードロミテと呼ばれる地域にあるオーベルドラウブルクという人口1200人ほどの古い小さな町で過ごしました。町の中心部イタリアの東チロル地方と国境で接する地域で、中心のリエンツからオーベルドラウブルクは20㎞東に離れています。この町はリエンツァードロミテやクロイツェック山岳群へ行く良い出発点なのです。ところで、自宅があるハノーファーからオーベルドラウブルクまでは875㎞もあり、いっきに走るのはつらいので途中バイエルン州インゴルシュタットの郊外で一泊しました。ホテルにレストランがないので近くのビール醸造所を持つ郷土料理屋で夕食をとったのですが、暑い日だし、まだコロナが心配なので屋外のテーブルにしました。飲み物は二人ともここの醸造所で造ら...ホーエン城塞

  • フェレン城館

    ドイツ北西部のミュンスターラントという地域に、〈スポーツ城館フェレン〉という名前の水城ホテルがある。13世紀にゴシック様式で建てられた小さな領主の館がこの城の起源である。16世紀に城内礼拝堂が修復されて両側の側棟が建造され、さらに19世紀に正面玄関部分とその他の建物が増築された。1931年に数日間燃え続けた大火で礼拝堂を除くすべてが燃え落ちてしまったが、すぐに古い設計図に従って再建された。庭園にはオランジェリー(オレンジ栽培温室)、営林署、キジ飼育場、小動物園がある。その後1935年からはドイツ帝国財務行政機関の学校として機能し、戦時中は野戦病院の役目を担い、戦後は1955年まで再び財務役人の学校になった。それからの10年間は老人ホームで1966年から3度目の財務学校というふうに、めまぐるしい変遷を遂げて...フェレン城館

  • オルデンブルク城館

    〈ブレーメンの音楽隊〉の話で有名な北ドイツのブレーメンから西北西に約50㎞離れた所にオルデンブルク市があります。先日講演に行ったついでに、市の中心部にある城館を見学しました。外観1&2外観3&4ライン河流域のヴェストファーレン地方から北方の東フリースラント地方への長距離貿易ルートを管理するために、1100年頃、この地に中世の低地城塞がオルデンブルク伯爵によって建てられました。しかしこの城塞が古文書に現れるのは13世紀の終わり頃です。それから約100年後、周りにリング状の堀が造られて水城になりました。小さなスペースに多数の住宅や農場の建物が集まっていた城塞は、16世紀後半の時点で約350人の人が住む宮居だったようです。この頃からお城は荒廃していると考えられ、少しずつ改装されて行きましたが、17世紀の前半にお...オルデンブルク城館

  • ベルク城館

    ドイツの西部を流れるモーゼル川をさかのぼると、2千年以上の歴史を誇りドイツ最古の都市とされているトリアに着く。ほとんどの観光客はここまでしか来ない。その先のモーゼル川をさかのぼるとルクセンブルクとの国境にぶつかり、その国境(=モーゼル川)に沿ってさらに進むとフランスとの国境がある。この3国の国境が出会うところ、ザールラント州の端っこに小さなルネサンス様式のベルク城館が建っている。遠くから見たベルク城館トリアの教会にある1180年の史料によると、この建造物の起源はおそらく9世紀か10世紀に築かれた水城砦であると考えられるそうだ。15世紀からこの建物を所有するようになった人物が、16世紀の終わり頃に城砦を城館に改築させた。この事実は、起源が中世であるにもかかわらず、こんにちの姿がルネサンスの建築様式であること...ベルク城館

  • ノイゼス・アム・ザンド城館

    バイエルン州のレーゲンスブルクに講演をしに行くのに、いっきに走るのはしんどいので、ヴュルツブルクの東約40kmの所にあるノイゼス・アム・ザンド城館ホテルに一泊することにしました。この城館ホテルは本来の名前よりも〈ヴェルナーの城館ワイナリー兼ウェルネスホテル(レストラン付)〉という表記で知られています。正面入り口・裏口このお城の起源は15世紀にさかのぼります。同世紀の終わり頃にこの地方の領地所有者が建てて、16世紀の後半に別の人物に引き継がれました。さらに17世紀前半と18世紀前半にもその所有者が替わりました。19世紀の前半にはフランス皇帝ナポレオンとその妻マリア・ルイーズがここフランコニア(フランケン地方)のノイゼス・アム・ザンド城で休憩を取ったことが古文書に記されているとのことです。そして20世紀の前半...ノイゼス・アム・ザンド城館

  • リュッベナウ城館

    ドイツの首都、ベルリンの南1時間程のところにシュプレー・ヴァルトという地域があるが、ここはシュプレー川流域に広がる低湿地で、多様生物生息圏として保護されている。四方八方に水路が走っていて、多くの人が訪れる観光地である。以前私は、船頭さんが竿を使って操縦する小舟で水路を巡るツアーに参加したことがある。そのシュプレー・ヴァルトの、現在城館が建つ場所には昔中世の水城があり、1600年ごろルネサンス様式の城館に立て替えられたらしい。そして19世紀前半に現在の姿になったリュッベナウ城館は擬古典主義の建造物である。周りを取りまく9ヘクタールの、英国の景観を模した公園も同時代に出来たそうだ。ツウ・ライナル伯爵(左)ところで、数年前にトム・クルーズが首謀者であるフォン・シュタウフェンベルク伯爵を演じる、ヒトラー政権に対す...リュッベナウ城館

  • グルムバッハ城館

    グルムバッハ城館はヴュルツブルクから真北に10㎞離れたリムパルという小さな町にあります。他にこれといった特徴のないリムパル町の最大にして唯一の見所です。正面・入城門脇の塔長い入城門の内部・中庭から見た入城門15世紀後半の古文書によると、この城館は地方の貴族であったヴォルフスケール家によって14世紀に建造されたようです。そして16世紀の末頃、リムパルのお城と村はヴュルツブルクの侯爵司教によって取得され、その後18世紀まで彼とその子孫の夏の邸宅として使われました。しかし、別の場所に別荘が出来たのをきっかけにグルムバッハ城はその役目を解かれ、城壁などの荒廃が始まりました。そして徐々に取り壊されていく運命にありましたが、18世紀の終わり頃にフランスの軍隊がこの地域に進攻して来たため、さらなる解体計画はとりあえず保...グルムバッハ城館

  • ゲールデン城

    ゲールデン修道院は12世紀の中頃、ハインリッヒ・フォン・ゲールデンという貴族によってベネディクト会修道女のために創設された。いや、これは書き損じではない。現在のゲールデン城は昔修道院だったのだ。12世紀の末にロマネスク様式で建造された教会だけが当時のままで、修道院の他の建物は17世紀に新しく建て替えられた。教会全敷地を隔離するように取り囲む高い石垣の一部が階段状になっているのだが、その昔修道女たちは、この上から、縁を切ってきたつもりの世俗社会を眺めて郷愁にかられていたそうである。石垣と階段そして19世紀の初めに教会財産没収(国有化)によって修道院は廃止された。が、建物はあのナポレオンの兄弟の所有となり、バロック様式の公園をもつ世俗的な城館に改築されて、数多くのにぎやかな式典や祭典が開催されたらしい。その後...ゲールデン城

  • マルクトブライト

    バイエルン州フランケン地方のヴュルツブルクから南東に約30㎞離れた所に、マルクトブライトというマイン河沿いの小さな町があります。マイン河畔で対岸の町を見る・町の様子1私たちは3か月ほど前にこの町を訪れました。この辺はフランケン地方の中で最も暖かく乾燥した地域の1つで、それゆえワイン、果物、野菜の栽培に特に有利です。が、マルクトブライト町はマイン河の洪水によって1世紀に数回打撃を受ける、という短所もあり、これはマルクトブライトの役場および反対側のバロック様式の宮殿に刻まれた洪水マークによって記録されています。町の様子2&3町の様子4&5さて、マルクトブライトの歴史です。この土地のことが文書に初めて現れるのは13世紀の中頃です。そして16世紀の後半に〔マルクトブライト〕と名付けられました。17世紀の前半には2...マルクトブライト

  • ヴォルフスブルンネン城館

    〈ヴォルフスブルンネン〉とは、〈狼の泉〉という意味だ。何だかいわれがありそうな名前の城である。むかしむかし狼の群れが泉に水を飲みに来ていた。この辺は野獣の多いところなので、狼と土地の農民との間である協定が出来ていた。昼間農家の牛が泉のほとりにいるときは牛が猛獣に襲われないように狼が守ってやり、そのかわり夜農民は泉の水を飲みに来る狼を追っ払ったりしない、という協定である。ところがある晩、若い向こう見ずな男が狩に出かけ、水を飲みにやって来た老狼を撃ち殺してしまった。群れのリーダーを失った狼達はこの地を離れ、二度と帰って来ることは無かった。農民たちは老狼を慰霊するために石塔をたてて青銅製の狼の頭を祭った。青銅製の狼の頭その慰霊塔がたっていた場所に、こんにちヴォルフスブルンネン城がある。明るい月夜には、今でも老狼...ヴォルフスブルンネン城館

  • エルバッハ城館

    巨大な古城で有名なハイデルベルクから北東に車で1時間弱のところにあるエルバッハ城館は、エルバッハ=エルバッハ家の住居です。それは中世期に建て始められましたが、今日の姿は主に18世紀前半に行われた改築の結果です。お城にはとりわけ、エルバッハ=エルバッハ伯爵フランツ1世の有名な古美術品のコレクションがあるとのことです。城館1&2城館3・城館の入り口城館を中庭から見る城館の中庭に面する建物1&2エルバッハ城の建物の最古の存在証拠は12世紀にさかのぼり、その後、壁と堀がある丸い水城塞が14世紀の初頭に文書で最初に言及されました。城塞を建設した理由ですが、当時ロルシュ修道院の執行官とライン河近くのプファルツ伯爵の紛争の最中だったため、安全保障上の側面があったと思われます。16世紀の前半にこの城塞はルネッサンス様式の...エルバッハ城館

  • ツム ・ マルクグラーフェン城館

    ツム・マルクグラーフェン城館はクエドリンブルクという特別な町にある。何が特別かというと、この町の旧市域が1994年以来ユネスコの世界文化遺産に登録されているのだ。千年を越す歴史を持ちドイツの最初の王様ハインリッヒⅠ世の王宮所在地であったこの町には、6世紀にわたって建てられた木組みの家やユーゲントスタイルの建物がおよそ1300あり、その内の80%は17世紀と18世紀に、そして旧市街にある15軒の木骨家屋は16世紀に建てられたそうである。木組み家屋の手入れは東ドイツ時代にはなおざりにされていて、東西ドイツ統合後の1990年になってからその復旧が始まった。それにしても、歴史的な建物が沢山あれば別に町は綺麗でなくても世界文化遺産になるのであろうか。世界遺産になって10年近く経つにもかかわらず中央広場の敷石は工事中...ツム・マルクグラーフェン城館

  • ロムケルハレ王国

    魔女で有名なハルツ山岳地方にあるゴスラー市の南に、ホテルとレストランだけがあるロムケルハレという地域があります。ここは「ロムケルハレ王国-世界最小の王国」としてマーケティングされていて、人々に人気の遠足先になっています。検問所西暦1900年の〈王国のお城〉(ウィキペディアより)・現在の〈お城〉正面・人工滝の上から滝の水が流れ落ちる所なぜこういう状態になったのでしょうか。19世紀初頭、現在ロムケルハレ王国があるオーカー渓谷の交通を促進するために道路の拡張が始まりました。それにより木材の運搬も容易になり、交易業者は容易にこの地に到達することが出来るようになりました。それで同世紀の半ばが過ぎた頃にレストハウスが建てられ、その30年後には宿泊施設も出来ました。同時に、ロマンティックな魅力を演出するために、約350...ロムケルハレ王国

  • ヴィルキングへーゲ水城館

    このところ古城ホテルで美味しい食事にめぐり会っていないので食に力を入れていそうなところを探してみると、アウトバーンを2時間ほど西南西に走ったところにある中規模の学生都市ミュンスターの郊外に古城ホテル・ヴィルキングへーゲがあり、インターネットのホームページにレストランのチームを紹介している。それによるとシェフは若い頃このホテルのレストランで修行をし、2年前にその当時の師匠が亡くなった後、跡を継ぐように帰って来たようだ。その間スペインをはじめ内外のレストランで腕を磨き、中でもすぐ近くのオスナブリュックという町にあるミシュラン2つ星にいたことが彼の〈売り〉であるようだ。さらに副料理長はデュッセルドルフの1つ星で、そしてパティシエ長は複数の星付きレストランで修行をしたことがあるらしい。日本でも、どこそこで修行をし...ヴィルキングへーゲ水城館

  • ファイツホェハハイム城館

    ファイツホェハハイム城館は今年の春、マイン河流域で休暇を過ごしたときに訪れたお城で、ヴュルツブルクから北東に10km離れた所にあります。この城館はかつてヴュルツブルク大公の、後にバイエルン王の夏の邸宅であり、周囲のロココ様式の庭園で知られています。お城の始まりは17世紀の後半です。その後拡張されて、18世紀の中頃現在の外観になりました。城館1&2城館3&4裏正面の階段の石像・庭園の一角と隣の建物中に入って見学することは出来ませんでしたが、すべてのフロアはバロック時代のものでバロック様式のインテリアの一部も保存されているそうです。19世紀初頭の8年間、お城はヴュルツブルク大公の夏の邸宅で、この間にいくつかの部屋は現代的な帝政様式に改装されたそうです。その数年後にヴュルツブルク大公国が廃止されると城館の複合体...ファイツホェハハイム城館

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