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ブログタイトル
お城でグルメ!
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/kenjikamino
ブログ紹介文
ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。
更新頻度(1年)

37回 / 365日(平均0.7回/週)

ブログ村参加:2015/02/01

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お城でグルメ!さん
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お城でグルメ!

お城でグルメ!さんの新着記事

1件〜30件

  • エルツ城塞

    モーゼル川に流れ込む支流の中にエルツバッハという小川があります。秋休みの時に私たちはライン河畔からモーゼル川畔の休暇用マンションに移る途中で、海抜129mのエルツバッハ渓谷にあるエルツ城塞を訪れました。この建造物はドイツで最も有名なお城の一つで、17世紀後半の王位継承戦争で付近の城塞の多くが破壊されたときも、エルツ城は破壊を免れたそうです。このお城はモーゼル流域地方とマイフェルトという肥沃な地域の間の交易ルートに、12世紀の初めに騎士の居城として建てられ、19世紀には既存の構造を考慮に入れて大々的に修復されました。20世紀の前半、火災により礼拝堂とその上の階にあった文書保管所及びその他の10部屋が破壊されて、復興工事と修復に10年の歳月が必要だったそうです。さらに今世紀に入って大規模な防災と修復の工事が行われま...エルツ城塞

  • ラーンエック城塞

    コブレンツから5㎞程上流のライン河に、東からラーン川が流れ込んでいます。このふたつの河川に挟まれた岩山の突出部に、13世紀前半に建造されたのがラーンエック城塞です。そのレイアウトは当時の典型的な細長い長方形で、対称性を持っているそうです。城塞1・城塞2城塞3ラーンエック城塞は領土を守るために建てられ、税関のお城としては機能しませんでした。なぜなら、ラーン川畔にあるラーンエック城塞は、多くのライン河のお城とは対照的に、ライン河から遠すぎるからです。その後17世紀前半の30年戦争のときにスウェーデンの軍隊が別の城砦を設置した為、ラーンエック城はその重要性を失いました。さらに同世紀の後半にはフランス軍が大同盟戦争の際にお城に放火したのです。その廃墟を19世紀の中頃にスコットランドのある企業家が取得して、ネオゴシック様...ラーンエック城塞

  • マルクス城塞

    マルクス城塞は、粘板岩から成る標高160メートルの高地に建つ13世紀のお城です。ライン河の中流域にあるお城で唯一、破壊されたことがないそうです。この建造物は、城下にあるブラウバッハ町の保護と管理のために建てられ、当初は税関の城としても機能しました。城塞1・城塞2さてお城の歴史ですが、その存在に初めて言及しているのは13世紀前半の古文書です。そして同世紀の後半に現在の外観の基礎が造られ、15世紀の間にさらなる増築が行われたのですが、同時にお城はヘッセン州の方伯領となりました。17世紀前半に起こった30年戦争の終わりごろ、それまで荒れるままにされていた城塞は再び復元されました。18世紀のナポレオン時代、マルクスブルクは正式に要塞であると宣言されましたが、実質的には身体障害者の宿泊所や刑務所として利用されていました。...マルクス城塞

  • ネズミ城砦 & ネコ城砦

    ネズミ城砦はライン渓谷の中ほどの山頂、海抜197.3mに建つお城で、2002年からユネスコ世界遺産の一部になっています。この城砦は14世紀の後半に建造され、高位聖職者の暫時の住居としても使われました。そして、フォン・カッツェネルンボーゲン伯爵が時を同じくして近くに〈カッツ=ネコ〉と呼ばれる、より大きな城砦を建てたので、ネズミ城と呼ばれるようになったのです。長い間戦争などによっても破壊されることはなかったのですが、18世紀にその荒廃が明らかになりました。その後この城砦を保存したいと思う人物が購入して、20世紀の初めに再建が完了したのですが、その外見は原型を残すことが出来たそうです。お城には2010年の末まで何十年にもわたってワシとハヤブサの農場がありました。2016年に農場の運営が再開されて、観光客の為にハヤブサ...ネズミ城砦&ネコ城砦

  • ベフェルン城館

    ハノーファーの自宅から南西に1時間と少々走った所にあるベフェルン城館は、ブェザー・ルネッサンスの最も重要な建築の一つです。17世紀の初め頃に建てられ、数十年後には狩猟用離宮に改築されました。それから100年ぐらいの間がこのお城の全盛期で、その後はたいへん世俗的に利用されるようになりました。すなわち、18世紀の末頃にはまず退職公務員用の住居として、そしてボタン工場として使われたのです。さらに19世紀の中頃には更生施設、そして同世紀の後半には教護施設になりました。20世紀の前半から第二次世界大戦の終戦まで、ナチス突撃隊のスポーツ学校やドイツ軍の工兵の兵舎として使われ、戦後は難民の宿泊所、後には家具の倉庫になりました。1976年以来、地元の歴史博物館が城内に出来ていて、ベフェルン市の歴史の他に鉱物や化石に関するコレク...ベフェルン城館

  • フィシェリング水城

    ハノーファーから西に約2時間半走ると着くフィシェリング城は、森の中の池に建つ典型的な水城です。水城の航空写真(Wikipediaより)〈フィシェリング〉という名は14世紀の文献に初めて現れますが、この地にお城があったということは13世紀後半の古文書に書かれているそうです。その後大規模な火災によって破壊されたこともあり、16世紀の前半から17世紀の前半にかけてお城はルネッサンス風に再建拡張されました。その際に住宅城に改装されたのですが、それでもお城の防御的な性格は十分に保持されたままでした。水城1・水城2水城3・水城417世紀末に所有者の家族が別のお城に引っ越した後、長い間フィシェリング水城に住む家族はなく、ある管理者によって管理されていました。再びある家族が長期の住居として使ったのは19世紀の終わりごろから20...フィシェリング水城

  • ツー・ブルクハウゼン城塞

    南オーストリアからドイツの自宅に帰る途中、その国境で一泊しました。泊まったのはオーストリア側の小さな村にある〈城塞の展望〉というホテルです。この一風変わった名前は、国境であるザルツァハ川のドイツ側の高台にあるお城をホテルの客室から見渡せることによるのです。ホテル到着直前・ホテルホテルの駐車場から1・ホテルの駐車場から2このツー・ブルクハウゼン城塞があるブルクハウゼンの町は11世紀前半の文献に初めて王室の領地として言及されていて、同時にお城に関しては町の伯爵の所有であることが記されています。城塞の最も古い部分が11世紀の前半に建造されてから数世紀にわたって何度も増築による拡張が行われました。城塞の最古の部分1・城塞の最古の部分2城塞の最古の部分3・城塞の最古の部分4城塞の最古の部分5・城壁と湖特に、トルコ民族の接...ツー・ブルクハウゼン城塞

  • ホーエンヴェルフェン要塞

    南オーストリアから北に向かう10号アウトバーンは何度か走ったのですが、ザルツブルクの手前で左側の山頂に立派な要塞があり、気になっていました。そしてこの度立ち寄ってみたのです。ホーエンヴェルフェン要塞(Wikipediaより)アルプスで戦略的に重要なポイントにホーエンヴェルフェン要塞の建造が11世紀の後半に開始され、それから100年以上にわたって順々に増築拡張されてきました。ところが、16世紀前半に農民戦争の過程で要塞は放火されて損傷を受けてしまったのです。その後再建するとき、お城を強化する為に大幅な改善が行われたそうです。そしてザルツブルクが世俗化された後、19世紀の前半から要塞はバイエルンの支配下に入り、ヨハン大公によって改修されて狩猟ロッジとして使用されました。19世紀の末にはオイゲン大公がこの不動産を取得...ホーエンヴェルフェン要塞

  • ヘロルデック城館

    夏休みの2週間目は南オーストリアで過ごしたのですが、イタリアに抜ける国境まで10分弱のところにある休暇用アパートメントに行く途中で、湖と周囲の山々のパノラマの景色を望む森林の南斜面に建つヘロルデック城館に立ち寄りました。お城1・お城2お城3・お城4お城5この小さなお城は1912年頃に個人の別荘としてシャトースタイルで建てられました。第二次世界大戦直前の1938年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が手に入れて、幹部養成学校として使われました。終戦後、オーストリアはケルンテン州の州政府が引き継いで子供のための保養所になり、1988年にはアメリカの宗教コミュニティであるカルバリーチャペルが購入しました。それ以来、ヨーロッパ中のキリスト教団体のカンファレンス及びレジャーセンターとして利用されています。湖へ下りる階段...ヘロルデック城館

  • フィンステルグリュン城塞

    12世紀の中頃オーストリアのザルツブルクとシュタイエルマルクの境界線上に城塞があったと、当時の古文書に書かれているとのことです。この地域は重要な交通の要地だったので、その監視と通行料の徴収を行っていたと思われます。14世紀から15世紀にかけてこの城塞に、近くにある銀山の管理所と採鉱問題を取り扱う裁判所が置かれていました。城塞は中世には別の名前で呼ばれていて、こんにちの「フィンステルグリュン」という名前は、17世紀の前半に初めて文献に現れるそうです。このフィンステルグリュン城塞には、ザルツブルクから南東に140㎞くらい走ると着きます。19世紀の中頃に山火事によって破壊されましたが、同世紀の終わり頃にある伯爵がその廃墟を買い取り、昔の土台と建材を使用して新しいフィンステルグリュン城塞を再建したのです。第2次世界大戦...フィンステルグリュン城塞

  • レーゲンスブルク

    レーゲンスブルクは約15万3千人の人口を持つ、バイエルン州でミュンヘン、ニュルンベルク、アウグスブルクに次ぐ4番目の都市です。日本の感覚でいうと小都市の規模ですが、ドイツ全国では55番目に大きいのだそうです。ほぼ完全な形に保たれた旧市街地は、2006年からユネスコの世界文化遺産です。レーゲンスブルクの情報はオンラインで手に入り易いので、興味のある人は調べてみて下さい。町のようす1・町のようす2私は何度か行って地元の人と話したこともありますが、世界文化遺産であることは、地元の観光業界にとってそれほど有益ではなく、住民にとってはかえって迷惑なことなのだそうです。というのは、観光客のマイカーと観光バスで小さな町が溢れかえるようになった、というのがひとつ。そして、しばしばドナウ川の河川クルーズ船が停泊するのですが、客は...レーゲンスブルク

  • フォン・ハムメルシュタイン水城館

    ヴェーザー川の流域はヴェーザー・ベルクラント(ヴェーザー山岳地帯)といって川と丘陵が織りなす静かな風光明媚な所です。景色の良さに加えて、昔、主に河運によってヴェーザー・ルネッサンスと呼ばれる文化が花咲いたためにお城や教会や由緒ある建造物が数多くあり、そのため今は自然と歴史を愛する人たちが訪れる観光地になっています。そのヴェーザー山岳地帯の外れに、アペレルンという名の小さな町があります。町は小さいにもかかわらず、ここには立派な城館がふたつもあるのです。フォン・ハムメルシュタイン水城館はそのうちのひとつです。このお城は16世紀の末頃にヴェーザー・ルネッサンス様式で建造されました。17世紀の後半、スウェーデン王室に属する軍のフォン・ハムメルシュタイン少将がお城とそれに属する騎士農場を購入し、それ以来フォン・ハムメルシ...フォン・ハムメルシュタイン水城館

  • フォン ・ ミュンヒハウゼン ・ アペレルン水城館

    ヴェーザー川の流域はヴェーザー・ベルクラント(ヴェーザー山岳地帯)といって川と丘陵が織りなす静かな風光明媚な所です。地形と景色の良さに加えて、昔は主に川運によってヴェーザー・ルネッサンスと呼ばれる文化が花咲いたために、お城や教会や由緒ある建造物が数多く残っているので、今は自然と歴史を愛する人たちの観光地になっています。そのヴェーザー山岳地帯の外れに、アペレルンという名の小さな町あります。町は小さいにもかかわらず、ここには立派な城館がふたつもあるのです。そのうちのひとつ、フォン・ミュンヒハウゼン・アペレルン城館に行って来ました。城館1・城館2入り口フォン・ミュンヒハウゼン男爵がシャウムブルゲル伯爵からこの地に騎士農場を与えられたのは14世紀で、こんにちまでフォン・ミュンヒハウゼン家の本拠地です。現在の水城館は16...フォン・ミュンヒハウゼン・アペレルン水城館

  • ゾェーデル城館

    私の住むハノーファー市とその周辺は、当地の名前が付いた〈ハノーフェラーナー〉、すなわち〈ハノーバー種〉という品種の乗用馬の飼育で世界的に有名です。馬場馬術、障害馬術、総合馬術競技の3種目において最も成功している品種なのだそうです。英国の王室からも乗用馬を買いに来るとのことです。その乗用馬の飼育は16世紀から行われているそうで、多くの飼育場が存在するようですが、そのひとつがハノーファー近郊のゾェーデルという村の城館にあります。馬の親子すでに中世の時代にゾェーデル村には小さな城塞と付属の農場があったのですが、18世紀の前半にそれが取り壊され、同じ場所に城館が建てられました。その後何年にも渡って改修と改築が繰り返されて、堂々としたこんにちの姿になったのです。18世紀の後半、当時の所有者が美術品の収集家で、彼の所蔵品を...ゾェーデル城館

  • ヘンネッケンローデ城館

    自宅があるハノーファーから南東に車で30分ぐらい行ったところの、林と牧草地と麦畑が広がる穏やかな丘陵地をハイキングしました。ドイツにおけるキリスト教宗派の分布に関して、この辺は北ドイツでは珍しくカトリックの地域なので、ハイキングコースに度々宗教関係の造形物が見られます。日本でいうと、小さな祠やお地蔵さんといったところでしょうか。造形物1・造形物21時間ほど歩いて目的地につきました。緑の中にポツンとたたずむ小さな村です。村このヘンネッケンローデという村は、もともとは13世紀初めから全体がひとつの騎士農場で、ある伯爵が所有していたのですが、13世紀の末頃、カトリック教会に移管されました。そして16世紀の後半、ここにヘンネッケンローデ城館が、この地方で花咲いたヴェーザー・ルネッサンス様式で建造されたのです。城館と共に...ヘンネッケンローデ城館

  • デルネブルク城館

    ハノーファーの自宅から車で南東方向に45分走ったところにあるデルネブルクという小さな町には、城館とその周りの史跡や散歩コースのおかげで、年間2万人ほどの訪問者があるそうです。私たちも行ってみることにしました。最初行った時は曇り空で、お城だけ見たのですが、他の史跡が点在する散歩コースにも興味があったので、1週間ぐらい後の晴天の日にもう一度行きました。全景1(オンライン画像より)・全景2(オンライン画像より)デルネブルク城館の原型となったお城の歴史は12世紀の中頃までさかのぼります。当時、この地域の教会の為に建造され、70年後に修道院になったのです。その修道院では14世紀までアウグスティノ会修道士が、その後シトー会修道士が、そして宗教改革の時代はルター派の修道女が生活し、それから修道院は再び17世紀中頃にシトー会の...デルネブルク城館

  • ヴォルフスブルク城

    私の自宅から東に100㎞ぐらい行くと、日本でもよく知られたフォルクスワーゲンの本社と工場があるヴォルフスブルクという町に着きます。たいへん新しい町で、1938年にフォルクスワーゲンの工場がこの地に建てられた時がその起源なのです。その時にはもうここに古いお城が建っていて、町にお城の名前を付けたのです。そう、そのお城がヴォルフスブルク城です。お城1・お城2お城3・お城4ヴォルフスブルクとは狼城砦という意味ですが、別にこの地域に狼が多く生息していたわけではなく、お城を建てた貴族のワッペンに狼があしらわれていたからです。お城の入り口・ワッペンヴォルフスブルク城は要塞の機能を持った中世の水城で、14世紀初頭の文献に初めて出て来ます。17世紀に勃発した30年戦争のときには次々に様々な国の軍隊に占領されましたが、結局建物は破...ヴォルフスブルク城

  • シーデル城館 と シュヴァレンベルク城塞

    キリスト昇天の祝日はたいへん良い天気だったので、自宅から1時間半のところにあるお城を巡りました。シーデル・シュヴァレンベルクのシーデル市域にあるシーデル城館は、この地方の伯爵によって18世紀の初めに建てられました。城館はオランダ古典主義に適合するバロック様式だそうで、第一次世界大戦の終結頃まで王家の夏の居城でした。その後当時のこの地方の自治体に所有権が移り、20世紀の後半に入ってからシーデル・シュヴァレンベルク市が城館とその庭園を管理するようになって、1980年からは市民大学、音楽学校、市立図書館が建物を使っています。入り口・城館1城館2・内部1内部2さて、2、3日前からレストランとカフェの開業が厳しい条件の下で許されるようになったので、オープンカフェで午後のお茶をしました。庭園1・庭園2決められた一ヵ所から入...シーデル城館とシュヴァレンベルク城塞

  • へーレン水城

    チャイナウィルス-19による武漢肺炎の拡大が落ち着きを見せ、終息へ向かう一縷の希望が見えてきたドイツです。しかしながら、4月26日現在、面積800平方メートル以上の大型店舗は休業、ホテルもレストランも喫茶店も休業、学校は閉鎖、2メートルの間合いを取ることとマスクの着用が義務(罰則あり)、個人旅行の禁止、、、、、といった状況です。風がまだ冷たい日もありますが、晴天が続く今日この頃、車で1時間ちょっとのヴェーザー川に行きました。その川沿いには、周りをお堀で囲まれた小さな水城があるのです。このへーレン水城は男爵であり軍人でもあった人物が、16世紀後半、別居していた妻の為に建てたお城です。この地方で花咲いたヴェーザー・ルネッサンス様式で最も早い時期に建てられた城館のうちのひとつだそうです。19世紀の後半に改築が行われ、...へーレン水城

  • シュリュッセルブルク城塞

    当地では、蔓延するチャイナ肺炎19のせいで今だに厳しい外出規制がかけられていますが、天気が良いので、人がほとんどいないと思われるド田舎の村に弁当を持って散歩に行きました。村のメインストリート・通り沿いの教会すし太郎・おかず弁当はたいへん使い勝手の良い〈すし太郎〉で、上に海苔を散らしました。おかずはブロッコリーとパプリカの煮ものと卵焼きです。天気は良かったのですがまだ冷たい風が強くて、車の中で食べざるを得ませんでした。ハノーファーから車で1時間ちょっとのその村には小さな城塞があります。シュリュッセルブルク城塞というのですが、シュリュッセルとは鍵という意味なので鍵城塞という名前になります。なぜなら、このお城は14世紀の前半に、あるカトリックの司教によって建てられ、司教区のワッペンのシンボルが鍵だったからです。登城路...シュリュッセルブルク城塞

  • ヴェルフェン城

    ヴェルフェンとは8世紀以来のドイツの由緒ある王族で、現存するこれ程古い王族はヨーロッパには他に2つあるだけです。ヴェルフェン城は当初ハノーファー王国の本拠として計画されましたが、プロイセン王国に併合されたため、1866年に建設工事が中断されてしまったのです。その後、国王の城館として使えないその建物は、数部門にまたがる工業技術学校にしようということで、1876年に改築されました。そして当時まだ新しい電気工学などの学科が増えるにつれて、改築や増築がされていったのです。1879年には王立の工業大学になりました。第二次世界大戦時の空爆でこの大建造物は著しく破壊されたのですが、すぐに再建され、戦後もだんだんと学部数と学生の数が増えるに伴って大学の校舎群が出来ました。お城の中に留まったのは、一部の学部と大学の管理部門だけで...ヴェルフェン城

  • ラインベーク城館

    ラインベーク城館は16世紀の後半にオランダ式ルネッサンス様式で建造されました。17世紀の中頃から19世紀の後半までは当地の王家の代官所でしたが、役所が移転した時に売りに出され、その後はいろいろなことに使われて来ました。まずホテルになり、そして教会が運営する保養所になったのです。1939年にハンザ同盟都市ハンブルクがお城を手に入れてからは、〈海外と植民地における林業の国立研究所〉が城内の部屋を利用するようになりました。その後20世紀の後半にラインベーク市が購入して原型に忠実な修復を施して以来、お城はこの地方の住民のための文化及び情報センターとして役立っているようです。お城の遠景1・お城の遠景2お城の遠景3門を入って並木の登城路を歩いて行くと、レンガ造りのコの字型建造物があります。これがラインベーク城館なのです。す...ラインベーク城館

  • アーレンスブルク城館

    英国風の庭園を持つアーレンスブルク城館は、北ドイツの港町ハンブルクの中心部から北東に約30㎞離れた所にあります。この領主の館は16世紀の後半に、デンマーク王の公使であったペーター・ランツァウという人物により、複式家屋として築かれました。4本のエレガントな塔と掘割を持つこのお城の内装は、高価な洒落たルネッサンス風に設備されているそうです。城館への橋・7時の位置からランツァウ家が7世代にわたって住んだ後、18世紀の中頃に新しい所有者シンメルマン家がお城を後期バロック様式に改築させました。その後ホルシュタイン公爵領の大農場文化における社交界の中心になり、デンマークのクリスティアン王VII世が何度も訪れたそうです。つまり、アーレンスブルク城館はこの時代に全盛期を迎えたことになります。正面1(6時の位置から)・正面2(6...アーレンスブルク城館

  • フェルトハイムスブルク城館

    旧東ドイツの村や町を車で通ると、質の悪い石炭が燃える臭いがします。いまだに石炭を暖房に使っているのでしょうか。我が家のあるハノーファーから真西に120㎞走ると、旧東ドイツの田舎にフェルトハイムスブルク城館があります。このお城は13世紀の中頃にカトリックの司教たちによって建造され、15世紀前半にフェルトハイム家の所有になりました。そして19世紀には新ロマネスク様式の城館に改築されたのです。その後お城は1945年までフェルトハイム家のものでしたが、土地改革によって没収されて、戦後はまず青少年の保養施設として、のちに学校として利用されました。そして1990年の東西ドイツ統合の後に、ある起業家が土地と城館を購入し包括的な修復と再開発を実施したのです。2015年に再び所有者が代わり、こんにちお城はホテル、カフェ、(結婚式...フェルトハイムスブルク城館

  • ヴォルフェンビュッテル城館

    ハノーファーの自宅から南東に1時間ドライブするとヴォルフェンビュッテルという町があり、小さな町にもかかわらず大変立派な城館があります。このヴォルフェンビュッテル城館はもともとは11世紀の後半に建造された水城でした。そして13世紀後半から18世紀の中頃までこの地域の公爵たちの居城だったのですが、この間たび重なる攻撃や攻囲によって何度も破壊されました。その都度再建および改築や増築がなされ、その結果外観と内装が次第に変わっていきました。その後のいち時期女子学校になり、20世紀の後半から今日までお城の一部はギムナジウム(基礎学校での4年を終えて入る9年制の高等学校)として使われ、同世紀の末からは国立芸術学校も同居しています。城館の模型・正面中庭・廊下1廊下2一般に開放されている博物館の部分では、17世紀の末頃から18世...ヴォルフェンビュッテル城館

  • フンディスブルク城館

    私の住むハノーファーから東に130㎞離れた所に建つフンディスブルク城館は、古文書によると12世紀の中頃から存在しているようです。そして16世紀の後半にルネッサンス風の城館に改築されました。こんにちのバロック様式の外観は17世紀末から18世紀初めにかけて造られたそうです。城館1・城館2城館3ちなみに、お城の庭もバロック庭園です。不幸にも、第2次世界大戦後に駐留していたソ連軍の兵隊が火災を起こし、建物の大部分が焼失してしまいました。そして東西ドイツ統合後の1991年からこのバロック様式の城館は徐々に復元されてきて、現在は町の所有になっています。町の文化財保護協会がお城の生命を再び呼び覚まし、今世紀の初めには歴史的な各部屋が再現されて結婚式も行えるようになりました。見取り図(円形建物群の3時の部分が城館)実際に訪れて...フンディスブルク城館

  • リスボン

    リスボンは言わずと知れたポルトガルの首都です。この都市の情報は容易に手に入るので、ここでは簡単に記述します。リスボンはフェニキア人がその基礎を築き、ユーリウス・シーザーの時代に古代ローマの都市のひとつになりました。8世紀の前半にイベリア半島の大部分がムーア人に占領されましたが、その後2回目の十字軍の遠征を背景に、12世紀の中頃キリスト教者によって奪還され、アフォンソIII世のもとでポルトガル王国の首都になりました。そして16世紀の初めごろから、リスボンは当時世界で最も輝かしい商業及び港湾都市のひとつになったのです。ちなみに、ポルトガル船が日本に初めて鉄砲をもたらしたのは1543年です。ところが、18世紀の大地震のせいで、それまで兆候が見えていた経済活動の下降が確実なものとなってしまいました。しかし19世紀には再...リスボン

  • オービドス城塞

    ポルトガルの首都リスボンから真北に1時間と少し走ると、オービドスという小さな町があります。この町は、昔の城塞があって歴史的な味わい深い町の中心部が、上を歩行できる城壁で完全に囲まれている事でよく知られています。町の案内所でもらった地図(日本語)・町と城壁さて、この町ですが、考古学的発掘品によると新石器時代にはもう人が住んでいたようです。そして5世紀には西ゴート王国の一部になり、8世紀になってムーア人によって占領されてからその存在が堅固になりました。12世紀にはポルトガル王国となり、アルフォンス王II世はオービドスの町を彼の妻に結婚のお祝いとしてプレゼントしました。それ以来16世紀まで、このオービドスを女王に進呈するという習慣はいろいろな王様によって継承され、それ故に町は〈女王様方の町〉と呼ばれるようになりました...オービドス城塞

  • シントラの城砦と宮殿

    シントラはポルトガルの首都リスボンから西に約25㎞離れたところにある小さな町です。いち部は数世紀の古さを誇る多数の宮殿があることで良く知られていて、世界中から訪問者を引き付けるのです。1995年からはユネスコの世界遺産になっています。そのシントラですが、この地に人が住むようになった時期は旧石器時代までさかのぼるそうです。その後ローマ人が住み着いた時代もあります。そして8世紀からはキリスト教徒が獲得したり、アラブ人が奪還したりを繰り返しましたが、ポルトガルの最初の王となるアルフォンスI世が12世紀の中頃に占領したのです。12から13世紀にかけては、この肥沃な土地に数多くの修道院が建てられていきました。が、14世紀の中頃にヨーロッパを席巻した黒死病(ペスト)がシントラに到達しました。15世紀の末からドム・マヌエルI...シントラの城砦と宮殿

  • アライオロス城塞

    リスボンから東に約130km離れるとアライオロスという小さな町があります。この町は紀元前2世紀から存在し、5世紀の初め頃アラネン人(イラン系の騎馬民族、サルマート人に属する民族)に、さらに8世紀の初期にはイスラム教徒によって占領されました。キリスト教徒による奪還は13世紀の前半になされたようです。そして14世紀の初め頃、アライオロス城塞が丘の上にロマネスク・ゴシック様式で建造されました。城内の教会は16世紀に建てられたそうです。ところが18世紀中頃の地震で廃墟になってしまったのです。20世紀の初め、アライオロス城塞とその下に広がる町は〈国家的記念物〉に指定されました。町の中心部・町にある教会内のクリスマス装飾高台にある城塞からの展望も素晴らしいのですが、さらに味わい深いのは、城塞が世界的にも珍しい環状の建造物で...アライオロス城塞

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