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まほろばの泉 https://blog.goo.ne.jp/greendoor-t

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集

まほろばの泉
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2015/01/13

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  • 知識と技術は、識と術を弁えなくては痴戯(知技)同然

    秩父奥名栗「識」とは道理であり、口舌を駆使することなく内心で会得することであり、「術」は手立てや技ともあるが、術智がなくては単なる企みに終始してしまうようだ。よく知識人の堕落は国家をも衰亡させるという。ならば内心会得する道理とはどの様なものであり、会得した人間の姿や能力はどのようなものか考えてみたい。「色聴」という文字がある。人と応対したとき顔色をみて真偽を観察する。あるいは容、象、体の表れで対象を観察する、それが色聴能力で表されることである。「色」は女が座って上から人が覆いかぶさっている姿だが、なまめかしい形でもある。それこそ様々な聴き方があるが、観人則(人物をみる座標)から独り鎮まりを以って聴いてみたい。「辭(辞)聴」辞めるとき、下がるとき、「色聴」「気聴」「耳聴」「目聴」などがあるが、敢えて言葉に出...知識と技術は、識と術を弁えなくては痴戯(知技)同然

  • 「五寒」に観る、国家衰亡を止める法則 08,12再

    清朝末の哲人、梁巨川(桂林出身)の「一読書人の節操」に編者である景嘉氏はこう記している。「人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか・・」と。中国の歴史にみる栄枯盛衰は、夫々の機会ごとに人間の所作を記している。歴史に問われる臨場の真贋を四角四面に探索することもあれば、天空から眺める楽しみもある。それは合理的考察と思える学び、あるいはアカデミックと称する唯一の向学観念だけではは感受することのない「腑におちる」覚り方でもある。だが、近代の学制はそれらを集積しながら知識の応用とする上で有効な「人間学」として顧みることは無かった。とくに主義なるものが食い扶持方法まで支配すると知学修得が滞貨となり、利学に伴って詐学、錯学まがいの分野まで広がった。桂林近郊いや、そのものを思索したり観照したりするスベもなく、...「五寒」に観る、国家衰亡を止める法則08,12再

  • 男子は大法螺を吹く気概をもて 10 6・16 再

    以前、台湾出身のモノ書きが、「孫文はペテン師だ」と記した。孫文は両岸をはさむ中国も国父と敬している。近代化の父を正統の証として敬することはよくあることだが、民進党の陳総統も孫文の掲額に就任の誓詞を述べている。生前、死後を問わず民族の長(おさ)は両岸の政治為政者を違えても厳存している。台湾は民主化で、゛言論は自由だ゛、というが、何でも言いっぱなしの日本に来て、たとえ形式であれ国父として推戴されている人物を罵倒する感覚は日本人にはない。いや、一番忌み嫌われ、馴染まない心根でもある。そのとき小生はこう応えて記した「革命家の行為や言を肉体的衝撃の無い安逸な時代に、゛言い捨て゛をすることは彼の国の九儒、臭九老と蔑まれている知識人にある姿だ。まして革命家はペテン師で、謀略家、大風呂敷、法螺吹き、女性好き、でなくては表...男子は大法螺を吹く気概をもて106・16再

  • 蘞利偉人(エリート)は土壇場で逃げる

    哲人、岡本義雄は学び舎エリート(選ばれ、優れたもの)を「蘞利偉人」(エリイト)と造語した。与えられた課題に疑問すら抱かず、あくせく答えなるものを出すために熱中して、これまた商業化した学び舎において労働者教員が判定する数値によって選別され、生涯賃金の多寡を人生の目的とし、国家なるものの下僕である官域に生息する、その群れを岡本は俗称「蘞利偉人」と呼んでいる。ときに和製宦官とも記すが、陰茎を切り取って宮中の募集に参集する漢(オトコ)ならぬ男子と類似して揶揄している。満州崩壊のおり佐藤慎一郎氏は最後の重臣会議に招かれた。甘粕など重臣が集う会議において、満州国崩壊の土壇場において右往左往する重臣たちは腰も落ち着かず、史上はじめての日本人が異国での亡国時の対処に妙案すらなかった。そこで、二十年余にわたって異民族の生活...蘞利偉人(エリート)は土壇場で逃げる

  • 台湾における被災復興の人間力

    台湾緋桜自然環境の繰り返しの変異は、まさに「天変地異」の情況になっている。またもや体感する人間社会の様相は、政治の混乱や醜態に倣ったように、いままでと違った異種の犯罪が蔓延し、しかも繰り返す刺激に慣らされているかのように、人の口(話題)にも乗らず別の刺激を求め他人事としてしか考えられなくなってきた。故事に「人心は微かなり」とあるが、天変地異に順うように人心劣化に進んでいる。とくにその影響は土壇場に現れるのが通例である。3.11震災と原発罹災、熊本、能登の地震や各地に起きる風水害などにおきる行政の対応、住民の協働、ポランティアのヒューマニティーなど初期行動から復興まで、多くの問題点が指摘される。夫々は所定の目的をもって必須の行動をするが、問題となるのは法の適応、想定する準備(訓練、備蓄)などだが、その焦点は...台湾における被災復興の人間力

  • 「そのことを、もっと早く知っておきたかった」 08.6再

    威容を誇る弘前忠霊塔戦争を知らない公人たちに呈す拙意乱文で恐縮ですが・・・筆者が都下東久留米に住む巣鴨プリズンの教誨師を務めた花山信勝氏との面談の折、秘話が語られた。花山氏によれば、東條氏との面談のなかで宗教の話題に及んだとき、氏は「そのことを、もっと早く知っておきたかった」と述べている。どのような意味を内包した言葉であるかは、宗教人との応答であるため深遠なものだったと推察する。それは明治以降の軍人教育の習得過程にみる戦術の合理性を追い求めるあまり、軍人としての教養である死生観や恩讐にかかわる情緒の涵養との調和のあり処についての応答だったのだろう。それは四角四面にみえる官僚のセクト主義を役割の任ではなく緊急時の大権責任の存在と、それに埋没してしまった「相」としての任の部分構成のみならず、組織全体を俯瞰する...「そのことを、もっと早く知っておきたかった」08.6再

  • 文教利権 得意な分野で緩み挫折すること. 17. 6/21再

    数年以上前の掲載ですが・・・。やはりボロがでたようだ。このところ国会の争論は教育行政の緩みに集中している。あの頃はみな純真だった。嘘や隠し事は恥だと教えられ、国家社会のために理想を掲げて政治家や官吏に志願した。それが煩いごとが露呈した途端、鬱になったり躁になったり、鎮まりもない人間に成り下がっている。「智は大偽を生ず」のたとえあり。彼らの学びは自己の陶冶には向かず、己を欺き、他に偽善を働くための智になってしまった。他の貪官や陣笠は解っていても口をつぐみ、人の失敗を陰に悦び、勇気のかけらもない。相変わらず「お願いします」と平身低頭の嬌態で有権者を惑わせ、票(委託権利)を騙し取る。黙々とご精励する国父(陛下)の苦衷、如何ばかりかと・・・1989北京文部科学省といえば公私問わず教育に関する許認可や科学技術に関す...文教利権得意な分野で緩み挫折すること.17.6/21再

  • 総理は聞く力があるというが. あの頃

    2021年「聞く力」の総理が登場した。マスコミは「聞く」と書いている。本人からも「キクちから」とはいうが、聞いたことにする、聞くだけでは務まらない。所属派閥の宏池会の命名は、漢学者安岡正篤氏。事にあってはうろたえず、騒がず、余裕をもって任務に充るような意味ではあるが、今の議会は弁護士も多く、裁判所の如く、こまごまとした法廷の様相がある。マスコミも聞く総理とはやしているが、本来は「聴く」である。つまり国民の妙な声を聞き流すことも事と次第によってはあるが、身を入れて真摯に意を汲みとるなら聴くべきであろう。国民にヤサシク伝えることでも、人を憂うる「優しく」ならまだしも、誰に合わせるのか「易しく」なっている。多くは相手の理解力に合わせて「易しく」なっているのだが、内容は内外の世情を正しく伝えたり、人間の情感の歪み...総理は聞く力があるというが.あの頃

  • 羯南も熊楠も真之も、そして正篤すら歎いた点取り官学の愚 10.6再

    南方熊楠世の中はかくあるもので仕方がない・・・その手の人には以下の章は煩わしい内容だが、それらの人間にとって人生は既存のタガに悩みつつも安逸平穏に過ごすための常識として理解されているようだ。彼らは情緒とか心情という目に見えないものはは解析しようが無いという。だがネガティブに裏読みすることは殊のほかピントとがあっていなくても得意なようだ。解析しようとする習慣性は,具体的行動の多くを占めている覚悟なり自身の目的構成などは読み解けない。ただ経過の記録と結果の定説である。明治以降の官制学の大きな欠陥は、人間を感じ悟ることへの無理解と無価値への誘引だった。しかし、彼等は少し違っていたが、世間は理解しがたき人物であった。とくに官学という国家の行政が「策」として施す政策では理解の淵にも届かない問題でもある。文部省の政策...羯南も熊楠も真之も、そして正篤すら歎いた点取り官学の愚10.6再

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