chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
まほろばの泉 https://blog.goo.ne.jp/greendoor-t

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集

まほろばの泉
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2015/01/13

arrow_drop_down
  • 人間考学 あの時の「五寒」にみる政治の局面と狡務員

    201712再桂林の子供たち数年前の再掲載ですが、病巣は拡大している官と民間の棲み分けが曖昧になってきた。それは公私の分別といったものだろうが、古典では「公私の間」の重要さを説いている。しかし、このところその「間」を巧妙に使い分け、まさに狡猾な狡務員が増殖している。昨今の世情を騒がしている防衛省の問題だが、装備備品の水増し請求についての錯覚した争論をみてみたい。石破大臣の弁に「官側でその価格の査定をする内部組織と人員が必要だ」とある。また野党民主党も追従している。教育改革の論もそうだが、組織やシステムを論ずることによって問題が解決すると思っているのだろうか・・・民の代表である議員職が政府側の大臣になった途端、妙な論を展開するのは常だが、このところの内閣は官吏の怠慢から生ずる問題の言い訳に終始するのが答弁の...人間考学あの時の「五寒」にみる政治の局面と狡務員

  • 「人間考学」の不確実性原理 その(Ⅱ)

    櫻のあとの津軽は、リンゴの花盛り以下は村岡氏が持参した二度目の原稿(二)組織と人材Ⅰ組織のガバナビリティー組織の統御を考えるとき、統御のパワーは結局、統御する「人間如何」に依存しているということである。人間如何であるならば、との解答(又はそのヒント)は、人間考学の随所に隠されている。(繰り返すが解答は一つであるとは云えない)然しながら、寳田先生の「人間考学」は、漢語環境が多用され、しかも「思考」の過程が水(上善)のごとく流れ、それに伴って文体も大河の流れのように雄大なっている。そうであるが故に、現代人の思考形態(回路設計の類)で、「人間考学」を追求するのは容易ではない。そこで、その難問を突破する糸口として、歴史学(政治史)と社会学の両学を活用してみることにした。組織の統御の問題を換言すれば、組織の両義性の...「人間考学」の不確実性原理その(Ⅱ)

  • 「人間考学」の不確実性原理 その(Ⅰ)

    二部に分けて持参した原稿を、流れを解りやすくするために連続掲載します。終章(Ⅲ)は、到着次第掲載します。なお、村岡氏は質実簡素な生活を好み、PC、FAXは所持しないため、御意見、ご質問は以下から転送します。sunwen@river.ocn.ne.jpまで「人間考学」の不確実性原理国策研究会評議員村岡聡史はじめに・・・今年の正月明け、寳田先生から1通のEメールが届く。それは、「人間考学」を現代人の思考形態(慣性)に理解対応できるように体系化することは可能か否かということだった。「たぶん可能です」と気軽に応えてしまったが失敗だった。途中で背負いきれない程の重いお荷物を抱え込んだ自分に気が付いた。放り投げたい気持ちは山々だが,時すでに遅し。私に対して奇人(貴人)怪人(快人)と高い評価を与えてくれた寳田先生の期待...「人間考学」の不確実性原理その(Ⅰ)

  • はりまや橋夜学会 自由への渇望「自由之理」

    賀川豊彦「意見が通らないことは不自由ではない。大勢の人間の一部分であることを愉しいことだと感じなければ、独りを悦しむ(独悦)さえ不自由、排斥として悲哀をかこい、ついには不満を恃みとして思考を狭く、行動を締め、より不自由に陥るだろう」明治はあらゆる制度を諸外国から引用、いや食べ合わせのよくないモノでも巧く調理吸収した。憲法はドイツ、君主制は君臨すれど統治せずとイギリス王室に倣った。海軍はイギリス、陸軍はドイツ、ちなみに今風の民主主義は移民大国米国から敗戦国として迎合順化した。ついでに明治初頭フランスから取り入れた教育制度に添えて啓蒙思想を掲げ、民主に自由と平等や人権なる意識を知らしめた。ここで伴氏の記した自由の理(ことわり)は、当時の日本人には新鮮かつ刺激のある内容だったと推察する。とくに基礎的修学慣習のあ...はりまや橋夜学会自由への渇望「自由之理」

  • たしか、団塊と呼ばれていた 2007. 11 再

    団塊といわれたあの頃の人は来年には70歳になる話題は変わり、病気、孫、年金、元気がいい者は、まだ車やオンナの話、それも多くは昔話だ。この世代は前世代との端境期だ。「人と変わったことをするな」「余計なことを話すな」それが習性となっている前世代の両親を持つ子供たちが、易々とマスコミ宣伝の作った流行に乗って、のっぺりとした姿に変わったのもこのころだ。受験も熾烈になったが、大学の新設ラッシュで大学と名の付くものはどこにも潜り込めた。そんな具合だから、ナンパ・麻雀・学生運動、同棲、など学生が先頭を切って遊び始めのもこのころだ。津軽平川団塊の世代のあいだで流行っているものにオールディズというジャンルの音楽がある。カントリー、ジャズ、ポップス、ロックなど1960゛70年代の懐かしい曲が、心地よい気持であの世代を思い起こ...たしか、団塊と呼ばれていた2007.11再

  • 人間考学 主義で実態は動くか 11 12/24 あの頃

    石原莞爾戦争史大観原本弘前養生会蔵世俗に称せられる右、左、中道といろいろな紙面に接するが、その商いや懐事情は同じでも集会、会議、居酒屋談義、選挙、宣伝などを見ると、みな特殊事情を持ったその手の人間には同様な「質」をもっている。購読しているその一つの某党機関紙にこんなことがあった「資本主義の矛盾の深まりと、科学的社会主義の生命力」資本と科学的社会に「主義」を付け加えると何となく理屈に合いそうだが、人間科学には馴染まない。それは昨今の金融の混乱を題材に「そら、みたことか」と言いつのる表題として使っているが、それは理屈でなく「人間」を観ていない。いや、人間とは不可思議で、当てにならない、更には単なる箱で整理したような教科書学習のマニュアルでは理解できないためか、合理性が無いと観念しているようである。この場合、彼...人間考学主義で実態は動くか1112/24あの頃

  • 人と成り 2017 あの頃も

    音声は知性を表すとは安岡正篤氏の呟きだが、それは電話の音声のことだった。誰でも判るような見たり聞いたりではなく、琵琶法師のように、盲目でも音を駆使して情景を表す潜在能力を現代人は失ったのだろうか。それ故か人格とは何ら関係のない附属性価値(地位、名誉、財力、学校歴など)でしか人を測れなくなっているようだ。その虚装エリートによる組織の経営、法の運用、政治政策は、数多の社会問題、突然起きる災害、他国との交渉などに多くの煩悶を起こしている。まさに「成っていない」人間の有り様として日本および日本人を覆っている。「成り」は姿や被っているものだが、「人」の問題となると難しくも整理のつかない問題となるようだ。いまどきは証明なるものを言葉や文字で説明するような必要に迫られることもある。人なりは一瞬の観察で、観て(見るではな...人と成り2017あの頃も

  • 官吏の四角四面 09 10月 あの頃も

    几帳面である。鷹揚ではない。満州国の副総理だった張景恵は日本人を揶揄して「どうも四角四面でいけない。異民族との調和は何処まで踏み込むか、あるいは引くかの間(ま)が重要だ。二、三度戦争に負けたら角が取れるだろう」と、ある意味、残念がっていた其の証拠に、今でもあの、゛偽満州゛は良かったと古老は懐古している。官吏も四角四面で真面目だ。しかし賄賂を取らないために下の官吏に回ってこない。コレには参った。朝から晩まで賄賂を考える処である。しかしこの賄賂も「人情を贈る」こととして定着している。だから貰う側にまわりたいと勉強(賄賂学)を一生懸命習って地位を昇るのである。つまり「昇官発財」である。其の四角四面と揶揄された日本の官吏だが、このところコンプライアンスと騒ぎ立てているが、゛すり抜け゛については巧妙な知恵を働かせる...官吏の四角四面0910月あの頃も

  • 智将と勇敢な兵士がいたあの頃 「後藤田の諫言」 2012 10 再

    中曽根内閣の元官房長官後藤田正晴氏は、ペルシャ湾に掃海艇派遣を迫る中曽根氏を諫めるように言った。「彼の地はかりにも戦闘地域である。そこに自衛隊を派遣することは戦争に参加することだ。国民にその(戦争)覚悟はあるのか・・」本人はことさら厳しく諫言したものではないというが、戦争体験した世代なら語るように物申した方が相手にとっては厳しい。翻って戦争を知らない世代が国民の大多数を占めるようになった。また、座標の定まらない時勢に流される手合いも多い。俗話に「馬糞の川流れ」とある。流れるうちにバラバラになることだが、時勢に合わせることに汲々としていると力は弱くなる。騒ぎ、落ち着きのない政治に指揮される軍隊は弱い、あの世代の人ならみな判っている。「国民に覚悟はあるのか」戦略戦術は机上だが、社会の気風を慎重に観察して「機」...智将と勇敢な兵士がいたあの頃「後藤田の諫言」201210再

  • 再読 宰相が先ず取り組むべきこと 09 9/20 あの頃も

    いつの間にか・・・と、考える国民が等しく自省すべき問題に「己を知る」ということがある。複雑な要因で形成された国家という代物に、民族という名において棲み分けられている夫々の国には、政治や経済という運動体によって維持され、そこから観察する多少高低や速度が繁栄バロメーターとして測定されている。また、単にその要因だけでは集合体は成り立たない。そこには人々の情緒性や、あるいは精霊の在り処を生き様に溶け込ませてこそ国家として成さしめることでもある。「人が人でなくて、どうして国が国として成り得ようか・・」と清末の哲人梁巨川の言である。それは清朝末期の宮廷官吏の腐敗と政治の堕落が外国勢力の侵入を誘い、終には清朝打倒という国内革命勢力の伸張を許してしまった事への歎きでもあった。しかし政治権力は満州族から漢族に易旗しただけで...再読宰相が先ず取り組むべきこと099/20あの頃も

  • カエルの面(つら)に小便政治 あの頃も

    カエルの面に小便政治カエルは天上からの潤いに、顔を上げて目をつむりウットリとした顔でそれを享けている。いまどきは放射能か黄砂混じりなどという野暮はあえて言わないが、たとえ小便でもそれは変わらないだろう。無感能、人間なら問題意識無しの無関心とでもいおうか、はたまた空気が読めない(KY)ともいうらしい。為政者はカエルなら国民は「釜中の民」(ふちゅうの民)だ。これもカエルに例えるなら、カマドにかけられた大釜の水が、ぬるま湯なら温泉気分でもよいが、温度が上がり煮えたぎるとカエルは茹カエルになってしまう。水鉢のボウフラなら飛び立つが、メダカや金魚は死滅するだろう。まさに、温泉・グルメ・旅行・イベントの刺激と遊興が、ギリシャやローマ、あるいは大英帝国が衰亡するときに表れた市民の指向性だと識者はいう。「上下こもごも利を...カエルの面(つら)に小便政治あの頃も

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、まほろばの泉さんをフォローしませんか?

ハンドル名
まほろばの泉さん
ブログタイトル
まほろばの泉
フォロー
まほろばの泉

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用