2025年6月
不垢不浄(ふく ふじょう)というお示しが在りますが、私たち衆生の「眼」はどんな汚いものを見ても「眼」が汚れるということは在りません。 そしてどんなに立派な物を見ても「眼」が綺麗になることは在りません。 そいういうような日常生活をしながら何れにも一つも、此の物(自分自身)は存在しないのです。 此の物(自分自身)は皆、存在を跳び越えているのです。皆、解脱しているのです。 「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」なのです。 「別別解脱(いちいちの解脱)」なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
「自我」という存在は絶対に有(在)るものでは無いのです。 「三世心不可得(さんぜしんふかとく)」というお示しが在りますが、私たち衆生の心の状態というものは、何処から起きて来るのか絶対に「分かりようが無い」のです。 今(現在)から後にはじめて「影を意識(認識)が認めて(理解して)有(在)るとか無いとか、言うだけ」なのです。 それほどに「意(心)」は「速い動き方(働き方)」をして有(在)ったり無かったりするものですから始末に負えないのです。 それが私たち衆生の「意(心)の本性」なのです、 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
「熱」でも色々なものが集まって「ひとつの熱」に成ります。 決して「熱」という物が最初に有(在)ったはずではありませんから「熱」という物をバラバラにしたら、ものすごくたくさんの数の「熱の元」になるものが在ります。 人間(にんげん)でも同じです。 それを仏教では「因縁果」という言葉で表現しているのです。 ですから「自我の究明」が大事なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
禅門に於いては「独参」が非常に大事にされていますが、「独参」というのは「師に参ずる」のではなく、或いは「独に参ずる」のでもありません。 「独参」は「独りで参ずる」のです。 ですから「参ずる人」はそこには居ません。 つまり話しかける側とそれに答える側は一緒なのです。 ですから「師」はいません。 「自分」という「自と他」を分けて考えがちですけれども、ありとあらゆる物は自分なのです。 自分でないものは、此の世には存在しないという事です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
大智度論の中に「初心後心 異相ある無し」と在ります。 「初心」は若い者の心、「後心」とは老人の心、共に異なる所は無いのです。 「只、唯(ただ)」努めて精進すれば「仏道を成ずる」のです。 「仏道を成ずる」とは若い者も、老人も、異なる所は無いのです。 一生(一所)懸命に修行(坐禅)さえすれば「仏に成れる」というのであります。 「成仏」とは「今の一心、今の事実」という事です。 その「一心」と「仏心」とは別のものでは在りません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
華厳経(けごんきょう)に曰く、「心常に世心と和合せざるを名付けて精進となす」と。 「世心」とは世の中の心で、「世の中の心」とは「妄想」という事で「煩悩」といいます。 又、世の迷った働きを「世心」といいます。 そういう「世心」と一緒に成らない「精進」とは「専心一意」に成って始めて分かるのです。 それが「真心(まごころ)道心」です。 その心で聴き、その心で教える、その心が「聖人の心」です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
「おこたらず行かば千里の果も見む、牛のあゆみのよし 遅くとも」という道歌が有(在)るります。 それですから何でも出来る出来ないというのは、勉強の精進が足らないからです。 何事も「志」がなければ出来ません。 「為せば成る 為さねば成らぬ 成るものを 成らねば己が為さぬなりけり」 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
「精進」の「精」という字は米が青いと書きます。 「米」は素は玄(くろ)いのです。 その玄い米を搗くと白くなり、更に搗くと青いような色になります。 それが「精」の字で、下の「進む」という字は米を搗き白くなって青くなるほど修行して進むという事です。 おシャカ様は「遺教経」の中で「若し勤めて精進すれば事として難きものなし」と。 「難きものなし」とは、出来ないものは無いという事です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
2025年6月
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