般若心経の中の「色即是空」の色というのは差別(しゃべつ)、空というのは平等です。そして色の他には空は無いという事を直感的に感じて頂くために「即(すなわち)」という字が出て来ます。「即(そく、すなわち)」とは「異ならず」という意味です。したがって、色即是空とは「色は空に異ならず」という意味です。私たち衆生の考えの中には、「これは差別(しゃべつ)、これは平等」というものがあったとしても物にはありません。物は其のものそれだけで差別(しゃべつ)でも平等でもありません。差別(しゃべつ)について6
ある人は私を「お坊さん」と呼び、又ある人は私を「和尚さん」と呼びます。「此の物自体」には名称は有(在)りません。「此の物自体」は様々な「縁」に応じて変化していけるのです。本来、そういう風に全く自由さを持っているものです。何故これほどに自由活発に「此の物自体」は「縁」に応じて「その物に成れるのか」というと、「縁その物が空であり、縁に応じるこちら側の物も空だからです」。「空」とは人間(にんげん)的思惑(考え、意図)一切が取り除かれた状態なのです。別の言葉でいえば「全ての物が一杯にある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通し合っている姿」をいいます。「空」とは1
「修行に因って迷いをなくそう」と思うのは間違いです。「人(ひと)」は一定しない状態を「不安」という言葉で表現しています。本来、「迷い」や「不安」は実体のないものですから、「迷いの法」といい「不安の法」というものもみんな「ひとつの法」なのです。それぞれ「縁」に因って「迷い」となり「不安」となっているのです。これは「人(ひと)」が作ったものではありません。従って「迷い」は迷いのまま、「不安」は不安のまま有(在)るのが「法(道)」にかなった状態です。「法(道)」から離れようとするのは「自我の働き」だということをよく知(識)っておいていただきたく思います。無我とは3
そのように元来、名付けられない「此の物」を知らず識らずに認識し、周囲の人を「人間(にんげん)」と見るようになるのです。ですから、私たち衆生は此の世界に生まれたということを絶対に知(識)ることが出来ないにもかかわらず、「私は此処に存在している」という認識を起こしているのです。私たち衆生は、もともと「人(ひと)」ではなかったのに「ある時(物心がついてものごとを認識出来る働きが起きた時)」から「此の物を人」と認め「本来何もないもの(認めようにも認められないもの)を有(在)ると思って認識してきただけ」の話なのです。無我とは2
「無我」というものは「人(人)」というものを認めた上での言葉です。そこで「人の根源とは何か」ということが問題になります。私は「此の物」が「人(ひと)」と名付けられるようになったのは、何時の頃かということを考えてみたいと思います。父母の縁に因って「此の物」が出来上がりますが、私たち衆生は知らず識らずに生まれていつの間にか「人(ひと)」あるいは「人間(にんげん)」と名付けられていたという全く根底のないものなのです。このことを私は「不知不識生(ふちふしきしょう)」と名付けています。そして「人(ひと)」には「六根の意(認識)」というものが元元具わっており、この認識が自分と他というものを分けて見る働き、つまり「自我」というものを形成するのです。無我とは1
「月というのは自分自身である」ということを認識して頂きたく思います。「教えというレールの上」を走っている間は決して「法」というものは分かりません。「法」は他にある訳ではありません。何故ならば私たち衆生一人一人が「法」そのものであるからです。自己の正体を見極めない限りは色々な教えの中で右往左往してしまうものです。私たち衆生の「日常生活そのもの」がそのものに成れば本当に修行に成るということです。「法」を知(識)らずに「教え」だけを知(識)っている為に修行の方向間違いが生じてしまうのです。月を標す指3
個々のものは具体的に「事象(事実と現象)」として他と比較してそれぞれに違いがあります。そのことを一般的には「差異」といい仏教では「差別(しゃべつ)」といいます。「法」とは「差別(しゃべつ)」です。「ものの本質」というものは時間的にも空間的にも「同一(平等)」であり、因果の法則に従って「差別(しゃべつ)の相」が出て来ているということです。これはおシャカ様以前からそうであったということです。この事を仏教では「自然(じねん)」といいます。即ち、自ずから然りということです。月を標す指1
人類で初めておシャカ様は「諸法は無我なり」ということに気が付かれたのです。すべての教えは「月を標す指」ともいわれました。しかし、月を見ることよりも「指の詮索」に生涯をかけてしまう人があります。たまたま月を見ることを教えられても、はるか彼方の「月」というものを標されるので、これは「真に法を求めようとする人」にとっては、大変な大きな誤りを教えられているということになってしまうのです。月を標す指2
私たち衆生が自分自身でしている行為(見る、聞く、味わう、思う等々)に何となく物足りなさや不満足が残るというのはこれは全て「自我の介在」があるからです。それはまた「本来の自己と一つに成れていない」ということなのです。本当に見た、本当に聞いたという様子は、見たもの聞いたものが完全になくなった様子をいいます。仏教では「空」と呼んでいます。私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という縁に因って必ず「本来の自己」に目醒められる時節があります。「悟りを開いたという人」は何方でも必ず「六根の縁」に因って「本来の自己」に目醒めているのです。「おシャカ様の宣言」は「どんなもの(自分を含めて一切の衆生)でも仏でないものはない」ということなのです。別のお経の中で、「私たち衆生は仏そのものである」といわれたのです。自我の介在
「本来の自己」とは、認めようのない、認めることが出来ない、「際限のない大きな自己」ということです。それに目醒めることを別の言葉でいえば、「無我、無心、空、自己を忘じる」とかいう言葉で表現されているのです。人をも含めて一切のものというのは、何時でも同じ状態というものは有(在)りません。何時でも移り変わっている(無常)ということで、始終変化し続けているものには「自我」という、「これだ」というもの(中心となるもの)」を認めることは出来ないのです。本来の自己2
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般若心経の中の「色即是空」の色というのは差別(しゃべつ)、空というのは平等です。そして色の他には空は無いという事を直感的に感じて頂くために「即(すなわち)」という字が出て来ます。「即(そく、すなわち)」とは「異ならず」という意味です。したがって、色即是空とは「色は空に異ならず」という意味です。私たち衆生の考えの中には、「これは差別(しゃべつ)、これは平等」というものがあったとしても物にはありません。物は其のものそれだけで差別(しゃべつ)でも平等でもありません。差別(しゃべつ)について6
差別(しゃべつ)とは、それぞれの法則です。それを「法」とか「道」とかいっているのです。「人の法則」とは人のために働くという事です。山は高い、川は低い、火は熱い、水は冷たい、、、、、。全部それぞれのものが「法則」を持っているのです。ですから私たち衆生は、その法則のままに「差別(しゃべつ)」のままに「法(道)」に従っていく事です。それが「平等」であり、「法則」です。おシャカ様は「一切のもの(差別)」が「法(道)そのもの(平等)」であった事に気付かれたのです。すべての物が差別(しゃべつ)と平等から成り立っているのです。差別(しゃべつ)について5
物の本質、本体というのは時間的にも空間的においても同一のものです。そして「因縁果」の法則に従っていろいろ差別(しゃべつ)の相が出て来ているのです。世の中は「末法」に入り何時の間にか不知不識(しずしらず)の内に世の中から差別(しゃべつ)の語が消え、差別(さべつ)の語が世の中を席巻するようになりました。今一度、差別(さべつ)の語の中に差別(しゃべつ)を含んだ理解をしてもらいたいものです。世の中は「平等界(絶対の真理の世界)」と「差別界(しゃべつかい)」という「現象世界」で成り立っていることを再確認する必要があるのではないでしょうか。温故知新から知故建新(故きを知って新しきを建てる)へ。差別(しゃべつ)について4
「活かして生きる道」というのは、「今の世界、今の事実」「差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば「個、差別(しゃべつ)」も無ければ全体も無いことが分かります。「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と田中克彦氏は述べております。差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変えたのは人だと私は思います。差別(しゃべつ)について3
欧米の個人主義の社会では「個」が尊重されています。この「個」というのは広辞苑では「ひとりの人」と記されています。仏教辞典(宇井伯寿著)、仏教大辞典(織田得能著)では「個」という字は見当たりません。禅学大辞典には「箇、個」①事物のまとまりを指示する代名詞、これ、この「箇人(このひと)」と記されています。この「個」というのは仏教でいう「差別(しゃべつ)」ということです。「差別(しゃべつ)」だけがある世界はありません。「差別(しゃべつ)」の裏には必ず「平等」ということがなければなりません。「真の平等」とは本当に「個」に成り切る、「差別(しゃべつ)」に成り切った時をいいます。「そのまま」ともいいます。「そのまま」とは「只(ただ)」という言葉でも表現しています差別(しゃべつ)について2
「活かして生きる道」というのは、「今の世界、今の事実」「差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば「個、差別(しゃべつ)」も無ければ全体も無いことが分かります。「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と田中克彦氏は述べております。差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変えたのは人だと私は思います。差別(しゃべつ)について3
白隠禅師の有名なお言葉を紹介します。”衆生本来仏なり”私たち衆生は本来「仏、其の物」であり、それは「今の自分自身である」という事です。ですから、もっと大きく「活かして生きなさい」といっているのです。おシャカ様の教えの中でいう「仏」というのは、「人間(じんかん)」の中でなければ生まれて来ない」という事です。※人間(じんかん)とは、広辞苑に拠れば「人の住む所、世の中、世間」と記されています。差別(しゃべつ)について2
差別(しゃべつ)とは仏教語です。広辞苑では下記のように記されています。●差別〔しゃべつ〕(シャは呉音)①(仏)万物の本体が平等であるのに対して、それぞれの個物が具体的な差異をもっていること②相違、区別、さべつ③分別(ふんべつ)※もと仏語からしゃべつかい(差別界)〔仏〕↔平等界万物が差別(しゃべつ)のすがたをとっている現象世界●差別〔さべつ〕①差をつけて取り扱うこと、分け隔て、正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと※差別意識②区別すること、けじめ差別化(さべつか)他との違いを明確にして独自性を積極的に示すこと仏教語辞典では差別(しゃべつ)即平等について、差別(しゃべつ)の当相(ありのままのすがた)がそのまま平等という理体本質であることと記されています差別(しゃべつ)について1
其処(そこ)に問題があったのです。其れですから解決の手段・方法は見いだせなかったのです。其れをおシャカ様が人類史上初めて解明されたのです。本来一つの物であるのに其れを自分勝手にしたものですから、本来の自分が分からないままで自信(自覚)が無いまま不安が生じてしまうのです。其の不安をはっきり離れてしまえば「救われたということがきちんと分かる」のです。それを仏教では「安心(あんじん)が得られた」というのです。衆生(しゅじょう)について5
「衆生」というものも今のように分からないものが分からないなりに生まれて来たというのが凡(すべ)てなのです。其れで其れが大きく成ったのです。ですから内容としては、「仏」と同じものなのです。内容としては同じものなのですが、「物心が付いたという時点」で「此の物を自分勝手にした」のです。物心が付いて始まった其れも子供時代の事ですから、其の「物心が付いた時点」では「其のこと(自分勝手にした事)」を全く知(識)らなかった」のです。即ち「其の事(自分勝手にした事)の自覚」は無かったのです。衆生(しゅじょう)について4
「心」といわれるものは、私たち衆生が何もその発生を知(識)らないまま、分からない不思議な作用を起こします。それが「心」の「事実(真実)」なのです。其れは其のはずです。私たち衆生はこの世に知らず識らずに生まれて来たのです。(不知不識生)知(識)らないなりに、「此の物は今存在している」のです。ですから、「心」とは架空のものではありません。そういう働きをするものを暫く「心」と名付けたのです。それを確実に「自覚」なさったお方が「仏(おシャカ様)」といわれる由縁です。衆生(しゅじょう)について3
白隠禅師の有名なお言葉を紹介します。”衆生本来仏なり”私たち衆生は本来「仏その物」であり、それは「今の自分自身である」という事です。ですからもっと大きく「活かして生きなさい」といってるのです。おシャカ様の教えの中でいう「仏」というのは「人間(じんかん)」の中でなければ生まれて来ないという事です。※人間(じんかん)とは広辞苑に拠れば「人の住む所・世の中・世間」と記されています衆生(しゅじょう)について2
衆生とは仏教語で、広辞苑に拠ればしゅじょう(衆生)【仏】いのちあるもの・生きとし生けるもの・一切の生物、一切の人類や動物、六道を輪廻する存在・有情(うじょう)と記されています私たちは元々一つの種が有(在)って、それから生まれてきたものではありません。ですから私たちは「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが「此の物」は「衆生」なのです。つまり、私たちは「全ての物と同じ」なのです。「人類(人)」と認めようがないものです。始終変化している訳ですから「実体が無い・実相は無相」ということです。「縁」に応じて色々な物に姿や形が変わるということです。衆生(しゅじょう)について1
過去を顧みて現在の誡めとするのはよい事です。しかし何時までも取り返しのつかない過去に引っ掛かっていては愚の骨頂です。また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。古歌に、「過去を思い未来をここに引き寄せて今現在を常闇(とこやみ)にする」とあります。今日あっても過去です。今日あっても未来です。否、過去も未来も「今日(即今)と成って現成(げんじょう)している」のです。「今日なくして一生なし」。今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。「地限り場限り」と白隠禅師は何時もいわれました。「その場その場を空しくするな」という意味です。人の人生2
人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。修行しなければ出来ません。歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。行き着くところ2
本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。行き着くところ1
「一切のもの」は何時でも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。それが「道(法)」というものです。私たち衆生は「ものが見える、聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それらは全て「生きているという事実の説明」にすぎません。それらは、「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。「事実と説明(言葉)」の間にズレが生じていることに気付かなければなりません。「事実」というものも、なくならない限り「今(今の事実)」ではありません。ものをつかむための「今(今の事実)」ではありません。「今(今の事実)」そのものに成るための今(今の事実)」です。「今」ということ3
「今」というものは、もののない、認めようがないものです。ものの有る無しの「無い」では有(在)りません。ですから相対的な考えの「無い」では有(在)りません。私たち衆生の日常生活は「生死を超越した処」で行われているのです。これを「今」といっているのです。私たち衆生は「今」が存在しているように思っていますが、それは「私(個)というものを認めた所産」なのです。ですから「本来の自己」を見極めれば「存在するように思っていた今」はないということが分かるのです。「今」は「もともとないものの中で出来たもの」ですから「解決しよう(分かろう)」と思っても「解決の仕様がない(分からない)」のです。「今」ということ2
私たち衆生の日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか日常生活が出来ていないと思います。すなわち「過去というのも過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来たらずということ」なのに、往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているような考えで常に生活しているように見受けられます。「過去と未来が有(在)る」ということは必ず「今」がなければなりません。「今」が有(在)るから過去と未来が生じるということです。此の事は「道(法)」が分かる分からないということに関係なく「今」は有(在)るのですが、其の「今」の説明が出来ません。説明が出来ないということは、私たち衆生はそのくらい「何もない世界」に何時もいる、ということです。本当に「何もない状態」が「今」なのです。「今」ということ1
道元禅師「学道用心集」に曰く、「道にさへられて当処に明了、悟にさえられて当人円成(えんじょう)す」と。確かになければならないものが在ることは事実です。それでは「何か」、といって当方の側に特別なものが在るのではありません。平等だ差別だ、違いだ悟りだと世間は騒がしい、しかし、それが「世間(人間界、娑婆世界)の有り様」です。その世間を離れて他に住む処は有(在)りません。苦悩する老若男女に唯一つ残された道が在ります。それは「法に目醒める道」です。なければならないものが在る1
あたかも私たち衆生が名付けたものに因って混乱をさせられているように思うことがありますが、それは全くの間違いです。その問題を生ぜしめているものは「私たち衆生」なのです。「おシャカ様の教え(無我の教え)の自然(じねん)」と私たち衆生の名付けた「自然(しぜん)」とは比較になりません。自然(しぜん、じねん)について2
人が生じる以前に森羅万象は既に有(在)りました。人が生じる事に因ってその森羅万象を「認識の対象」としたのです。そして人が認めることによって、森羅万象の様子を「自然(しぜん)」と名付けたのです。「山川草木(さんせんそうもく)それ自体」は自然とも不自然ともそういうあり方はしておりません。ですから、人がただそう名付けたということです。仏教では「人の生ずる以前、人が森羅万象の様子を認める以前のようすを「自然(じねん)」といいます。すべてのものを「人が認識(認めた事に因って)」し、自然(しぜん)を名付けた事に因って「自然(じねん)と人との隔たり」が生じたのです。自然(しぜん、じねん)について1
私たち衆生は何か目的を持って生まれて来たという人は誰一人有(在)りません。知らず識らずに生まれてきたのです。(不知不識生)「無目的という目的」を持って生まれてきたということも有(在)りません。本当に「縁」に因って生じ「縁」に因ってこのような営みが出来ているということなのです。そこにはよくいうように意義付けることも意味付けることも、何も有(在)りません。ですから出来るだけ「人の言葉の中での修行」という事を止めないといけません。人の言葉の中での修行
「今の事実、その物」は前稿で掲げた言葉、即ち「法、道、禅、空、無、如是」と名称は異なりますが、全く同じものなのです。それを「異名同体(いみょうどうたい)」と言います。法、道、禅、空、無、如是というものは「同じ事実(一つの物)」を様々な言葉で表現したものです。誰一人として生まれながらにして覚者である自覚のある人はいません。「真理」は誰のものでもありません。ですから私たち衆生は「自分で自分自身に目醒める」必要性があるのです。異名同体2
世の中では「真理(自分をも含めて一切のもの)」を多くの方々が色々な言葉を用いて説明しています。一例を挙げれば「法、道、禅、空、無、如是」なのです。真理は何時でも何処でも何をしていても「人種、文化、思想、言葉」に左右されることがあってはなりません。真理は偏り様がなく、汚れることもなく、生まれることもなく、滅することもないものでなければ真理とは言えないのではないでしょうか。人類史上で始めてその「真理」に目醒められたお方がおシャカ様なのです。私はおシャカ様の目醒められた様子を「今の事実が真理そのものである」と皆様に提示しているのです。異名同体1
「四大仮和合(しだいけわごう)」はどこまでも同じです。因縁は各々(おのおの)異なりといえども無自性なることはどれも同じです。ですからどうしても「自己という塊」を認めようがないのです。全異全同4
般若心経の「色即是空」とは「色」に惑う人のために設けた「応病薬」なのです。「色即是空」も「空」に迷う人のための一時の設けです。本来は「色即色、空即空」なのです。男性は男性、此の男性は彼の男性ではありません。女性は此れ女性、彼の女性ではありません。しかし、「眼横鼻直(がんのうびちょく)」はどこまでも同じなのです。全異全同3
いくらと遠ざかっていても同じものなのです。それほど親しいものはありません。離れていながら同じものなのです。元来同じものなのです。波は変われども水はひとつなのです。全異全同なのです。「同」に偏しては行けないし、「異」に堕してもいけないのです。全異全同2
世間の法は全て有形無形の事物を他の事物と区別して言語で表した呼び方をしています。物物元来同一生(もつもつがんらいどういっしょう)というお示しがあります。四大(地水火風)は古今に通じています。同じものから「縁」に触れて千差万別があるのです。言い換えると千差万別のままで同じものなのです。これを「全異全同」といっています。男性は男性、女性は女性、地は地と、別々ですけれどもそのままで同じものなのです。全異全同1
カレイとヒラメは別の魚ですが人間(にんげん)がヒラメと、人間がカレイと名付けたので魚自身「我はヒラメなり」と「我はカレイなり」と名乗り出たわけではありません。仮の名です。自性は有(在)りません。魚に向かって「貴方は魚に相違ないか」といったところで魚に分かるものではありません。只、一切の諸相は解脱の相なのです。魚と云うから魚です。魚に似たり、だから魚を解脱しているのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり3
「魚に似たり」といえば魚にあらず、「魚行いて」は魚です。ですから「魚にして魚を解脱す」ということです。人は何処から来て何処は行くのでしょうか。「人は人に似たようなもの」です。魚に自性は有(在)りません。魚という名を付けて通用しているから魚といいますが、魚には自性が無いのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり2
「水清うして地に徹す」とは、一点の汚染も無く清中の清ということです。「魚行いて魚に似たり」とは、魚の実体なくしてものに衝突することもなく、魚の自己を見ない自在の境界を指したのです。身心脱落の境界です。六根が六塵に奪われない境界です。ですから、「人行いて人に似たり」ということも出来ます。人という実体が無いから生まれると死ぬ、死ぬと思うと生まれるのです。かくして「無始無終」です。何と自在なものではないでしょうか。「似たりというのは「無自性空」に当てはめることが出来ます。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり1
「縁に対せずして照らす」の「照」は、縁に対せずを照とするのです。「縁は縁なり」です。「縁是れ照なるが故に」です。「対せず」とは「徧界(へんがい)嘗(かつ)て蔵(かく)さず」です。何物も包み隠すことはないということです。真実は至る所にあり、ありのままの姿で現れているといういうことです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす6
「事に触れずして知り」の「知」は覚知ではありません。覚知は小量です。了知の知でもありません。了知は造作です。ですから「事に触れずして知る」のです。「事に触れずは知」なのです。その「事に触れず」ということを宏智(わんし)正覚禅師は、「明頭(みょうとう)に来たらば明頭に打し、暗頭に来たらば暗頭に打す」と。また「坐破す嬢生皮(じょうしょうひ)なり」と、いっています。「嬢生皮」とは母親から生まれたままの人ということです。つまり生まれたままの人に成り切って坐禅に徹しなさいといっているのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす5
宗教の第一義は只その物のみに成ることです。「知は知なり」です。「知の外に知なきが故に」です。「単」は「正(しょう)」です。「正」の字を分析すれば「一(いつ)に止まる」です。死ぬる時は生を見ず、死ばかりにして生を見る暇はないのです。「朝顔やその日その日の花の出来」と。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす4
坐禅は坐禅より外に知るものはないのです。「坐禅は坐禅なり」です。外に知る者があれば、これは坐禅ではありません。生は生の法位にして、盡天盡地の生なのです。死は死の法位にして、貫古貫今の死なのです。ですから仏祖の生死を見ることは、春の百花を見る様なものです。道歌に「おもしろや散るもみじ葉も咲く花もおのづからなる法(のり)のみすがた」とあります。花は咲く時、咲くと言わず、散る時は散ることを知らないのです。生は生の生にして、生の外に生なしなのです。「空即是色、色即是空」なりです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす3
「縁に対せずして照らす」とは、その物それがそのままはっきりしていて、疑わしいところの無い、ということです。玉の自ら光を発して自ら照らすが如きものです。「虚明(きょめい)自照心力(しんりき)を労せざれ」です。相手なりに相手が無いことです。どうして喧嘩ができるでしょうか、ということです。「不回互にして成ず」と同じです。「対せず」とは、対しながら対する自己が無いことです。ここのところを道元禅師は「一方を證すれば一方は暗し」といっています。「暗し」とは同化ということです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす2
「事に触れず似て知る」とは「事その物に成る」ことです。事、即ち、知です。知るの外に知るものが無いのです。「真知は不知なり」です。相手が無いから知り様がないのです。つまり、「事実は真理の證明者なり」です。道元禅師の歌に「聞くままにまた心無き身にしあれば、おのれなりけり軒の玉水」と。明らかに聞くばかりです。これを「真に知る」というのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす1
「解脱」に到るためには、誰のものでもない、その人自身の表現(行為)こそが非常に大切です。地上に多くの人がいるのは、それぞれの人に異なった役割をしてもらうためであり、同じ表現(行為)を二度とする必要は全くありません。外側に否定的なものが見える時には、自分の心の中にそれを「現象化させている否定的な波動」があるのです。格言6