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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 此の物6

    私たち衆生は何時の間にか人間(此の物)を自分だと認識してきました。長い間、何か分からない、誰とも分からない「人間(此の物)」を自分だと思ってきたところに大きな問題があります。そこで道元禅師はこのように語っておられます。「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは万法(まんぼう)に証せらるるなり、万法に証せらるるというは自己の身心、他己身心を脱落せしむるなり」と。どいういう事かというと、「人間(此の物)」を認めて自己とみなしてしているもの、それは何か」「一体自己というが是は何者か?」という問いを参究して行く事が仏道の修行であるという事なのです。此の物6

  • 此の物5

    人間(此の物)というものはそういう働きだけのものなのです。従って「肉体と精神」をどれだけ鍛えても(修練、訓練しても)実体は有(在)りませんから、「ただそういう事をしている」という事にすぎないのです。「自らが法(道)その物であったという事」に目醒めることが「自己の正体を見極める」ということなのです。全ての覚者は「六根の縁」に因って自己の正体を見極めているのです。此の物5

  • 此の物4

    「仏性自体の動き、六根自体の働き」が何時でもあってそれに対して問題を起こしていては、皆、きず物になってしまいます。「有(う)」に対しても「無」に対しても、皆、役に立たないようになってしまいます。「人の教え」を用いるとそういう大きな誤りが起きるのです。捨てようをすれば捨てる手続きを用いるだけ、捨てる物が有(在)ることになります。それだからといって「空に成ろう」と思えばそれだけ「空」にそむくのです。「本当の空」ではないのです。それは概念的取り扱いとしての「空」です。それだけですから、おおよそ「此の物(自分自身)」とは縁遠いのです。そういうことは人間(にんげん)にはなかなか分からないのです。それは、考え方と「此の物(考え方でない今の自分自身)」との区別がはっきりしないからです。此の物4

  • 此の物3

    此の物が息を引き取るということは「生(しょう)の法」から「死の法」に変わることです。生には「生の法」があり、死には「死の法」があるだけなのです。その間には人の考えは入りません。生きている・生きていないという事ではありません。今、呼吸をし、話をしているのは「生の法の中」です。それが出来なくなった、止んだ時が「死の法」なのです。それほど人(ひと)というのは何処にもいないのです。誰一人自分が生まれたということは分かりません。誕生日さえも知(識)りません。長ずるに従って様々な「人間(じんかん)の教えや習慣や話に因って自分に成っている」のです。ですから他人から聞いたものばかりなので、どんなにしても自分と他人の意見の間にいろいろな問題が生じて来ます。「迷い」というものはそういうものです。迷いには「迷いの法」が有(在)...此の物3

  • 此の物2

    私たち衆生は何時の間にか不知不識(しらずしらず)のうちに「此の物を自分だと認識」してきました。しかし、「此の物」は自分ではありません。「衆生」なのです。「衆生」とは六道輪廻する存在なのです。此の物は象徴に過ぎません。そこで「此の物という象徴」と「本来の自己」との隔たりを無くさなければなりません。問題は「すでに一体であり、一つの物であった」ということを「自覚」することです。「私が目醒める」ということではありません。「此の物が縁そのものに成る」ということです。おシャカ様の最後の説法の一節に「仮に名付けて身と為す」というお言葉があります。ですから、「此の物」を名付けて「此の身」と称するのです。此の物2

  • 此の物1

    皆さんが自分と思っているもの、これは自分でも人(ひと)でも何でもありません。「此の物」というのが一番適切な表現なのです。特別に分けて言えば、此の物は肉体と精神より成り立っています。「此の物の働き」というのは、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働き」であって、これは自分のものでも無ければ誰のものといえるようなものではありません。「六根という道具の機能」が集まって私たち衆生の生活を成しているのです。この事を「六根無作為(ろっこんむさい)」といいます。大切なところは、此の物を認めて想った時だけに此の物(自分)が有(在)るということです。このことは「増一阿含経(ぞういつあごんきょう)」にはっきり示されております。よく「悟りを開いた」とか、「自己に目醒めた」というような表現を耳にされたり、本で読まれると書かれており...此の物1

  • 増一阿含経2

    あなた一人あるがために宇宙が有(在)るのです。つまりあなた方一人一人は宇宙を統制しているのです。あなた方一人一人が無ければ世界は無いということを知(識)らなければなりません。それを理解出来ないものが「我(が)」なのです。宇宙(彼の物)と此の物との間に距離が生ずるのは「我(が)」なのです。その「我(が)」を取るという事が般若心経の目的です。「我(が)」が取れれば「空」に成るのです。空に成れば「自由と進歩的偉人」に成るのです。般若心経はそれを説いたものです。増一阿含経2

  • 増一阿含経1

    増一阿含経(ぞういつあごんきょう)に曰く、「此の物なければ彼のものなく、彼のものなければ此の物なし」とあります。此の物が彼の物を捉えているのです。此の物が「宇宙」を捉えているのです。此の物からいえば、彼の物のために世界が有(在)るのです。此の物がなければ彼の物はないということになるのです。此の物が有(在)る故に彼の物が有(在)るということになるのです。増一阿含経1

  • 人間(にんげん)と人間(じんかん)3

    私たち衆生には「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意(心)」の働きそのものだけが有(在)るということなのです。このことを「六根無作(ろっこんむさ)」といいます。六根の働きは此の物の機能ではありません。動植物と同じように働きその物の状態だけが有(在)るということです。ですから私たち衆生「人間(にんげん)」と「人間(じんかん)」の違いをはっきり認識して「智慧(ちえ)」をもって「娑婆世界(自分の思い通りにならない世界)」を活かして生きていって欲しいと思っています。人間(にんげん)と人間(じんかん)3

  • 人間(にんげん)と人間(じんかん)2

    私たちは元々一つの「種(発生するもと)」が有(在)って、そこから生まれてきたものではありません。物の実体というのはいろいろな物が縁に因って集まってきたものですから、もともと有(在)るはずがないのです。私たちの実体は「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが、私たちは「此の物」を人間(にんげん)と言いますが、「此の物」は人間ではありません。「衆生」なのです。「衆生」とは「生きとし生けるもの生命あるもの」なのです。「人間(にんげん)」と認めようがないのです。何故ならば始終変化し続けているからです。人間(にんげん)と人間(じんかん)2

  • 人間(にんげん)と人間(じんかん)1

    広辞苑に拠ると「人間(にんげん)」の項で、①「人の住む所、世の中、世間、じんかん」と記載されています。また、新字源には「人間」①じんかん「人の世、世間」と記載されています。さらに、「漢文では原則として人の意と区別してじんかんと読む」と記載されております。「人間到処有青山(じんかんいたるところせいざんあり)」「人間萬事塞翁馬(じんかんばんじさいおうがうま)」とあり「無門関の平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」では、「人間好時節(じんかんのこうじせつ)」と読みます。人間(にんげん)と人間(じんかん)1

  • 洗濯2

    その反対に、「汚れたものの時」は「汚れたものの世界」なのです。「キレイなもの」は毛筋ほどもありません。洗濯の目的は「キレイ」にするためのものではありません。只(ただ)洗濯をするそれだけで用事が足りているという事です。これは「比較するという相対的な考えから、全く離れた世界がある」という事です。洗濯2

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