「衆生」というものも今のように分からないものが分からないなりに生まれて来たというのが凡(すべ)てなのです。其れで其れが大きく成ったのです。ですから内容としては、「仏」と同じものなのです。内容としては同じものなのですが、「物心が付いたという時点」で「此の物を自分勝手にした」のです。物心が付いて始まった其れも子供時代の事ですから、其の「物心が付いた時点」では「其のこと(自分勝手にした事)」を全く知(識)らなかった」のです。即ち「其の事(自分勝手にした事)の自覚」は無かったのです。衆生(しゅじょう)について4