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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 三つの愛着

    死ぬ時に三つの愛着が起きると仏教の論書の中に説かれています。誰一人として、この考えから離れられないというのです。その第一番目に「惜愛(せきあい)」というのが出て来ると言われています。病床に居りながらまだ自分自身というものを考える余裕がある場合、いわゆる自分以外の周囲のものに対して愛着を起こし、財産とか名誉とかそういうものを惜しむ愛を惜愛といっています。ところが体がだんだん衰弱してくると財産とか名誉を必要をしないのに次の執着が出て来ます。それが第二番目の「自体愛」というものです。何とかして自分の体だけを保っていけばそれでいいという考えです。第三番目が「当生愛(とうしょうあい)」というものです。これから死んだらどうなるのか、それが分からなくて心配になってくるのです。地獄極楽といっても平生に信仰が無いからわから...三つの愛着

  • 三つの弱点6

    「集」とは煩悩のことです。苦の元(本)は実に煩悩があるからなのです。それさえ取り除けば安楽に死ねるのです。それが「滅道」です。その死を安楽にするには「妄想、煩悩」を滅すればよいので、滅という結果を先に出してあるのです。それを満足させるには「道」という修行が在るのです。やはり結果を先に提示して「それなら修行してみよう」となるから「因即修行」と後に回してあるのです。道(修行)に因って必ずそういう妄想、煩悩を滅する事ができます。「苦が楽に成る」のです。そうしたら何時死んでもいいという「信念」が起こって来るのです。三つの弱点6

  • 三つの弱点5

    苦集滅道(くじゅうめつどう)というのは結果です。人生は苦を伴うものです。死に行く支度をしているものです。医者から「あなたはもう駄目ですよ」と言われたら金の力は何の効力もなく、何の役にも立ちません。私たち衆生は「三つの弱点(愛着)」を持っているから苦しいのです。それをどうしたら安心して死ねるか、その結果として先に提示したのが苦集滅道で、先ずこれで最初に私たち衆生の覚醒を促したのです。三つの弱点5

  • 三つの弱点4

    苦集滅道(くじゅうめつどう)は日本では「貪・瞋・痴(とんじんち、貪り・怒り・愚痴)です。これを煩悩と言っています。苦集滅道の苦、集ですが「苦集(煩悩)」を取り除きさえすれば安楽になるということは、道理としてわかって頂けると思います。その取り除くということは「滅(なくする)」ということです。ですから、「煩悩」が無くなれば人は安楽になるということは道理として当然のことです。その楽になる道(みち)が道(どう)なのです。私たち衆生は道(みち)を修行することによって必ず安楽になることは間違いないと仏教の論書には説明されているわけです。三つの弱点4

  • 三つの弱点3

    おシャカ様は初めに四つの真理として苦集滅道(くじゅうめつどう)をお説きになりました。①苦・・自分が悩み苦しんでいるという事実、思い通りにならない事実を認識すること。②集(じゅう)・・苦しみが集まる、苦しみが生ずることの原因をあきらかにすること。③滅・・思い通りにならないという苦しみをなくすこと④道・・道によって必ず究極に到達することが出来るということ、道理を説き各人に考えてもらい目的に向かって進む為の道をお示しになったのです。私たち衆生は、自分と道との結び目をなくする修行に務めなければならないのです。仏教ではこの四つの真理の事を四聖諦(ししょうたい)、四諦(したい)といいます。三つの弱点3

  • 三つの弱点2

    「時は金なり」という時代は過ぎました。エマーソン曰く「時は命なり」と。金はまた得られますが、失った時は再び得ることはできません。時は命を刻んでいますが、この真理を判らないで過ごしていては、日々命を殺していることになるのです。それでは仏教でいう所の「殺生(せっしょう)罪」であり、大破戒なのです。いま、皆さんを未熟なお方としてお話させてください。そうでなければ話が出来ないからです。「未熟なお方には結果を先に見せる」というのが仏教の鉄則です。仏弟子のうち声聞(しょうもん)には「苦集滅道(くじゅうめつどう)」という事をおシャカ様はお説きになりました。三つの弱点2

  • 三つの弱点1

    人間(にんげん)の執着は何時頃から始まったかというと、お父さん、お母さんの因縁によって私たち衆生がお母さんのお腹の中に托生(たくしょう)した時から生への執着というものが入ります。これは自分とか自分じゃないということに関わりなく、働きとして執着というものが有(在)るのです。そういうものが胎内で容(かたち)作られてきて、そうしてそのまま誕生して来るという訳です。この事を仏教では「業因」といっています。ですから、「不知不識生(ふちふしきしょう、しらずしらずに生ず)」なのです。私たち衆生は「三つの弱点(惜愛、自体愛、当生愛)」を持っています。これが苦の根源になっているのです。生きている今の現実には誰もが、そういう事はあまり考えないで生活しているだけなのです。三つの弱点1

  • なければならないものが在る4

    私たち衆生は日常生活が全て「言葉(解釈、理解)」で解決されているかの如くに錯覚を起こしています。そのために「法に目醒める道」という存在がある事を分からないまま過ごしているのが実情なのです。別の言葉で言えば「本来の自分とは何か」という事を知(識)る必要もなく考える事も無く、或いは知(識)らなくても生きていられるという事で自分の一生を送り続けているのです。「法」に目醒めれば迷い、不安、不自由であったという事があるはずも無いという事がはっきり「自覚」することができます。これを「此事(このじ)」といいます。それを「救い」といいます。要は、自分で自分を救う事です。それを仏教では「安心(仏教では”あんじん”と読みます)が得られた」というのです。なければならないものが在る4

  • なければならないものが在る3

    不思議なことに世間では信仰が厚く、真面目な人といわれるほど「この世界」を信じることが出来ませんし、この様な人が多いことに驚きます。「なければならないものが在る」とは実は「この世界に目醒めなければならない」ということなのです。仏法を語ることも世法を論ずることも先ず「この世界に目醒めた後の事」とする以外にありません。言葉の問題ではありません。そこに欧米の人々からも容易に受け入れられ全く必要とせず老若男女一切の衆生が救われる道が「この道(この世界)」なのです。なければならないものが在る3

  • なければならないものが在る2

    おシャカ様を始め歴代の覚者が体得された「道」が確かに残されています。この事を知(識)らない者は迷い、知(識)る者は目醒めることが出来るのです。「信・不信」を全く必要としない「不思議な世界」です。「覚・不覚」とに全く関係ない決定的な「不思議な世界」です。この世界を或る人は「平常心」を語り、或る人は「無」と語り、或る人は「祇管(しかん)」と唱え、或る人は「無所得、無所悟」と強調します。なければならないものが在る2

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