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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 「坐禅箴」水 清うして地に徹す 魚 行いて魚に似たり3

    カレイとヒラメは別の魚ですが人間(にんげん)がヒラメと、人間がカレイと名付けたので魚自身「我はヒラメなり」と「我はカレイなり」と名乗り出たわけではありません。仮の名です。自性は有(在)りません。魚に向かって「貴方は魚に相違ないか」といったところで魚に分かるものではありません。只、一切の諸相は解脱の相なのです。魚と云うから魚です。魚に似たり、だから魚を解脱しているのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり3

  • 「坐禅箴」水 清うして地に徹す 魚 行いて魚に似たり2

    「魚に似たり」といえば魚にあらず、「魚行いて」は魚です。ですから「魚にして魚を解脱す」ということです。人は何処から来て何処は行くのでしょうか。「人は人に似たようなもの」です。魚に自性は有(在)りません。魚という名を付けて通用しているから魚といいますが、魚には自性が無いのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり2

  • 「坐禅箴」水 清うして地に徹す 魚 行いて魚に似たり1

    「水清うして地に徹す」とは、一点の汚染も無く清中の清ということです。「魚行いて魚に似たり」とは、魚の実体なくしてものに衝突することもなく、魚の自己を見ない自在の境界を指したのです。身心脱落の境界です。六根が六塵に奪われない境界です。ですから、「人行いて人に似たり」ということも出来ます。人という実体が無いから生まれると死ぬ、死ぬと思うと生まれるのです。かくして「無始無終」です。何と自在なものではないでしょうか。「似たりというのは「無自性空」に当てはめることが出来ます。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり1

  • 「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす6

    「縁に対せずして照らす」の「照」は、縁に対せずを照とするのです。「縁は縁なり」です。「縁是れ照なるが故に」です。「対せず」とは「徧界(へんがい)嘗(かつ)て蔵(かく)さず」です。何物も包み隠すことはないということです。真実は至る所にあり、ありのままの姿で現れているといういうことです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす6

  • 「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす5

    「事に触れずして知り」の「知」は覚知ではありません。覚知は小量です。了知の知でもありません。了知は造作です。ですから「事に触れずして知る」のです。「事に触れずは知」なのです。その「事に触れず」ということを宏智(わんし)正覚禅師は、「明頭(みょうとう)に来たらば明頭に打し、暗頭に来たらば暗頭に打す」と。また「坐破す嬢生皮(じょうしょうひ)なり」と、いっています。「嬢生皮」とは母親から生まれたままの人ということです。つまり生まれたままの人に成り切って坐禅に徹しなさいといっているのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす5

  • 「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす4

    宗教の第一義は只その物のみに成ることです。「知は知なり」です。「知の外に知なきが故に」です。「単」は「正(しょう)」です。「正」の字を分析すれば「一(いつ)に止まる」です。死ぬる時は生を見ず、死ばかりにして生を見る暇はないのです。「朝顔やその日その日の花の出来」と。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす4

  • 「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす3

    坐禅は坐禅より外に知るものはないのです。「坐禅は坐禅なり」です。外に知る者があれば、これは坐禅ではありません。生は生の法位にして、盡天盡地の生なのです。死は死の法位にして、貫古貫今の死なのです。ですから仏祖の生死を見ることは、春の百花を見る様なものです。道歌に「おもしろや散るもみじ葉も咲く花もおのづからなる法(のり)のみすがた」とあります。花は咲く時、咲くと言わず、散る時は散ることを知らないのです。生は生の生にして、生の外に生なしなのです。「空即是色、色即是空」なりです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす3

  • 「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす2

    「縁に対せずして照らす」とは、その物それがそのままはっきりしていて、疑わしいところの無い、ということです。玉の自ら光を発して自ら照らすが如きものです。「虚明(きょめい)自照心力(しんりき)を労せざれ」です。相手なりに相手が無いことです。どうして喧嘩ができるでしょうか、ということです。「不回互にして成ず」と同じです。「対せず」とは、対しながら対する自己が無いことです。ここのところを道元禅師は「一方を證すれば一方は暗し」といっています。「暗し」とは同化ということです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす2

  • 「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす1

    「事に触れず似て知る」とは「事その物に成る」ことです。事、即ち、知です。知るの外に知るものが無いのです。「真知は不知なり」です。相手が無いから知り様がないのです。つまり、「事実は真理の證明者なり」です。道元禅師の歌に「聞くままにまた心無き身にしあれば、おのれなりけり軒の玉水」と。明らかに聞くばかりです。これを「真に知る」というのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす1

  • 格言6

    「解脱」に到るためには、誰のものでもない、その人自身の表現(行為)こそが非常に大切です。地上に多くの人がいるのは、それぞれの人に異なった役割をしてもらうためであり、同じ表現(行為)を二度とする必要は全くありません。外側に否定的なものが見える時には、自分の心の中にそれを「現象化させている否定的な波動」があるのです。格言6

  • 格言5

    意識の未発達の段階では、外の世界に現れている現象が、自分の想念に因って造り出しているものであるという事に気付かず、実体のあるものとして認識してしまいます。それに翻弄されて不必要な混乱を招いている場合が非常に多くあります。ひとりの人間(にんげん)の周囲の出来事は、その人の出している波動に因って現象化されています。何もしていない様に見えても、いつもニコニコして暮らしている人の方が、世の中には貢献しています。何ということもない、日常の生活のひとつひとつに正しく関わっていくことが、人間(にんげん)の究極の望みの目的にとって最も大きな効果があり、しかもその人にとって最短の進歩を与えてくれます。格言5

  • 格言4

    「法」をもとめるどんな努力も「最後まで続けた人」だけが、「解脱」に到るのです。人間(にんげん)が地上に肉体を持っているという事実は、人間の数だけそれぞれの人生を通して「修行方法」が用意されているという意味です。私たち衆生は原則としては「真理」を自分自身の内側に向けて求めるべきであり、外側の誰かに対して求めてもそれを得ることは出来ません。しかし、その一方でどんな人でも最初は「迷いの真っ只中にある自我意識の状態」から始めなければならないのです。「人を呪わば穴二つ」というお言葉がありますが、否定的な想念を誰かに向けたようなときは確実に自分が害を受けることになります。これは「カルマの法則」です。格言4

  • 格言3

    どのような宗教集団であっても「自分意識の人間(にんげん)」が関わっている限り、その教義や活動に多かれ少なかれ問題が生じてしまいます。私たち衆生は人間(にんげん)としてのおシャカ様という「人格(個性)」を考えてはいけないし、又そのような「人格(個性)」も想像してはいけないのです。何故ならば、こうした考えが「法(真理)」を識るうえで私たち衆生の目を覆うからです。誰かに追随することは易しいです。その人物が大きければ大きいほど、追随するのは容易となります。しかし、それは「本人の解脱」にとっては妨げとなります。何故なら、「追随する者(その人物)」は、決して「解脱」するものではあり得ないからです。「追随と随身の識別」ははっきりしなければなりません。格言3

  • 格言2

    必ず来る最後をふだんから考えている人は、生きるとはどういうことか、最後はどう締めくくるべきかの覚悟が出来ています。死は自分の思いを越えたところで起きるので、自分の思い通りにはいきません。生き方は自分の思いの範囲内で充実させることが出来ます。ですから、結果を気にせず、しかも死は視野に入れながら思い通りに出来る範囲の事を思い通りにすればいいのであって、あとは「おまかせ」です。「人事を尽くして天命を待つ」のではなく、「天命に任せて人事を尽くす」のです。「有難(うなん)」とは、人の生を受くるは難く、限りある身の今、生命ありは有り難し。格言2

  • 格言1

    人の為と書いて「偽(にせ)」と読みます。また、人の夢と書いて儚(はかない)と読みます。運動とは運を動かすこと、つまり行動すること。出会いは人の心を広げてくれるし、別れは人の心を深くしてくれます。「人の役割」とは、老いる姿、死にゆく姿をあるがままに後継者に「見せる、残す、伝える」ことです。命が残されているという事は、今何歳であろうと、まだまだしなければならないという事があるをいう事。「忍」とは心の上に刃(やいば)を載せて生きていくこと。我々の人生というものは、生きて死ぬまでの「間」でしかないのです。「健康」は人生を豊かに生きる「手段」であるはずなのに、いつの間にかそれが「目的」になってしまっているようです。格言1

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