81番札所白峯寺境内保元の乱(1156)で京を追われた崇徳上皇。讃岐に配流された8年間は凄まじいほどに憐れだ。彼は寝ても覚めても京を想い、近くを流れる綾川を鴨川と云い、東に見える五色台を東山と呼んだ。訪ねて来る人はほとんどなく、寂しさのあまり写経に没頭するものの、それはやがて血でしたためた血書経となる。仏事で心中鎮まるどころか、怨恨と怒りに満ちた大悪魔へと凶変し、髪は伸び放題、爪も切らず、生きながらにして恐ろしい天狗の姿になっていった。そんな壮絶な日々を送った讃岐に残る崇徳院の史跡を訪ねてみた。(※崇徳天皇、崇徳上皇、崇徳院など色々表記方法はありますが、以降崇徳院に統一します)〈その1松山の津〉”浜ちどり跡はみやこへかよへども身は松山に音(ね)をのぞみなく”(崇徳院)(浜千鳥の足跡は岸辺に、私の筆跡をしたためた...讃岐散歩(2)~讃岐の崇徳上皇(2020627)
「ブログリーダー」を活用して、なかちゃんの断腸亭日常さんをフォローしませんか?