北条直正没後100周年北条直正の話をしよう(1)稲美地区は台地上にあり一部を除いて、江戸時代まで稲を育てる十分な水が得にくい地域でした。この地域の人々は、まさに水との壮烈な闘いの歴史でした。そのため、江戸時代までは、年貢は他地区より低く抑えられていました。しかし、明治時代の地租改正により、他の地域と同じになりました。同じように、なったことは、この地域に住む人々にとっては大増税でした。このままでは生活はできません。人々は立ち上がりました。その先頭に立ったのが加古郡長の北条直正でした。今年は、北条直正没後100年に当たります。彼なくして、稲美町の歴史は語れません。稲美町は、北条直正の顕彰を計画していたようですが、コロナ事件でまだできていないようです。そのため、このブログで北条直正と農民の汗と涙の物語をまとめることに...北条直正物語(1)北条直正の話をしよう
ぼやき節時代は、急激に変わりました。特に、明治維新、戦後の変化は驚くばかりです。中でも、高砂市の変化は「異常」の言葉がぴったりするほどの変わりようです。渚がほぼ100%コンクリートで覆われ、市民のためのかつての天国のような風景が完全になくなりました。「時代の変化」と、かたずけるには、あまりにも残念な「激変」です。先日、本屋さんで『経済と人間の旅(宇野弘文著)』(日本経済新聞出版社)を購入しました。その最初を紹介しておきます。「・・・戦後約60年(上記の本が出版された年)が過ぎ、ヨーロッパでは都市とか自然に対する考え方が大きく変わってきた。例えば、(スペインのバルセローナは)川岸を覆うコンクリートをはがして昔ながらの蛇行する川に戻し、周囲にその地域特有の樹木を植える。小鳥や動物がそこに集まり、子ともたちの格好の自...大河・かこがわ(299)入浜権を考える(13)・ぼやき節
大河・かこがわ(298) 入浜権を考える(12)・夢のような世界
夢のような世界『100人証言集』で、松田正己さんは、小学校時代(昭和30年頃以前)の汐見町を次のように書いておられます。・・・・「私は物心ついてから小学校5年生の時まで汐見町(荒井浜沿いの一地区)で育ちました。それは、今の三菱重工のあたり約60世帯の国鉄官舎の町でした。今、汐見町といっても知らない人が多いと思います。というのは埋立て工事で美しい自然と共に完全に姿を消した町だからです。大木曽水路をはさんで、町の東は広大なアシ、ヨシの湿地でカモ、ヨシキリ、ヒバリ、サギといった野鳥の宝庫でした。・・・この湿地と海をへだてる土手には形のよい松が生えており、汐見町のすぐ前の土手にはドクダミ、ハマユウガオ、ノバラ、ハコベ、クローバー、月見草が群落をなしていて昆虫がたくさんいました。そんなところで私たちはオニヤンマ釣り、芦ぶ...大河・かこがわ(298)入浜権を考える(12)・夢のような世界
大河・かこがわ(297) 入浜権を考える(11)・渚をうばわれて
渚をうばわれて高砂の埋立事業は、昭和42年5月の東部埋立地竣工の許可を皮切りに、43年3月伊保埋立地、44年12月中部埋立地、48年12月西部埋立地が完成し、高砂海岸は全く姿を消し去りました。この間、昭和37年には全国総合開発計画が策定され、39年9月16日にはその施策に沿った工業整備特別法による特別地域に指定を受けるなどして、高砂の海岸消滅が高度成長政策の一環であることがはっきり位置づけられました。海がPCBで死んだところで鐘化はといえば、35年6月から塩ビの生産を開始していた高砂を中心に石油化学原料への転換を進め、43年12月にはアメリカからの技術導入により月産1万トンの塩ビ工場が完成しました。こうした塩ビの増強に対応して水銀電解法による塩素とカセイソーダの生産が拡大され、「ほうきで掃いて捨てた(元鐘化従業...大河・かこがわ(297)入浜権を考える(11)・渚をうばわれて
大河・かこがわ(296) 入浜権を考える(10)・PCBの生産
PCBの生産(高砂・カネボウ工場)明治20年、東京綿商社として発足した鍾紡は、2年後社名を「鐘ケ淵紡績株式会社」とし、三井財閥の助力のもとに日露戦争前後には大手にのし上っていきました。高砂では、明治38年から操業を開始しました。昭和11年4月からは海岸沿いに建設された人絹工場によって、高砂町は市街地と海岸との間を巨大な工場でへだてられてしまいました。この鐘紡人絹工場は、昭和24年、鐘淵化学として独立し、急ピッチの設備投資を続けました。25年5月の塩化ビニール(大阪工場)、26年3月のブタノール(高砂)などです。このうち、塩ビは、26年には朝鮮戦争にともなう特需景気の中で、全国生産量5.085トンのうち1.376トンを生産し、トップの座を占め、鐘化に大きな収益をもたらしました。鐘化高砂工業所には従来から、月産32...大河・かこがわ(296)入浜権を考える(10)・PCBの生産
入浜権利を考える(9)汚れる海三菱製紙に来てもらうため結んだ、あまりにも一方的なに関する確約書でした。後々、町民は苦しむことになります。そして、渚は死んだ・・・製紙所が操業を開始して間もない明治34年6月15日、一人の農夫が町役場にどなりこんで来ました。興奮のあまり何を言っているのかわからないのをなだめすかして聞くと、「三菱製紙所の悪水が流れこんで植えたばかりの稲が枯れた」といいます。吏員が行ってみると三反にわたってまっ黄色に枯れていました。三菱は、潮の逆流による塩分から枯れたのだと主張しました。が、農民は排水中止を要求しました。三菱は、高砂とかわした確約書をたてに、藍屋町と高瀬町の間の溝を通して東浜町の堀川港内へ放出することにしました。これに対して、今度は漁民がだまっていません。「堀川の水は彼らの生活用水だ」...大河・かこがわ(295)入浜権を考える(9)・汚れる海
大河・かこがわ(294) 入浜権を考える(8)・浜辺が消える
入浜権を考える(8)浜辺が消える昭和10年代になると、現在高砂市になっている荒井村、伊保村、曽根村にも、海岸線に沿って次々と工場が建てられ、住民の前から海がへだてられていきました。その中でも、昭和14年、陸軍造兵廠播磨製作所の荒井村への進出は最大のものでした。昭和6年、キッコーマンの工場が建ち、次いで現在の播磨耐火練瓦等が立地し、昭和16年、全面的に造兵廠の巨大工場が建設されました。戦後、造兵廠は国鉄工場、三菱重工、神戸製鋼等に払い下げられました。それでも、昭和36年の埋め立ての開始まで荒井の浜そのものは残っていました。汚れる海海の汚染は、明治34年に、三菱製紙所が誘致され、操業を開始した時から始まりました。そもそも、三菱製紙が従来工場のあった神戸を引きはらって高砂に来た動機は、『三菱製紙六十年史』によれば、つ...大河・かこがわ(294)入浜権を考える(8)・浜辺が消える
大河・かこがわ(293) 入浜権を考える(7)・海への道がふさがれる(2)
入浜兼を考える(7)海への道がふさがれる(2)(前号「浜への道がふさがれる(1)」より続く)<河合義一議員>今度の鐘紡の交渉は鐘紡にしてやられておる。鐘紡は、最初レイヨン工場を作るので、水が多くいると言ってだまされておる。町長は、道を鐘紡に譲ることは決っていると言われたが、いつ決っておるのか。助役は、私にうそを言ったのである。いつ本町線廃止は決定したか。誘致々々と言うが初めて鐘紡を持って来るのでなく、はじめから10年後には建つことに決っていたのである。<戸田亀太郎町長>本町線廃止は既定の事実なりと言ったことは、「あの道を(工場の敷地として)使わぬことには人絹界をリードする様な工場は出来ぬ」と言うのでやむをえぬと言うのである。「本町線」市民の知らぬ間に消える誘致に賛成していた議員たちも、海に出る道路がなくなるとは...大河・かこがわ(293)入浜権を考える(7)・海への道がふさがれる(2)
大河・かこがわ(292) 入浜権を考える(6)・海への道がふさがれる(1)
入浜兼を考える(6)海への道がふさがれる(1)図(高砂町の海へ出る道:昭和9年まで)は、昭和初年の高砂町地図ですが、、海水浴場へ三本の道路がありました。昭和9年、鐘紡は町当局に圧力をかけて、このうち「神社前線」と「学校前線」の二本の海水道を廃止させ、まん中の本町筋から海岸に出る道路を鉄道線路沿いに東へ迂回させようとしました。この時の高砂町議会でのやりとりの一部を議事録(昭和9年5月29日)からみておきます。<脇村嘉祐議員>鐘紡工場の誘致も結構だが百年の大計にも頭をつかわれたい。吾々の伸びんとする処は南方(海の方)である。将来、駈引きしないことを契約せられたい。万一この道路が廃止されたならば南本町の人は地価の下ることを憂へて居り、また、海岸の西方で漁船が遭難でもすれば、救助に非常に困難する等道路廃止のため非常に迷...大河・かこがわ(292)入浜権を考える(6)・海への道がふさがれる(1)
大河・かこがわ(291) 入浜権を考える(5)・渚は個人の所有物にあらず
入浜権を考える(5)渚は個人の所有物にあらず昭和29年の合併による高砂市の誕生以後、高砂は美しい海岸によって生きる道を捨て去り・明治34年、三菱製紙を誘致して以来じわじわと進められて来た工業都市として生きる軌道を爆進することになりました。四代、工楽松右衛門が海水浴場休憩所を建てようとして「借地願」を出した時、該当する土地が官有地と地図に記されていた。ところが、次の証言を聞いてください。「・・・・“こぶ七”は最初からの業者で、その頃は土地の使用料を姫路の税務所(?)におさめていたそうですが、それが明治の後期より、杉本鶴太郎(仮名)さん個人に支払うことになったそうである」どのような事情でみんなの財産が個人に払下げになったのかわかりません。不思議なのは、官有地であったはずの海岸が杉本(仮名)という個人のものになったと...大河・かこがわ(291)入浜権を考える(5)・渚は個人の所有物にあらず
大河・かこがわ(290) 入浜権を考える(4)・高砂の海水浴場、70年の歴史に幕
入浜権を考える(4)高砂の海水浴場、70年の歴史に幕一般には「こぶ七」という屋号で海産物を扱っていた沼田家が最初からの海水浴業者と考えられています。海水着を着て海に入るというのは明治の中頃から始められました。土用の丑の日には海水に腰をつけるとよいという言い伝えがあり、播州一円の老若男女が押し寄せて夜通し店を開けていたといいます。春の潮干狩りは京阪神、夏は北播地方の学校、町内会、子供会というふうに客筋が決っていて、11店あった休憩所の一店だけでも一日で子供なら1,000人もの客であったといいます。そして、その「こぶ七」は、昭和36年から始まった埋立工事のため、海水浴場がなくなる昭和35年の夏まで四代にわたって海水浴場休憩所を営み続けました。高砂海水浴場は、実に70年の歴史を持ちました。しかし、高砂海水浴場が大いに...大河・かこがわ(290)入浜権を考える(4)・高砂の海水浴場、70年の歴史に幕
大河・かこがわ(289) 入浜権を考える(3)・海は誰のもの
入浜権を考える(3)海は誰のもの工楽家の衰亡は、高砂市のその後の歴史と重なります。松右衛門の工事の結果、高砂晦の海岸は、昭和36年に埋立工事の始まる前の姿にほぼ近いものとなりました。すなわち、港や海岸は高砂神社の南方約500メートルへと遠のき、その間は新田として開発されて、俗に「工楽新田」とよばれました。しかし、その後の「工楽新田」は、海に続く新田とはなりませんでした。高砂は、工業都市として再出発しようとしたが・・・以下の内容は、『渚と日本人(高崎裕士著)』(NHKブック)をお借りします。・・・明治21年(1888)、山陽鉄道の開通によって、その物資の集散・中継的地位に変化がおこった。海上運送は後退してきた。かくて、東播地域の物資集散の中心が加古川町に移り、高砂の商業の衰退は決定的なものになった。人口推移をみる...大河・かこがわ(289)入浜権を考える(3)・海は誰のもの
大河・かこがわ(278) 入浜権を考える(2)・経済都市・高砂の変貌
入浜権を考える(2)経済都市・高砂の変貌近世の高砂の町を語るとき、必ずといっていいほど『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)にある右図が紹介されます。高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年)後、ここに城が築かれ城下町として出発しました。(*高砂城は、現在の高砂神社の場所にありました。)城下町は、まず政治・軍事都市であり、そして経済都市の性格をもっています。しかし、高砂の町の性格を決定づけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」です。以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済都市として整備を進めていくことになりました。加古川流域という豊かな後背地と高砂の町は、加古川(高瀬船)により結ばれ、高砂の町は、江戸時代をつうじ、繁栄しました。やがて、江戸幕府は倒れ、時代は明治へと大きく変...大河・かこがわ(278)入浜権を考える(2)・経済都市・高砂の変貌
コーヒーブレイク:「ひろかずのブログ」が5.000号になりました
「ひろかずのブログ」が5.000号になりました2006・6・14「ひろかずのブログ」を始めました。ほぼ14年前でした。定年から2年たっていました。この2年間は、ある大学で若い学生に交じり英語を勉強していました。なんとか修論もでき卒業ができました。問題は、その後でした。特別に何をしようという計画もありません。まず考えたことは、「健康」と「ぼけ」のことです。散歩でして、新聞や小説でも読んでいたらいいな・・・とズボラを決め込んでいましたが、いざ始めてみると、あまりに単調な生活です。さいわいタイプが打てましたので、見たこと、考えたことを文章にしてみようと考えました。どういう形でまとめてよいかわかりません。ちょうど、ブログが流行っていましたので、時代に取り残されないよう『脳トレ』のつもりで始めたのが、「ひろかずのブログ」...コーヒーブレイク:「ひろかずのブログ」が5.000号になりました
大河・かこがわ(287) 入浜権を考える(1)・『渚と日本人(入浜権の背景)』を読む
「入浜権を考える」(1)『渚と日本人(入浜権の背景)』を読む私の本棚に『渚と日本人(入浜軒の背景)、高崎裕士・高桑守史』(NHKブック)があります。昭和51年7月1日発行とあるのでずいぶん以前に書かれた本です。もう40年以上前に書かれています。この本を買ったのも35年以上も前です。線を引いていますので、読んだのでしょうが、内容についてはほとんど覚えていません。ただ、「高砂の浜について書かれていた」という印象だけが残っていました。高砂には渚があった!ある事情で、この本を引っ張りだし、あらためて読みなおしました。「うん・うん・・・」と納得しながら一気に読んでしまいました。決して、内容は古くはありません。いまこそ、特に加古川市・加古川町・播磨町の人に読んでほしい本です。私も、加古川市・播磨町・高砂市の海岸の現状につい...大河・かこがわ(287)入浜権を考える(1)・『渚と日本人(入浜権の背景)』を読む
大河・かこがわ(286) 近世の高砂(82) 新、工楽松右衛門物語(53)
『松右衛門物』語終了『工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛』は、奇妙な読み物となりました。お気づきのことと思いますが、『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)から、かなりの部分を引用しています。少しだけ他の書籍や歩いて調べたことをつけ加えただけの読み物です。最近、工楽松右衛門の話題が高砂市を中心にして、盛り上がっています。が、松右衛門邸の保存や、松右衛門帆の復活等々が中心のようです。それはそれで、急がなければいけないのですが、かんじんの松右衛門についてはあまり語られていません。『菜の花の沖』で紹介されている松右衛門は魅力的な人物です。さらに研究が進みその実像が紹介されるとき、彼は、さらに地域の誇りうる人物になることは間違いありません。でも、そこが問題です。史料が整い、彼が紹介されるまでにはかなりの時間(数年)がかかります。松右衛門...大河・かこがわ(286)近世の高砂(82)新、工楽松右衛門物語(53)
大河・かこがわ(285) 近世の高砂(81) 新、工楽松右衛門物語(52)・余話・兵庫港散策
余話・兵庫港散策その日は、朝から暑い一日でした。「高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門・北風家」のことを紹介しているので、彼らが活躍した兵庫湊の右図の①~④の場所を歩いてみました。地図をご覧ください。(①工楽松右衛門の店、②高田屋嘉兵衛の店、③北風家、④喜多二平家、赤丸、七宮神社*喜多二平家は北風家の分家)地図によると山電湊川駅から南へ少し歩けばそこに到着します。歩き始めると、まさに暑さの襲撃でした。それに、完治していない「腰痛」が、少しいたみだし、自販機で「水」を買って、休みをとりながらの写真撮影となりました。まず、七宮神社(しちみやじんじゃ)の歩道橋のそばで「菜の花ロード」の石碑を見つけました。さっそく『菜の花の沖』が、登場しました。地図の説明通りに南へ行くと「高田屋嘉兵衛本店跡」です。「ここで、嘉兵衛は働いていたん...大河・かこがわ(285)近世の高砂(81)新、工楽松右衛門物語(52)・余話・兵庫港散策
大河・かこがわ(284) 近世の高砂(810) 新、工楽松右衛門物語(51)・高田屋嘉兵衛の終焉
文化9年(1822)の夏、松右衛門は亡くなりました。このシリーズ「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」のもう一人の主人公、高田屋嘉兵衛の最後も紹介しておかねばなりません。高田屋嘉兵衛の終焉高田屋嘉兵衛は麻のようにもつれた日ロ関係を一つ一つ解決しました。見事な幕末の外交でした。やがて、リコルドと嘉兵衛は解放され、北海に平和が訪れました。その後のことです。時代は激しく動きました。その後、嘉兵衛に幕府から与えられたのは皮肉にも罪人としての処遇でした。「やもうえなかった」とはいえ、罪は鎖国の罪を犯してロシアで長期間滞在したということです。しかし、文化10年(1814)の3月、「構えなし」となり罪やゆるされています。50歳になった文政元年(1818)また体調の不調を訴えるようになりましたが、嘉兵衛は、気候の良い故郷の淡路の都志(...大河・かこがわ(284)近世の高砂(810)新、工楽松右衛門物語(51)・高田屋嘉兵衛の終焉
大河・かこがわ(283) 近世の高砂(79) 新、工楽松右衛門物語(50)・松右衛門が、知られていない理由は?
松右衛門が、知られていない理由は?松右衛門の史実があまり知られていない理由として、井上敏夫氏が昭和50年『兵庫史学』に発表された「北方領土の先駆者工楽松右衛門」のなかで、次の三つの理由をあげておられます。第一は、松右衛門のエトロフ渡航は幕命といいながら、それはあくまでも一商人の私的行動と見なされていた。それに対して嘉兵衛のエトロフ渡航は、蝦夷地巡察視使・近藤重蔵の随員としであった。つまり、私的と公的の差です。第二は、松右衛門の蝦夷地の活動期間は、数年に過ぎないが嘉兵衛は20余年の長期にわたって活躍し、その間、歴史上有名なディアナ号事件の渦にまきこまれ、いつしか松右衛門の名が薄れてしまった。第三は、松右衛門は努めて嘉兵衛を自分の後輩として引き立てた。しかし、寛政二年、郷里の淡路を後に無一文で兵庫へ出てきた一介の若...大河・かこがわ(283)近世の高砂(79)新、工楽松右衛門物語(50)・松右衛門が、知られていない理由は?
大河・かこがわ(282) 近世の高砂(78) 新、工楽松右衛門物語(49)・「鞆」の湊づくり
「鞆」の湊づくり松右衛門の最後の仕事松右衛門の最後の仕事となった「鞆の湊づくり」を紹介しましょう。吉田登氏の研究「帆布の発明者・工楽松右衛門」をおかりします。松右衛門は、高砂港をあらかた終えました。体調を崩しましたが、文化8年(1811)、松右衛門69才のとき、福山藩主阿部候から姫路藩主酒井候を通じて、鞆の浦の防波堤(写真)の修築と延伸の依頼がありました。松右衛門は、体調をおして現地に赴き、実態調査し築提計画をたてました。そして、工事に使用する花崗岩の巨石を遠近の島々から集めました。彼が開発した「石釣船」を駆使し、工事は10カ月ほどで、文化九年(1812)完成させました。松右衛門逝く文化8年(1811)の「中村家日記」には、藩主の許可を得て、「私儀此度、工楽松右衛門為迎播州高砂江罷登船中之外五日逗留仕度奉願上候...大河・かこがわ(282)近世の高砂(78)新、工楽松右衛門物語(49)・「鞆」の湊づくり
大河・かこがわ(281) 近世の高砂(77) 新、工楽松右衛門物語(48)・ 膨大な修築費
膨大な修築費高砂湊の修築は、すべてが順調に進んだわけではありません。第一の問題は、費用の捻出でした。港の浚渫と築港にたいへんな費用がかりました。藩からの援助があったものの、松右衛門家の支出は膨大なものになりました。姫路藩の大庄屋・内海氏の文化6年(1809)5月の日記には、「文化5年中だけで4、50貫目の費用がかかっており、今後どのくらいかかるか見当もつかない」と記録しています。結局、総工費は、銀350貫目となり、当初の見積もりより銀100貫目ほど超過し、不足分は高砂町中全体へ割り付けられました。また、文化5年(1808)からは高砂入津の廻船から帆一端に16文(元治元年より20文)の帆別銭を取ることになり、9月7日に帆別会所が設置されました。これに対して、高砂に入津する機会の多い周辺の船主は反発しました。特に、...大河・かこがわ(281)近世の高砂(77)新、工楽松右衛門物語(48)・ 膨大な修築費
瀧瓢水物語下記のURLよりダウンロード願います。https://drive.google.com/file/d/14JSJrILU6XZ_qv98xWBoOAglMAXsmXEE/view?usp=sharing瀧瓢水物語の配布予定。(TEST)
大河・かこがわ(280) 近世の高砂(76) 新、工楽松右衛門物語(47)・高砂港の修築
高砂港の修築高砂港の浚渫は、文化五年(1808)冬から開始され、文化7年(1810)に終了しました。松右衛門は、川口を浚渫するだけでなく、加古川下流の所々を磐礫(いしがき)で修理し、杭を打ち、堰を増設して土砂留を施しました。また、松右衛門が「百間蔵まで大船つけ可申」と語っていたとおり、大船が着岸できる築港工事も行われました。拡がる港松右衛門は、川口番所から南に浜新田を造り、東側沿いに580間(約1050メートル)の波戸道(はとみち)を築き、その先端部分の川口に「東風請(こちうけ)波戸」と「一文字波戸」を、巨石を台形に整形した磐礫(いしがき)で築いて波除けとしました。なお、波戸(はと)とは海岸から海中につきださせて、石で築いた構築物をいいます。そして、波戸道と波除けの間を、船を係留する湊として整えました。また、波...大河・かこがわ(280)近世の高砂(76)新、工楽松右衛門物語(47)・高砂港の修築
大河・かこがわ(279) 近世の高砂(75) 新、工楽松右衛門物語(46)・高砂港の修築
高砂港の修築話は一挙に現代の高砂まで飛んでしまいました。もう一度、松右衛門の活躍した江戸末期の高砂港の話に戻します。高砂港埋まる高砂港は、正保国絵図でも浅いとされていましたが、その後も加古川上流から流れくる土砂で川底が高くなり遠浅化が進みました。そのため、江戸後期には大船の接岸ができず、沖に碇泊する船と陸の間は、「はしけ」「ひらた」などといわれる小船を使って荷を運んでいました。ところが、享和元年(1801)秋頃から、幕府代官所から姫路藩に対して、昔どおり川内で御城米の積み込みができるように高砂州口を浚えるようにという要請が度々ありました。翌二年六月に、姫路藩は江戸御勘定所に対して、それが困難であることの事情説明を行っています。すなわち川浚は、年々藩が手当をつけて行わせているが、川口から沖手へ土砂の堆積は1400...大河・かこがわ(279)近世の高砂(75)新、工楽松右衛門物語(46)・高砂港の修築
大河・かこがわ(278) 近世の高砂(74) 新、工楽松右衛門物語(45)・繁栄の終焉
繁栄の終焉高砂の終焉の話です。工楽家が、何代かにわたり新田を築き、波止、湛保(たんぽ)を完成させようとしている間に、時代はガラガラと音を立てながら動きました。天保4年(1833)、加古川筋に大規模な百姓一揆が起り、高砂町内の有力な商家や米蔵などが襲われました。嘉永7年(1854)にはロシアの軍艦が大阪湾に侵入、沿岸の各藩は海岸に砲台を築きました。当地方でも加古川の中州、向島の突端に姫路藩は砲台を造っています。討幕の動きも急雲を告げ、文久3年(1864)には姫路藩の木綿専売業務をひき受けていた特権商人が尊嬢派の藩士に暗殺され事件もおきました。高砂港の築港工事が完成したのは、そのあくる文久四年(1865)でした。そして、数年ならずして慶応4年(1868)、兵庫港開港、鳥羽・伏見の戦い、明治維新へと歴史は続きます。そ...大河・かこがわ(278)近世の高砂(74)新、工楽松右衛門物語(45)・繁栄の終焉
大河・かこがわ(277) 近世の高砂(73) 新、工楽松右衛門物語(44)・高砂港(2) 松右衛門、自費で高砂港浚渫
高砂港(2)松右衛門、自費で高砂港浚渫67才となった松右衛門は、ふるさと高砂港の改修工事に着手しました。高砂港は、加古川と瀬戸内海の接点として栄えていましたが、前回に述べたように、幕末の頃、高砂港は、土砂がたまり、港内が浅くなり、港として使いにくくなっていました。松右衛門は、箱館港づくりでも使った、彼自身の開発した石船、砂船、ろくろ船、石釣船などを使って改修工事をおこない、港全域の土砂をさらい、風や波よけの堤を造りました。二代目・三代目松右衛門に引き継ぐこの工事は、自費を投じて行われ、松右衛門の死後、二代目・三代目松右衛門に引きつがれました。文久三年(1863)に高砂港の改修を藩に願い出て、湛保(たんぽ)という防波堤をめぐらした港の施設を築いたのは、三代目・松右衛門です。「着工から55年の歳月をかけて高砂港を完...大河・かこがわ(277)近世の高砂(73)新、工楽松右衛門物語(44)・高砂港(2)松右衛門、自費で高砂港浚渫
大河・かこがわ(276) 近世の高砂(72) 新、工楽松右衛門物語(43)・高砂港(1) 猛烈な土砂
高砂港(1)猛烈な土砂話題を変えます。高砂港の話です。江戸時代、高砂港は姫路藩の重要な港として大いに栄えますが、大きな欠点を持っていました。加古川が運ぶ土砂が多く、すぐに浅くなってしまうことです。高砂港の話の前に、次の話を挟んでおきます。高砂町今津のルーツは、加古川市尾上町「今津」中世の頃、加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。そこに、今津村という大集落があり、その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝正)から通達がありました。内容は、「高砂へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。中世に栄えた今津村も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失いつつあったのです。それも、予想を超える土砂の堆積でした。姫路藩主は、新たに右岸...大河・かこがわ(276)近世の高砂(72)新、工楽松右衛門物語(43)・高砂港(1)猛烈な土砂
大河・かこがわ(275) 近世の高砂(71) 新、工楽松右衛門物語(42)・松右衛門、箱館に湊(ドック)をつくる
松右衛門、箱館に湊(ドック)をつくる嘉兵衛は、小船でも渡れるエトロフ航路を開くが、これを契機として幕府は蝦夷地(北海道)経営に深くかかわっていくことになり、蝦夷地経営の拠点としての箱館の港が重要になりました。松右衛門は、嘉兵衛からの要請もあり、箱館の港づくりに応じました。この時、松右衛門は既に61才になっていました。そして、享和3年(1803)、箱館は、彼の設計によって、地蔵町の浜に築港し、文化元年(1804)に巨大な船作業場をつくりました。その作業場は、「船たで場」といい、木製の船底に付着している虫や貝をいぶして駆除し、同時に損傷しているカ所を補修するところで、現在のドックであたります。船底をいぶしたり、修理するのに船を引き揚げなければなりません。そのために比較的軟らかな石畳が必要でした。松右衛門は、播州高砂...大河・かこがわ(275)近世の高砂(71)新、工楽松右衛門物語(42)・松右衛門、箱館に湊(ドック)をつくる
大河・かこがわ(274) 近世の高砂(70) 新、工楽松右衛門物語(41)・函館をつくろう
箱館築港へ(高田屋)嘉兵衛は、(工楽)松右衛門の説得のため、兵庫の港に帰りました。以下の兵庫港での二人の情景は、司馬遼太郎が小説の一場面として書いています。・・・・嘉兵衛は、いつもの通り北風家にあいさつに行き、あと、松右衛門旦那の店に寄りました。彼自身、店の土間で荷ほどきの指図をしていて「嘉兵衛、あいにく、いまはこのとおりじゃ」「あすの晩、来んかい。お前はどうか知らんが、わしのほうは体があいている」嘉兵衛は、松右衛門に「御用」について簡単にのべました。「なんじゃ、公儀御用かい」「ちがいます、天下のことでございます」「天下」・・・松右衛門旦那のすきな言葉でした。すでにふれたように、松右衛門旦那はかねがね「人として天下の益ならん事を計らず、碌々(ろくろく・平凡に)として一生を過さんは、禽獣(きんじゅう)にもおとるべ...大河・かこがわ(274)近世の高砂(70)新、工楽松右衛門物語(41)・函館をつくろう
大河・かこがわ(273) 近世の高砂(69) 新、工楽松右衛門物語(40)・松右衛門は港づくりの名人
松右衛門は港づくりの名人ずいぶん、話は松右衛門から離れしまっています。時代を少し戻します。復習です。松前は、良港ではありません。松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けていました。常に、「アイヌの反抗があるかもしれない」と恐れていました。守備は十分ではありません。蝦夷地は野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかったのです。松前の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られるのです。かなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに便利でした。松前は山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけで、まことに不自由でした。松前藩は、守りやすいという一点だけで、松前を城下にしていました。つまり、蝦夷地の中心は箱館ではなかったのです。箱館に港を嘉兵衛はエトロフへ...大河・かこがわ(273)近世の高砂(69)新、工楽松右衛門物語(40)・松右衛門は港づくりの名人
大河・かこがわ(272) 近世の高砂(68) 新、工楽松右衛門物語(39)・ 幕末外交史を飾る
幕末外交史を飾るリコルドは、人質として嘉兵衝とその配下をカムチャツカへ連れて行きました。カムチャツカ半島の当時の主要港は、ペトロパブロフスクでした。同港の背後のまちは、役所や官舎のほか、わずかな民家があるだけで、まことにさびしいところでした。しばらくして、嘉兵衛とリコルドは互いに信頼をするようになります。そして、捕虜でありながら嘉兵衛は、ロシア語さえ勉強を始めたのです。ともに、この事件を解決することを誓い合いました。そして、嘉兵衛は幕府の役人、身内の者に手紙を書いています。嘉兵衛の手紙(その主旨は、)「この度のロシヤ行きは前世からの約束事であると思っている。ならば、この海域で繰り返されている争い事を御停すること、つまり日露和平に微力を尽くすことが、私の役目だと思っている。さいわい、私はご公儀の立場もよくわきまえ...大河・かこがわ(272)近世の高砂(68)新、工楽松右衛門物語(39)・幕末外交史を飾る
「ブログリーダー」を活用して、ひろかずのブログさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。